鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 鬼灯條家の工房に、朝の光がやわらかく降り注ぐ。床の木くずが淡く照らされ、削りたての檜の香りが部屋に満ちていた。
 支都禰は作業台の前に座り、面と向き合った。荒彫りを終え、狐の輪郭を与えられた檜。これは鬼灯條家の庭園の外れにあった檜だ。まだ角ばっている箇所を指先で確かめる。
 ノミを面にあて、こつ、と木槌で打った。薄い木屑が台上にすべり落ちる。写した線に合わせ、慎重に彫り進めた。不規則な打音と、少しずつ削り出されていく輪郭。
(ああ、この感じ……)
 久しぶりの、馴染み深い感触に心が満ち足りていく。

 そこへ扉が叩かれ、宇羅が顔をのぞかせた。
「支都禰」
「宇羅さん」
 怪異が以前より落ち着き、宇羅がこうして工房に足を運ぶことも多くなった。
 いつものように離れたところに座り、手に持っていた書類の束を机に乗せる。支都禰が面を打ち、宇羅がそれを眺めながら雑務をこなすのが、最近の二人の日課になっていた。支都禰は宇羅を見てほほ笑み、面打ちへと戻る。
 面を打つ音、紙がこすれる音、衣ずれと小さな呼吸音。その音色を背景に、二人の時間が流れていく。
 背中越しに感じる静かなぬくもりが、支都禰に寄りそう。孤独に面を打っていた白黒の景色が、木槌の音に合わせて色づき、今の景色へと彩られていく。
 支都禰は道具を置いて面を持ち上げた。日の光が面の鼻筋を浮き出し、薄い影が頬に落ちる。穴を開ける前の切れ長の目が支都禰をとらえた。なめらかな木肌を視線でなぞり、支都禰は大きく頷いた。壁際の棚には、同じ檜から彫り出された面が、布をかけられ眠っている。
 控えめな足音に支都禰が顔を上げると、宇羅がうしろからのぞき込んでいた。
「この狐面、支都禰に似てるな」
「そうですか?」
「ああ」
 面を見つめる支都禰に、宇羅がそっと手を伸ばす。支都禰の肩についていた木くずを指先でつまみとり、小さく笑った。
「少し、休憩しないか?」

 庭園の東屋に木枯らしが吹く。気づけば葉の色は赤や黄から褐色へと変わり、むき出しになった枝が寒そうに震えていた。
「風がつめたいな。中に戻る?」
 支都禰の肩にかかる羽織を直しながら、宇羅が問いかける。
「いえ、気持ちいいです」
「ならいいけど。寒くなったらすぐに言って」
 隣に腰を下ろし、宇羅は庭園を眺める。揺れる髪から、落ち着いた赤がちらついた。枝にわずかに残った葉が、かさかさと音を鳴らす。
 宇羅がふと支都禰の耳元から髪をすくい上げた。宇羅の指のあいだに白銀が流れ、支都禰は耳まで熱くなる。あれから宇羅は、ためらいなく触れてくるようになった。その頻度こそ多くはないけれど、今までの距離を思うと胸の奥がくすぐったい。
「色、変わったままだな」
 言葉につられ、宇羅の指にかかる髪を見る。宇羅と盟約を交わしたあのとき、灰色から白銀へと変わった髪は、そのまま戻ることはなかった。
「はい。……前は面を打つときだけ変わってたみたいで」
『あんたこそ、化け物よ!』
 雪起に叫ばれた日が遠い昔のように感じる。あのとき向けられた恐怖と怒りに対する痛みは、もう薄れていた。
 風が吹き、白銀の髪がふわりと揺れる。宇羅の手がそれを押さえ、支都禰の頭をやさしく撫でた。視線が絡みほほ笑まれ、支都禰は思わず胸に手を当てた。鼓動があまりに大きく響いて、宇羅まで聞こえてしまう気がした。
「前もよかったけど……今の輝く髪も、綺麗だよ」
 以前、テラスでもらった言葉が頭の中に響いた。
『輝きを秘めてる』
 あのときテラスで触れられなかった髪に、今は宇羅の手が届いている。支都禰は照れを隠すように、羽織をかけ直した。

