目を開けた瞬間、支都禰は見慣れぬ天井に息をのんだ。白い壁に、繊細なペンダントライト。薄いレースのカーテン越しに朝の光がやわらかく差し込んでいる。
「——ここは」
寝ぼけながら身体を起こそうとして、はっとする。枕元の小棚に置いた狐面に手を伸ばし触れると、木の心地よいつめたさが伝わってきた。
(そうだ。ここは……)
ここは鬼灯條家の離れの洋館。数日前からここが支都禰の居室となった。父の継信も別室で療養させてもらっている。シーツをさらさらと撫で、この居場所を噛み締めた。
すると、扉から控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします。支都禰様、起きておいでですか?」
ふたつの声が重なった。夜会のとき身支度を手伝ってくれた侍女——道成寺と安達原だ。
「……はい。どうぞ」
ベッドから降り立って返事をすると、ドアが開き、二人が顔をのぞかせた。
「おはようございますっ、支都禰様!」
「お目覚めはいかがでしょう。お身体はつらくありませんか?」
道成寺は元気よく、安達原は物静かに。並ぶと不思議とちょうどよい二人だった。
「はい、おかげさまで」
慣れない上質な着物に着替え、洋室の客間で朝餉をとり終えたころ。
「支都禰様は、妖についてよく知らないんですよね?」
控えていた道成寺が支都禰に向かって話しかける。支都禰の側頭部には、変わらず狐面がついていた。
「あ、はい……」
「それはご不安でしょう。これから、少しずつお伝えしますね」
安達原がテーブルの上にそっと湯呑を出す。礼を言って受け取り一口飲むと、あたたかさにほうっと心がほぐれた。
「私たちのような人型の妖は、ふだんは幻術を使って人間に紛れ生きています」
安達原は盆を抱え、話を続けた。
「妖同士であれば本来の色や姿が見えますが、人間の目には、ありふれた容姿になっているはずです」
「私とダッチーもですよ〜」
赤茶色の髪の道成寺と、白藍色の髪の安達原。
支都禰は鬼灯條家に来たときのことを思い出す。めずらしい色味の人たちがいて、内心びっくりしたのだ。彼らを普通の人間が見れば、黒髪黒目の集団に見えたのだろう。
そこでふと、疑問が湧いた。
「でも、私の色は……」
支都禰の言葉に、二人は顔を見合わせる。
「おそらく、幻術がうまくかかっていないのかと」
安達原の言葉に、支都禰は湯呑を握りしめた。立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと揺れている。
「それって私が、半妖だからでしょうか」
「ん〜、どうでしょう……。以前は玉藻様の術で色が変わってたんでしたっけ?」
「あ……。そう、みたいです」
母の名前が出た瞬間、支都禰は喉がきゅっと締まる感じがした。妖の母。数日経って、その事実が改めて重くのしかかる。
「そもそもこの手の幻術って、普通自分にしかかけられないんですよ。でも玉藻様は色々と規格外だしな〜」
「玉藻様の術であれば、そうそう解けるはずはないのですが……」
「母は、すごい人だったんですか?」
二人の言い方が気になり尋ねると、なぜか道成寺が誇らしげに胸を張った。
「それはもちろん。三大妖怪のひとりですから!」
「……三大妖怪」
つまり、母が三本指に入るほど強大な存在ということだろうか。自分の知る母とは、繋がりそうで繋がらない。
「『使命』についても気になりますね。玉藻様ほどの方がまだお戻りにならないということは、ただ事ではない可能性も……」
「支都禰様も十分気をつけてくださいね! もちろん全力でお守りしますけど」
頼もしげに胸を叩く道成寺を見て、支都禰は表情をやわらげた。
「はい。ありがとうございます」
