鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 工房に舞う木屑がやわらかく光る。部屋に木の香りが満ち、ノミを打つ音が響いた。
 支都禰は今日も面を打つ。削っては息を整え、手の感覚に集中する。傷だらけの手が、今日も確かな輪郭を描き出していった。
 そのようすを、宇羅が少し離れたところで見守っている。書類を脇の机に置き、ゆったりと片ひじをついて、支都禰の横顔と手元を眺めていた。
 工房の窓辺には、小さな髪留めが置かれている。雪の装飾がきらりと淡い光を返していた。
「……本当に、飽きませんか?」
「いいや。むしろ、俺が邪魔してない?」
「そんなことないです」
 食い気味に返す支都禰に、宇羅が笑う。両ひじをつき、手にあごをのせ、優艶な笑みを浮かべた。さらりと髪と耳飾りが揺れ、赤い瞳が支都禰を射抜く。
「飽きないよ。できることなら、支都禰のすべてを見ていたいから」
「〜〜っ」
 支都禰は言葉にならない声をのみ込んだ。とろける響きに、耳まで赤くなる。
 最近の宇羅は、なんだか甘い。肩の荷が降りたのか、宇羅が以前よりやわらかく、くつろいだ表情を見せることが増えてきて、それが嬉しかった。

 しばらくして、支都禰はノミと木槌を置いた。首をうしろに倒して、細く息を吐く。立ち上がって伸びをして、書類から顔を上げた宇羅のところへ近寄った。赤と灰の瞳が自分ひとりを映していることに、小さな喜びがともる。
「……どうした?」
「今日は、終わろうかなって」
 宇羅が目を瞬かせ、手に持つ書類を机に置いた。
「めずらしいな。こんな早くに」
「けっこう進んだし……」
 視線を落としながら答え、逡巡する。指先をいじりながら、小声でつぶやいた。
「……ちょっと、隣に行きたくなって」
 宇羅の手から、書類がぱさりと落ちる。静寂のあと、宇羅が胸を押さえてうめいた。
「うっ……」
「えっ、う、宇羅さん⁉︎」
 おろおろとする支都禰を見上げて、宇羅は大きく息をつき、困ったようにほほ笑んだ。
「大丈夫。……ちょっとくらっただけ」
(くらった……?)
 言葉の意味がわからず当惑する支都禰に、宇羅は笑って手を差し出した。
「あはは、なんでもない。じゃあ行こうか」
「……はい」
 支都禰が手を取ると、指先から互いの熱が伝わった。二人は目を合わせてほほ笑んだ。

   ◆

 結界が張られ、雪に閉ざされた険しい山の禁足地。
 司箭院はつめたい石の部屋に幽閉されていた。司箭院家は幼い甥が名目上の当主となり、親兄弟は蟄居。司箭院本人は「重病のため隠居」と公的に片づけられ、表舞台から消えたことになっている。
 窓の外はいつ見ても白く、静寂だけがそばにある。けれど司箭院はこの静けさを悲嘆してはいなかった。
「……かならず、混乱の世は訪れる」
 暗い笑みが口元に浮かぶ。我が未来が閉ざされようとも、同じ意志を持つ者たちはどの時代にもいるはずだ。人間の手を取り、ゆるやかに沈むのを許さない者たちが。人を憎み、力に焦がれる者たちが。その意志を繋いでいけば、強者の時代が再来する。
 妄想に愉悦していると、背後で、ぬ、と湿った気配がした。
 振り返ると床の影が裂け、奈落へと続く門が開いていた。どろりとした手が、そこから這い出てくる。まるで、待ち焦がれていたかのように。じゃら、と金属のこすれる音が響いた。
 司箭院の瞳に、漆黒の鎖がありありと描き出される。白い雪の世界に、黒がひと筋、堕ちていった。

   ◆

「——でね、その男の人は、地獄へ連れて行かれちゃったらしいよ」
 僻地の教会で、修道女たちのささやきが広がった。どうも離れた山のどこかで、怪奇現象が起こったらしい。娯楽のない寂しい地では、そんな噂話が格好の話題だった。
 たまたま通りかかった修道院長が、彼女たちを静かに咎める。
「噂話に心を奪われるのはいただけません。……ほら、もうすぐ昼食の時間ですよ」
「……はぁい」
 ぱたぱたと去っていく背中を見送り、溜め息をついた。
「新入りの彼女のほうが、よっぽど敬虔ね」

 少女が礼拝堂の扉を開く。入口脇の壁にある、天使の彫像が抱えた聖水盤へ静かに指先を浸し、十字を描いた。祭壇の奥にたたずむ十字架に向かって片ひざを折り、短く頭を垂れ、中へと進む。
 長椅子の端に身を滑らせ、ひざの前の跪き台にひざを落とした。両手を指ごと絡めるように胸元で重ね、目を閉じる。頭巾の下から、まっすぐな黒髪が肩に落ちた。小さなステンドグラスから入る光が床に模様を淡く描いている。
 しばらくして、入り口から顔をのぞかせた同僚がこっそりと声をかけた。
「お昼だよ……雪起」
 重ねていた手が、ぴくりと揺れた。
「……わかった」
 少女——雪起はゆっくり立ち上がり、ひざまずき一礼をして歩き出す。その背中を、十字架が見守っていた。

