廊下のつめたい空気を裂くように、宇羅は歩みを速める。口を一文字に結び、その目はただ前を見据えていた。
「——宇羅さん、宇羅さんっ!」
支都禰が何度も呼びかけ追いすがると、宇羅はようやく足を止めた。肩越しに見えた横顔は、このうえなく冷えきっている。
「支都禰は家から出るな」
宇羅がはっきりと「命令」をしたのは、これがはじめてだった。いつだって支都禰の意思を尊重し、なにか伝えるときも、それは依頼の形で。こうまで一方的な態度は今までなかった。
「でも——」
「出るな」
短く発せられた声が、二人を隔てた。宇羅はそのまま前へと進む。阿久良もほんの少し迷うそぶりを見せたが、黙って主に続いた。
支都禰は一瞬たじろぐも、手のひらを握り、宇羅の背中を追いかけた。
「行かせてください。私に、できることがあるかもしれなくて——」
「だめだ」
ぴしゃりと切られ、声が震えた。
「っ、どうして……!」
危険から遠ざけようとしてくれていることはわかっていた。戦闘になれば足手まといになってしまうことも。けれど、術に関して糸口が見えてきた気がするのだ。今行かなくては、この先ずっと後悔を抱えることになる。
宇羅が振り返る。灰色の瞳はつめたく、ほの暗い。
「面の暴走を、私が止められるかもしれないんです。だから……!」
「確実ではないんだろ」
「それは……っ。でも、試したいことがあるんです。宇羅さん、お願いします——」
そう言って一歩踏み出し、宇羅の腕に触れる。
その手が、そっと離された。ぬくもりが消え、指先が冷えていく。支都禰の瞳が大きく揺れた。はじめての、明確な拒絶。離す手のやさしさが、よりいっそう残酷に突き刺さる。
それを見た宇羅は一瞬、痛ましげに目を伏せた。
「俺が、鎮めてくる」
静かな覚悟は、支都禰の干渉を許さない。
(宇羅さん……)
血しぶきが脳裏をよぎり、道成寺の姿が宇羅に変わる。支都禰は激しく首を振った。
「私の面が宇羅さんまで傷つけたら、私は——!」
「っ、俺だって……」
宇羅の言葉に力がこもる。押し殺していた感情が、せきを切ったようにあふれ出た。
「これ以上、君が傷つくところは見たくない! 俺は君を失いたくは——」
宇羅がはっとして口元を押さえた。
その場の皆が息をするのを忘れ、沈黙が流れる。支都禰は目を見開いたまま、瞬きさえできなかった。
「……宇羅、さ」
「なんでもない。忘れて」
口元から手を下ろしたとき、宇羅の顔にはいつものほほ笑みが貼りついていた。それはもろく、つつけばすぐ破れ、その裏に隠された本心が出てきそうだった。
「今のは」
「ちがう」
短く否定して、宇羅は支都禰の言葉を切った。支都禰はひゅっと息をのむ。
(ちがうって、なにが……)
聞きたいのに、言葉が出てこない。宇羅の目を見ると、瞳の揺れを隠すかのようにそらされた。
「鬼灯條の者として、君の庇護者として責務を果たす。それだけだ。……だから」
その声がわずかに震えているのに気がついた。
「すべて終えたら、君を自由にする」
「じ、ゆう?」
その意味を問うことを拒むように、宇羅は背を向けた。見えない壁で隔てられたかのように、距離がずっと遠く感じる。
「……もう行く。顔色がよくない。しっかり休むんだ」
そう言い残し、宇羅は去った。阿久良も静かに一礼してあとを追う。
足音が遠ざかるのを聞きながら、支都禰は立ち尽くしていた。胸の奥に残ったのは、拒まれた痛みと、聞いてしまった思いの丈の、かけらだった。
壁に手をつき、支都禰はゆっくりと息を吐いた。壁に触れた手の震えに気がつき、ゆるゆると両手を見る。小さな古傷と、治りかけてきた新しい傷。ごつごつとした関節に、硬いタコのできた手のひら。
『この手で、幸せを掴み取れる人です』
宇羅が発してくれた言葉が、手のひらから立ちのぼる。それは支都禰に、数々の思い出を呼び起こさせた。
車での握手。夜会で司箭院を掴んだ宇羅の手。髪に触れずに褒めてくれたテラスの木もれ日。美しい炎の紋様。面打ちを見るあたたかな眼差し。カフェで重ねられた手。幼馴染から守ってくれた背中。陽だまりのほほ笑み。
宇羅はいつも、支都禰を、その尊厳を、守ってくれた。無理強いをせず、選ばせてくれた。心と身体を守るために、いつだって距離を取って見守り続けてくれた。歩幅を合わせて歩いてくれた。ついさっき、自分を置いて行ってしまった背中を思い出す。
