東雲の空に、黒い怨泥が流れる。その姿はあやふやで、溶けたり混ざったりしながら触手を伸ばすかのように飛んでいた。初冬の澄んだ空気の中に、もわりと腐臭が混じる。
「——来たぞ!」
鬼灯條家の庭園で、家臣たちが身構えた。
怨泥は屋敷の結界に勢いよくぶつかり、押しつぶそうと広がっていく。やがて結界がひび割れ、怨泥が割れ目から吹き出してきた。
「これほどの量とは……!」
唖然とつぶやき、皆が迎え撃とうとした、そのとき。
「ばん」
無邪気な声と共に、怨泥が爆ぜた。空が一瞬白み、黒い霧が霧散した。
家臣たちが歓声をあげる。
「央丹様!」
皆の視線の先に、指鉄砲を構えた央丹が立っていた。その頭に、以前宇羅がつけていた鬼面がある。鬼の目は夜明けの微光を反射し、つめたく光った。
「お待たせ。ここは僕がやるから、各自持ち場に戻っていいよ」
「はっ!」
ひらひらと手を振って見送り、央丹は空を見上げる。
「そりゃあ、まっさきに鬼灯條を狙うよね」
広がる割れ目からつぎつぎと押し寄せてくる怨泥を撃つ。央丹は手を休めることなく、のんびりとつぶやいた。
「澄子さんと姫乃さんのおかげで、助かったなぁ」
決戦前。澄子が街でかき集めてきた情報を整理してきてくれた。
それによれば、司箭院が慈善事業の一環として各地へ支給した物品の中に、あの穢れた神木のかけらが入ったお守りが入っていたという。澄子はこれを、百鬼夜行の際の道標なのではないかと予想した。
宇羅が出向いて祓おうとしたが、お守りは破魔の炎にびくともしなかった。大元の神木を祓うしか方法はないらしい。
それを聞いた姫乃は、すぐに采配を振るった。
配布先と狙われるであろう拠点の洗い出し、地図への落とし込み、連絡網の整備。対処の優先順位までつけ、各所をまわって鈴の音を鳴らし、結界を張った。並の妖であれば結界をひとつ維持するだけでもたいへんなのに、姫乃は顔色ひとつ変えずにやってのけた。
鬼灯條家との対策会議の席で父親を差し置き発言する彼女の顔つきは、すでに「阿曽宮のお姫様」ではなく、当主の風格を漂わせていた。
央丹は面に触れ、出発前の宇羅との会話を思い出した。
「いつも損な役回りをさせてるな」
申し訳なさそうにする兄に、央丹は笑って返した。
「なに言ってるの。一番大変なのは兄上たちでしょ」
宇羅の大きな背中を、ずっと見てきた。彼が多くの重責を背負ってくれたから、央丹は自由にやれた。自分の才能が早くから花開いたのも、兄が守り支えてくれたからだ。
だから今度は、自分が支えたい。
「百鬼夜行を止められるのは、兄上と義姉上だ。だから僕は信じてる。うちは心配いらないよ」
任せてよ、と胸を叩くと、宇羅は力強く頷いた。
「ああ、頼んだ」
どんどんと押し寄せる怨泥に向かって、央丹は指を構えた。指先に炎球が渦巻き、質量を増していく。
「正直、僕は待機組がよかったんだよね」
炎が弾ける直前。央丹はいたずらっぽく笑った。琥珀の瞳が敵をとらえる。
「ここなら思う存分暴れられるしね。久々に楽しめそうじゃん?」
ばん、と音が鳴る。黒がまた爆ぜ、黎明の空を明るく照らした。
◆
離れの村へ到着した阿久良は、周囲を見渡した。
被害が大きいと予測されたこの場所は、人や家畜、付喪神をはじめとする妖たちの避難を終えていた。
「阿久良様」
三人の家来が音もなく駆け寄り、ひざをつく。ふだんは影となり動くこの三人と決戦の時を待つ。顔を上げた家来の視線が、ふと阿久良の左手首に落ちた。
「……阿久良様、その紐は?」
問いかけに、阿久良がぴくりと揺れる。
「気にするな。持ち場につけ」
「は、はっ!」
短く答え、三人は瞬時に姿を消した。
『無事を祈っていても、いいですか?』
阿久良の脳裏に、澄子の声と震えた手が浮かぶ。
赤い組紐の結び目はやや不格好で、だからこそ、ぬくもりを感じさせた。この紐が結ばれた瞬間、阿久良の中にはじめて、生還の二文字がよぎった。
