家の縁側に、雲の隙間から差し込む光が線を描いている。支都禰は柱にもたれて腰を下ろし、ぼんやりと床に映るその線を眺めていた。日ごろつけている狐面を、今は側頭部に上げている。肩口で切りそろえられた灰色の髪がさらさらと揺れていた。
「支都禰!」
奥から甲高い声が響き、とっさに肩が跳ねる。支都禰は慌てて立ち上がり、声のするほうへ向いた。
叔母の初子が、盆を持ちながら鋭く視線を向けていた。今は居候の彼女が、この家を取り仕切っている。
「なに座り込んでるんだい。掃除が終わってないってのに」
あごで示された先、支都禰の足元には、雑巾と手桶が置かれていた。
「ごめんなさい。すぐに——」
「ほんと、気が利かない子だねえ」
大げさに溜め息をつき、初子は支都禰の顔へぶしつけな視線をよこした。
「また髪が白っぽくなって……。あの母親がいなくなってから目の色も変わるし、気味が悪い」
支都禰はきゅっと口をつぐみ、叔母の悪態が終わるのを待った。言い返すという選択肢は、すでになくなっていた。
「ああ怖い。呪われてるにちがいないよ。誰かに見られでもしたら継信さんの評判まで落ちちまう。ほんと、母娘そろって恐ろしいこと」
母のことまで言われ我慢ならず、支都禰は眉を寄せた。幼いころ、母のひざに寝転がり、見上げた先にあった美しい顔を思い出す。
『支都禰』
あたたかな手も声も、今はない。
「なんだいその目は。はよおやり。……憎たらしい顔を見せないでおくれよ。なんのために面をつけてるのさ」
「……すぐ、やります」
面を顔の前へ下ろして答えると、初子は鼻を鳴らした。
「あんたにできるのは掃除と洗濯と、面打ちくらいだからね。女が面打ちだなんてとんでもないけど、継信さんのためだ。ちゃんとやってもらわないとね?」
初子は盆を持ち直した。そこには水と薬瓶、手ぬぐいがのっている。
「さて、早く行かないと。熱はどうなんだか……。ああ心配だこと」
言葉とは裏腹に、その声には嬉しさがにじむ。叔母が父へ向ける熱っぽい視線に、支都禰はとっくに気がついていた。嫌悪感がじわりと胸に広がる。
初子が去ると、今度は従姉妹の雪起が近づいてきた。艶やかな黒髪が波打つ耳隠しに、雪の装飾のついた髪留めがきらりと光った。鋭い視線ののち、すれ違いざま肩をぶつけられた。
「うっ……」
「……さっさとやりなさいよ」
低く吐き捨て、雪起は初子に続いていった。かすかな花の香りと共に足音が遠ざかる。
残された支都禰は肩の力を抜き、溜め息をついた。
「……やらなきゃ」
雑巾を濡らし直して、床にひざをつく。そのまま黙々と木目に沿って雑巾を滑らせた。手元だけを見つめていると、先ほどの言葉の棘による痛みが、少しだけ遠のいた。
白木家は、代々続く面打師の家系だ。支都禰の父である継信は、当代きっての面打師と呼ばれている。遠方からも依頼が絶えず、彼の面をつければ、たちまち力がみなぎると噂されていた。けれど数年前、支都禰の母がふいに姿を消し、その少しあと、継信は原因不明の病に倒れた。
そこへ「継信の看病をし、支都禰の面倒を見る」と言って現れたのが、初子と雪起。初子の夫は継信の弟で、前に不幸な事故で亡くなった。
初子たちは継信が動けないのをよいことに家の中を取り仕切り、すぐに支都禰を下働きのごとく扱うようになった。継信の前では親切な叔母を演じる初子を口惜しく思うも、父の身を思うと強くは出られない。そのため支都禰の居場所は、どんどんと狭まった。
家じゅうの掃除を終えたころ、初子が支都禰のもとへやってきた。
「お前の夕餉はないからね」
またか。支都禰は面の下で唇をきつく結んだ。なにを言ったところで、今日の夕餉にはありつけないのだろう。
「……はい」
短く返事をすると、初子は満足げに踵を返した。