(……いつからだろう)
支都禰のためにと空けてくれたわずかな距離を、惜しいと思い始めたのは。触れない彼の優しさを、もどかしいと感じ始めたのは。もっと触れたい、触れてほしいと、願うようになったのは。
支都禰はぎゅっと目をつぶった。さっきの言葉が、胸に刺さって抜けない。
『俺は君を失いたくは——』
その言葉の真意を、聞きたかった。宇羅が支都禰や周囲を優先するあまり、奥底に蓋をして閉じ込めてしまった彼自身の感情に、触れたかった。
おぼろげだった感情が、確かな輪郭を持ち始める。早鐘を打つ心臓が、支都禰の想いを加速させた。まぶたを開く。その瞳の奥で、黄金の粒が転がるように光を放つ。
この感情に、名前をつけるのならば。
(私は、宇羅さんが——好きだ)
認めてしまうと、もう戻れない。名づけてしまった感情は、収まることを知らずにふくれ上がっていく。前へ進まなければ。あの背中に、追いつきたい。
(私も守りたい。大切な人の、力になりたい)
自分の力は、縁を結んだ大切な人たちのために使いたい。誰かの怨念のためでなく、祈りのために。
支都禰の脳裏に二本の糸が浮かんだ。それらは重なり、結ばれ、蝶の姿になって飛んでいく。そしてまた、するりとほどけた。
「——!」
身体のうちに漂う気配が紡がれていく。その糸をたぐり寄せ、ぴんと張る。点と点が繋がり、一本の線になった。支都禰は確信した。これが紅葉の言っていた、「術を操る」ことなのだと。
(術も、同じだ)
糸のように、縁のように。結んで、ほどいていけばいい。
廊下の板が鳴る。支都禰は無我夢中で走った。
「朱天様、紅葉様!」
支都禰は返事を聞くのも忘れ、当主の部屋の扉を勢いよく開けた。朱天が顔を上げ、紅葉が振り向く。
「支都禰さん?」
「おー支都禰ちゃん、どした? 俺たちこれから——」
「じゅ、術を……」
支都禰は肩で息をし、ふーっと大きく息を吐いた。落ち着いて。顔を上げ、はっきりと伝える。
「暴走している面の術を、私の手でほどきます」
「……!」
紅葉の目が見開かれ、反対に、朱天の目は細まった。
黄金の瞳に、決意の輝きが宿る。
「お願いします。宇羅さんのところへ、行かせてください」
◆
森へ向かう道は、夕刻にしては暗い。赤黒い雲が低く垂れ、地面には茶色の枯葉が重なり合う。遠くで鳥の群れが羽ばたく音がした。
鬼灯條家の一行は先を急ぐ。黙って進む宇羅の背中は、なにも語らない。側頭部につけた鬼の面が、足音に合わせて揺れた。
阿久良は前を行く主に向かって、そっと口を開いた。
「……宇羅様」
「なんだ」
「支都禰様のこと……。本当に、いいんですか」
めずらしく主従の線を越えてきた阿久良に、宇羅の足が一瞬止まりかけ、すぐ動く。
「いい」
きっぱりと答え、独り言のように続けた。
「俺は長として民を護る。彼女も……同じように」
阿久良はその言葉に眉を寄せた。長年仕えてはじめて見る、主の葛藤。宇羅は支都禰を、多くの護るべき民のひとりにはめ込もうとしている。
出すぎたまねだと承知のうえで、阿久良はもう一言、その背中に語りかけた。
「同じでないのは、宇羅様が一番お分かりのはずです」
宇羅の喉が動いた。視線はそのままに、宇羅は吐き出すように返す。
「……わかってるさ」
わかっている。
定められた道の途中で拾い上げた、たったひとつの、特別な輝き。輝く瞳、名を呼ぶ声、誇りが刻まれた美しい手。笑えば嬉しくて、泣けば心が痛んで。すべてが宇羅を掴んで離さない。
『それは——長として? それとも、男として?』
かつて央丹に投げられた問いが響く。
この感情がなんなのか、とっくに気がついていた。けれど、だからこそ、宇羅は奥深くに封じることを選んだのだ。
「わかってるから、だめなんだ」
宇羅はつぶやいた。自身の言葉に、心がうずく。
「たかが俺の心ひとつで、彼女を縛るわけにはいかない」
「……」
(それなら、あなたが縛り封じたその心は、どうするのですか)
木々のあいだを風が抜け、枯れ葉が巻き上がる。
阿久良の問いは声になることなく、風と共に立ち消えた。
奥へ近づくにつれ、空気が濁った。
一行の視界の先で、怪異がうごめいている。それはどろどろとうず高く、はっきりとした形を成さない。その中心に、天狗の面がついていた。
