The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)


 峡谷を抜けた川は、嘘のように静まり返っていた。

「私たち死ななかった」

 穏やかに揺れるボートに背を預けユナがポツリと呟く。
 三人が射殺されるはずの時刻はとっくに過ぎている。
「あの未来のニュース……消えたのかな」
「本来あるべき未来が書き換えられた、と考えられます」
 真田が濡れた眼鏡を拭きながら答えた。
「僕たちが逃げきったことで、あの未来は確定しなかった」
「じゃあ七日後に核戦争が起きる未来も書き換えられる?」
 ユナが言葉を継ぐ。
 ボートはラピスラズリ色の水面を穏やかに進む。
「量子キーをラディーグのHELIXヘリックス中枢に届ければ、と——ラウルは言っていました」
 真田の声は慎重だった。「ただ、あの人は全てを語っていません。量子キーが停止装置だけではないとも言っていた。中枢に届けた時に何が起きるか、分からないまま走ることになる」
「分からないまま、か」
 涼が川岸の雪山を見上げた。
 スニルは黙ってオールを漕ぎ続けている。
 三人の言葉を、川の音と一緒に聞いていた。
 平和だ。あまりにも静かで、あまりにも美しい。聞こえるのは、水を切るオールの音と、四人の呼吸だけだった。
「なあ。もし核戦争が起きても、ここにいたら安全なんじゃね」
 冗談のつもりだった。だが声が、少しだけ本気を含んでいた。
 ユナも岩壁の向こうで輝く白い峰を見た。
「確かに。こんな僻地までミサイルは飛んでこないかも」
「命の危険を犯してフランスまで行く必要が——」
「ダメです」
 真田が鋭い声で遮った。
「行かなければ、僕たちが消えます」
 真田が突き出した右手の指先が、古い映像のノイズのように揺らいでいる。
 輪郭が世界から浮き上がり、向こう側の景色が滲んで透けていた。さっきより範囲が広がっている。
「七日以内にHELIX中枢に届けなければ——僕たちの身体は消滅します」
「量子崩壊……」
 ユナも自分の手を見る。
「執行猶予は七日間」
 涼は拳を握った。透けた指先が、握りしめた掌の中に消える。
 左手が、無意識にザックのQRコードに触れていた。