鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 山の空気は、肺の奥を刺すようにつめたい。
 宇羅と支都禰を先頭に、鬼灯條家と阿曽宮家の配下の者たちが山頂へと向かっている。足元の雪は乾いた音を立てる。吐息は白く、まつ毛まで凍るのではないかと思えるほどの冷えが辺り一面を覆っていた。
(こんな、怨念の気が濃いなんて)
 いただきへと近づけば近づくほど、息の詰まりそうな感覚に肌が粟立つ。
(母さん)
 支都禰はあせりを募らせた。これだけのものを、母は今まで、たったひとりで抑えていた。いつ限界がきてもおかしくない。
「支都禰」
 隣を歩く宇羅が支都禰の身体を引き寄せる。足元を見ると、大きな倒木が横たわっていた。
「気持ちはわかるけど、あせらないほうがいい」
 手を引いて支えながら、宇羅は落ちついた声で話した。その側頭部の鬼面の角が、暁の光を受けてきらりと光る。
「……はい」
 山頂の森に着くと、異様な光景が目に飛び込んできた。木々はぐにゃりと歪み、夜明けにしては薄暗い。雪の白と黒い木々。水墨画のような景色の中を、一行は慎重に進む。

 視界が開けて、支都禰たちはついに神木へとたどり着いた。
 歴史の重みを感じさせる太い幹はひび割れ、まるで病み腐ったように黒い澱で覆われている。根元には怨念の渦が巻き、雪すら黒く染めた。ささくれ立ったしめ縄は途中で千切れ、力なく垂れている。
 息をするたび喉の奥が苦しくなるほど禍々しい気配を放つ神木の幹の中ほどに、玉藻の狐面がついていた。雪を被り傾くそれは、必死にその場にとどまっているかのように見える。
「母さん‼︎」
「待て」
 支都禰が飛び出しかけた瞬間、宇羅が腕で遮った。その眼差しは見たことがないほど鋭く、怒りの炎が燃えている。
 宇羅の声に、神木の裏からあの男が現れた。
「来たか。鬼灯條の、麗しき若殿」
「……司箭院」
 宇羅の声に怒気がこもる。司箭院は氷の瞳を細め、凍てついた笑みを浮かべた。
「君たちにどうしても見せてやりたいものがあってね。待ちくたびれたよ」

 司箭院が手に持っていた縄を引っぱると、縄でくくられた女がどさりと雪の上へ倒れ込んだ。
「——っ」
(なんで、あの人が)
 思わず口元を押さえよろめいた支都禰を宇羅が支え、けわしい表情で女を見すえた。
「……あれは」
 顔を上げた女は、初子だった。髪や着物は乱れ、ぼんやりと口が開き、瞳は暗い。口の紅はよれ、吐血したような線を描いていた。
 鬼灯條家に監視されているはずの彼女が、なぜここに……。疑問を遮るかのように、狂った笑い声が森に響いた。
「あは……あはは、ほおら、継信さん。やっと帰ってきてくれたんだねぇ……?」
 初子は焦点の合わない眼差しで宇羅の面を見て、隣の支都禰へ視線を移す。狐面を見たとたん顔を引きつらせ、敵意をむき出しにして叫んだ。
「お前ぇ!」
 支都禰の肩が跳ねる。宇羅がかばうように支都禰の前に立った。
「この女狐、化け物‼︎ 継信さんはあたしの——」
 言葉が終わるより早く、初子の目の前に炎が迫る。鼻先を焼く直前、地面から氷の針が伸びた。炎と氷がぶつかり、互いに弾ける。
「黙れ。これ以上、支都禰に汚い言葉を投げるな」
 手をかざし、宇羅が低い声で刺すように告げた。その視線は、初子から司箭院へと移される。司箭院はズボンのポケットに手を入れたまま、平然と肩をすくめた。
「おやおや、物騒な。美しい婚約者様の親族に炎を向けるだなんて」
「……」
 挑発にはのらず、宇羅がにらみつける。

