The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)


 ボートは水音を立てながら、無言の四人を乗せたまま穏やかに流されていた。 

 ——お前は計算になかった。

 ラウルの最後の言葉が耳の奥に残っている。
 ラウルが埋め込んだのではない。なら、誰が。

「……涼」
 ユナの声が聞こえた。

 QRコードに触れたまま黙り込んでいる涼を見ている。
「ねえ、聞いてもいい?」
 水が岩壁を反射して、光の帯が揺れている。
「そのコード、どうしたの」
 ユナの声で我に返った。 
 涼はザックを膝に置き、視線を川面からQRコードの縫い目に移した。
「三年前の話だ」
 涼が言葉を選ぶように語り始める。
 
「雨の夜だった……」
  
 人身事故で電車が止まり、駅前のバス停に傘の列が伸びていた。アスファルトを叩く無数の雨粒が、信号やネオンやタクシーのヘッドライトを滲ませ、揺れる光の帯となって地面を流れていく。涼が列に並ぶのを諦めて体を反転させた時、駆け込んできた誰かのビニール傘が肩にぶつかった。 
「ごめんなさい」 
 相手の女性は雨粒を長い睫毛に貼りつけたまま謝った。
「いや、こっちこそ——」
 言葉が止まる。  
 濡れた黒髪。透き通った丸い瞳。記憶の中の少女の面影が、大人の女性の輪郭と重なる。
「……さら?」
「……りょう?」
 その声の響きが、夕焼けの公園からまっすぐ続く涼の胸の奥の古い扉をこじ開けた。 
 十年ぶりの再会だった。

「紗良って、幼馴染だ」
 涼はボートの縁に体を預けたまま言った。
「二つ年下なのに、大人びてて、おせっかいで。子供の頃からずっとカメラを構えてた」
 ユナと真田は黙って聞いていた。
 スニルもオールの動きを緩め、耳を傾けていた。
「再会した夜、駅前のファミレスで話した。あいつは大学で映画を撮ってて、卒業制作のドキュメンタリーを完成させるためにフランスへ行くって言ってた」
 涼は懐かしい目をして少し笑った。
 
「涼は、今何してるの?」
 紗良が、紅茶のカップを両手で包み込むように触り指先を温めながら尋ねた。
「……あ——、その」
 言葉が喉に引っかかった。「でっかいことをやる」と豪語していた自分が、日銭を稼ぐだけで精一杯の日々を送っている。
「会社が潰れてさ。いま、フードデリバリーやってる」
「え? 涼が?」  
 紗良の瞳は、昔、公園でカメラを構えていた時のままだった。真実を切り取ろうとする、透き通った強さ。
 それに引き換え俺は——。

「俺がフードデリバリーやってるって言ったら、幻滅されると思った。でもあいつは——『動いてる方が涼って感じがする』って。昔から『涼は、いつか世界を驚かすようなことやる人だと思ってた』だって」

 川の音だけが聞こえていた。
「紗良がフランスに行ってからも、LINEで繋がってた。パリのパンが硬すぎるとか、撮影がトラブル続きだとか」
 涼の声が低くなった。
「帰国予定日の前日に異変が起きた」
 異変と聞いてユナが息を止める。
「『見てはいけないものを見ちゃったかも』ってLINEがきた。——遅れて画像が送られてきた。QRコードだった」
「読み取れたの?」ユナが訊いた。
「読み取れなかった。何度やってもエラー表示が出るだけ」
 風が岩壁を撫でた。上空を大きな鳥が悠々と滑空している。
「それが紗良からの最後のメッセージだった」
 涼の声に感情がなかった。
「俺はそのQRコードを転写して、デリバリーバッグの生地に縫いつけた。意味は分からなかった。でも捨てられなかった。エベレスト登山用に買ったこの新しいザックにも、デリバリーバッグを解体して縫い直した」
 声が震えた。
 紗良はフランスで何を見たのか。何を知ったのか。

 涼は消えかかている指先に目を落とした。