「面でも打ってな。もうすぐ大切なお客様へお渡しするんだろ?」
台所のほうへ去っていく足音と、米の炊けるにおい。空腹に気づかないふりをして、支都禰は父の部屋へと向かった。
「父さん、入るね」
「……ああ、支都禰か」
弱々しい声。狐面を外して障子を開けると、継信が横たわっていた。枕元には、初子が持っていた盆がある。障子を通して差し込む光が、骨ばった継信の顔をやわらかく照らしていた。
「調子はどう?」
支都禰は座って面を傍らに置いた。自分の家なのに、堂々と顔を出せるのはこの部屋と工房だけだった。
「今日はわりといいほうだよ」
継信が小さくほほ笑む。最近はいっそうやせてしまった。こけた頬が目立つ父の顔を見ると、胸がぎゅっと締めつけられる。
「初子さんが先生にかけ合って、薬を変えてみてくれたんだ。それがよく効いてる。ありがたい話だ」
「……そう」
言葉が喉に引っかかる。それをのみ込んで、支都禰は話題を変えた。
「前に話した鬼面、ほとんど仕上がったよ」
「ああ、あれか。神社からの依頼の……」
継信が上半身を起こそうとするのを支えながら、声に明るさを込める。
「うん。うまくいけば今日完成。前に母さんが話してた鬼の伝承を思い出して、少し変えたらうまくいって」
「そうか」
嬉しそうに細められた目に、娘が映る。
「お前の面も、さらにいい表情をするようになった。きっと立派にできるよ」
「……父さんの足元にもおよばないけど」
支都禰は苦笑した。父の言葉は本当に嬉しかったが、自分の実力は痛いほどわかっている。
「ありがとう。がんばるよ」
少し話をしてから、支都禰はよいしょと立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるね」
「無理はするなよ。……飯は、ちゃんと食べているのか」
一瞬だけ胸が詰まるも、父の手前、支都禰は笑ってみせた。
「うん、大丈夫」
本当のことは、どうしても言えなかった。
工房に入り戸を閉める。ざわめきが遠のいて、木と漆の香りが支都禰を迎えた。髪を束ね、狐面を腰棚にそっと置く。部屋には制作途中の面が並ぶ。支都禰はその中から、ほぼ形の整った赤い鬼面を持ち上げた。強大さの裏に、凛とした品を感じる荘厳な面持ち。
本当に鬼がいるなら、どんな表情だろう。筆を手に取り墨をつけ、筆先を木肌に滑らせた。
誰にも奪われない、自分らしくいられる数少ない時間。面打ちは父の代わりの仕事ではなく、支都禰の大切な生きがいとなっていた。
◆
「最近妙な噂があるの、知ってるかい」
夕餉のあと。初子が湯呑を置き、楽しげに声をひそめるのを見て、雪起は溜め息をついた。
「なあに。また例の話?」
「今度は山奥の祠でさ。近づくと夜な夜なうなされるって話。なんでも白い狐の妖が化け出てくるんだと」
「ふん……くだらない」
この時代になっても、妖だの怪異だのの噂は絶えない。雪起にとっては心底どうでもいい、時代遅れの話だった。
「なかには対価を差し出せば、願いを叶えてくれる妖もいるとか」
「……妖なんて、いるわけないじゃない」
雪起はうっとうしげに目をそらした。脳裏に支都禰の姿が浮かぶ。狐面の下の、黄金の瞳。妖なんて幻よりも、近くにいるあの人間のほうがよっぽど恐ろしい。すぐに首を振り、その像を追い払った。
「いるわけ、ない」
湯呑を持つ力が強まる。つぶやきは湯気に紛れて消えた。
◆
窓の外の景色が藍色に沈む。
支都禰は息を止めて、面の目に金色の金具をはめた。額の汗をぬぐい、両手で鬼面を持ち上げる。何度も角度を変えながら眺めると心が満たされた。ついに仕上がった渾身の一作。鬼の目と支都禰の目、ふたつの黄金の視線が交わる。
「……できた」
