鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 凍てつく風の中、司箭院は寒さも忘れ、神木を見上げている。以前より穢れが深まり黒い澱が幹を這い、根元のほうで渦を巻く。狐面は薄く雪を被り、わずかに傾いていた。
「——あの小娘。やはり、たいして使えなかったな」
 うぬぼれて独りよがりな、哀れな女。ほんの少し焚きつけただけで、自分を救世の乙女とでも勘違いしたのか舞い上がっていた。天狗面を奪わせるなど手足として使役するにはよかったが、まさか白木支都禰に情報をもらすとは。口封じをしようにも、監視の目がある中で消してはまずい。
(まあ、もういい。わかったところで、もう手遅れだ)
 幹に触れ、その中でうごめく感触に愉悦の笑みがこぼれる。
「玉藻も往生際が悪いことだ」
 狐面に触れようとすると、びり、と刺激が走り弾かれる。その痛みすら心地よい。指先をうっとりと見つめ、ひとりほほ笑んだ。
「……だが、もう終わりだ」
 愚かな連中が動くころには、すでに世は混沌の中にあるだろう。司箭院は、すぐ目の前に迫る変革の予感に身を預けた。

 司箭院政元は三大妖怪のひとりとして、妖のために生きてきた。
 けれど、同じ志で走る先達の背中はいつも遠かった。
 鬼灯條朱天。
 以前は能面のようだった朱天の強さと才の前で、司箭院の努力は簡単にかすんだ。血を吐くほどの思いで積み上げたものが、あの男の一歩にすら届かない。
 その朱天の隣に、玉藻がいた。なににも縛られず自由で、妖の世に収まらない器。二人への憧憬と追いつけない焦燥が、胸の奥で泥のように混ざった。どれだけ朱天に導かれ、玉藻に弟分のようにかわいがられても、彼らと共に「三大妖怪」と謳われても。真に二人と肩を並べることはできない。いつからか、朱天への嫉妬と玉藻への思慕がふくらみ、どうしようもなくなった。
 人を信じた時期もある。けれど身勝手な彼らは感謝を伝えたその手で石を投げてくる。ていよくすり寄ったと思えば、すぐ欺く。妖の中にさえ、「人間なんぞに媚びた臆病者」と揶揄する者がいた。
 やがて朱天は基盤を固め伴侶を得た。玉藻ではない女だ。それからは肩の力が抜けたかのように感情を取り戻し、今のようなおめでたい性格になった。二人の優秀な息子に恵まれ、その地位はさらに磐石となった。すべてを手にした男。司箭院は内なる黒い羨望と闘っていた。
 なにを信じ、進むべきか。司箭院が道を見失いかけたそのとき、玉藻はふっと姿を消した。誰にも、なにも告げずに。風のようなやつだからしかたないとほほ笑む朱天に、はらわたが煮えくり返りそうになった。玉藻は、この煮詰めた思いに気づくことなく消えた。自分が彼女にとってその程度の存在だったことが、司箭院を苦しめた。
 泥をすすり、頭を下げ、人の世の礼儀作法を覚え、さまざまな言葉と感情をのみ込んだ先で、司箭院は見つけてしまった。探し続けた最愛の存在——人間の男の隣に立ち、幸せそうに笑う玉藻を。そしてその腕に抱かれる、彼女に瓜ふたつの赤子を。強く美しい彼女に、こんな腐った幸せは似合わない。
 司箭院の中のすべてが音を立てて崩れ落ち、彼は破壊を選んだ。強い妖の世を取り戻し、玉藻を迎えるために。
 百鬼夜行をこの世にふたたびよみがえらせるべく、妖たちをそそのかし、絶望をあおり怪異と変えた。そうして悲劇を起こし、さらに怨念を集める。
 そうしていたら驚くことに、玉藻のほうからやってきた。彼女が神木のふもとに立つ自分を見つけたときの、絶望に満ちた表情。その美しい顔が歪むのを見たとき抱いた欲情を忘れられない。
「もう少しだ玉藻。もうすぐ、私たちの世界が完成する」
 幹を撫でると、雪のかかった狐面が、震えるように揺れた。

   ◆

 雪起は、北風に吹かれながら家路についた。
 あのあと大社で鬼灯條家の配下に捕えられたが、脅威なしと判断され、解放された。すでに戦意を喪失し、加護の力ももうほとんど残っていない。しばらく監視すると告げられるあいだも、なんの感情も湧かなかった。
『それぞれの道で、生きていこう』
 支都禰の言葉を反芻し家の扉を開けると、湿った畳の香りと破れた障子が雪起を出迎えた。母——初子がまた荒らしたのだろう。
 支都禰に喫茶店で別離を告げられたあの日から、初子は取り憑かれたようにおかしくなっていった。雪起は母を刺激しないように日々をやり過ごした。あまりに息苦しくて、友人のいる学校のほうがよっぽど心地よいくらいだった。
 居間へ向かい障子を開けようとしたとき、向こう側から甲高い笑い声がした。思わず手が止まる。雪起はゆっくりと深呼吸をして、障子を開けた。
「……お母様」
 初子は鏡台の前で髪をとかし、白粉を叩き、口に紅を引いていた。どこにも行かぬというのに。
「おかえり。遅かったじゃないか。継信さんはまだ帰ってないよ」
 鏡越しに、焦点の合わない目がにんまりと三日月を描く。初子の鼻歌を聞きながら、雪起はひざをつき、震えを押し殺した。
 今日なら、伝えられる。今日こそ、言わなければ。
「……もう、やめようお母様。継信さんは帰ってこないわ。支都禰も」
 初子の手が止まり、鏡越しに雪起をとらえる。子どものようにきょとんとし、首をかしげていた。
「なにを言ってるんだい?」
「二人のことは忘れて、私たちだけで静かにやり直さない? そうすれば——」
「やり直す?」
 初子は鼻で笑い、雪起に顔を近づけた。鼻を刺すような強い香りが漂ってきた。
「雪起。あんた、なんにもわかっちゃいないね。継信さんはあたしのものだ。帰ってくるに決まってる」
「どういう、こと……?」
「そりゃあもちろん、あたしたちは運命で結ばれているからさ」
 わけがわからず固まる雪起を無視して、初子は夢心地で語り始めた。

