その薔薇には毒がある。



「おいおい、なんだこの企画は」

 提出した企画書は無惨にも突き返された。

「オリジナリティもなければ面白味もない。何かをなぞって書いたのと同じじゃないか。これでいいと思ったの?」
「……すみません」
「やり直し! わかったね」
「はい……」

 課長が退席した後、真鍋(まなべ)理沙子(りさこ)は深い溜息を吐く。
 中堅企業ながら急成長を遂げる食品会社に入社して八年、商品企画部に配属されて五年。理沙子の目の前には大きな壁が立ち塞がっていた。
 憧れていた企画部に配属されたものの、その直後に妊娠が発覚。約一年半の産休育休を経て復帰し、今は時短勤務。家事育児に追われながら、娘が寝た後に夜遅くまで起きて企画を練り上げた。
 自分の中では納得のいく出来だと思っていたのに、結果はこの有様だ。自分には才能がないのかと打ちのめされていた。

「いや、ここで折れてちゃダメだ」

 理沙子はシングルマザーである。当時付き合っていた恋人との間に子どもができて結婚するが、妊娠中に浮気されて即離婚。
 今は実家に助けてもらいながら四歳になる娘を一人で育てている。

桜音(おと)!」
「ママ〜!」
「おかえり!」

 挫けそうになっても桜音の顔を見ると疲れが吹き飛ぶ。

「きょうね、ママのえかいたんだよ」
「そうなの? 見せて」
「これ」
「わあ、上手! ママこんなにかわいく描いてくれたの? ありがとう〜」

 理沙子は愛娘をぎゅうぎゅうと抱きしめる。
 働きながら一人で子育てするのは大変だ。それでも桜音のために頑張らなければならない。

(へこたれてる場合じゃないよね)

 どんなにつらくても桜音の前では笑顔でいたい。今日は桜音の大好きなハンバーグだというと、桜音はぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。
 夕飯を食べて片付けをして、お風呂に入って桜音を寝かし付ける。明日の準備をしてひと段落つけてから、理沙子はPCを立ち上げる。ボツを食らった企画を見直すためだ。

 課長の山野(やまの)は確か今年で五十歳。いつもふんぞり返って座っているが、大した仕事はしていない。
 提出された企画書に難癖をつけ、直させた後に承認する。一度別の社員が企画書を突き返された際、どこを直すべきか尋ねたら「そんなの自分で考えろ」と突っぱねた。
 山野は具体的な修正指示をしないため、何がダメだったのかわからずに頭を抱える。それでも承認を得られないと進められないのだから、何とかするしかない。

 結局この日も布団に入ったのは深夜零時過ぎだった。

(向いてないのかな)

 ボツを食らうたびに自分のできなさに落ち込む。今年で三十一歳、もう中堅だがまだ平社員。
 同期の中には順調にキャリアを重ね、課長クラスでバリバリ働く人もいる。だが鏡の中の自分を見ると思う、なんて冴えないのだろうと。

(美容院なんて何ヶ月も行けてないから頭はずっとプリンだし、新しい化粧品も全然買えない)

 せめて見た目くらいちゃんとしたいと思いつつ、そんな時間もお金もなかった。華やかで若々しい同期や後輩を見るたびに、地味な自分と比べてしまう。
 劣等感に苛まれている暇などないというのに。

 お昼になったら外へランチに繰り出す同僚たちを見送り、理沙子は休憩室で一人お弁当を食べる。夕食の残り物を詰めただけだが、節約のために毎日お弁当だ。
 十六時になったらそろそろと立ち上がり、肩身が狭い思いをしながら先に退勤する。これが理沙子の日常だった。

「だから、こんなんじゃ全然ダメだって。ちゃんとやってる?」
「……すみません」

 二度目の企画書もボツだった。今回はより詳細に分析結果をまとめ、レイアウトも見やすいように工夫したがダメだった。

「真鍋、お前他の人より働いてないんだからさぁ。せめてまともな企画持ってこなきゃダメだろ」
「申し訳ありません」

 保育園のお迎えがあるから時短勤務だけれど、他の人より働いていないとは思っていない。桜音が寝てから毎日深夜まで起きて頑張っている。
 だがそんなことを言っても無意味だ。結局は結果を出せなければ意味がない。

「あ、もしもしお母さん? 申し訳ないんだけど、今日桜音のお迎えに行ってもらえないかな?」
《いいけど、遅くなるの?》
「うん、ちょっと今日は残業しなくちゃいけなくて」
《あまり無理しちゃダメよ》
「ありがとう」