それから二人に、妖について教えてもらった。妖もさまざまであること、人と共存するものもいれば対立するものもいて、とくに怨念にとらわれ怪異となったものは危害を加えてくる可能性があるということ。しばらく話し、安達原が時計を見て支都禰に声をかけた。
「支都禰様。本日の若様とのお時間ですが、少々遅らせてほしいとご連絡が」
「わかりました」
頷く支都禰に、道成寺がうっとりと頬に手を当てる。
「お熱いですよねえお二人。いいなあ〜」
「ちょっと、道成寺」
「だって、あの若様が毎日かならず会いにくるなんて! 素敵すぎます〜!」
なんと返せばよいかわからず、支都禰は小さく笑うにとどまった。多忙だろうに、宇羅は毎日顔を合わせてくれていた。今のところ他愛もない話をするくらいだが、それも支都禰を気遣ってのことだろう。
準備をするため、支都禰は「ごちそうさまでした」と立ち上がった。
支都禰を見送ったあと、安達原は隣の道成寺を小突いた。
「道成寺、あんまりからかってはだめですよ」
「え〜」
口を尖らせる道成寺を見て、くすりと笑う。
「でも……そうですね。あんな若様、はじめてかも」
「でしょ〜⁉︎」
二人は静かに盛り上がりながら、持ち場へと戻った。
◆
小さくも綺麗にしつらえられたテラスに、柱の影がやわらかく模様を描いていた。美しい庭園が景色を彩る。
宇羅は慣れた手つきでカップを口へ運ぶ。着物の襟元からのぞく立ち襟の白が装いを品よくまとめ、優雅な立ち居振る舞いに支都禰はつい見惚れてしまった。肩には、宇羅が着ていた羽織をかけてもらっている。
「よく眠れた?」
見惚れてぼうっとしていたところに話しかけられ、支都禰は慌てて頷いた。
「は、はい。それはもうぐっすりと」
「そうか。よかった」
宇羅はにこやかに言い、ソーサーを静かに下ろした。どんな所作もさまになる。
「今朝は、幻術の話を聞いたんだって?」
「はい。ただ、私の色は、今のところどうにもできなそうで」
視線をずらして灰色の髪を見る。ここ数日でわかったことだが、支都禰の術は自ら打った面にしか宿らない、かなり限定的なもののようだった。しょんぼりと肩を落とすと、宇羅が励ますようにほほ笑んだ。
「何色だろうとここでは問題ないよ。術についても、あせらず調べていこう」
「でも、私の髪色って汚れているみたいじゃないですか……」
「そうか?」
宇羅が立ち上がり、支都禰の近くでしゃがみ込んだ。伸びた手が髪に触れそうで、支都禰の胸がどきどきと鳴る。けれど宇羅はそれ以上近づかず、ゆっくりと手を下ろした。とまどい見つめると、宇羅が見上げるようにして首をかしげ、髪と耳飾りが揺れた。赤い瞳が支都禰を映している。
「ほら、日に当たると銀色に光ってるみたいだ。……輝きを秘めてる髪だよ」
支都禰は瞳を揺らし、自分の耳が熱くなるのを感じた。自然な褒め言葉がくすぐったい。
「唯一無二でいいじゃないか。君が思うより、ずっと綺麗だよ」
「……ありがとうございます」
どきどきと鼓動が高鳴り、手が汗ばむ。声がかすれてしまい、支都禰は慌ててティーカップに口をつけた。
そのとき、廊下側から軽い足音がして、扉が開いた。
「宇羅様。失礼いたします」
阿久良がテラスに入って一礼し、用件だけを短く伝える。
「先日の祠の怪異ですが、再度目撃情報が。様子見に行った者がひとり、傷を負って戻りました」
宇羅の表情が、さっと引きしまる。
「祠……例の白狐か」
「おそらくは」
宇羅は立ち上がり、服を整えた。
「俺が行く。まずは詳細を——」
言葉を切り、宇羅は支都禰へ視線を向けた。
「……一緒に行く?」
「え」
羽織を返そうと立ち上がっていた支都禰は、まさかの提案に目を見開いた。