安心してつぶやいた、そのとき。
「なに、にやついてるのよ」
振り返ると、戸口に雪起が立っていた。
「雪起……。勝手に開けないでよ」
「それ、見せて」
「え?」
「神社からの依頼品なんでしょ」
つめたい声にためらいながら、支都禰は鬼面をそっと持ち上げた。
「まだ、できたばかりで——」
「ふうん」
雪起の視線が鬼面に吸い寄せられた。その眼差しからは感情が読めない。
「器用ね。あんたはほんと、なんでも持ってる」
「……なんでもなんて、持ってないよ」
「持ってるじゃない。愛してくれる家族も、綺麗な顔も、みんなに認められる腕も」
「雪起だって——」
「あたしがどんな思いでいるか、あんたは知らないだけよ」
吐き捨てる雪起の声が震えた。
「あたしの婚約者、覚えてる?」
突然話題を変えられ、支都禰は曖昧に首を振る。来客時は工房にいるよう言いつけられていたし、雪起に婚約者がいることも知らなかった。最後に雪起と会話をしたのはいつだろう。幼いころはこうじゃなかったのに。
「商家の息子。ずっとあたしを見てくれてたのに、急に婚約を解消したいって。理由を聞いたら——たまたま、工房の前であんたが面を外したところを見たんだって」
自嘲気味に笑う雪起に指さされ、支都禰は息をのんだ。
「あんたのことが寝ても覚めても忘れられないって。もちろんそんな人いないって言ったけど、結局破棄されたの。笑えるでしょ?」
「そんな」
「昔から、いつもそう……。あんたは私のものを奪っていく」
雪起からなにかを奪った覚えはない。けれど雪起の言葉は切実で、彼女がどれほど傷ついてきたのかを伝えていた。
「それに、あたし、見たんだから」
「見たって、何を」
「あんたの……あんたの髪が、真っ白に変わるところよ!」
予想外の言葉が、支都禰につめたく突き刺さる。
「そんなはず——」
「何度もよ。面を打つときだけ! でも母さんたちに話そうとすると、声が出なくなる。気味が悪くてたまらないのに……!」
涙交じりに叫ぶ雪起の目には、恐怖と怒りの色がにじんでいた。
「あんた、なんなの。この……化け物!」
次の瞬間、雪起は鬼面を奪い取った。支都禰が手を伸ばすと同時に雪起は身をひるがえし、走り去ってしまう。
「雪起!」
あとを追って工房を飛び出すも、すでに雪起は門を抜け、夜の道に踏み出すところだった。
(私の髪が……真っ白?)
胸の内で、得体の知れない恐怖がふくらんだ。
『この……化け物!』
頭の中で、先ほどの言葉がくり返される。変わりゆく自分と、消えた母、倒れた父、すれ違ってしまった従姉妹。見ないようにしていた敏感な部分に、雪起の悲痛な叫びが刃となって刺さる。
「私は一体、何者なの……」
夜風がくすんだ髪を揺らす。切実なつぶやきは夜の闇へと吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
◆
森の中、雪起は肩で息をしながら立っていた。その手には鬼面が握られている。
『あなたみたいな綺麗な子が従姉妹で嬉しいわ。支都禰!』
幼いころ、畳の上で二人寝転び笑い合った、あたたかい記憶。けれど帰宅するたび、自分の家のつめたさが際立った。従姉妹と遊んだだけで母に叩かれ、父は見向きもしてくれない。自慢のはずだった支都禰の不思議な魅力は、だんだんと呪いのように雪起をむしばんでいった。
「……こんな私、いや」
もれたつぶやきに顔が歪む。雪起は涙があふれ出そうになるのを必死でこらえた。このくすぶる感情はどうしようもなく、支都禰に近づけば近づくほど、自分がおかしくなっていく気がした。
鬼面を見ると、その精巧な面持ちが作り手と重なった。
「っ、こんなもの——ッ」
衝動のままに腕を振り抜く。鬼面は夜気の中で弧を描き、木のふもとにどさりと落ちた。