 桜音のお迎えを母に頼み、理沙子は大きく息を吐いた。
 直せるところは直した企画書、我ながら自信作だと思っていただけに何がダメなのか全くわからない。それでもやるしかないと奮い立たせた。

 *

 翌日、出社早々山野に呼ばれ、企画部全員が集められた。

「今日から新しい派遣さんが来てくれることになった」

 事務員は派遣社員を雇うのが多いが、最近一人辞めて欠員が生じていた。

黒川(くろかわ)のばらですっ。よろしくお願いします」

 彼女が微笑んだ瞬間、パッと華やぐ。一瞬にしてその場にいる誰もが彼女に目を奪われた。
 艶やかなピンクベージュのゆるふわウェーブヘア、ぱっちりとした愛らしい瞳、長い睫毛、陶器のように透き通った肌にぷるぷるの唇。
 芸能人と言われても納得してしまう可愛らしさ、そしてどこか儚げな美しさを兼ね備えている。

「雑用でもなんでも仰ってください! まだまだ未熟ですけど、皆さんのお力になれるように精一杯頑張りますねっ」

 そのキュルンとした笑顔に早くも男性社員たちは射抜かれていた。

「えっ、黒川さんって前は○○商事にいたの? ものすごく大手じゃないか」
「派遣先がたまたまそこだったってだけですよー」
「いやいや、ものすごく優秀なんだね」
「そんなことないです。この業界は初めてなので、色々教えてくださいね」
「も、もちろんっ! なんでも聞いて!」

 男性社員たちの目がハートになっている。山野もわかりやすくデレデレしていた。

「黒川くん、君の歓迎会をしようじゃないか」
「ええっ、そんな。ただの派遣なのに申し訳ないです」

 のばらは大袈裟に両手を振る。

「そんなことはない。派遣社員だろうが大事な仲間だからな」
「山野課長……嬉しいです。ありがとうございますっ」
「いやいや、当然だよ! 今日はみんなで飲みに行こう!」

 ちなみに山野が派遣の事務員のために歓迎会を開いたことなど一度もない。前の人はまともに紹介もせず、名前を覚えていたかも怪しい。
 何かあると「これだから派遣は」などというので、すぐに辞めてしまう。

「何か困ったことがあったら遠慮なく相談してね」
「ありがとうございます! 私新しいところでやっていけるか不安だったんですけど、皆さんお優しくて安心しましたっ」

 色めき立つ男性社員たちとは対象的に、女性社員たちはわかりやすく引いていた。理沙子も呆気に取られる。

(なんかものすごい子が来たな……)

 黒川のばらがやってきたことで、社内の雰囲気はガラリと変わった。

「何あの、新しい派遣。あざとすぎない?」
「男に媚び売りすぎだよね」

 化粧室で堂々と陰口を叩く同僚たちは、理沙子が苦手に思っているところだ。

「歓迎会なんてやったことないくせに、デレデレして課長キモすぎなんだけど」

 それには理沙子も同感である。

「でもさ、あの子どーせすぐ辞めるよ。見るからに頭ゆるふわそうじゃん」
「わかる〜。コピー機の使い方わかるのかね?」

 そしてこれにも同感だった。申し訳ないが、のばらは仕事ができるようには思えない。
 大手企業にいたのに中堅企業に変わったのは、切られたからではないかと勘繰ってしまう。
 そう思っていたのだが。

「真鍋さん、こちら頼まれていた資料になります」
「あっ、ありがとうございます。もう終わったんですか?」
「ええ。また何かあればお手伝いさせてくださいね」
「ありがとうございます」

 のばらは想像以上に仕事が早く、尚且つ正確だった。
 あからさまに女性社員たちがのばらを無視するので、見兼ねた理沙子が資料作成をお願いしてみたら驚くほど完璧な資料が戻ってきた。

(これなら今度こそ課長も認めてくれるかも)

 のばらのおかげで遅くまで仕事しなくても良さそうだ。

「すみませんが、私はお先に失礼します」
「真鍋さんって、お子さんおいくつですか?」
「四歳です」
「わあ、可愛い盛りですね! 今度写真見せてください」
「え、ええ」
「お疲れ様でした〜」

 いつも先に帰ってしまうので、その後のばらがどうしているのかわからない。
 だがアイドル級にかわいいのばらの噂は、瞬く間に社内中に広がっていった。

「企画部にものすごくかわいい派遣さんが来たらしいぞ」
「しかも気が利いて仕事もよくできるんだとさ」
「彼氏いるのかなー」

 他部署からも注目され、色んな人から声をかけられるようになっていた。誰に対してものばらは愛らしい笑みを浮かべて対応する。
 まるでアイドルがファンにファンサービスをするように。

