鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 神木のありかが判明したのは、夜明け前だった。その気配は突然現れ、風のように広がった。このあたりでいつも最初に冠雪を記録する山。その山頂付近に、神木があるらしい。なぜ今まで見つからなかったのかといえば、玉藻が怨念を抑え込んでいたからだろう。それはつまり、玉藻の限界が近いことを意味していた。
 鬼灯條の屋敷はすでに明るく、廊下にいくつもの足音が行き交う。あせって踏み込めばこちらが餌食となり、百鬼夜行を織りなす一体となってしまう。鬼灯條家と阿曽宮家を筆頭に、態勢がすみやかに整えられていった。
 すでに包囲された司箭院家では、政元の姿だけがどこにもない。親族は皆なにも知らされておらず、新たな情報を得ることはできなかった。
 きっと、彼は神木のところにいる。
 決戦の刻が、迫っていた。

   ◆

 支都禰は扉の前で立ち止まり、ふーっと息を吐いた。
(よし)
 心の準備をして、戸を叩く。
「父さん、入るね」
 部屋に満ちる薬草の香りが、むわりと流れ込んできた。慣れてきたはずなのに、今日は妙に胸にくる。
 継信は上半身を起こして待っていた。
「そろそろ来るかと思っていたよ」
 以前よりさらにやつれてしまい、近ごろはこうして話すことも難しい日々だった。こんなに意識がはっきりとして、身体を起こせているのはいつぶりだろう。
 支都禰は慌ててベッドの横に駆け寄った。
「父さん、起きてて平気なの?」
「ああ。今日はなんだか、調子がいいから」
「……そっか。よかった」
 本人の言うとおり、継信はいつもとちがった。瞳には力強い光が差し、顔色もそれほど悪くない。
 すぐ横の机には、このあいだ支都禰が大社から持ってきた鬼の面が置かれている。この面が、父の気力を取り戻してくれたように感じた。

「なにか、話があるんじゃないか?」
 切り出したのは継信だった。せかすでもなく、じっと支都禰を見つめている。
 支都禰は呼吸を整え、まっすぐ父と向き合った。
「母さんの居場所が、わかったよ」
 その言葉に、継信はわずかに口を開け、瞳を揺らした。
 けれど、それだけだった。光がやわらぎ、静かにほほ笑む。
「……そうか」
 それ以上なにも言わない継信の手をぎゅっと握る。勘のよい父のことだから、すべてを察しているにちがいない。
「私、迎えに行ってくる。かならず、連れて帰ってくるから」
 安心してほしくて、心配をかけたくなくて、気丈な娘でいたかったのに、声が少し震えてしまった。
 継信は頷いて、支都禰の手を引き寄せた。
「支都禰」
 ふわりと父の腕に包まれる。いったいこの細い身体のどこに、これほどの力を残していたのだろう。力強く抱きしめられ、支都禰は涙をぐっとこらえた。
 骨ばった背中に手をまわす。ずっと追いかけてきた大きな背中が、今は自分の腕に収まりそうなほど小さくなっていた。
「支都禰なら、絶対大丈夫だ」
 抱きしめたまま、継信がはっきりと告げる。
「……それ、いつもの直感?」
 少しおどけて言うと、身体を離した継信と目が合った。支都禰の顔立ちは母によく似ていたが、瞳の形だけは父譲りだった。その目を細めて、継信が笑う。
「ああ」
 支都禰は笑って頷き、継信の胸に顔をうずめた。