「ひっ」
うしろの配下たちがひるむ。宇羅も足を止め、顔をしかめた。
「……これは」
妖の形をなした泥のような塊——怨泥——が本体からぼとりと落ち、こちらへずるずる向かってくる。それは妖が怪異に変ずるのとはまたちがう、不気味な光景だった。
「うわあああああーっ!」
悲鳴に視線を動かすと、配下が怨泥に覆われ、身体がむしばまれていく。そのまま宇羅たちの目の前で、怪異へと変わり始めた。
「——!」
「全員散れ! あれに触れるな! 二人一組になって対処しろ!」
宇羅の叫びで、全員が弾かれたように動き出した。
宇羅は怪異となりかけた配下にすぐさま炎を放つ。完全に意識を失う前に祓いきり、配下が咳き込みながらひざをつく。
「若様、すみません……!」
「お前は下がって仲間のところへ。周辺にこぼれたやつらを頼む。本体(あれ)は、俺と阿久良が」
「はっ……!」
宇羅と阿久良は、怨泥を吹き出し続ける怪異の前に立った。
「宇羅様、これは……」
「俺たちをのみ込んで、全員怪異に変えるつもりだ」
悔しさに歯を食いしばる。これは一体の妖が変異したものではないと気配でわかる。この怪異の塊ができるまで、どれほどの妖が犠牲になったのだろう。
目の前に広がる光景が、幼いころ見た絵巻を想起させた。その絵巻の名は……。
「——百鬼夜行?」
触れればたちまち命を奪うとされた、伝説の大行進。
宇羅の身体の芯が冷えた。もしこれが、ただの暴走ではないのなら。何者かが意図を持って怨念を集め、妖を怪異へと変え、ことを起こそうとしているのなら。
無機質にはりつく天狗面に、支都禰の顔が浮かぶ。彼女の誇りを、そんなことに使わせるわけにはいかない。
刹那、怪異がごぽりと動いた。身体中に開いた穴からうめき声が重ねられ、地面が震える。
「阿久良!」
二人が左右へ跳ぶと、もといた場所に吹き出た怨泥が激突した。しゅうしゅうと黒い煙が立ちのぼり、腐敗臭が鼻をつく。
宇羅は面に触れ、炎を立ち上げた。紋様が地を這い、怪異から伸びる泥の触手を焼き切る。阿久良も腰につけた面に触れ、叫んだ。
「狐火!」
声に狐火たちが散り、怨泥にのまれそうな配下たちを助けた。
阿久良は襲いくる怨念に向き合い、手を振りかざした。鋭い風を纏った霧が怨念を切り裂く。宇羅と阿久良は並び立ち、ふたたび飛び出した。
倒しても倒しても、怨泥は湧き続ける。行く手をふさがれ、本体へたどり着くことを許されない。怪異は禍々しい気を放ち、地に根を張るように広がろうとする。
この阿鼻叫喚の中で、天狗の面だけが静かにその光景を眺めていた。ひび割れた目の奥で、黒いものが脈打っている。
(よくも支都禰の面を、こんな——っ!)
宇羅は面をにらみつけた。強い憤りに炎が強くなり、周囲の空気が熱を持つ。
突然怪異がうねり、怨泥がいっせいに吹き上がった。配下が弾かれ、阿久良がかばう。宇羅が盾のように炎を広げると、天狗面の目元から飛び出た怨泥が激突した。押し込まれ、宇羅の足が滑る。
「っ……」
「宇羅様!」
阿久良が叫ぶと同時に宇羅の足元が崩れ、そこから飛び出た怨泥が宇羅の足首を掴んだ。不快な感触が皮膚を刺す。
「くっ——」
宇羅が足に力を込めた、そのとき。
どん、と空気が爆ぜ、膨大な炎が夕闇を裂くように立ち上がる。場が一瞬で照らされるほどの爆炎の担い手を、宇羅はよく知っている。
「父上……!」
振り向けば、沈む夕日を背に、朱天が手をかざしていた。
隣の紅葉が扇子を振ると頭上に炎の剣が連なり現れ、配下たちを襲う怨泥を焼き刺していく。
「朱天様、紅葉様……!」
安堵の混じった声があがる。当主夫妻の到着で、場の士気が高まった。
ほっと息をついた宇羅の耳に、いるはずのない声が響く。
「宇羅さん!」
弾かれたように声のするほうへ向く。大きく見開かれた灰と赤の瞳に、声の主が映し出された。
宇羅は導かれるようにその名を呼んだ。
「——支都禰」
「——宇羅さん、宇羅さんっ!」
支都禰が何度も呼びかけ追いすがると、宇羅はようやく足を止めた。肩越しに見えた横顔は、このうえなく冷えきっている。
「支都禰は家から出るな」
宇羅がはっきりと「命令」をしたのは、これがはじめてだった。いつだって支都禰の意思を尊重し、なにか伝えるときも、それは依頼の形で。こうまで一方的な態度は今までなかった。