雪起は肩で息を整え、こらえきれない胸の痛みを抱えたまま、面に背を向けた。
「支都禰!」
奥から甲高い声が響き、とっさに肩が跳ねる。支都禰は慌てて立ち上がり、声のするほうへ向いた。
叔母の初子が、盆を持ちながら鋭く視線を向けていた。今は居候の彼女が、この家を取り仕切っている。
「なに座り込んでるんだい。掃除が終わってないってのに」
あごで示された先、支都禰の足元には、雑巾と手桶が置かれていた。
「ごめんなさい。すぐに——」
「ほんと、気が利かない子だねえ」
大げさに溜め息をつき、初子は支都禰の顔へぶしつけな視線をよこした。
「また髪が白っぽくなって……。あの母親がいなくなってから目の色も変わるし、気味が悪い」
支都禰はきゅっと口をつぐみ、叔母の悪態が終わるのを待った。言い返すという選択肢は、すでになくなっていた。
「ああ怖い。呪われてるにちがいないよ。誰かに見られでもしたら継信さんの評判まで落ちちまう。ほんと、母娘そろって恐ろしいこと」
母のことまで言われ我慢ならず、支都禰は眉を寄せた。幼いころ、母のひざに寝転がり、見上げた先にあった美しい顔を思い出す。
『支都禰』
あたたかな手も声も、今はない。
「なんだいその目は。はよおやり。……憎たらしい顔を見せないでおくれよ。なんのために面をつけてるのさ」
「……すぐ、やります」
面を顔の前へ下ろして答えると、初子は鼻を鳴らした。
「あんたにできるのは掃除と洗濯と、面打ちくらいだからね。女が面打ちだなんてとんでもないけど、継信さんのためだ。ちゃんとやってもらわないとね?」
初子は盆を持ち直した。そこには水と薬瓶、手ぬぐいがのっている。
「さて、早く行かないと。熱はどうなんだか……。ああ心配だこと」
言葉とは裏腹に、その声には嬉しさがにじむ。叔母が父へ向ける熱っぽい視線に、支都禰はとっくに気がついていた。嫌悪感がじわりと胸に広がる。
初子が去ると、今度は従姉妹の雪起が近づいてきた。艶やかな黒髪が波打つ耳隠しに、雪の装飾のついた髪留めがきらりと光った。鋭い視線ののち、すれ違いざま肩をぶつけられた。
「うっ……」
「……さっさとやりなさいよ」
低く吐き捨て、雪起は初子に続いていった。かすかな花の香りと共に足音が遠ざかる。
残された支都禰は肩の力を抜き、溜め息をついた。
「……やらなきゃ」
雑巾を濡らし直して、床にひざをつく。そのまま黙々と木目に沿って雑巾を滑らせた。手元だけを見つめていると、先ほどの言葉の棘による痛みが、少しだけ遠のいた。
白木家は、代々続く面打師の家系だ。支都禰の父である継信は、当代きっての面打師と呼ばれている。遠方からも依頼が絶えず、彼の面をつければ、たちまち力がみなぎると噂されていた。けれど数年前、支都禰の母がふいに姿を消し、その少しあと、継信は原因不明の病に倒れた。
そこへ「継信の看病をし、支都禰の面倒を見る」と言って現れたのが、初子と雪起。初子の夫は継信の弟で、前に不幸な事故で亡くなった。
初子たちは継信が動けないのをよいことに家の中を取り仕切り、すぐに支都禰を下働きのごとく扱うようになった。継信の前では親切な叔母を演じる初子を口惜しく思うも、父の身を思うと強くは出られない。そのため支都禰の居場所は、どんどんと狭まった。
家じゅうの掃除を終えたころ、初子が支都禰のもとへやってきた。
「お前の夕餉はないからね」
またか。支都禰は面の下で唇をきつく結んだ。なにを言ったところで、今日の夕餉にはありつけないのだろう。
「……はい」
短く返事をすると、初子は満足げに踵を返した。
「面でも打ってな。もうすぐ大切なお客様へお渡しするんだろ?」
