廊下を行き来する落ち着きのない足音。箪笥の引き出しが乱暴に開け閉めされ、着物のこすれる音がする。
「雪起、しっかり準備するんだよ。今日はあの鬼灯條様の夜会なんだからね」
「今終わったところよ」
鏡台の前で、雪起が頬に手を添える。薄く白粉をはたいた肌は陶器のようで、唇は艶やかな紅で彩られていた。初子は派手な色留袖の帯の結び目を誇らしげに撫で、娘の仕上がりを見て満足そうに頷く。
「聞いたかい? 鬼灯條家の嫡男様はね、まだ婚約者がいないらしいよ」
「……本当?」
鏡越しに映る雪起の目に、野心めいた光が宿った。
「お前は見目もいいし、ご縁があるかもしれないよ?」
初子が意味ありげに笑い、雪起もまた、静かに口角を上げた。
支都禰は二人の会話を聞きながら、散らかった部屋を片づけていた。
先日届いた封筒が脳裏をよぎる。鬼灯條家の、後継者お披露目の招待状。それは継信に宛てたものだったが、初子は最初から自分たちが行く気ではしゃいでいた。
正直、夜会のことなど、どうでもよかった。忘れられないのは、あの鬼の面。あれだけはなぜか特別に思えたのに。
「ちょっと来な!」
初子に呼ばれ、支都禰は畳んだ服を脇へと寄せて向かった。化粧を厚く重ね、襟元からきつい香を放った初子が仁王立ちしている。
「片づけは終わったのかい?」
「……今、やってます」
機械的に答えると、初子は一瞥し、吐き捨てるように言った。
「やっぱり気味が悪い。白木の名が汚れちまう。家族を捨てた母親に、娘は化け物ときた。継信さんが不憫でならないよ」
初子はずかずかと近づき、支都禰のあごをぞんざいに掴み上げた。
「お前がこんなだから、あたしと雪起で行ってやるんだ。感謝しな」
手を放され、よろめく。支都禰は静かに面の位置を整えた。なにを言っても、それ以上の言葉で斬りつけられるだけだとわかっていたから。
次いで雪起が支都禰の面をわざとらしくのぞき込み、勝ち誇ったように笑った。花の香りが薄く漂う。
「今度こそ、あたしは幸せを掴んでみせるわ。……あんたのいないところでね」
「……」
無反応の支都禰に、雪起はおもしろくなさそうに鼻を鳴らす。
「はっ、つまんない。……まあいいわ。あんたはここで留守番だもの」
「絶対家から出るんじゃないよ。継信さんのことが心配なら、ちゃんと看病することさ」
支都禰は黙って頷いた。言われなくとも家から出るつもりはない。早く父と二人きりになりたかった。
足音が遠ざかってから、支都禰はほっと息をついた。久しぶりに訪れた、父と二人きりの時間。その喜びに、疲れた心がほんのりとあたたまった。
◆
障子越しの月明かりが畳の目にやさしく落ちている。座椅子にもたれた継信に湯呑を差し出すと、タコのあるやせた手が受け取った。
「さっきは、やけに騒がしかったな」
「初子さんと雪起が、夜会に出かけたんだよ」
支都禰はいつも通りを意識したが、継信は娘のかすかな表情の揺れをとらえたようだった。
「最近元気がないが、なにかあったのか」
「……じつは、できあがった鬼面をなくしちゃって」
雪起とのこと、自身の髪のことは、まだ話せる余裕がない。
継信は「そうか」とだけ言って、おだやかにほほ笑んだ。
「見つかるよ」
「どうして、そう思うの」
「直感だ」
父の直感は、昔からよく当たる。だから元気づけてくれているだけかもしれないけれど、少しだけ心強かった。
「支都禰。お前に渡したいものがある」
継信が湯呑を置き、震える指先が奥を示す。支都禰は立ち上がり、示された押し入れを開けた。奥のほうに、ほこりの積もった桐箱が丁寧にしまわれている。抱えて戻ると、継信は頷いた。
「開けてごらん」
言われるがまま蓋を開けると、きし、と木が鳴り、布のにおいが立ちのぼった。中に収められていたのは、見事な深紅の振袖だった。品のよさと華やかさが、ひと目で伝わる。一緒に入っていた香袋から、懐かしい香りが漂った。
「これは……?」
「母さんのものだ。お前にこれを着てほしい」
(着るって、なんで今……?)