宇羅に救われたこの命は、鬼灯條に捧げると決めている。宇羅のために生き、宇羅のためなら死ねる。それは今も変わらない。けれど。
離れたところでひとり駆けまわり情報を集め、今回の戦術の一助となった、人間の澄子。狐火を可愛がり、いつも明るくあいさつをしてくれた。会えばほんの二、三言話すだけの関係だったが、それが口下手な阿久良にとってはありがたかった。
その澄子が無事を願って組紐を渡しに来てくれるなんて、考えもしなかった。
『澄子さんが、つけてくれますか』
阿久良はあのとき自分の口から出た言葉に、澄子以上に驚いていた。
大きく見開かれた澄子の瞳、うつむいたときのまつ毛、手首に触れる震えた指先を思い出す。阿久良は無意識に手首を撫でた。
澄子は阿久良に、なにも求めなかった。ただ祈らせてほしい、それだけ。
「また」なんて台詞を、自分が言うとは思わなかった。再会を約束したのなら、生きて戻らねばならない。次に会えたら、彼女になんと声をかけよう。
遠くの空でなにかがうごめく音がして、黒い点が近づいてきた。それはだんだんと大きくなり、襲い来る怨泥の姿がはっきりと見えた。
阿久良は息を整え、面に触れて狐火に呼びかけた。
「狐火、来い」
ぼう、と小さな光が集まる。狐火たちが円を描き、金色の光を放ちながらひとつの姿へ収束していく。そうして一匹の大きな白狐が現れた。毛並みは雪より白く、金色の目が鋭く光る。阿久良はその背中に乗り、空へ上がった。
手首を見る。赤い糸で編まれた、澄子の祈り。それをしばらくのあいだ黙って見つめ、唇に寄せて結び目にそっと口づけた。視線を上げた翡翠の瞳が、前方の闇を射抜く。
「——行くぞ」
白狐が甲高く鳴き、跳ぶ。黒と白が、ぶつかった。
◆
支都禰は光の盾を咲かせ続け、神木からあふれ出す怨泥を抑えようと奮闘していた。
配下たちもそれぞれ術を駆使している。少しでも勢いをそぎ、各地で闘う仲間の負担を減らすため、一丸となって闘う。そこに轟音が響いた。
「宇羅さん……!」
支都禰の視線の先で、炎と氷が激突していた。
鬼と天狗。強大な一族の生まれである二人から、次々と術が繰り出される。炎が網を張るように広がり、空から降り落ち大地から突き出る氷を焼いていく。ぶつかり合うたび空気が震え、森が揺れた。
下手に近づけばそれだけで破滅へと繋がるほどの力の衝突。助太刀に入ればかえって足手まといになる。宇羅が司箭院を抑えているあいだに、神木をどうにかしなければ。支都禰は正面に向き直り、怨泥を押し戻した。
「父のような強さも、弟のような才もない。それなのに、ただ長男というだけで輝かしい未来が約束される」
嘲笑と共に、無数のつららが宇羅を襲う。
「醜い人間に取り入り、弱い者どもを守って悦に浸る。用意してもらったぬるま湯につかるだけの身分は、さぞかし気持ちがいいだろうなぁ?」
「……よくまわる口だな」
言い返しながらも、宇羅の炎が一瞬揺れる。言葉と氷は呪いのように、的確に炎の割れ目を狙ってきた。
「お前が自力で得たものはなんだ? やれ逸材だ秀才だなどと、くだらない。お前が次代の長だなんて、たかが知れるな」
勢いを増す氷の刃に、宇羅は小さく舌打ちをした。この男は、どうやら言葉で斬るのがうまいらしい。
支都禰は黙っていられず、思わず叫んだ。
「——ちがう!」
司箭院は知らない。宇羅がどれだけの重責を負ってきたか。自分自身を律し、身を削ってきたか。生まれたときから用意されていたのは、ただ輝くばかりの椅子ではない。あまりに大きく重い継承。その座まで歩むこれまでの道のりが、どれほど茨の道であったかは計り知れない。
きっと真面目な宇羅は、挑発とわかったうえで傷ついてしまう。宇羅が朱天と央丹へ抱く思いを、支都禰はこれまでの日々で理解していた。
「あの重責をぬるま湯だなんて言うあなたこそ、くだらない」
支都禰の言葉に司箭院は目を細め、苛立たしげに手をかざした。支都禰を狙った氷の刃は、すぐさま宇羅の炎によって消された。
「すべて背負って歩んできた宇羅さんが——次代の長だ!」