「——支都禰」
 真剣な声色に顔を上げると、宇羅は空を見ていた。晴れ渡った空に、白い筋雲が薄くほどけている。雲から透けた光によって、宇羅の髪やまつ毛が淡く縁取られていた。
「俺は生まれてこのかた、長になるために生きてきた。それは当たり前のことで、つらいと思ったことはない」
 言葉が、ゆっくりと落ちてくる。風によって枝から離れた枯葉が一枚、二人の足元へはらりと舞い落ちる。
 支都禰は黙って聞いていた。宇羅から自分のことを語ってくれるのは、はじめてだったから。言葉の合間に、過去をなぞっているのだろう。ゆっくりと紡がれる吐露をすべて受け止めるために、目をそらさず、ただ見つめる。
「支都禰の存在が大きくなればなるほど、自分を恨んだ。かりそめで用意した婚約者という立場に君を縛り、責務と重圧を背負わせてしまいそうで……」
『それで君にはもうひとつ頼みがあって。……俺の、婚約者になってほしい』
 お互いに都合がよく、恋愛感情がなかったからこそ成立した関係。出会い頭に結んだその関係が、いつからか絡み合い、もつれ、ほどけそうになって、今はこうして結ばれている。
「最初は、本当に……こんなつもりじゃなかったのにな」
 宇羅は困ったようにほほ笑む。
「俺は自分の意思でこの責を果たすと決めてる。そこに迷いはない。でも、支都禰はそうじゃない。俺が君を求めることで……背負わせたくなかった」
「宇羅さん……」
「だから、離せなくなる前に距離を置こうとした。支都禰の幸せと自由のためだと自分に言い聞かせて」
 二人のあいだに、つめたい風が吹く。宇羅の髪が揺れ、いつもは見え隠れする赤い左目がはっきり見えた。左右で異なる瞳は、そのまま宇羅自身を表しているのかもしれない。
「でも、君が一歩踏み出してくれたおかげで、こうして一緒にいられる。ありがとう」

 支都禰の目が潤む。涙をこぼさないように、瞬きを浅くする。泣いて言葉にならなくなる前に、自分の気持ちを伝えたかった。
「私も宇羅さんに、感謝してます」
 ひざの上の手に、視線を落とす。以前工房で切ったけがの跡を、親指でそっと撫でた。
「母が家を出て父が倒れ……。私はただ、息をひそめて耐えることしかできなくて。先のことなんて、ちっとも考えられなかった」
 痛みをともなう記憶の荒波は、支都禰が前へ進むたび凪いでいった。今は少しだけ離れたところから、切なさをもって眺めていられる。
「宇羅さんと出会い、鬼灯條家(ここ)へ来たこと……それが私にとって、すべてのはじまりです」
 あの日、車から降り立った宇羅の瞳に射抜かれた。その瞳が今、やさしく支都禰を映している。
「宇羅さんがいつも守ってくれたから。だから、立ち上がれたんです」
 支都禰の再生のために、距離を置いて見守っていてくれた。そのおかげで、自分の足で立ち上がり、前を向けた。友を、仲間を、居場所を得られた。
「そうしたら、欲が出ちゃって。もっとそばに、ずっとそばにと、願ってしまった」
 ゆっくりと、手を握って、開く。道具を握るだけだったこの手に、掴んでいたいものがたくさんできた。
「あなたの心に、身体に、触れたくて。私にも、触れてほしくて……」
 ぼんやりとそこまで言ってしまい、我に返る。なんて恥ずかしいことを口走ってしまったのだろう。
「つ、つまりですね……っ」
 慌てて顔を上げると、宇羅に両手を取られた。手のひらが重なり、長い指が支都禰の手をそっと包む。
「——支都禰、聞いて」
 名前を呼ばれるだけで、心が震える。
「君にばかり言わせてしまって、まったく、格好がつかないな」
 宇羅はいたずらっぽく目を細めた。
「俺から、改めて言わせてほしい」
 宇羅が、手に力を込める。感触がそのまま伝わってきて、支都禰の鼓動が早鐘を打った。木枯らしのつめたさが、今はまったく気にならない。
「支都禰が好きだ」
 はっきりと、おだやかで芯のある声がまっすぐ届く。宇羅は陽だまりのような——支都禰が大好きな眼差しを向けて、美しくほほ笑んだ。
「これからも俺の隣で、共に歩んでほしい」
 もう、涙をこらえることなんてできなかった。こぼれる涙はあたたかく、ぱたぱたと衣に染みを作る。
「……はい」
 宇羅がやさしく引き寄せ、互いの額がこつんと触れる。体温と呼吸が混ざり、身体の芯から熱くなる。胸の奥で、祈りの糸が結ばれていく。
「よかった」
 安心しきった宇羅の笑みが幼く見える。宇羅は支都禰の手を離さず、指先を絡め直した。この時間を噛みしめるかのように。
 風が二人の髪を揺らし、葉を舞わせ、雲を運んだ。

