その薔薇には毒がある。



 市原龍也がバーに入ると、カウンター席でのばらがマティーニのグラスを傾けていた。

「たっくん、お疲れ様〜」
「もう飲んでたのか」
「まだ一杯目だよ」

 龍也はのばらの隣に座り、「同じものを」と注文した。すぐにマティーニが出てくると、のばらとグラスを重ね合わせる。

「お疲れ」
「お疲れ〜」
「にしてもお前、ちょっとやりすぎなんじゃないか」

 マティーニを一口飲み、龍也はのばらに呆れた視線を送る。

「俺が頼んだのは山野課長の実態調査だぞ」
「だからぁ、調査して真っ黒だったからついでにお掃除までやってあげたんじゃない。クリーニングをサービスするなんて、幼なじみだからだよ?」
「あのなぁ……」

 龍也はやれやれと肩を竦める。

「それよりあの変態課長、どうなったの?」
「懲戒免職だ」
「きゃっ、かわいそ〜」

 言葉に反して表情は楽しそうだ。

「未成年淫行が決め手だな。本人はホテルに入っただけで何もしてないと言い張っていたが、苦しすぎる言い訳だろ」
「何もしてないのは本当だよ。ホテルに入っただけですぐに帰ったし」
「は?」

 龍也はのばらを見返す。

「なんでそんなこと知ってるんだよ」
「だってコレ、私だもん」

 のばらは一枚の写真を見せる。そこには山野と例の女子高生の姿が映っていた。映像では女子高生の顔はモザイクで隠されていたが、この写真にははっきりと横顔が写っている。
 龍也はその少女の横顔をまじまじと見て、耳の形がのばらと酷似していることに気づく。

「のばら! まさかお前」
「あいつ、パパ活アプリなんてやってたから十六歳ですって言ってメッセージ送ったら、まんまと食いついてきたの。制服着てウィッグかぶっていつもとメイク変えたら、ぜーんぜん気づかないんだもん」
「何やってんだよ……」
「大丈夫、何もされてないから。食事した後にホテルまでは行ったけど、あいつがシャワーしてる間にとっとと帰ったし」
「いや、そういうことじゃないだろ。なんでそこまでするんだよ」
「そんなの、決まってるじゃない」

 のばらはマティーニを一口含む。

「どうしようもないクズのおっさんを綺麗にお掃除するためだよ」

 そういったのばらの甘い瞳の中には、毒々しい何かがちらついていた。

 *

 黒川のばらの本業はオフィスクリーニングである。
 オフィスクリーニングとは、秘密裏に依頼を受けてオフィス内の汚いヨゴレを綺麗にすること。
 以前は出張と偽って愛人と不倫旅行する上司を暴き、窓際部署に追いやった。社内の風紀や調和を乱す者、不利益を生む者を徹底的に洗い、クリーニングする。
 それがのばらの仕事である。

 今回の依頼人は幼なじみの市原龍也だった。龍也は父親が社長を務める会社で働き、ゆくゆくは後継者となる予定だが社内でそのことを知る者は少ない。
 両親が離婚したため今は苗字が異なり、親子だと知っているのはごく一部の人間だけだ。

 営業部員として他部署と関わりながら、後継者として社内に気を配っていた龍也はある噂を耳にする。
 それは企画課長の山野のパワハラやセクハラだった。しかし外面の良い山野は他部署の人間、特に営業部のエースである龍也の前では尻尾をみせない。
 以前山野に仕事を奪われて辞めた社員がいると聞き、のばらに調査を依頼するに至った。

 のばらは早速派遣社員として企画部に配属される。その美貌に山野はあっさり骨抜きにされた。

(こいつ、チョロすぎじゃない?)