支都禰の高らかな叫びに、司箭院の表情がわずかに歪む。
「——来たぞ!」
鬼灯條家の庭園で、家臣たちが身構えた。
怨泥は屋敷の結界に勢いよくぶつかり、押しつぶそうと広がっていく。やがて結界がひび割れ、怨泥が割れ目から吹き出してきた。
「これほどの量とは……!」
唖然とつぶやき、皆が迎え撃とうとした、そのとき。
「ばん」
無邪気な声と共に、怨泥が爆ぜた。空が一瞬白み、黒い霧が霧散した。
家臣たちが歓声をあげる。
「央丹様!」
皆の視線の先に、指鉄砲を構えた央丹が立っていた。その頭に、以前宇羅がつけていた鬼面がある。鬼の目は夜明けの微光を反射し、つめたく光った。
「お待たせ。ここは僕がやるから、各自持ち場に戻っていいよ」
「はっ!」
ひらひらと手を振って見送り、央丹は空を見上げる。
「そりゃあ、まっさきに鬼灯條を狙うよね」
広がる割れ目からつぎつぎと押し寄せてくる怨泥を撃つ。央丹は手を休めることなく、のんびりとつぶやいた。
「澄子さんと姫乃さんのおかげで、助かったなぁ」
決戦前。澄子が街でかき集めてきた情報を整理してきてくれた。
それによれば、司箭院が慈善事業の一環として各地へ支給した物品の中に、あの穢れた神木のかけらが入ったお守りが入っていたという。澄子はこれを、百鬼夜行の際の道標なのではないかと予想した。
宇羅が出向いて祓おうとしたが、お守りは破魔の炎にびくともしなかった。大元の神木を祓うしか方法はないらしい。
それを聞いた姫乃は、すぐに采配を振るった。
配布先と狙われるであろう拠点の洗い出し、地図への落とし込み、連絡網の整備。対処の優先順位までつけ、各所をまわって鈴の音を鳴らし、結界を張った。並の妖であれば結界をひとつ維持するだけでもたいへんなのに、姫乃は顔色ひとつ変えずにやってのけた。
鬼灯條家との対策会議の席で父親を差し置き発言する彼女の顔つきは、すでに「阿曽宮のお姫様」ではなく、当主の風格を漂わせていた。
央丹は面に触れ、出発前の宇羅との会話を思い出した。
「いつも損な役回りをさせてるな」
申し訳なさそうにする兄に、央丹は笑って返した。
「なに言ってるの。一番大変なのは兄上たちでしょ」
宇羅の大きな背中を、ずっと見てきた。彼が多くの重責を背負ってくれたから、央丹は自由にやれた。自分の才能が早くから花開いたのも、兄が守り支えてくれたからだ。
だから今度は、自分が支えたい。
「百鬼夜行を止められるのは、兄上と義姉上だ。だから僕は信じてる。うちは心配いらないよ」
任せてよ、と胸を叩くと、宇羅は力強く頷いた。
「ああ、頼んだ」
どんどんと押し寄せる怨泥に向かって、央丹は指を構えた。指先に炎球が渦巻き、質量を増していく。
「正直、僕は待機組がよかったんだよね」
炎が弾ける直前。央丹はいたずらっぽく笑った。琥珀の瞳が敵をとらえる。
「ここなら思う存分暴れられるしね。久々に楽しめそうじゃん?」
ばん、と音が鳴る。黒がまた爆ぜ、黎明の空を明るく照らした。
◆
離れの村へ到着した阿久良は、周囲を見渡した。
被害が大きいと予測されたこの場所は、人や家畜、付喪神をはじめとする妖たちの避難を終えていた。
「阿久良様」
三人の家来が音もなく駆け寄り、ひざをつく。ふだんは影となり動くこの三人と決戦の時を待つ。顔を上げた家来の視線が、ふと阿久良の左手首に落ちた。
「……阿久良様、その紐は?」
問いかけに、阿久良がぴくりと揺れる。
「気にするな。持ち場につけ」
「は、はっ!」
短く答え、三人は瞬時に姿を消した。
『無事を祈っていても、いいですか?』
阿久良の脳裏に、澄子の声と震えた手が浮かぶ。
赤い組紐の結び目はやや不格好で、だからこそ、ぬくもりを感じさせた。この紐が結ばれた瞬間、阿久良の中にはじめて、生還の二文字がよぎった。
宇羅に救われたこの命は、鬼灯條に捧げると決めている。宇羅のために生き、宇羅のためなら死ねる。それは今も変わらない。けれど。