台所のほうへ去っていく足音と、米の炊けるにおい。空腹に気づかないふりをして、支都禰は父の部屋へと向かった。
「父さん、入るね」
「……ああ、支都禰か」
弱々しい声。狐面を外して障子を開けると、継信が横たわっていた。枕元には、初子が持っていた盆がある。障子を通して差し込む光が、骨ばった継信の顔をやわらかく照らしていた。
「調子はどう?」
支都禰は座って面を傍らに置いた。自分の家なのに、堂々と顔を出せるのはこの部屋と工房だけだった。
「今日はわりといいほうだよ」
継信が小さくほほ笑む。最近はいっそうやせてしまった。こけた頬が目立つ父の顔を見ると、胸がぎゅっと締めつけられる。
「初子さんが先生にかけ合って、薬を変えてみてくれたんだ。それがよく効いてる。ありがたい話だ」
「……そう」
言葉が喉に引っかかる。それをのみ込んで、支都禰は話題を変えた。
「前に話した鬼面、ほとんど仕上がったよ」
「ああ、あれか。神社からの依頼の……」
継信が上半身を起こそうとするのを支えながら、声に明るさを込める。
「うん。うまくいけば今日完成。前に母さんが話してた鬼の伝承を思い出して、少し変えたらうまくいって」
「そうか」
嬉しそうに細められた目に、娘が映る。
「お前の面も、さらにいい表情をするようになった。きっと立派にできるよ」
「……父さんの足元にもおよばないけど」
支都禰は苦笑した。父の言葉は本当に嬉しかったが、自分の実力は痛いほどわかっている。
「ありがとう。がんばるよ」
少し話をしてから、支都禰はよいしょと立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるね」
「無理はするなよ。……飯は、ちゃんと食べているのか」
一瞬だけ胸が詰まるも、父の手前、支都禰は笑ってみせた。
「うん、大丈夫」
本当のことは、どうしても言えなかった。
工房に入り戸を閉める。ざわめきが遠のいて、木と漆の香りが支都禰を迎えた。髪を束ね、狐面を腰棚にそっと置く。部屋には制作途中の面が並ぶ。支都禰はその中から、ほぼ形の整った赤い鬼面を持ち上げた。強大さの裏に、凛とした品を感じる荘厳な面持ち。
本当に鬼がいるなら、どんな表情だろう。筆を手に取り墨をつけ、筆先を木肌に滑らせた。
誰にも奪われない、自分らしくいられる数少ない時間。面打ちは父の代わりの仕事ではなく、支都禰の大切な生きがいとなっていた。
◆
「最近妙な噂があるの、知ってるかい」
夕餉のあと。初子が湯呑を置き、楽しげに声をひそめるのを見て、雪起は溜め息をついた。
「なあに。また例の話?」
「今度は山奥の祠でさ。近づくと夜な夜なうなされるって話。なんでも白い狐の妖が化け出てくるんだと」
「ふん……くだらない」
この時代になっても、妖だの怪異だのの噂は絶えない。雪起にとっては心底どうでもいい、時代遅れの話だった。
「なかには対価を差し出せば、願いを叶えてくれる妖もいるとか」
「……妖なんて、いるわけないじゃない」
雪起はうっとうしげに目をそらした。脳裏に支都禰の姿が浮かぶ。狐面の下の、黄金の瞳。妖なんて幻よりも、近くにいるあの人間のほうがよっぽど恐ろしい。すぐに首を振り、その像を追い払った。
「いるわけ、ない」
湯呑を持つ力が強まる。つぶやきは湯気に紛れて消えた。
◆
窓の外の景色が藍色に沈む。
支都禰は息を止めて、面の目に金色の金具をはめた。額の汗をぬぐい、両手で鬼面を持ち上げる。何度も角度を変えながら眺めると心が満たされた。ついに仕上がった渾身の一作。鬼の目と支都禰の目、ふたつの黄金の視線が交わる。
「……できた」
安心してつぶやいた、そのとき。
「なに、にやついてるのよ」
振り返ると、戸口に雪起が立っていた。
