鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 雪起は、遠くの戦闘音を聞きながらひとりへたり込んでいた。
 ひんやりとした空気が涙のあとを残す頬を刺し、地面に触れたところから、冷気が肌の中へしみ込んでくる。けれど、不思議と痛みは感じなかった。目の前の光景は現実味を帯びず、自分だけが別の世界にいるような気がする。
 一体自分たち親子は、どこで間違えてしまったのだろう。
 最初から、家族のぬくもりなんてものはなかった。形ばかりの、心が通わぬ家族。雪起は何度も理由を探した。自分が悪いのか。努力が足りないのか。努力すれば、変わるのか。
 けれど初子の話を聞いて理解した。どう足掻こうと無駄だった。父と母の結婚も、自分が生まれたことも、すべては母の歪んだ欲望によって生まれたものだから。
 神木の根元に倒れた初子は動かない。魂が加護の代償というのなら、もう生きてはいないかもしれない。なのに、悲しいと思う気持ちが湧いてこない。
(あたしは、なにをしていたんだろう)
 自分も母と同じだ。負の感情にばかりとらわれ、歪んだ欲におぼれた。もう終わりにしたい。なにもかも、忘れて消えてしまいたい。
 真っ暗な心の中で、小さな光が浮かんだ。黄金の宝石のような、あの子の瞳。
『私も、前へ進むから。だから雪起も……』
 雪起はゆっくりと深呼吸した。
 愛おしかった。守りたかった。母に頬を打たれても、それでも一緒にいたかった。そんな大切な存在を——支都禰を、いつから苦しく、憎らしく思うようになったのだろう。
(……けじめをつけなきゃ)
 自分のしてきたこと、その罪の重さを思えば償いようがない。だからせめて、この手で終わりにしよう。自分にまつわる関係、そのすべてを。
 雪起は地面に手をつき、よろよろと動き出した。雪に足が取られ、身体が揺れる。それでも手をつき立ち上がった。
 最後に、すべきことが残っている。

   ◆

 そのころ、怨泥の濁流は各地へ押し寄せていた。
 紅葉が周囲を鼓舞し前線に立つ。道成寺や安達原、多くの配下もそれに続いた。阿久良も白狐にまたがり濁流と化した怨泥を切り払う。央丹も鬼灯條家で迎撃を続けていた。阿曽宮家では姫乃が采配をふるっている。
 闘いに挑むすべての者が、宇羅たちの勝利を信じていた。

 澄子は、鬼灯條家の主治医や直衡たちと共に、負傷者の手当てに追われていた。
「……人間だってのに、おいらたちを助けるのかよ」
 腕に包帯を巻かれながら、ぶっきらぼうに河童が言った。澄子は包帯を巻く手を止め、河童の顔をまっすぐ見つめる。
「な、なんだよ」
「いえ、なんでも」
 にっこり笑って、手早く包帯を巻き終えた。河童の手首に視線を落とし、ほほ笑んでつぶやく。
「私も、妖の方に助けていただいたことがあるんです」
「え?」
「……困ったときはお互いさまってこと。さ、これで大丈夫ですよ」
 ぽかんとする河童に笑いかけ、澄子は窓の外を見た。朝ぼらけが空を彩る。
(みんな……。無事でいてね)

   ◆

「……くそっ」
 宇羅のくやしげな声に、支都禰は眉を寄せた。
 玉藻の面は、もうすぐそこ。なのに、一歩一歩がものすごく重い。
 これほどの怨念を溜めるまで、司箭院がどれだけの犠牲を重ねてきたのかを想像するだけで、胃の底が凍えていく。朱天がひとりで司箭院を抑えてくれているが、いつまでも頼るわけにはいかない。
(もっと、力がほしい)
 盟約を交わしたことで、宇羅や皆の力は高まっている。けれど、それだけでは足りない。自分自身も強くなりたい。
 神木で揺れる狐面の眼差しがこちらを見ている気がした。母が呼んでいる。あれに触れれば道が拓ける。そんな確信があった。
 あと少し、もう少し前に進めれば——。
 そのとき、人影が支都禰たちを追い抜き、よく知っている花の香りが鼻をかすめた。
「雪起!」
 波打つ髪を揺らして神木へ突っ込む背中に、声を張りあげた。
「待って、雪起!」
「いいから行かせて!」
 振り向いた雪起は、泣き笑いのような顔をしていた。
(雪起……?)
 いやな予感がして、支都禰はその背中に追いすがろうと前に出た。すると宇羅が瞬時に止める。
「支都禰!」
「でも——っ」
「あいつは俺が。支都禰は盾を!」
 その言葉に、はっと我に返る。そうだ、今は皆を守らなければ。自分がここに来た理由を忘れてはいけない。
 雪起は一体、なにをするつもりだろう。
 歯がゆさを抱えながら、支都禰は怨泥にのみ込まれる雪起を見送った。