 初子は壊れたように継信の名前を呼び続けている。
「継信さん。ああ、愛しのあなた……」
 支都禰の脳裏に、主治医の言葉がよみがえる。
『呪いといっても、ひとえに恨みだけではないのです。強い執着が呪いに変わることもある。愛ですら、呪いとなることもあるのですから』
(父さんを呪ったのは、初子さんだった)
 抱きしめた小さな父の身体を思い出す。父から自由と健康を、面打ちを奪った元凶が、こんな身近にいたなんて。
『愛しのあなた』
 初子の言葉に吐き気がした。
「これが……愛?」
 父をあんな身体にしておいて、なにを言っているんだろう。そのせいで父は、生きがいだった面打ちすらできなくなったのに。

 初子は縄に縛られたまま、司箭院をゆるゆると見上げた。子どものような声で、すがりつく。
「ねえ、継信さんのところへ行かせておくれよ。約束したじゃないか……」
 司箭院は面倒くさそうに初子を見下ろしあざけった。
「ああ、会えるさ。来世でな」
「へ?」
 初子の顔が固まる。くくりつけられた縄が、みしみしと揺れた。
「らい、せ……?」
「そろそろ支払い(・・・)の時間だ。魂を差し出すと約束しただろう。……このすばらしき日の生贄となれることを、光栄に思うんだな」
 呆然とする初子の眼前に顔を近づけ、司箭院はにんまりと笑った。
「愛する男のそばにいられて、望みは叶っただろう?」
「で、でも。まだ、継信さんと——」
「あの男を死の淵に追いやったのはお前じゃないか。死によって永遠の愛が完成するなんて、浪漫だと思わないか?」
 ねっとりと謳いあげ、司箭院は大仰に手を広げた。初子の喉から、言葉にならない声がもれる。神木の枝に積もっていた雪が、初子の頭にばさりと落ちた。

 そのとき、背後の雪が、きし、と鳴った。
 支都禰が勢いよく振り返ると、雪起が木に手をつき、息を切らして立っていた。草履は雪に濡れ、着物の裾には泥が跳ねていた。
「雪起……⁉︎」
「お、お母様が急に出て行ったから、あたし……」
 か細い声に顔を上げた初子は、目を輝かせ身を乗り出した。
「雪起、ちょうどいい!」
 縄に縛られた身体をよじり、初子が嬉しそうな声をあげた。縄と神木がぎしぎしと揺れ、雪が周囲に落ち、怨念で黒く染まり溶けていく。
「ほら、あの子を身代わりにして!」
 そして雪起のほうを見て、慈悲深い笑顔で語りかけた。
「愛する家族のためならできるよね、雪起?」
「そ、んな」

 雪起の顔が悲痛に歪むのを見て、支都禰の堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にして!」
 支都禰は一歩、前へ出た。激しい怒りが渦を巻く。つめたいはずの森の中で、腹の底が燃えるように熱い。
「うるさい! あたしの継信さんを奪いやがって。……お前を殺さなかっただけ感謝して、引っ込んでな!」
 支都禰ははっきりと理解した。この感情は、純粋な怒りだ。理不尽に奪われたものへの怒り。誇りを踏みにじられた怒り。以前耐えるだけだった自分とはちがう。
「父さんはあなたのものじゃない!」
 支都禰の怒声に初子の顔が歪んだが、かまわず続けた。
「勝手な思い込みで私たち家族を苦しめて、実の娘まで傷つけて。私は絶対に、あなたを許さない」
「お前に許される筋合いはないね! あたしの愛は——」
「それは愛じゃない。ただの呪いだよ」
 初子がしてきたことは、父の尊厳を奪う行為だ。そして実の娘の雪起ですら利用しようとしている。大切な人の生きがいを、誇りを奪う行為を、愛だなんて言わせたくない。
 この手で終わらせる。強い決意を黄金の瞳に宿し、初子を鋭く見据えた。
「その呪い、断ち切ってやる!」