 ちょっとかわいらしく微笑むだけで、すぐに鼻の下を伸ばす。だが同じ女性社員でも対応に差があり、特に真鍋理沙子には当たりがきつかった。
 若い人が多い企画部で理沙子は唯一の子持ちで時短勤務だ。理沙子は真面目に働いているものの、先に帰る時は「お気楽でいいよね、時短は」などと皮肉を飛ばすこともある。

(子育てのための時短なのに、何もわかってないんだけどぉ。だから五十になっても独身なのよ)

 心の中では毒を吐いても、決してそれを表には出さない。

「課長ってば、本当に頼りになりますね〜」

 キラキラした瞳で見つめ、とにかく褒める。それだけで山野はまんざらでもない顔をする。

「のばらちゃんのためならなんでも力になるよ」
「え〜、嬉しいです〜」
(ちゃん付けするなよ)

 女性社員はのばらのことを白い目で見ていたが、特に気にしない。そもそものばらの目的は山野をクリーニングすること。
 あざとい振舞いは山野を油断させるためなので、やめるつもりはないし他人にどう思われようが関係ない。

 だが理沙子だけはのばらを邪険にせず、仕事も任せてくれた。

「この企画、ものすごく良いじゃない。課長にはダメ出しされてボツ食らったって言ってたけど」

 子育て世代ならではの視点があり、のばらは直感で売れそうだと思った。この企画の良さがわからない山野はやはり無能なのだろう。
 潜入クリーナーとはいえ、事務として派遣された以上は事務の仕事もきっちりこなす。のばらは今度こそ理沙子の企画が通るように、できる限り事細かにデータをまとめた。
 理沙子にもとても喜ばれ、感謝された。

(真鍋さんってシングルマザーなんだよね。一人で子育てして仕事もあんなに頑張って、すごいな)

 のばらは父子家庭だった。父は真面目で仕事熱心だったが、学校行事には必ず顔を出してくれる優しい父親だった。
 だがある日、父は睡眠薬を大量に飲んで救急車で運ばれた。父の部屋から遺書のようなものが見つかり、そこには上司のミスを自分のせいにされて責任を問われたと書かれていた。あんなに尽くして働いていたのに裏切られ、苦しいという思いが綴られていた。
 今も父は病室で意識不明のまま眠り続けている。もう五年も経ったが、いまだに目覚めない。

(なんで真面目に働いてきた人がこんな目に遭わなきゃいけないの?)

 父は男手一つでのばらを育ててくれた。体調を崩しても平気なフリをして、会社に行っていたことを知っている。そうまでして働いていたのは、のばらのためだ。

(汚いヨゴレ、害虫は全部のばらが綺麗にしてあげる。だから見ててパパ、いつかパパをこんな目に遭わせた奴らものばらが掃除してみせるから――)

 こうしてのばらはオフィスクリーニングという事業を立ち上げたのだった。

 龍也から依頼をされたのは、あくまで山野の実態調査。クリーニングまでは依頼されていない。
 だけど屋上で泣き叫ぶ理沙子を目の当たりにして、クリーニングを決行すると決めた。

 山野は理沙子の企画をろくに確認せずにダメ出ししていた。それなのに上が理沙子の企画を褒めると、それを自分のものとしてプロジェクトを立ち上げたのだ。

「そもそも山野が課長になれたのも、部下の企画を奪ったから。その社員は退職したけど、きっと真鍋さんは辞められない」

 何故なら彼女には守るべき家族がいるからだ。一人で泣き叫ぶ程悔しいのに、今はわだかまりを抱えながらもプロジェクトに参加している。
 仕事をしない山野に代わり、理沙子が実質的なリーダーを担っていた。はらわたが煮え繰り返っているはずなのに、理沙子は辛抱強い。これも一人娘のためなのだ。

「さてこのクズ、どうしてやろうかな――」

 まずは退勤後の山野の動向を調べた。派遣社員は時間帯が決まっているため、のばらは常に定時退社だ。
 だがこれから大きなプロジェクトが動こうとしているのに、課長の山野も定時で帰る。その間メンバーはプレゼンに向けて必死に頑張っているというのに。

「さて、尾行開始」

 のばらは帰ったと見せかけ、密かに山野を尾行した。山野が向かった先はキャバクラだ。

(呆れた男……予想通りすぎない?)