「今回のはそこまで大事にはならないと思うし——俺たちの世界を、君に見てほしい」
妖の世界。怪異と聞いて恐怖もあったが、自分が身を置かせてもらう世界のことを、もっと知りたかった。覚悟を決め、同意する。
「……行きます!」
支都禰の返事に、宇羅の口元がほころんだ。羽織を受け取ったかと思うと、もう一度支都禰の肩にふわりとかけ直した。
「よし。じゃあ、夜に行こう」
◆
夜の山奥の参道に鋭い冷えが広がっている。杉が影となって覆い被さり、離れてともる提灯がゆらゆらと揺れた。
祠は思ったよりもこぢんまりとしていた。人が来なくなって久しいのか、石段は荒れ、途中で切れたしめ縄が垂れている。供え物の皿も欠けていた。先導していた阿久良がぽつりとつぶやく。
「人々に忘れられ、荒れると……妖は怨念にとらわれ、怪異となってしまうこともあるんです」
「怪異……」
胸の奥がざわつく。目には見えない「なにか」の気配が、そこらじゅうに溜まっている。
隣にいた宇羅が支都禰の前に立ち、祠の向こうを見て目を細めた。
「——来たな」
言い終わるや否や、闇を裂くように白い光が跳ねた。
「!」
それは小さな狐だった。白い毛並みはところどころ黒く、皮膚の下で青黒い光が脈打っている。瞳は空虚が巣食うように暗く、濁っていた。白狐は低くうなる。しかしそれは威嚇というより、助けを求めているように聞こえた。怨念に絡め取られた姿からあふれる孤独が、どこか自分と重なって見えた。
「君は下がって」
支都禰が下がり、阿久良が代わりにかばい立ったのを見て、宇羅は白狐のほうへ向かう。袖から赤い鬼面を出し、側頭部につけた。あれから正式に、支都禰の打った鬼面は宇羅のものとなった。
その瞬間、空気が一変した。
宇羅の瞳に炎が揺れ、呼応するように足元から炎が湧き上がる。それは紋様を描くように広がった。地表から伸びる線が、夜の闇に編まれ、浮かび上がる。
「——鎮まれ」
短い言葉と共に、炎の紋が立ちのぼり、白狐のほうへ波を打って向かった。炎に包まれた白狐は暴れ、牙をむく。炎はまるで美しい網のように形を変え、白狐からあふれ出る怨念ごと絡め取った。
(綺麗——)
目の前の光景に心を奪われ、恐怖を忘れ見入る。阿久良はそんな支都禰に少しだけ目をみはり、前に向き直った。
「宇羅様の術は、単純な武力ではありません。統制と破魔。怨念を祓い、妖の力をもとの形へ戻すものです」
白狐の身体から、黒いもやがはがれ落ちる。やがて白狐のうなりが途切れ、小さな身体が力を失い、崩れ落ちるように落下する。
「……っ」
思わず支都禰は走っていた。
「——支都禰!」
制止の声が聞こえた気がしたが、止まらなかった。倒れ込む白狐を受け止め、腕の中に抱きしめる。白く戻った毛並みはつめたい。白狐は薄く目を開け、おびえた子どものように支都禰を見上げた。
「……もう、大丈夫だよ」
支都禰は言い聞かせるようにささやき、震える背を撫でた。白狐は安心したように目を閉じ、光の泡となり消えていった。
いつの間にか背後に立っていた宇羅が、ほっと息をつく。
「まったく……」
「……すみません。ただ、行かなきゃと思って」
「ま、なにもなくてよかった」
やれやれと腰に手を当て、宇羅は阿久良のほうへ向く。
「申し訳ありません」
「いや、今回は俺も悪かった。——あとは任せていいな?」
「はい」
阿久良は一礼し、霧のように姿を消した。
◆
二人で屋敷へ戻る道すがら、支都禰は祠のほうを振り返った。
「……白狐が気になる?」
「はい。……死んでしまったんですか?」
祠のまわりは、よどみもすっかりなくなった。だからこそ、白狐が気がかりだった。
宇羅はうーん、と悩みながら答える。