離れたところでひとり駆けまわり情報を集め、今回の戦術の一助となった、人間の澄子。狐火を可愛がり、いつも明るくあいさつをしてくれた。会えばほんの二、三言話すだけの関係だったが、それが口下手な阿久良にとってはありがたかった。
その澄子が無事を願って組紐を渡しに来てくれるなんて、考えもしなかった。
『澄子さんが、つけてくれますか』
阿久良はあのとき自分の口から出た言葉に、澄子以上に驚いていた。
大きく見開かれた澄子の瞳、うつむいたときのまつ毛、手首に触れる震えた指先を思い出す。阿久良は無意識に手首を撫でた。
澄子は阿久良に、なにも求めなかった。ただ祈らせてほしい、それだけ。
「また」なんて台詞を、自分が言うとは思わなかった。再会を約束したのなら、生きて戻らねばならない。次に会えたら、彼女になんと声をかけよう。
遠くの空でなにかがうごめく音がして、黒い点が近づいてきた。それはだんだんと大きくなり、襲い来る怨泥の姿がはっきりと見えた。
阿久良は息を整え、面に触れて狐火に呼びかけた。
「狐火、来い」
ぼう、と小さな光が集まる。狐火たちが円を描き、金色の光を放ちながらひとつの姿へ収束していく。そうして一匹の大きな白狐が現れた。毛並みは雪より白く、金色の目が鋭く光る。阿久良はその背中に乗り、空へ上がった。
手首を見る。赤い糸で編まれた、澄子の祈り。それをしばらくのあいだ黙って見つめ、唇に寄せて結び目にそっと口づけた。視線を上げた翡翠の瞳が、前方の闇を射抜く。
「——行くぞ」
白狐が甲高く鳴き、跳ぶ。黒と白が、ぶつかった。
◆
支都禰は光の盾を咲かせ続け、神木からあふれ出す怨泥を抑えようと奮闘していた。
配下たちもそれぞれ術を駆使している。少しでも勢いをそぎ、各地で闘う仲間の負担を減らすため、一丸となって闘う。そこに轟音が響いた。
「宇羅さん……!」
支都禰の視線の先で、炎と氷が激突していた。
鬼と天狗。強大な一族の生まれである二人から、次々と術が繰り出される。炎が網を張るように広がり、空から降り落ち大地から突き出る氷を焼いていく。ぶつかり合うたび空気が震え、森が揺れた。
下手に近づけばそれだけで破滅へと繋がるほどの力の衝突。助太刀に入ればかえって足手まといになる。宇羅が司箭院を抑えているあいだに、神木をどうにかしなければ。支都禰は正面に向き直り、怨泥を押し戻した。
「父のような強さも、弟のような才もない。それなのに、ただ長男というだけで輝かしい未来が約束される」
嘲笑と共に、無数のつららが宇羅を襲う。
「醜い人間に取り入り、弱い者どもを守って悦に浸る。用意してもらったぬるま湯につかるだけの身分は、さぞかし気持ちがいいだろうなぁ?」
「……よくまわる口だな」
言い返しながらも、宇羅の炎が一瞬揺れる。言葉と氷は呪いのように、的確に炎の割れ目を狙ってきた。
「お前が自力で得たものはなんだ? やれ逸材だ秀才だなどと、くだらない。お前が次代の長だなんて、たかが知れるな」
勢いを増す氷の刃に、宇羅は小さく舌打ちをした。この男は、どうやら言葉で斬るのがうまいらしい。
支都禰は黙っていられず、思わず叫んだ。
「——ちがう!」
司箭院は知らない。宇羅がどれだけの重責を負ってきたか。自分自身を律し、身を削ってきたか。生まれたときから用意されていたのは、ただ輝くばかりの椅子ではない。あまりに大きく重い継承。その座まで歩むこれまでの道のりが、どれほど茨の道であったかは計り知れない。
きっと真面目な宇羅は、挑発とわかったうえで傷ついてしまう。宇羅が朱天と央丹へ抱く思いを、支都禰はこれまでの日々で理解していた。
「あの重責をぬるま湯だなんて言うあなたこそ、くだらない」
支都禰の言葉に司箭院は目を細め、苛立たしげに手をかざした。支都禰を狙った氷の刃は、すぐさま宇羅の炎によって消された。
「すべて背負って歩んできた宇羅さんが——次代の長だ!」
支都禰の高らかな叫びに、司箭院の表情がわずかに歪む。