 初子と継信は、幼馴染だった。
 初子は継信の素朴で柔和なところと、面を打つときに見せる精悍さが、物心ついたときから好きだった。一度もよそ見をせず、継信だけをひたむきに想っていた。
 そんなある日、継信が変わった。以前よりさらに面打ちにのめり込み、依頼のもの以外は狂ったように狐面ばかりを打ち続けた。声をかければいつもの継信だったが、面にかける思いは人並み外れていた。
 あまりに打ち込むのが心配で問いただすと、女神のような存在に出会ったという。創作意欲が湧き、どうにか彼女を表す面を打ちたいのだと熱く語られた。心酔しきった口ぶりに、初子は「その女は女狐の間違いではないか」と言いかけ、やめた。

 しばらく経ち、継信は結婚した。紹介された伴侶はこの世の人とは思えぬ美しさだった。初子はひと目見て理解した。この女が、継信の「女神」なのだと。
 少しでも近くにいるために、好きでもない、さえない継信の弟に嫁入りした。玉藻の妊娠を知ったときは気が狂いそうだったが、はたと思いついたのだ。自分も子を成せば、もしかすると、白木の血の濃い、継信のような息子を産めるかもしれない。それだけの理由で産んだ子どもは、自分に似た女児だった。
 数年後、思いもよらぬ転機が訪れた。玉藻が消えたのだ。用があり、数年は帰らないだろうという継信は寂しげに笑った。励ますふりをして、初子は内心喜んだ。

 それからほどなくして、氷のようにつめたい男が初子のもとを訪れた。相応の対価を約束すれば、初子の望みを叶えてやると。なんでも差し出せると思った。継信と一緒になれるのなら。
 そうして夫は不慮の事故で死に、継信が病に倒れた。ひどく動揺したが、それと同時に、看病をできるのは自分しかいないと気づき、不謹慎だと思いつつも心が浮き立った。
 雪起を連れて継信の家に入り、毎日共にいられる日々を得て、初子は幸せだった。
 継信は何度も遠慮してきたが、とはいえ身体も満足に動かせない状況で初子たちを追い出すこともできない。ましてや支都禰という幼い娘を、その状態の継信ひとりで育てられるはずもない。初子は慈愛に満ちた義妹の皮を被り、家を掌握していった。
 この世でいちばん憎い女にそっくりの娘は気に食わなかったが、継信の手前、ちょっと(・・・・)痛めつける程度で見逃してやった。抵抗しようものなら、継信の名前を出す。するととたんに大人しくなった。
 継信の容態は心配だったけれど、初子はこの日々が、継信の隣にいられる時間が、永遠に続くことを願っていた。
 しかし、あの夜会の夜にすべてを失った。
 雪起をあてがおうと画策していた麗しき後継者の隣には支都禰がいて、しかも、あの女が着ていた振袖を身に纏っていた。初子はそれを見た瞬間、全身の血が沸騰するかのようだった。あと少しで走り寄って髪を掴み、なぎ倒してしまいそうだった。ほんのひと握りの理性で、なんとか抑えた。
 最悪の気分で帰ると門には守衛がいて、家に入ることすら許されなかった。継信について問うても、ここにはいないと言われるばかりで、どれだけ騒ごうと無駄だった。
 結局、渡された最低限の荷物を持って、雪起を連れて元いた家に戻ることになった。初子は絶望に染まり、壊れてしまった。

「継信さんはね、すぐに帰ってくるよ。だって、あたしがそう願っているからね」
「え……?」
 雪起はとめどなく流れる涙をぬぐうことも忘れ、呆然とつぶやく。
 今の話は、ぜんぶ、夢だろうか。自分という存在を証明したくて足掻いてきたのに、生まれた理由すら、過ちだったなんて。心臓が芯から凍りつくようだった。
「大丈夫さ。継信さんはもう、あたしなしじゃ生きていけないはずだからねえ……。あはははははは」
 初子はうっとりと宙に両腕を伸ばす。その手の甲に、草のような刻印が浮き出たように見えた。青白い肌に似合わない、鮮烈な赤い唇が弧を描く。
「ああ、早く帰ってきてちょうだい。あたしはここだよ、あなた(・・・)……」
「お母様……っ」
 初子の高らかな笑い声と、雪起の悲痛な叫びが重なる。雪起の声は、もうひとつも届かなかった。