   ◆

 支都禰は宇羅と並んで渡り廊下を歩いていた。
 庭園が白い雪化粧によって、ふだんとちがった表情を見せる。雪吊りの縄が放射状に広がり枝を支える。その一本一本にも雪が積もり、白く美しい線を描いていた。ひんやりとした空気の中で、先ほどまで繋がれていたぬくもりが、まだ手のひらに残っている。
「今日も夕餉のあと母上のところへ行くんだろ。大丈夫?」
 宇羅が心配そうに支都禰を見る。
 鬼灯條家では本格的に世代交代の準備がはじまっていた。支都禰は面打ちの傍ら、当主の妻としての立ち居振る舞い、侍従たちの管理、礼儀作法に祭礼の準備など、紅葉のそばでひとつひとつ学んでいる。
 面打ちの時間は減ったけれど、支都禰は十分に満ち足りていた。
「紅葉様もほかの皆さんも、すごくよくしてくださって。だから大丈夫ですよ」
「……そうか」
 安堵の息をつく宇羅の顔を、そっとのぞき込む。
「宇羅さんこそ。今までだって忙しかったのに、当主のお仕事も引き継いでるでしょ」
 これまでも多くの実務を担っていた宇羅だが、最近は表に立つ機会がさらに増え、他の一族の長たちが集まる当主会議にも参加している。
「俺は慣れてるから平気だよ。それに……」
 宇羅は支都禰に顔を寄せ、いたずらっぽく笑った。
「まだ父上にも、きびきび働いてもらうつもりだし」

 玄関に立った朱天が振り返り、ぶるりと身震いする。
「ううう、寒気が」
「今日は気温が低いものね」
「いや、そうじゃなくってさぁ、なんかいやな予感がしたんだけど……」
 隣にいた紅葉は警戒して周囲を見回す夫を気にもせず、腕を引いて歩き出した。
「ほら行くわよ。司箭院の坊っちゃまが待ってるんだから」
「はいはい、わかったよ……」

 離れたところから笑い声が聞こえて、支都禰は声のするほうへ視線を向けた。道成寺に背中を叩かれた阿久良がよろめき、安達原が苦笑している。近くで央丹がそれを楽しげに眺めていた。平和な光景に、支都禰は小さくほほ笑んだ。
(いいなあ)
 鬼灯條家が、ここにいる皆が大切な存在になった。大切な彼らとこの場所で、これから未来を一緒に拓いていきたい。
 二人は立ち止まって純白の庭園を眺めた。宇羅が欄干に手をつき、ぽつりと言う。
「支都禰が隣にいてくれるなら、どんな重圧にも立ち向かえる気がする」
 そうして支都禰をまっすぐ見て、力強くほほ笑んだ。
「もっと強い自分でいられそうだ」
(ああ、本当に……)
 どうしてこの人は、いつだって幸せな言葉ばかりかけてくれるのだろう。存在丸ごと抱きしめてくれるような。出会ったときからずっと、宇羅の尊重が支都禰を支えてくれた。
 ふと以前かけてもらえた言葉を思い出し、支都禰は宇羅の手に自分の手を重ねていたずらっぽく笑いかけた。
「まさに『鬼に金棒』ですね」
 宇羅は、はっと目を見開き、手のひらを返して指を絡ませ手を繋いだ。陽だまりのような笑顔で大きく頷く。
「ああ。百人力だ」

(こんなあたたかな未来があるなんて、想像もしていなかった)
 支都禰は夢見心地で、隣を歩く宇羅の横顔を眺める。歩みを止め、両手を見つめた。閉じて、開いて。古傷のひとつひとつが、今日までの積み重ねを物語っている。面打ちの手、祈りの手、友情や愛情、たくさんの縁を繋いだ手。そのすべてが、今日へと導いてくれた。
「支都禰?」
 声に顔を上げれば、そこには大好きな人のほほ笑みがある。静かな灰色の瞳も、熱がこもる赤い瞳も、どちらも愛おしい。
 差し出された手に、支都禰は自分の手を重ねた。これからもこの幸せを重ねていきたい。薄い層を幾重にも重ねて厚みをつくり、どんな困難にも負けない土台を築きたい。支都禰が手をのせた瞬間、宇羅の親指がそっと支都禰の指を撫でた。
 宇羅の執務室の棚には、鬼の面と狐の面、対の面が並んでいる。鬼の宇羅と、半妖の支都禰。
 二人の時間はある場所で交じり、絡み合って、結ばれた。そしてこの先も、新たな物語を共に編み上げていく。
 黄金の瞳がきらめいた。