「いや……。一度器を手放して、小さくなったんだ。あれだけの怨念を溜め込んでいると、一度仕切り直さないといけない。時間はかかるだろうけど、いずれ元の姿に戻るよ」
「そう、ですか」
歩幅を合わせてくれている宇羅の横顔を見ながら、先ほどの光景を思い出していた。
「鬼灯條様は、いつもああいったことを?」
「ああ。怨念を祓い怪異を鎮め、人と妖とをとりなすのが、俺たち鬼灯條の責務だ」
責務。支都禰は今まで自分のことだけで精一杯だった。宇羅はずっとずっと先にいて、広い世界を守っている。それがまぶしい。
「炎の術……綺麗でした」
支都禰の感想に、宇羅は不思議そうな顔をした。
「怖かった、じゃなく?」
「はい」
あの衝撃をどう伝えればよいだろう。神聖な儀式を目の当たりにしたような感覚を。
「美しい紋様が編まれていくようで、つい見惚れて……」
赤い瞳がわずかに揺れ、宇羅は嬉しそうに笑った。
「さすが、目のつけどころが職人だな。……そう見えたのなら、君のおかげだ」
「え?」
どういうことかと顔を上げると、宇羅が側頭部の鬼面を指した。
「この面のおかげでいつもより力が湧いた。君の術のおかげだ」
支都禰は息をのんだ。自分の面が、宇羅の力を支えていたなんて。
「俺の炎を強く、美しいと感じたなら……。それは君が俺に与えてくれたものだよ」
(私が……?)
言葉がとろとろと甘く響き、流れ込む。これほど支都禰の力を、誇りを認めて、素敵な言葉にしてもらえたのは、はじめてだった。
宇羅がいたずらっぽく笑い、鬼面を指で叩いた。
「まさに『鬼に金棒』ってやつだな」
心臓に灯火が宿ったように、内側からあたたかさが満ちていく。自分が、誰かの力になれる。役に立てる。ただ守られるだけの存在ではなく。
夜空を見上げた。宝石を散りばめたように小さな星々がきらきらと輝き、支都禰の瞳に反射する。
(この世界で、私にもできることがある)
握りしめた手に力を込めた。いつか、自分の手で——誰かを救えるほどの力を、持てるように。
「——ここは」
寝ぼけながら身体を起こそうとして、はっとする。枕元の小棚に置いた狐面に手を伸ばし触れると、木の心地よいつめたさが伝わってきた。
(そうだ。ここは……)
ここは鬼灯條家の離れの洋館。数日前からここが支都禰の居室となった。父の継信も別室で療養させてもらっている。シーツをさらさらと撫で、この居場所を噛み締めた。
すると、扉から控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします。支都禰様、起きておいでですか?」
ふたつの声が重なった。夜会のとき身支度を手伝ってくれた侍女——道成寺と安達原だ。
「……はい。どうぞ」
ベッドから降り立って返事をすると、ドアが開き、二人が顔をのぞかせた。
「おはようございますっ、支都禰様!」
「お目覚めはいかがでしょう。お身体はつらくありませんか?」
道成寺は元気よく、安達原は物静かに。並ぶと不思議とちょうどよい二人だった。
「はい、おかげさまで」
慣れない上質な着物に着替え、洋室の客間で朝餉をとり終えたころ。
「支都禰様は、妖についてよく知らないんですよね?」
控えていた道成寺が支都禰に向かって話しかける。支都禰の側頭部には、変わらず狐面がついていた。
「あ、はい……」
「それはご不安でしょう。これから、少しずつお伝えしますね」
安達原がテーブルの上にそっと湯呑を出す。礼を言って受け取り一口飲むと、あたたかさにほうっと心がほぐれた。
「私たちのような人型の妖は、ふだんは幻術を使って人間に紛れ生きています」
安達原は盆を抱え、話を続けた。
「妖同士であれば本来の色や姿が見えますが、人間の目には、ありふれた容姿になっているはずです」
「私とダッチーもですよ〜」