「黒川のばら、調子乗りすぎじゃない?」

 そして女性からのやっかみはどんどん増してゆく。

「男や上司にばっか媚び売ってさ。あざとすぎ」
「あんなに堂々とやって恥ずかしくないのかねー」
(陰口言うのもどうかと思うけど……)

 よく化粧室ですれ違うとそんな声を耳にするが、理沙子は黙って聞いていた。言いたいことはわからなくもないが、陰口を叩くのはどうかと思う。

「あの女、ついに市原(いちはら)さんにも色目使い出したみたい!」
「ゲーッ、見境ないんだけど!」

 市原というのは、営業部のエース・市原龍也(たつや)のことだ。某イケメン俳優に似ていると評判の社内でも屈指のモテ男である。

「市原さん、この前はありがとうございました〜」
「いや、お役に立てたみたいで良かったよ」
「すっごく助かっちゃったし、勉強になりましたぁ」

 恋愛も結婚もこりごりの理沙子は興味がない。だが派遣されて一ヶ月足らずで社内一のイケメンともお近づきになってしまうのばらは、純粋にすごいなと思った。
「会社に男漁りしに来ている」と皮肉を飛ばす同僚もいたが、理沙子はそうは思わない。少なくとも彼女はきちんと仕事をしている。

(前の事務員さんは言われたことしかやらなかったけど、黒川さんはすごく丁寧な上にかゆいところまで手が届くんだよね)

 とても助かると感謝する反面、のばらに嫉妬してしまう気持ちも確かに存在する。あんなに美人で仕事もできて、コミュニケーション能力も抜群。
 陰口を叩きたくはないが、羨む気持ちと自分と比べて落ち込む気持ちが抑えられない。だから仕事以外でのばらに話しかけることはなかった。

 *

 三度目の企画書提出、ドキドキしながら山野の反応を待っていた。今回はのばらのおかげで説得力のある企画になったと思っている。
 次こそは承認されたい、祈りながら窺っていた時重大なミスに気づいた。なんと見せたものは最初に提出した修正前の企画書だったのだ。

「すみません、課長! それは……っ」
「やっとまともな企画になったな」
(え……?)

 山野は企画書を突き返す。

「俺の言った通りに直せていたじゃないか。これでいこう」
「あ……、はい」

 自分の席に戻って改めて企画書を見直す。やはり最初に提出したものと全く同じ、レイアウトすらも変わっていない。

(どういうこと……?)

 この企画書は最初から問題なかった。だが山野はまともに目を通さず、適当に難癖つけていただけ。

(私の今までの時間は何だったの……?)

 思いきり脱力した。夜遅くまで必死に頑張っていた時間はすべて無駄だった。

「何が俺の言った通りに直せていた、だよ! 見てもないしそもそもアドバイスしてくれたことなんてなかったじゃない!」

 思わず屋上で叫んでいた。大声を出したら少しだけスッキリしたが、それでもモヤモヤする気持ちは抑えられない。

(黒川さんにも手伝ってもらったのに無駄になっちゃったな……)

 申し訳なく思いながら理沙子は屋上を出る。今日は帰りに桜音の好きなアイスクリームショップのアイスを買って帰ろうと思った。
 むしゃくしゃすることがあった日こそ、自分を甘やかすことにしている。

「も〜、課長ったら〜。冗談がお上手なんですからぁ」

 廊下からのばらの声が聞こえる。その隣にはだらしなく頬を緩ませる山野がいた。

「冗談なんてひどいなぁ。本気だよー?」
「気遣ってくださるのは嬉しいですけど、課長の大事な時間を奪っては申し訳ないです。私は大丈夫ですよ」
「のばらちゃん……健気だねぇ」

 理沙子は思わず「うげっ」という声が漏れた。いつの間に「のばらちゃん」などと呼ぶようになったのだろう。これはセクハラではないのだろうか。

「それでは仕事に戻りますね。課長とおしゃべりできて楽しかったです」
「のばらちゃん! いつでもなんでも相談してね〜!」

 のばらと目が合うと、彼女は理沙子に向かってニコッと微笑む。見られていてもまるで気にしてない様子だ。
 山野は知っているのだろうか。のばらが社内一のイケメン・市原にも相談していたことを。自分だけが頼られていると勘違いしていそうだ。

(ま、どうでもいいけど)

 残りの仕事を片付け、その日も早上がりして桜音のお迎えに向かった。

 翌日、出社した理沙子は絶句した。

「課長! どういうことですかっ」
「あ? 何が?」
「何がじゃありませんよっ! どうして私の企画の商品化が進んでるんですか!?」

 新商品のパンフレットが配られ、目を疑った。それは昨日やっと承認してもらえた理沙子の企画が元になっていたからだ。
 これから商品化に向けて進めていくはずが、既に進行しているなんてあまりにもおかしい。