   ◆

 阿久良は渡り廊下に立ち、ひとつ息を整える。最後の準備に向かった宇羅と支都禰を待っていた。腰につけた狐面に触れたとき、予想外の声がかかる。
「阿久良さん」
 思いがけない声に振り向くと、澄子が遠慮がちに立っていた。阿久良は一瞬目を見開き、いつもの調子に戻って会釈し、洋館の向こう側を示す。
「支都禰様でしたら、今は宇羅様とあちらで——」
「いえ。私は阿久良さんに……用があって」
「……俺に?」
 阿久良は示した手で、思わず自分を指さした。
「あの……。これを」
 澄子は一度深呼吸をしてから、手を差し出した。
「……これは」
 澄子の手のひらに乗っていたのは、編み目が波打つように不ぞろいな一本の赤い組紐だった。意図をはかれず、阿久良は視線を組紐から澄子へと戻す。
「お守りにと編んだんですけど、不器用で……」
 震える声に、阿久良の瞳が揺れた。廊下の灯りがゆらりと揺れ、刹那の静寂が二人を包む。
「阿久良さんが道を照らして悪夢から助け出してくれたから、私は夢を諦めないでいられました。たまに会えたときの些細なやり取りも嬉しくて。だから、えっと……」
 とくんと、胸の音がする。それはどちらの音だろう。
 顔を上げた澄子と目が合う。
「これからも今いる場所で、できることをがんばります。そこから、阿久良さんの無事を祈っていても……いいですか?」
「————」
 阿久良は目を見開き、遠い昔、満月の夜を思い出す。
『これからはお前の力を、誰かを護るものに変えてみせるから』
 月明かりの下で差し出された、幼い主の手。その光景に、目の前の澄子の震えた手が重なった。

 長い沈黙に、澄子は視線を落とす。頭の中で激しい後悔が渦巻いた。
(あー。……言うんじゃなかった)
 直前まで、悩みに悩んだ。この想いを伝えるべきか。澄子は夢見がちではあるけれど、夢物語にうつつを抜かすほどおめでたくはない。だからこの恋が実るなんて、かけらも思っちゃいなかった。
 けれど。決戦を前に、無事を祈って贈り物をするくらいなら許されるのではないか。そんなことを考えて、慣れないことをしてしまったのだ。出しゃばりすぎた自分の愚かさに腹が立ってきて、手を引こうとしたとき。小さな小さな声がした。
「ありがとう」
 弾かれたように顔を上げると、いつも表情を崩さない阿久良が薄くほほ笑んでいた。
(笑っ——⁉︎)
「俺も、不器用だから」
 阿久良がそっと、左手を差し出した。
「澄子さんが、つけてくれますか」
「——えっ?」

 二人のあいだに、静寂が満ちる。
 震える手で、澄子は組紐を阿久良の手首に回す。指先が阿久良の肌に触れるたび、心臓がうるさく鳴った。
 阿久良の視線が自分の指先に絡むのを感じて、なにがなんだかわからなくなった。これは夢だろうか。
 何度かまごつきながら、ようやく結び目を作った。ほどけないよう、息を止めながらぎこちない手つきで強く結ぶ。糸がぎゅっと締まり、組紐は阿久良の手首の上で円を成した。
「で、できました。……そろそろ、時間ですよね」
 澄子が一歩引くと、阿久良は短く一礼して歩き始めた。数歩進んで、止まる。
「澄子さん」
「は、はいっ」
 とっさに背筋を伸ばした澄子に阿久良は少しだけ振り返り、小さく告げた。
「では、また」
 それははじめての、次への約束だった。澄子は目が潤むのを感じながらぐっとこらえ、笑顔で見送る。
「……はい! お気をつけて」
 軽く会釈し、そのまま阿久良は歩き出した。その手首から、結びたての赤がのぞく。
 澄子はその場に立ち尽くし、胸の前で指先を握りしめた。灯りがゆらゆらと、狐のしっぽのように揺れていた。

   ◆

 工房には、いつもの香りが漂っている。
「支都禰。用って、なに?」
 宇羅が首をかしげる。出発前の貴重な時間にも関わらず、ひとこと「ついてきてほしい」と言った支都禰の言葉を、二つ返事で承諾してくれた。
「じつは、渡したいものがあって……」
 支都禰は棚の奥から箱をふたつ持ち出し、片方を宇羅の前で慎重に開けた。
「これは……」
 宇羅が息をのむ。支都禰が打った、新たな鬼の面が姿を見せた。朱を深めたような色に、すべてを見通す金色の目。目と同じ色の二本の角は、全体に模様が彫り込まれている。わずかに開いた口から金の牙が生えていた。その彫りの深い表情は荘厳さをたたえ、左目から頬にかけて、宇羅の術に似た紋様が描かれていた。
 揺れる灰と赤の瞳が支都禰を映した。
「——俺の?」
「はい」
 支都禰は頷いて、面を差し出し、ほほ笑んだ。
「宇羅さんを想って、打ちました」
 面が、支都禰の手から宇羅の手へと渡る。
 そして支都禰はもうひとつの箱を開け、取り出したものを宇羅に見せた。
「私の面と……対なんです」
 白い狐面は、支都禰が自分自身に打ったもの。とがった耳と切れ長の目は金色で、目元と口元には朱が引かれている。額には光の盾が咲き、右頬のあたりに、鬼面と同じ紋様が描かれていた。
 赤と白。鬼と狐。異なるふたつの存在が、ひとつの物語を描き出している。
 宇羅の指が、頬の紋様をなぞった。
「……すごい」
 唇から、かすれた声が出る。
「すばらしい面だ。……俺にはもったいないくらい」
「そんなこと、ありません」
 支都禰はきっぱりと告げ、首を振った。そして息を吸い、絡まる思いをほどいて、言葉を紡ぐ。