 のばらはキャバクラには入れず、隣のカフェに入って一本電話をかけた。

「あ、もしもし? ちょっと仕事を頼みたいんだけどぉ――」

 のばらが仕事を頼んだ相手は、高校の時の後輩・茅ヶ崎(ちがさき)(みなと)。大きな猫目がチャームポイントの美人である。湊はのばらの頼みを聞くと、二つ返事で了承した。

「今回も面白そうですね! 任せてください」

 翌日、山野行きつけのキャバクラにミナという新人キャバ嬢が入った。

「ミナです! よろしくお願いしま〜す」

 彼女の正体は湊である。湊は劇団に所属する役者で、時折潜入員としてのばらに協力してくれる。
 今回はキャバ嬢として潜入し、山野の卓につくことであの映像を手に入れてくれた。

「ありがと、湊。これ最高じゃない」
「おだてて飲ませたらペラペラなんでも喋ってくれましたよ」
「ほーんとバカなオッサンなんだから」
「しかもそいつ、自分のこと気に入ってくれて一回だけアフターしたんですけど、ホテルに連れ込まれそうになって……」
「えっ!? 大丈夫だったの?」
「ルール違反だし出禁にしますよって脅してなんとか逃げました」
「ごめんね、湊! あの変態、絶対タダで済まさない」
「あのままホテルに行って現実突きつけても良かったですけど」
「ダメだよ! もっと痛い目見せないと」

 そんなわけで思いついたのがパパ活トラップだった。
 ミナのことを気に入ったのは十九歳という若さが理由らしい。もちろんミナというキャバ嬢としての設定なので実際は違う。

(若ければ若いほどいいってことね。だったらパパ活アプリもやってるんじゃないの?)

 そう考えてアプリに登録してみたら正にビンゴ。山野と思われるアカウントを発見した。
 のばらは十六歳の高校一年生、ナナという名前で登録した。顔は隠したが、制服姿の写真を載せた。
 山野にも倫理観があれば乗ってこない。それならばそれでもいい。だが山野はナナのアカウントにいいねをしてきた。

「あーあ。完全にアウト〜」

 トラップを仕掛けたのはのばらだが、倫理観があれば嵌まらなかったはずだ。それでも乗ってきたのは山野自身なのだ。

「情状酌量の余地はなし! 徹底的にクリーニングしちゃいまーす」

 のばらはセーラーの制服を着て黒髪のウィッグをかぶる。メイクもいつもと雰囲気を変え、パッと見てのばらだとはわからないだろう。

「初めまして、山野さんですか?」
「初めまして! 君がナナちゃん?」
「はいっ! ナナです。よろしくお願いします」

 山野はのばらだとは全く気づかず、終始女子高生・ナナとして接していた。二人きりで食事をし、山野のつまらない自慢話を笑顔で聞いてあげた。
 ナナは母子家庭で母親は彼氏の家に泊まりに行き、今夜は一人で寂しいとしおらしく伝えると、山野は目を爛々と光らせる。

「だったら僕が朝までナナちゃんと一緒にいてあげるよ」
「わあっ、本当ですか?」

 どうしようもない男だと思った。餌を撒いたのはのばらだが、引っかかったのは山野だ。踏み留まることはできたはずだが、この男はどこまでも欲望に忠実だった。
 二人はホテル街へと向かった。チェックインし、のばらはさりげなく山野に先にシャワーを浴びたらどうかと提案すると山野は上機嫌でシャワールームに入った。

「さてと。あ、もしもし湊? 撮れた?」
《バッチリ撮れましたよ! のばらさんも顔見えてるけどいいんですよね?》
「うん、どーせ顔隠すしー。じゃあ今からそっち行くね」
《気をつけてください》

 通話を終えたのばらはさっさとホテルから出て行く。ホテルの前では中性的なイケメン――湊が待っていた。

「湊〜!」
「のばらさん、大丈夫でした?」
「うん、チョロかった〜」
「ヒヤヒヤしましたよ。今回の役も自分がやったのに」
「ダメダメ。あんなヤバいやつにもう湊を近づかせたくないもん」
「いざって時は殴り飛ばしてでも出て行きます。のばらさんこそ、力でねじ伏せられたらどうするんですか?」

 湊は心底心配していると言わんばかりにのばらをじっと見つめる。

「大丈夫だよー。いざって時はこれがあるし」

 のばらが鞄の中から取り出したのはスタンガンだった。

「睡眠薬もあるよっ」
「のばらさん……それでも、心配です」

 眉間に皺を寄せる湊の額をちょん、とつつく。

「心配してくれてありがと。でも何かあった時のために湊にも待機してもらってたんだから」
「そうですけど」
「いっつも湊には助かってるよー。今回の報酬も期待してね」
「それは、いいんです。のばらさんは自分の恩人なんですから」
「えー? 大袈裟だなぁ」