「あー、それね。たまたま上が見たらえらく気に入っちゃってね。急遽商品化することになったんだよ」
「そんなこと初耳です!」
「だって真鍋、早上がりだからすぐに話ができないだろ。だからとりあえず俺の名前で進めることにした」
「は……?」

 山野が何を言っているのか全く理解できない。

「課長の俺の企画ってことにした方が色々話も通しやすいしさ」
「でもっ、あれは私が考えた企画なんですよ!? 何も言わずに勝手に進めるなんてひどいです!」
「真鍋、こういうのはスピードが大事なんだよ。動ける時に即動かないと。時短勤務のお前じゃ厳しいだろ?」
「そんな……っ」
「後は俺に任せてくれたらいいから」

 ポンと理沙子の肩を叩き、山野はそそくさと立ち去った。
 今まで感じたことのない怒りが沸々と湧き上がる。

(信じられないっ! 私の企画を奪うなんて……!)

 時短勤務だからといって仕事に手を抜いたことなどない。限られた時間の中でも一生懸命やってきた。家事育児と両立しながら必死になって考えた企画だ。
 ろくに確認もせずにダメだと突き返しておきながら、結局自分の手柄にするなんて。

「ばかにするのもいい加減にしてよ……っ」

 どうしても堪えられず、屋上で一人涙を流す。会社で泣きたくなかったが、どうしても我慢できなかった。
 悔しくて悔しくて今すぐにでも暴れ出したい。

 もっと悔しいのは、こんなにも屈辱的な思いをしても仕事を辞められないことだ。本当はもう投げ出してしまいたいが、それはできない。愛する娘を守らなくてはいけないから。

「もうやだ……消えてよあのキモ課長……」

 そんな本音がこぼれた時、後ろからガチャリという音がした。振り返ると、屋上のドアが開いてのばらが入ってきた。

「あれ〜、真鍋さん?」
「く、黒川さん……っ」

 泣き腫らした赤い目と鼻を慌てて隠す。

「お、お疲れ様です。私、戻りますね……」
「待って」

 のばらは引き止めると、シルクの綺麗なハンカチを差し出した。

「大丈夫ですか?」
「え……ありがとう、ございます」

 理沙子はハンカチを受け取り、目元に当てる。

「あの企画、真鍋さんの考えた企画ですよね」
「どうしてそれを……」
「わかりますよ〜。お手伝いさせてもらったじゃないですかぁ」
「……すみません。せっかく手伝っていただいたのに、黒川さんの時間を無駄にして」
「え〜そんなことないですよー。嬉しかったです〜」
「嬉しかった?」
「初めて女性の方からお仕事振ってもらえたので」

 のばらはニコッとかわいらしく微笑む。

「課長ったらひどいですよねー」
「本当に……部下の仕事を奪うなんて」
「消えてなくなっちゃえばいいのにって思いますよねー」

 やはり聞かれていたのかと思うと恥ずかしくなり、俯く。

「すみません、あの、言葉のあやで……」
「いえいえ、真鍋さんがそう思うのはもっともだと思います。あっ、そうだ!」

 のばらはポンと手を打った。大袈裟なまでにやるのがあざとい。
 だが、次に出た言葉は愛らしい笑顔には似つかわしくないものだった。

「本当に課長には消えてもらいましょうよ!」
「え……?」
「課長ってそもそも、奪った部下の企画が成功して課長になれたそうですよ?」
「そ、そうなんですか?」
「今回も真鍋さんの企画で昇進狙ってるんですよー。そんなのって、許せなくないですか?」

 それは確かにその通りだ。まだあの企画が上手くいくと決まったわけではないが、横取りされて手柄を挙げるなんてたまったものではない。

「絶対に許せないです」
「そうですよね。そんなことする最低野郎は――、綺麗にお掃除しなくちゃダメですねっ」

 子うさぎみたいなのばらの口から出たとは思えない、刺々しい言葉に若干慄いた。

(まあ、多分冗談だよね……?)