赤茶色の髪の道成寺と、白藍色の髪の安達原。
支都禰は鬼灯條家に来たときのことを思い出す。めずらしい色味の人たちがいて、内心びっくりしたのだ。彼らを普通の人間が見れば、黒髪黒目の集団に見えたのだろう。
そこでふと、疑問が湧いた。
「でも、私の色は……」
支都禰の言葉に、二人は顔を見合わせる。
「おそらく、幻術がうまくかかっていないのかと」
安達原の言葉に、支都禰は湯呑を握りしめた。立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと揺れている。
「それって私が、半妖だからでしょうか」
「ん〜、どうでしょう……。以前は玉藻様の術で色が変わってたんでしたっけ?」
「あ……。そう、みたいです」
母の名前が出た瞬間、支都禰は喉がきゅっと締まる感じがした。妖の母。数日経って、その事実が改めて重くのしかかる。
「そもそもこの手の幻術って、普通自分にしかかけられないんですよ。でも玉藻様は色々と規格外だしな〜」
「玉藻様の術であれば、そうそう解けるはずはないのですが……」
「母は、すごい人だったんですか?」
二人の言い方が気になり尋ねると、なぜか道成寺が誇らしげに胸を張った。
「それはもちろん。三大妖怪のひとりですから!」
「……三大妖怪」
つまり、母が三本指に入るほど強大な存在ということだろうか。自分の知る母とは、繋がりそうで繋がらない。
「『使命』についても気になりますね。玉藻様ほどの方がまだお戻りにならないということは、ただ事ではない可能性も……」
「支都禰様も十分気をつけてくださいね! もちろん全力でお守りしますけど」
頼もしげに胸を叩く道成寺を見て、支都禰は表情をやわらげた。
「はい。ありがとうございます」
それから二人に、妖について教えてもらった。妖もさまざまであること、人と共存するものもいれば対立するものもいて、とくに怨念にとらわれ怪異となったものは危害を加えてくる可能性があるということ。しばらく話し、安達原が時計を見て支都禰に声をかけた。
「支都禰様。本日の若様とのお時間ですが、少々遅らせてほしいとご連絡が」
「わかりました」
頷く支都禰に、道成寺がうっとりと頬に手を当てる。
「お熱いですよねえお二人。いいなあ〜」
「ちょっと、道成寺」
「だって、あの若様が毎日かならず会いにくるなんて! 素敵すぎます〜!」
なんと返せばよいかわからず、支都禰は小さく笑うにとどまった。多忙だろうに、宇羅は毎日顔を合わせてくれていた。今のところ他愛もない話をするくらいだが、それも支都禰を気遣ってのことだろう。
準備をするため、支都禰は「ごちそうさまでした」と立ち上がった。
支都禰を見送ったあと、安達原は隣の道成寺を小突いた。
「道成寺、あんまりからかってはだめですよ」
「え〜」
口を尖らせる道成寺を見て、くすりと笑う。
「でも……そうですね。あんな若様、はじめてかも」
「でしょ〜⁉︎」
二人は静かに盛り上がりながら、持ち場へと戻った。
◆
小さくも綺麗にしつらえられたテラスに、柱の影がやわらかく模様を描いていた。美しい庭園が景色を彩る。
宇羅は慣れた手つきでカップを口へ運ぶ。着物の襟元からのぞく立ち襟の白が装いを品よくまとめ、優雅な立ち居振る舞いに支都禰はつい見惚れてしまった。肩には、宇羅が着ていた羽織をかけてもらっている。
「よく眠れた?」
見惚れてぼうっとしていたところに話しかけられ、支都禰は慌てて頷いた。
「は、はい。それはもうぐっすりと」
「そうか。よかった」
宇羅はにこやかに言い、ソーサーを静かに下ろした。どんな所作もさまになる。
「今朝は、幻術の話を聞いたんだって?」
「はい。ただ、私の色は、今のところどうにもできなそうで」