意図がわからず、支都禰は視線を振袖から父へと移した。そこへ一通の封筒が差し出される。
「今夜の夜会に、お前が出席する許可を願う文だ」
「……私が?」
「そうだ。正当な後継として、な。お前は一人前の面打師だ」
継信が師としてはっきりと認めてくれたのは、これがはじめてだった。支都禰は目を見開き、熱くなる胸をそっと押さえた。
「面打ちのことも含め、伏せってばかりでなにもしてやれず不甲斐なかった。……頼りない父親で、すまない」
支都禰は泣きそうになるのを我慢して首を振った。身体がつらいなか、どれだけ自分を思い見守ってくれていたかは身にしみてわかっている。
「前にも伝えたが、母さんは大切な用事を終えたらかならず帰ってくる。さびしい思いをさせているが、信じてやってほしい。きっと今も変わらず、支都禰を愛しているから」
「……っ」
「どうかもっと広い世界で、自信を持って生きてほしい。お前とお前の面打ちには、それだけの価値があるから。俺の文と母さんの衣が、その手助けになれたらと思ったんだ」
支都禰は振袖を抱え直す。父の思いやりは本当に嬉しい。けれど、どうしても、怖かった。
「怖いなら、怖いままでいい。……それでも一歩だけ、前に出てみないか」
それは、面打ちを教える父の声に似ていた。迷ったとき、導いてくれた心強い声。
泣いてはいけないと思うのに、涙が止まらない。支都禰は泣き顔を見られたくなくて、狐面で顔を隠した。
「だから……夜会に行っておいで」
弱々しい手が、幼いころのようにやさしく支都禰の頭を撫でた。
「お前の未来は、お前の手で掴める。そしてそれが今日だと、俺は思うんだ」
「……父さん」
涙が頬を滑り、ぽたりと落ちる。継信は狐面をそっと持ち上げた。
「どこでなにをしても、お前は俺たちの、自慢の娘だよ」
震える指で涙をぬぐい、継信がやさしく笑いかけた。
「一晩くらい、心配いらないよ」
「父さん。でも……」
躊躇する支都禰に、継信はぽんと胸を叩いた。
「大丈夫、行ってこい」
その言葉に、不安と心配がやわらいでいく。
継信は、母がいなくなった理由、「大切な用事」の詳細を教えてくれたことはない。きっと事情があり言えないのだろうと思いつつ、それも含めてさみしかった。もしかすると踏み出した先で、その理由がわかるかもしれない。
支都禰は振袖と文を抱きしめ頷いた。
「——うん、わかった」
支度は静かに進んだ。衣の重みが知らない自分を連れてくるようで、自然と背筋が伸びる。髪をまとめ、狐面を手に取り鏡の前で当てる。
(母さんにも、見せたかったな)
母が見たらなんと言ってくれただろう。支都禰は立ち上がり、父のもとへ戻った。
「綺麗だ。よく似合ってる」
継信の顔色が悪い。あれだけたくさん話をしたのだ、体力をずいぶん使わせてしまったのだろう。
「外まで見送ってやりたいんだが……」
「ここでいいよ。……ありがとう」
ありったけの思いを込め、短く礼を伝えた。後継としてのあいさつを終えたら、すぐ戻ろう。
「行ってきます」
「ああ。気をつけて」
玄関の戸を開けると、遠くの街の灯りが、あたりを薄く照らしている。
「——行こう」
支都禰は一歩、踏み出した。
思い切って家を出たものの、胸がざわざわとして落ち着かない。支都禰は袖から出した狐面をつけた。慣れた感覚に、少しずつ落ち着きが戻ってきた。
しばらく行くと丸い灯りがふたつ見え、次の瞬間、けたたましい音と共に黒い車が近づいてきた。あっという間に近づいたかと思うと、支都禰の前で停車した。
「なに……⁉︎」
反射的に下がった支都禰の前で、扉が開き、運転手らしき男が姿を見せた。エンジン音に合わせて、支都禰の心臓がどくどくと音を立てる。
開けられた後部座席から颯爽と降り立ったのは、すらりとした美青年だった。月明かりに照らされ、その美貌がより立体感をもって映る。
視線が交差し、支都禰は息をのんだ。青年の右目は落ち着いた灰色の瞳だったが、闇に溶ける髪の隙間からのぞく左目は、燃え上がるような赤い色をしているように見えた。
青年はほんの一瞬だけ目を見開き、そしてすぐ表情をゆるめる。鬼灯の耳飾りが、きらりと揺れた。
「こんばんは」
やわらかいのに、胸の奥にまで届くような芯のある声だった。