「雪起……。勝手に開けないでよ」
「それ、見せて」
「え?」
「神社からの依頼品なんでしょ」
つめたい声にためらいながら、支都禰は鬼面をそっと持ち上げた。
「まだ、できたばかりで——」
「ふうん」
雪起の視線が鬼面に吸い寄せられた。その眼差しからは感情が読めない。
「器用ね。あんたはほんと、なんでも持ってる」
「……なんでもなんて、持ってないよ」
「持ってるじゃない。愛してくれる家族も、綺麗な顔も、みんなに認められる腕も」
「雪起だって——」
「あたしがどんな思いでいるか、あんたは知らないだけよ」
吐き捨てる雪起の声が震えた。
「あたしの婚約者、覚えてる?」
突然話題を変えられ、支都禰は曖昧に首を振る。来客時は工房にいるよう言いつけられていたし、雪起に婚約者がいることも知らなかった。最後に雪起と会話をしたのはいつだろう。幼いころはこうじゃなかったのに。
「商家の息子。ずっとあたしを見てくれてたのに、急に婚約を解消したいって。理由を聞いたら——たまたま、工房の前であんたが面を外したところを見たんだって」
自嘲気味に笑う雪起に指さされ、支都禰は息をのんだ。
「あんたのことが寝ても覚めても忘れられないって。もちろんそんな人いないって言ったけど、結局破棄されたの。笑えるでしょ?」
「そんな」
「昔から、いつもそう……。あんたは私のものを奪っていく」
雪起からなにかを奪った覚えはない。けれど雪起の言葉は切実で、彼女がどれほど傷ついてきたのかを伝えていた。
「それに、あたし、見たんだから」
「見たって、何を」
「あんたの……あんたの髪が、真っ白に変わるところよ!」
予想外の言葉が、支都禰につめたく突き刺さる。
「そんなはず——」
「何度もよ。面を打つときだけ! でも母さんたちに話そうとすると、声が出なくなる。気味が悪くてたまらないのに……!」
涙交じりに叫ぶ雪起の目には、恐怖と怒りの色がにじんでいた。
「あんた、なんなの。この……化け物!」
次の瞬間、雪起は鬼面を奪い取った。支都禰が手を伸ばすと同時に雪起は身をひるがえし、走り去ってしまう。
「雪起!」
あとを追って工房を飛び出すも、すでに雪起は門を抜け、夜の道に踏み出すところだった。
(私の髪が……真っ白?)
胸の内で、得体の知れない恐怖がふくらんだ。
『この……化け物!』
頭の中で、先ほどの言葉がくり返される。変わりゆく自分と、消えた母、倒れた父、すれ違ってしまった従姉妹。見ないようにしていた敏感な部分に、雪起の悲痛な叫びが刃となって刺さる。
「私は一体、何者なの……」
夜風がくすんだ髪を揺らす。切実なつぶやきは夜の闇へと吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
◆
森の中、雪起は肩で息をしながら立っていた。その手には鬼面が握られている。
『あなたみたいな綺麗な子が従姉妹で嬉しいわ。支都禰!』
幼いころ、畳の上で二人寝転び笑い合った、あたたかい記憶。けれど帰宅するたび、自分の家のつめたさが際立った。従姉妹と遊んだだけで母に叩かれ、父は見向きもしてくれない。自慢のはずだった支都禰の不思議な魅力は、だんだんと呪いのように雪起をむしばんでいった。
「……こんな私、いや」
もれたつぶやきに顔が歪む。雪起は涙があふれ出そうになるのを必死でこらえた。このくすぶる感情はどうしようもなく、支都禰に近づけば近づくほど、自分がおかしくなっていく気がした。
鬼面を見ると、その精巧な面持ちが作り手と重なった。
「っ、こんなもの——ッ」
衝動のままに腕を振り抜く。鬼面は夜気の中で弧を描き、木のふもとにどさりと落ちた。
雪起は肩で息を整え、こらえきれない胸の痛みを抱えたまま、面に背を向けた。