   ◆

 夕方、支都禰と宇羅は当主の部屋に呼ばれた。ひじをつき、組んだ手の上にあごをのせた朱天がうすら笑いを浮かべている。
「で、どうなの。父上様に言ってごらん?」
「どう、とは」
 渋い顔をした宇羅が尋ねると、朱天はおもしろくなさそうに机を叩いた。
「お膳立てしたんだから教えてくれたっていいじゃん。いい仲になれたのかって聞いてるんだよ」
 ずいと身を乗り出し、支都禰にきらきらとした眼差しを向けた。
「ね、支都禰ちゃん。宇羅とはもう口づ——」
「急用を思い出しました。支都禰、戻ろう」
 宇羅が支都禰の手を引きくるりと背を向けると、朱天が目にも留まらぬ速さで滑り込んできた。支都禰は思わずうわ、と声をあげる。
「す、ストーップ!」
「すとっぷ、ってなんですか。どいてください」
「央丹から教わったんだよ、止まれってこと!」
「止まりません失礼しますどいてください」
「悪かった、悪かったって……!」
 手を合わせて謝る朱天に、「だいたい、父上は」と仏頂面の宇羅が小言を言い始める。父子の軽快なやり取りが続くあいだも繋がれた手に、支都禰はひっそりと顔を赤らめた。
 宇羅がわざとらしく咳払いをする。
「とにかく、支都禰とは変わらず婚約者のままです。……あまりからかわないでください」
「ふうん、変わらず(・・・・)ね……」
 父の薄目を完全に無視して、宇羅はいつもの調子で本題に戻った。
「そんなことより」
「ええ、もう終わり⁉︎ ねえ、もう少し詳しく——」
 息子ににらまれ、とぼけて目をそらす朱天がおかしくて、支都禰はつい笑ってしまう。怪異の前では圧倒的な強さをもって君臨していた朱天。目の前のお茶目な姿との温度差に、不思議な気持ちになる。

「……そんなことより、支都禰が天狗面に触れたときに、ある光景が視えたそうです」
「光景?」
 朱天の声が、瞬時に低くなる。視線を受けて、支都禰は無意識に指先を握った。手のひらから流れ込んだ、身の毛がよだつ禍々しい気配を思い出す。
「森の中の、穢れた真っ黒な神木。そこに……狐の面がかかっていました」
「狐の、面……」
 朱天がつぶやき、顔を上げた。
「まさか」
「……はい。母——玉藻の面でした」
 朱天が腕を組み、黙り込む。しばらくして立ち上がり、棚から一本の巻物を取り出した。紐をほどくと、古い紙の香りがふわりと立つ。
 机に広げたのは、墨で描かれた絵巻だった。闇の中を進む無数の影。さらに、その奥にそびえる一本の巨大な木。根元には、黒い澱が渦を巻いている。宇羅が息をのんだ。
「これは……」
「妖の絵、ですか?」
 支都禰の疑問に、朱天が頷く。そして指で、絵巻の木をなぞった。
「太古より伝わる伝承があるんだ。妖の行進による蹂躙……百鬼夜行」
「——!」
 支都禰の脳裏に、先日の惨状がよみがえる。巨大な怪異から生み落とされた無数の怨泥。その影が、絵巻と重なる。
「ま、俺たちのあいだでも御伽噺みたいなもんだけど……。昨今、こんな威勢のいい連中なんて少ないしね」
 肩をすくめる朱天を横目に、宇羅が眉を寄せて考え込む。
「あの怪異を見て、俺もこの絵巻を思い出しました。もし黒幕がいるのだとしたら——」
 机に両手をつき、朱天が鋭い眼差しで二人を見据えた。
「おそらく狙いは百鬼夜行の再演だ。神木を怨念で穢し、力を溜めている。玉藻はそれを抑えているんだ」
 窓の外で鳴く鳥の声が、遠くに響く。
 こわばる支都禰の手を、宇羅がそっと触れた。見つめ合い、握り合う。結ばれた絆が、二人のあいだを固く繋いだ。