視線をずらして灰色の髪を見る。ここ数日でわかったことだが、支都禰の術は自ら打った面にしか宿らない、かなり限定的なもののようだった。しょんぼりと肩を落とすと、宇羅が励ますようにほほ笑んだ。
「何色だろうとここでは問題ないよ。術についても、あせらず調べていこう」
「でも、私の髪色って汚れているみたいじゃないですか……」
「そうか?」
宇羅が立ち上がり、支都禰の近くでしゃがみ込んだ。伸びた手が髪に触れそうで、支都禰の胸がどきどきと鳴る。けれど宇羅はそれ以上近づかず、ゆっくりと手を下ろした。とまどい見つめると、宇羅が見上げるようにして首をかしげ、髪と耳飾りが揺れた。赤い瞳が支都禰を映している。
「ほら、日に当たると銀色に光ってるみたいだ。……輝きを秘めてる髪だよ」
支都禰は瞳を揺らし、自分の耳が熱くなるのを感じた。自然な褒め言葉がくすぐったい。
「唯一無二でいいじゃないか。君が思うより、ずっと綺麗だよ」
「……ありがとうございます」
どきどきと鼓動が高鳴り、手が汗ばむ。声がかすれてしまい、支都禰は慌ててティーカップに口をつけた。
そのとき、廊下側から軽い足音がして、扉が開いた。
「宇羅様。失礼いたします」
阿久良がテラスに入って一礼し、用件だけを短く伝える。
「先日の祠の怪異ですが、再度目撃情報が。様子見に行った者がひとり、傷を負って戻りました」
宇羅の表情が、さっと引きしまる。
「祠……例の白狐か」
「おそらくは」
宇羅は立ち上がり、服を整えた。
「俺が行く。まずは詳細を——」
言葉を切り、宇羅は支都禰へ視線を向けた。
「……一緒に行く?」
「え」
羽織を返そうと立ち上がっていた支都禰は、まさかの提案に目を見開いた。
「今回のはそこまで大事にはならないと思うし——俺たちの世界を、君に見てほしい」
妖の世界。怪異と聞いて恐怖もあったが、自分が身を置かせてもらう世界のことを、もっと知りたかった。覚悟を決め、同意する。
「……行きます!」
支都禰の返事に、宇羅の口元がほころんだ。羽織を受け取ったかと思うと、もう一度支都禰の肩にふわりとかけ直した。
「よし。じゃあ、夜に行こう」
◆
夜の山奥の参道に鋭い冷えが広がっている。杉が影となって覆い被さり、離れてともる提灯がゆらゆらと揺れた。
祠は思ったよりもこぢんまりとしていた。人が来なくなって久しいのか、石段は荒れ、途中で切れたしめ縄が垂れている。供え物の皿も欠けていた。先導していた阿久良がぽつりとつぶやく。
「人々に忘れられ、荒れると……妖は怨念にとらわれ、怪異となってしまうこともあるんです」
「怪異……」
胸の奥がざわつく。目には見えない「なにか」の気配が、そこらじゅうに溜まっている。
隣にいた宇羅が支都禰の前に立ち、祠の向こうを見て目を細めた。
「——来たな」
言い終わるや否や、闇を裂くように白い光が跳ねた。
「!」
それは小さな狐だった。白い毛並みはところどころ黒く、皮膚の下で青黒い光が脈打っている。瞳は空虚が巣食うように暗く、濁っていた。白狐は低くうなる。しかしそれは威嚇というより、助けを求めているように聞こえた。怨念に絡め取られた姿からあふれる孤独が、どこか自分と重なって見えた。
「君は下がって」
支都禰が下がり、阿久良が代わりにかばい立ったのを見て、宇羅は白狐のほうへ向かう。袖から赤い鬼面を出し、側頭部につけた。あれから正式に、支都禰の打った鬼面は宇羅のものとなった。
その瞬間、空気が一変した。
宇羅の瞳に炎が揺れ、呼応するように足元から炎が湧き上がる。それは紋様を描くように広がった。地表から伸びる線が、夜の闇に編まれ、浮かび上がる。
「——鎮まれ」