 それまで黙っていた司箭院が、ゆっくりと拍手した。残響が夜明けの森に響く。
「ご高説をありがとう、お嬢さん」
 そして宇羅を見て、大げさに肩をすくめた。
「ほら見ろ、人間はこうも愚かだ。己の欲しか見えない、救いようのない馬鹿ばかり」
 宇羅の目が細くなる。紋様が立ち上がり、炎の糸がゆらりと編み上がっていく。
 司箭院はそれを気にするそぶりを見せず、愉しげに続けた。
「だからこそ強き者——妖が頂点に立ち導いてやらねばならない。鬼灯條、お前らが『共存』なんてぬかした結果が、この腐臭を育てたのだよ」
 氷の視線に射抜かれ、支都禰は身構えた。なめまわすように支都禰の身体をなぞり、せせら笑った。
「——しょせん君も混ざりもの。玉藻には到底およばぬ、でき損ないだ」
「……!」
 絶句した支都禰の瞳が揺れたとき、視界が宇羅の背中で覆われ低いつぶやきが聞こえた。
「うるさい」
 炎が伸びて空気を裂き、雪がわずかに軌道を変える。迎え撃つように現れた氷が砕け散り、司箭院の足元に突き刺さった。
「もう、なにも言うな」
 静かな声に怒りが圧縮されている。
「玉藻と支都禰は別の存在だ。支都禰には、彼女だけが積み重ねてきたものがある」
「……ああ、そのがさついた手、確かに玉藻と雲泥の差だな。夜会のとき心底萎えたよ。だが、そうだなあ……」
 司箭院は心底おかしそうに笑い、うーん、と、あごに手を当てて考えるそぶりをする。そして唇に指を添えて、ねっとりと笑った。
「唇を奪って、その感触も確かめればよかったかな?」
 ぞわりと炎が歪み、森が震えた刹那。支都禰は宇羅の背中に飛びついた。まわす腕に、力を込める。
「離して支都禰。君を侮辱したんだ、焼き尽くしてやる」
 宇羅の声は低く震え、足元から立ちのぼる炎は蛇のようにのたうちまわっていた。
「宇羅さん、だめ」
 背中に頭をこすりつけ懇願する。挑発にのってはいけない。それこそあちらの思うつぼだ。けれど宇羅の身体は燃えるように熱くなり、周囲の配下たちまでその圧にのまれ、うめき声をあげている。
「頼むから。支都禰は目をつぶってて」
「ただの挑発です!」
「挑発だろうがなんだろうが……!」
 ふだん冷静な宇羅が、激しい怒りで震えている。どうにか止めたくて、支都禰は無我夢中で叫んだ。
「行かないで、宇羅!」
 その言葉に、炎がぴたりと止まった。宇羅の表情はこちらから見えないが、ひとまず落ち着いてくれたようだ。炎が紋様を美しく編み直すのを見て、支都禰はほっと息をついた。

 司箭院はつまらなそうに鼻を鳴らし、ほうけている初子へと歩み寄る。
「さてと、もう十分待ってやった。余興は終わりだ」
 継信の名をくり返すだけになった初子の髪をぞんざいに掴み上げ、にやりと笑う。
「さあ、始めようか」
 その言葉と同時に、司箭院が初子のみぞおちに手を突っ込んだ。ぐにゃりと腕がのみ込まれ、中のなにかがカチャリと音を立てる。
「ぁ、あああああ!」
 次の瞬間、初子の絶叫が響き、辺り一面が揺れた。初子からどす黒い怨泥があふれ出し、周囲を埋めるように広がっていく。
「——っ」
 支都禰は宇羅に抱き寄せられ、うしろで配下たちがよろめいた。宇羅の腕の隙間から見える光景に、支都禰は声にならない悲鳴をあげた。
「……!」
 初子の身体がけいれんし、糸が切れたように崩れ落ちた。司箭院は手を引き抜き、満足げに頷く。
「これで、人柱が立った」
 神木の狐面ががたがたと震え、神木の根元からどろりと怨泥が噴き上がった。黒い渦が雪を蹴散らして白み始めた空へ伸び、枝から枝へ絡みつく。遠くへ、さらに遠くへ。枝の先から森を飛び出し、四方八方へ飛んでいく。
「さあ」
 司箭院が両腕を広げた。氷の瞳が、狂気の光を宿す。
「百鬼夜行——宴の始まりだ!」

 支都禰は宇羅と視線を交わした。髪の隙間にのぞく赤は、いつもの力強さをたたえて火をともす。
「行くぞ!」
 宇羅の合図で全員が動き出す。
(——母さん。待ってて)
 今日この手で呪いを、悲劇を終わらせる。支都禰は穢れた神木へ向かって駆け出した。