 雪起は前を向き、ふたたび走り出す。
 怨泥が迫り、身体中に痛みが走る。雪起の手の甲が人知れず光ると、怨泥はまるでそれにおびえるかのように、わずか動きを鈍らせる。守るように広がる炎を連れて、もがきながら進んだ。
 そうしてぼろぼろになりながら、なんとか神木の根元へたどり着いた。
 千切れたしめ縄から、どろりとした黒いよどみがしたたり落ちている。黒の中で浮き出た白い狐面が雪起を見下ろした。その下で初子がぐったりと倒れている。
 駆け寄り抱き起こすと、初子は焦点の定まらない眼差しで、うわごとを口走っていた。
「継信さん、継信さん——」
「お母様……」
(泣くな)
 涙を流す資格はない。自分たち母娘(おやこ)は報いを受けなければならない。
 力の抜けた母の身体を、強く抱きしめた。この腕に抱かれたいと、焦がれていた。それは一度も叶うことなく、初子の腕はだらりと下がったまま動かない。
「終わりにしよう、お母様」
 雪起の手の甲に、刻印がうっすらと浮かび上がった。白い肌の上に刻まれたそれは、特別(・・)になりたくて得た、醜さの証。刻印の光は手の甲から指先へと移り、初子の胸元へしみ込むように伸びていく。雪起の瞳にも刻印が現れ、初子の意識を操っていく。
「つぐの——……」
 初子の唇が震え、声が途切れた。虚ろな目が自分を映し、雪起は一瞬怖気づく。
(ううん、だめ)
 雪起は目を閉じ、深呼吸をした。母から目をそらさず、強く念じた。この愛と呼ばれた呪いを、この手で終わらせる。初子の身体から黒い糸のようなものが抜けていく。呪いの残滓が広がり、空中でほどけて消えた。それと同時に初子の頭が雪起の腕にもたれ、唇が小さく動いた。
「——」
 母がなにを言おうとしたのか、汲み取ろうとはしなかった。
「地獄で会いましょう、お母様」
 初子を寝かせ、開きっぱなしの瞼を閉じた。眠るように横たわる母の顔を、雪起は静かに見つめ、立ち上がった。
 向こうで、光が満ちている。支都禰。彼女がきっともうすぐ、終わらせてくれる。
(……これで、いい)
 雪起は髪留めを外し、初子の傍へそっと置いた。

 司箭院は神木の力が弱まったことに気づき、勢いよく振り返った。
「な……、これはっ」
 氷の勢いがほんの一瞬弱まったその隙を、煉獄がとらえた。炎が司箭院の視界を奪い、氷の刃を蒸発させていく。我に返り氷を繰り出そうとしたとき、背後から押さえ込まれ、地面に叩きつけられた。
「ぐ——⁉︎」
 先ほどまで離れたところにいたはずの朱天の顔が、すぐうしろにあった。
 脳裏に、かつて手合わせをしたときの記憶がよみがえる。あのときはなんの感情も持たなかった顔が、今は切なげにほほ笑んでいる。追い求め焦がれた、まぶしい太陽。
「だから、よそ見禁止だって」
 小さな苦笑と共に、司箭院の視界が暗転した。

   ◆

「今だ」
 宇羅が支都禰の背中に手を添えた。
 支都禰は頷き、光を一点へ絞る。膜をつぼみのように閉じ、狙いを定めて勢いよく咲かせると、怨泥が裂けて道が拓いた。朝焼けの空気をのせた風が通り、玉藻の狐面までの道を示す。その道の両端を炎が走り押し広げた。美しい網が編まれ、神木全体を覆っていく。
「支都禰、頼む!」
「はい!」
 支都禰は走り出す。これまでのすべてを背負って、前へ。そこへ怨泥が妖の形を成し、群れになって襲いかかる。宇羅の炎が美しく編まれ、支都禰を包み込んだ。宇羅が守ってくれている。だから安心して、前へ進める。
 神木の近くは怨念の気配が濃く、雪起の姿が見えない。この好機を作ったのはきっと雪起だ。加護の力は残っていたのだろうか。初子はどうなったのだろう。知りたいけれど、それよりもやらねばならないことがある。
 狐面を守るようにうごめいていた怨泥に、炎が穴を空けた。
(今なら——)
 背後から、炎が支都禰を導いた。宇羅の炎が、これまででもっとも強く編み上がる。
「大丈夫だ、行け!」
 その言葉に背中を押され、支都禰は跳んだ。腕をかかげると、節くれだった手が目に入った。面を打ち、人との繋がりを得た手。支都禰の誇り。支都禰を支都禰たらしめるもの。
 その手で今、母の面影に手を伸ばす。指先が、狐面に触れた。
「母さん——!」
 支都禰の言葉に反応するかのように、面から強い光が放たれた。光は大輪の花を咲かせるように大きく広がり、周囲をのみ込んでいく。
「支都禰……‼︎」
 宇羅の声が、遠くに響いた。