「宇羅さん、出会ったときからずっと、私を大切にしてくれて、ありがとう」
 目をそらさず、まっすぐ伝える。この気持ちが、ぜんぶ彼に伝わるように。
「私の誇りを守ってくれて、この手を離さないでいてくれて」
 最初の出会いから今日までが、走馬灯のように流れていく。話すたび目の奥が熱くなって、喉がつまりそうになる。どれだけ言葉を連ねても、それでも足りない。庭園の東屋で気持ちを通わせてからも、この想いはあふれるばかりで。内側で大きくふくらみすぎたこの感情を、どう表現したらいいだろう。
「この先のどんな困難も、宇羅さんと一緒なら乗り越えられる」
「————」
 宇羅はなにか言いかけ、やめた。支都禰の言葉を待ってくれている。
(今日こそ、ちゃんと、ちゃんと伝えよう)
 支都禰は宇羅へと一歩近づき、溜めていた想いを口にした。
「宇羅さんが好きです」
 工房に満ちた静謐が、やわらかく広がる。
 宇羅は涙をこらえるかのように、くしゃりと笑った。
「……夢みたいだ」
 その笑顔が幼くて、支都禰の心をぎゅっと掴んだ。
 宇羅は面を胸にやり、支都禰の手を取って頬に寄せた。触れた場所から、宇羅のぬくもりが伝わる。
「俺も、君と一緒に未来を描きたい」
 手を組み、握り合う。宇羅がふっと表情をやわらげた。

「支都禰、頼みがあるんだけど」
「……なんですか?」
「面を、つけてくれないか?」
 宇羅がひざを折り、身を低くして鬼面を差し出す。その光景は、神聖な儀式の一幕のようだった。
 支都禰はそっと狐面を置いて、宇羅から鬼面を受け取った。面を添え、赤い面紐をうしろへまわす。さらりとした黒髪の感触に、指先がぴくりと反応した。宇羅はまつ毛を下げたまま、じっと動かない。慣れた手つきで紐を結び、支都禰はゆっくりと手を離した。
「……できました」
 宇羅が立ち上がり、鬼面に手を添える。
「ありがとう。……君には、俺がつけても?」
「もちろんです」
 支都禰は身をかがめ、頭を下げた。面が当たる感触がして、そのあと、宇羅の手が耳の上を通る。額のあたりに、宇羅の吐息がかかった。高鳴る鼓動の音を確かめながら、支都禰は目を閉じ、待った。
 先ほどより少し時間をかけて、赤い紐が結ばれた。ぬくもりが静かに離れる。

 二人だけの、誓いの儀式。
 宇羅は支都禰の頬を包むように持ち上げた。向き合う二人の視線が絡まり、結ばれる。
「支都禰。君を愛してる」
「私も、あなたを愛してます」
 黄金の輝く瞳に、愛しい人の顔が映る。
 ゆっくりと顔を近づけ、そのまま二人は、唇を重ねた。そっと離し、額をつけ合う。互いの吐息が混ざって、部屋にほどける。
 支都禰の目から一筋の涙が流れるのを見て、宇羅が短く笑った。親指で涙をぬぐい、手を差し出す。
「……行こう」
 差し出された手は、はじめて握手をしたあのときと変わらない。
「はい」
 手を重ねれば、よく知るあたたかさが支都禰を包んだ。
 二人は手を取り合い、工房を出た。