「君は、白木——支都禰さんかな」
「そ、そう、ですが……」
青年の視線が、狐面の奥——支都禰の目元にとまる。
「驚かせたならすまない。俺は鬼灯條宇羅。君たち親子に話があって来た」
「えっ……」
雲の切れ間から月明かりが落ち、灰色の髪に淡く反射する。
支都禰は灯火のような赤い瞳から目が離せなかった。
「雪起、しっかり準備するんだよ。今日はあの鬼灯條様の夜会なんだからね」
「今終わったところよ」
鏡台の前で、雪起が頬に手を添える。薄く白粉をはたいた肌は陶器のようで、唇は艶やかな紅で彩られていた。初子は派手な色留袖の帯の結び目を誇らしげに撫で、娘の仕上がりを見て満足そうに頷く。
「聞いたかい? 鬼灯條家の嫡男様はね、まだ婚約者がいないらしいよ」
「……本当?」
鏡越しに映る雪起の目に、野心めいた光が宿った。
「お前は見目もいいし、ご縁があるかもしれないよ?」
初子が意味ありげに笑い、雪起もまた、静かに口角を上げた。
支都禰は二人の会話を聞きながら、散らかった部屋を片づけていた。
先日届いた封筒が脳裏をよぎる。鬼灯條家の、後継者お披露目の招待状。それは継信に宛てたものだったが、初子は最初から自分たちが行く気ではしゃいでいた。
正直、夜会のことなど、どうでもよかった。忘れられないのは、あの鬼の面。あれだけはなぜか特別に思えたのに。
「ちょっと来な!」
初子に呼ばれ、支都禰は畳んだ服を脇へと寄せて向かった。化粧を厚く重ね、襟元からきつい香を放った初子が仁王立ちしている。
「片づけは終わったのかい?」
「……今、やってます」
機械的に答えると、初子は一瞥し、吐き捨てるように言った。
「やっぱり気味が悪い。白木の名が汚れちまう。家族を捨てた母親に、娘は化け物ときた。継信さんが不憫でならないよ」
初子はずかずかと近づき、支都禰のあごをぞんざいに掴み上げた。
「お前がこんなだから、あたしと雪起で行ってやるんだ。感謝しな」
手を放され、よろめく。支都禰は静かに面の位置を整えた。なにを言っても、それ以上の言葉で斬りつけられるだけだとわかっていたから。
次いで雪起が支都禰の面をわざとらしくのぞき込み、勝ち誇ったように笑った。花の香りが薄く漂う。
「今度こそ、あたしは幸せを掴んでみせるわ。……あんたのいないところでね」
「……」
無反応の支都禰に、雪起はおもしろくなさそうに鼻を鳴らす。
「はっ、つまんない。……まあいいわ。あんたはここで留守番だもの」
「絶対家から出るんじゃないよ。継信さんのことが心配なら、ちゃんと看病することさ」
支都禰は黙って頷いた。言われなくとも家から出るつもりはない。早く父と二人きりになりたかった。
足音が遠ざかってから、支都禰はほっと息をついた。久しぶりに訪れた、父と二人きりの時間。その喜びに、疲れた心がほんのりとあたたまった。
◆
障子越しの月明かりが畳の目にやさしく落ちている。座椅子にもたれた継信に湯呑を差し出すと、タコのあるやせた手が受け取った。
「さっきは、やけに騒がしかったな」
「初子さんと雪起が、夜会に出かけたんだよ」
支都禰はいつも通りを意識したが、継信は娘のかすかな表情の揺れをとらえたようだった。
「最近元気がないが、なにかあったのか」
「……じつは、できあがった鬼面をなくしちゃって」
雪起とのこと、自身の髪のことは、まだ話せる余裕がない。
継信は「そうか」とだけ言って、おだやかにほほ笑んだ。
「見つかるよ」
「どうして、そう思うの」
「直感だ」
父の直感は、昔からよく当たる。だから元気づけてくれているだけかもしれないけれど、少しだけ心強かった。
「支都禰。お前に渡したいものがある」
継信が湯呑を置き、震える指先が奥を示す。支都禰は立ち上がり、示された押し入れを開けた。奥のほうに、ほこりの積もった桐箱が丁寧にしまわれている。抱えて戻ると、継信は頷いた。
「開けてごらん」
言われるがまま蓋を開けると、きし、と木が鳴り、布のにおいが立ちのぼった。中に収められていたのは、見事な深紅の振袖だった。品のよさと華やかさが、ひと目で伝わる。一緒に入っていた香袋から、懐かしい香りが漂った。
「これは……?」
「母さんのものだ。お前にこれを着てほしい」
(着るって、なんで今……?)