 茅ヶ崎湊は男性として生まれながら、男性として扱われる自分に違和感を抱えながら生きてきた。かと言って女性らしくありたいわけでもなく、どっちつかずの自分に悩み続け押し潰されそうになっていた。

 男子の制服が着たいわけでも女子の制服が着たいわけでもない。ただ茅ヶ崎湊という一人の人間として存在したいだけなのに、誰にも理解されない。
 どこにも居場所がなく独りぼっちで抱え込んでいた湊に、声をかけたのがのばらだった。

『湊は湊でいいんじゃない?』

 そんな風に言ってくれたのはのばらが初めてだった。

『調べたんだけどぉ、多分湊はノンバイナリーってやつなんじゃないかな』
『のん……?』
『男とか女とかこだわらなくていい。湊の好きなように生きたらいいの』

 その言葉が湊にとってどれだけ救われたことか。それ以来湊は吹っ切れた。今は何者にも染まれる役者になりたいと奮闘し、男性役も女性役も演じている。
 その傍ら、のばらのクリーニング業に協力しているというわけだ。

「のばらさん」
「何?」
「のばらさんは、どうして自分を助けてくれたんですか?」
「別にー? すっごく綺麗な顔なのにいつも暗かったから、もったいないなぁって思っただけだよ」

 月明かりに照らされたのばらは、何とも言えない神秘的な美しさを纏っていた。だが女神のような笑顔の真意は読めない、いや読ませようとしない。

 *

 後日、山野は懲戒免職となった。プロジェクトは正式に理沙子がリーダーとして就任し、後に商品は大ヒットとなる。
 風の噂で理沙子は昇進し、子育てと両立しながら仕事に邁進しているらしいが詳しくはのばらも知らない。
 何故ならあの会社にはもういないからだ。クリーニング完了と同時に派遣期間も終わった。

「これ、報酬だ」

 龍也は分厚い封筒をのばらに渡した。のばらはその札束の枚数を数える。

「なんか多い気がするけどー?」
「クリーニング代も込みだ」
「クリーニングはサービスするって言ったのに?」
「そういうわけにはいかないよ」

 龍也はウイスキーを飲み干し、のばらに視線をやる。

「のばら、まだこの仕事を続けるのか?」
「当たり前でしょー」
「こんなこと続けても、おじさんが目を覚ますわけじゃないだろ」
「たっくんから依頼してきたくせに、説教?」

 のばらは冷ややかな笑みを浮かべて龍也を見返す。

「お前があそこまでするとは思ってなかったんだ。俺はお前が心配なんだよ、のばら」
「ありがと。でも私はやめないよ」

 ポーチからミラーを取り出したのばらは、唇に真っ赤なルージュを引き直す。
 その色っぽい仕草に龍也は思わずドキッとした。

「これが私の仕事だから」
「っ、のばら……」
「じゃあね、たっくん。またね〜」

 ひらひらと手を振りながらバーを出て行った。ピンクのフレアスカートを揺らしながら去ってゆく彼女の後ろ姿を見送りながら、龍也は溜息をこぼす。

 のばらは聡い。昔から自分がどう見られているのかわかっているし、どう振る舞えばいいのかも熟知している。
 ミツバチが花の蜜を求めるように、のばらの醸し出す蜜な魅力に誰もが虜にされる。だがその瞬間、毒に蝕まれていることには気づかない。

 ある日、のばらは帰り道でとある親子とすれ違った。

「ママー、きょうのごはんなぁに?」
「桜音の大好きなハンバーグだよ」
「やったぁ!」
「それからね、今日はデザートもあるんだよ!」
「でざーと!? なになに?」
「帰ってからのお楽しみ!」
「たのしみ! はやくかえろ!」

 幸せそうな母と娘が手を繋いで歩いている。のばらはその様子を目を細めて見守った。

(よかった)

 のばらは踵を返し、再び歩みを進める。あの親子の未来に幸あることを祈りながら――。

「初めまして、黒川のばらです。本日よりこちらに派遣されてきましたぁ。どうぞよろしくお願いしますっ」

 そしてまた新しい依頼先で、のばらは花を振りまいている。愛らしい笑顔の裏に、棘と毒を隠しながら。

(さあ、今回も綺麗にお掃除してあげる――)


 fin.