短い言葉と共に、炎の紋が立ちのぼり、白狐のほうへ波を打って向かった。炎に包まれた白狐は暴れ、牙をむく。炎はまるで美しい網のように形を変え、白狐からあふれ出る怨念ごと絡め取った。
(綺麗——)
目の前の光景に心を奪われ、恐怖を忘れ見入る。阿久良はそんな支都禰に少しだけ目をみはり、前に向き直った。
「宇羅様の術は、単純な武力ではありません。統制と破魔。怨念を祓い、妖の力をもとの形へ戻すものです」
白狐の身体から、黒いもやがはがれ落ちる。やがて白狐のうなりが途切れ、小さな身体が力を失い、崩れ落ちるように落下する。
「……っ」
思わず支都禰は走っていた。
「——支都禰!」
制止の声が聞こえた気がしたが、止まらなかった。倒れ込む白狐を受け止め、腕の中に抱きしめる。白く戻った毛並みはつめたい。白狐は薄く目を開け、おびえた子どものように支都禰を見上げた。
「……もう、大丈夫だよ」
支都禰は言い聞かせるようにささやき、震える背を撫でた。白狐は安心したように目を閉じ、光の泡となり消えていった。
いつの間にか背後に立っていた宇羅が、ほっと息をつく。
「まったく……」
「……すみません。ただ、行かなきゃと思って」
「ま、なにもなくてよかった」
やれやれと腰に手を当て、宇羅は阿久良のほうへ向く。
「申し訳ありません」
「いや、今回は俺も悪かった。——あとは任せていいな?」
「はい」
阿久良は一礼し、霧のように姿を消した。
◆
二人で屋敷へ戻る道すがら、支都禰は祠のほうを振り返った。
「……白狐が気になる?」
「はい。……死んでしまったんですか?」
祠のまわりは、よどみもすっかりなくなった。だからこそ、白狐が気がかりだった。
宇羅はうーん、と悩みながら答える。
「いや……。一度器を手放して、小さくなったんだ。あれだけの怨念を溜め込んでいると、一度仕切り直さないといけない。時間はかかるだろうけど、いずれ元の姿に戻るよ」
「そう、ですか」
歩幅を合わせてくれている宇羅の横顔を見ながら、先ほどの光景を思い出していた。
「鬼灯條様は、いつもああいったことを?」
「ああ。怨念を祓い怪異を鎮め、人と妖とをとりなすのが、俺たち鬼灯條の責務だ」
責務。支都禰は今まで自分のことだけで精一杯だった。宇羅はずっとずっと先にいて、広い世界を守っている。それがまぶしい。
「炎の術……綺麗でした」
支都禰の感想に、宇羅は不思議そうな顔をした。
「怖かった、じゃなく?」
「はい」
あの衝撃をどう伝えればよいだろう。神聖な儀式を目の当たりにしたような感覚を。
「美しい紋様が編まれていくようで、つい見惚れて……」
赤い瞳がわずかに揺れ、宇羅は嬉しそうに笑った。
「さすが、目のつけどころが職人だな。……そう見えたのなら、君のおかげだ」
「え?」
どういうことかと顔を上げると、宇羅が側頭部の鬼面を指した。
「この面のおかげでいつもより力が湧いた。君の術のおかげだ」
支都禰は息をのんだ。自分の面が、宇羅の力を支えていたなんて。
「俺の炎を強く、美しいと感じたなら……。それは君が俺に与えてくれたものだよ」
(私が……?)
言葉がとろとろと甘く響き、流れ込む。これほど支都禰の力を、誇りを認めて、素敵な言葉にしてもらえたのは、はじめてだった。
宇羅がいたずらっぽく笑い、鬼面を指で叩いた。
「まさに『鬼に金棒』ってやつだな」
心臓に灯火が宿ったように、内側からあたたかさが満ちていく。自分が、誰かの力になれる。役に立てる。ただ守られるだけの存在ではなく。
夜空を見上げた。宝石を散りばめたように小さな星々がきらきらと輝き、支都禰の瞳に反射する。
(この世界で、私にもできることがある)
握りしめた手に力を込めた。いつか、自分の手で——誰かを救えるほどの力を、持てるように。