意図がわからず、支都禰は視線を振袖から父へと移した。そこへ一通の封筒が差し出される。
「今夜の夜会に、お前が出席する許可を願う文だ」
「……私が?」
「そうだ。正当な後継として、な。お前は一人前の面打師だ」
継信が師としてはっきりと認めてくれたのは、これがはじめてだった。支都禰は目を見開き、熱くなる胸をそっと押さえた。
「面打ちのことも含め、伏せってばかりでなにもしてやれず不甲斐なかった。……頼りない父親で、すまない」
支都禰は泣きそうになるのを我慢して首を振った。身体がつらいなか、どれだけ自分を思い見守ってくれていたかは身にしみてわかっている。
「前にも伝えたが、母さんは大切な用事を終えたらかならず帰ってくる。さびしい思いをさせているが、信じてやってほしい。きっと今も変わらず、支都禰を愛しているから」
「……っ」
「どうかもっと広い世界で、自信を持って生きてほしい。お前とお前の面打ちには、それだけの価値があるから。俺の文と母さんの衣が、その手助けになれたらと思ったんだ」
支都禰は振袖を抱え直す。父の思いやりは本当に嬉しい。けれど、どうしても、怖かった。
「怖いなら、怖いままでいい。……それでも一歩だけ、前に出てみないか」
それは、面打ちを教える父の声に似ていた。迷ったとき、導いてくれた心強い声。
泣いてはいけないと思うのに、涙が止まらない。支都禰は泣き顔を見られたくなくて、狐面で顔を隠した。
「だから……夜会に行っておいで」
弱々しい手が、幼いころのようにやさしく支都禰の頭を撫でた。
「お前の未来は、お前の手で掴める。そしてそれが今日だと、俺は思うんだ」
「……父さん」
涙が頬を滑り、ぽたりと落ちる。継信は狐面をそっと持ち上げた。
「どこでなにをしても、お前は俺たちの、自慢の娘だよ」
震える指で涙をぬぐい、継信がやさしく笑いかけた。
「一晩くらい、心配いらないよ」
「父さん。でも……」
躊躇する支都禰に、継信はぽんと胸を叩いた。
「大丈夫、行ってこい」
その言葉に、不安と心配がやわらいでいく。
継信は、母がいなくなった理由、「大切な用事」の詳細を教えてくれたことはない。きっと事情があり言えないのだろうと思いつつ、それも含めてさみしかった。もしかすると踏み出した先で、その理由がわかるかもしれない。
支都禰は振袖と文を抱きしめ頷いた。
「——うん、わかった」
支度は静かに進んだ。衣の重みが知らない自分を連れてくるようで、自然と背筋が伸びる。髪をまとめ、狐面を手に取り鏡の前で当てる。
(母さんにも、見せたかったな)
母が見たらなんと言ってくれただろう。支都禰は立ち上がり、父のもとへ戻った。
「綺麗だ。よく似合ってる」
継信の顔色が悪い。あれだけたくさん話をしたのだ、体力をずいぶん使わせてしまったのだろう。
「外まで見送ってやりたいんだが……」
「ここでいいよ。……ありがとう」
ありったけの思いを込め、短く礼を伝えた。後継としてのあいさつを終えたら、すぐ戻ろう。
「行ってきます」
「ああ。気をつけて」
玄関の戸を開けると、遠くの街の灯りが、あたりを薄く照らしている。
「——行こう」
支都禰は一歩、踏み出した。
思い切って家を出たものの、胸がざわざわとして落ち着かない。支都禰は袖から出した狐面をつけた。慣れた感覚に、少しずつ落ち着きが戻ってきた。
しばらく行くと丸い灯りがふたつ見え、次の瞬間、けたたましい音と共に黒い車が近づいてきた。あっという間に近づいたかと思うと、支都禰の前で停車した。
「なに……⁉︎」
反射的に下がった支都禰の前で、扉が開き、運転手らしき男が姿を見せた。エンジン音に合わせて、支都禰の心臓がどくどくと音を立てる。
開けられた後部座席から颯爽と降り立ったのは、すらりとした美青年だった。月明かりに照らされ、その美貌がより立体感をもって映る。
視線が交差し、支都禰は息をのんだ。青年の右目は落ち着いた灰色の瞳だったが、闇に溶ける髪の隙間からのぞく左目は、燃え上がるような赤い色をしているように見えた。
青年はほんの一瞬だけ目を見開き、そしてすぐ表情をゆるめる。鬼灯の耳飾りが、きらりと揺れた。
「こんばんは」
やわらかいのに、胸の奥にまで届くような芯のある声だった。
「君は、白木——支都禰さんかな」
「そ、そう、ですが……」
青年の視線が、狐面の奥——支都禰の目元にとまる。
「驚かせたならすまない。俺は鬼灯條宇羅。君たち親子に話があって来た」
「えっ……」
雲の切れ間から月明かりが落ち、灰色の髪に淡く反射する。
支都禰は灯火のような赤い瞳から目が離せなかった。