 美しい薔薇には棘があるとはよく言ったものだと思った。

 *

 その後理沙子の企画は山野主導でプロジェクトチームが結成された。理沙子も一応メンバーに入ったが、心中穏やかではない。
 山野はのばらを自分の補佐に任命した。派遣社員を大きなプロジェクトに参加させるなど今までなかった。

 のばらはというと、特に普段と変わらずに仕事をこなしている。段々とのばらの優秀さを周囲が認識し始め、今回のプロジェクト参加も表立っては誰も何も言わない。
 だが明らかに贔屓されているので、女性社員からの風当たりが厳しいのは相変わらずだった。のばら本人はまるで意に返していないようだが。

「ねぇ、あの派遣の子、課長と寝たらしいよ」
「ええっ! マジ?」

 化粧室からそんな声が聞こえてきた時は、思わず理沙子も耳をそば立てた。

「営業部の同期が見たんだって。課長とあの子がホテル街歩いてたところ」
「枕してプロジェクトに入れてもらったってこと? キモすぎる! 課長もキモい」
「いやマジでそれな。二人とも辞めろよ」

 理沙子は耳を疑った。あののばらが、本当にそんなことをしたのだろうか。

『そんなことする最低野郎は――、綺麗にお掃除しなくちゃダメですねっ』

 あんなことを言っていた彼女があり得るのだろうか。だが絶対にないとは言い切れない。
 そんなことする人じゃないとは思うものの、理沙子はのばらのことを何も知らない。人は見かけによらないのだから。

(私には関係ないか……)

 なんだかもうどうでもいいと思うようになった。これ以上自分をすり減らしてもつらいだけ。今は凪のような気持ちで、淡々と仕事をこなしたい。

 山野はほとんど仕事をしていない。ほぼ部下に丸投げしており、結局理沙子が全体の取りまとめをしている状況だ。
 元々理沙子の企画だったため一番内容を把握しているので、成り行きでリーダーのようなポジションになっていた。今は役員たちに向けてのプレゼン資料作成に追われている。
 ちなみにプレゼンをするのは山野とのばらだが、突っ込む気力もなかった。

 プレゼン当日、役員たちの前で山野は我が物顔で喋り出す。

「今回の企画は自信作でございます。まずはこちらのVTRをご覧ください」

 山野がスクリーンに向かって手を差し伸べるのに合わせ、のばらがVTRを投影する。理沙子たちがつくった渾身のプロモーション映像が流れるはずだったが、投影されたものはとんでもない映像だった。

『カンパーイ!』

 まず最初に流れたのは、キャバクラでキャバ嬢たちに囲まれて乾杯する山野の姿だった。
 ドンペリをあおり、だらしない顔で大口を開けて笑っている。

『次の企画で多分出世しちゃうからさ〜! その前祝いなんだよ!』

 映像の中の山野の顔は真っ赤だが、今は真っ青だった。

「ななな、なんだこれはっ!」
「あれぇ? 間違えちゃったみたいです〜」

 のばらはわざとらしくてへぺろポーズをした。

「今すぐ止めないかっ!」
「んー? 止め方がわかんないなぁ」

 のばらが何やらモタモタしている間に映像が切り替わる。また別日にキャバクラに行っていた時の映像だ。

『実はさぁ、元々は部下の企画だったけどそいつ時短勤務で融通利かないんだよ。だから俺の企画ってことにして進めてるわけ。そっちの方が説得力増すだろー?』
「ちっ、違います! これはっ、何かの間違いです!!」

 山野は必死に否定するが、会議室の空気は既に最悪なものとなっていた。
 極め付けに信じられない映像が流れる。

「えっ……何これ。ラブホ?」
「課長と一緒に歩いてる子、制服着てね? 女子高生か?」
「未成年淫行ってこと!?」

 なんと山野が制服を着た若い女子と一緒に歩いているところだ。しかも二人揃ってラブホテルへと入っていった。

「違う違う違う! この日は何もなかったんだっ! すぐに帰って……っ」
「山野課長」

 役員の一人が険しい表情で山野を睨み付ける。

「後で大事な話がある」
「そんな……っ、違うんです……」

 山野は干からびた干物のようになっていた。凍り付いた空気の中、場違いな程明るい声が響く。

「あっ、本当のプロモーション映像はこっちでした〜。今から流すので、プレゼンは真鍋さんにお願いしていいですかぁ?」
「えっ……私ですか?」

 何が何だかわからずに呆けていた理沙子は、突然話を振られてドキッとする。

「だって、この企画を考えたのは真鍋さんですから。誰よりも詳しいじゃないですか〜」

 無邪気にニコニコと微笑むのばら。周囲の視線が理沙子に注目する。
 こんな状況で改めてプレゼンなんて、と思ったが「真鍋さん、お願いできますか」という声に押されて慌てて立ち上がった。

「は、はいっ。それでは私からご説明させていただきます」

 突然プレゼンすることになり、緊張したが理沙子のプレゼンは役員から大好評だった。無事に終わった後にのばらと目が合う。
 のばらはパチリとウインクしてみせた。