「でも——」
「出るな」
短く発せられた声が、二人を隔てた。宇羅はそのまま前へと進む。阿久良もほんの少し迷うそぶりを見せたが、黙って主に続いた。
支都禰は一瞬たじろぐも、手のひらを握り、宇羅の背中を追いかけた。
「行かせてください。私に、できることがあるかもしれなくて——」
「だめだ」
ぴしゃりと切られ、声が震えた。
「っ、どうして……!」
危険から遠ざけようとしてくれていることはわかっていた。戦闘になれば足手まといになってしまうことも。けれど、術に関して糸口が見えてきた気がするのだ。今行かなくては、この先ずっと後悔を抱えることになる。
宇羅が振り返る。灰色の瞳はつめたく、ほの暗い。
「面の暴走を、私が止められるかもしれないんです。だから……!」
「確実ではないんだろ」
「それは……っ。でも、試したいことがあるんです。宇羅さん、お願いします——」
そう言って一歩踏み出し、宇羅の腕に触れる。
その手が、そっと離された。ぬくもりが消え、指先が冷えていく。支都禰の瞳が大きく揺れた。はじめての、明確な拒絶。離す手のやさしさが、よりいっそう残酷に突き刺さる。
それを見た宇羅は一瞬、痛ましげに目を伏せた。
「俺が、鎮めてくる」
静かな覚悟は、支都禰の干渉を許さない。
(宇羅さん……)
血しぶきが脳裏をよぎり、道成寺の姿が宇羅に変わる。支都禰は激しく首を振った。
「私の面が宇羅さんまで傷つけたら、私は——!」
「っ、俺だって……」
宇羅の言葉に力がこもる。押し殺していた感情が、せきを切ったようにあふれ出た。
「これ以上、君が傷つくところは見たくない! 俺は君を失いたくは——」
宇羅がはっとして口元を押さえた。
その場の皆が息をするのを忘れ、沈黙が流れる。支都禰は目を見開いたまま、瞬きさえできなかった。
「……宇羅、さ」
「なんでもない。忘れて」
口元から手を下ろしたとき、宇羅の顔にはいつものほほ笑みが貼りついていた。それはもろく、つつけばすぐ破れ、その裏に隠された本心が出てきそうだった。
「今のは」
「ちがう」
短く否定して、宇羅は支都禰の言葉を切った。支都禰はひゅっと息をのむ。
(ちがうって、なにが……)
聞きたいのに、言葉が出てこない。宇羅の目を見ると、瞳の揺れを隠すかのようにそらされた。
「鬼灯條の者として、君の庇護者として責務を果たす。それだけだ。……だから」
その声がわずかに震えているのに気がついた。
「すべて終えたら、君を自由にする」
「じ、ゆう?」
その意味を問うことを拒むように、宇羅は背を向けた。見えない壁で隔てられたかのように、距離がずっと遠く感じる。
「……もう行く。顔色がよくない。しっかり休むんだ」
そう言い残し、宇羅は去った。阿久良も静かに一礼してあとを追う。
足音が遠ざかるのを聞きながら、支都禰は立ち尽くしていた。胸の奥に残ったのは、拒まれた痛みと、聞いてしまった思いの丈の、かけらだった。
壁に手をつき、支都禰はゆっくりと息を吐いた。壁に触れた手の震えに気がつき、ゆるゆると両手を見る。小さな古傷と、治りかけてきた新しい傷。ごつごつとした関節に、硬いタコのできた手のひら。
『この手で、幸せを掴み取れる人です』
宇羅が発してくれた言葉が、手のひらから立ちのぼる。それは支都禰に、数々の思い出を呼び起こさせた。
車での握手。夜会で司箭院を掴んだ宇羅の手。髪に触れずに褒めてくれたテラスの木もれ日。美しい炎の紋様。面打ちを見るあたたかな眼差し。カフェで重ねられた手。幼馴染から守ってくれた背中。陽だまりのほほ笑み。
宇羅はいつも、支都禰を、その尊厳を、守ってくれた。無理強いをせず、選ばせてくれた。心と身体を守るために、いつだって距離を取って見守り続けてくれた。歩幅を合わせて歩いてくれた。ついさっき、自分を置いて行ってしまった背中を思い出す。
(……いつからだろう)
支都禰のためにと空けてくれたわずかな距離を、惜しいと思い始めたのは。触れない彼の優しさを、もどかしいと感じ始めたのは。もっと触れたい、触れてほしいと、願うようになったのは。
支都禰はぎゅっと目をつぶった。さっきの言葉が、胸に刺さって抜けない。
『俺は君を失いたくは——』
その言葉の真意を、聞きたかった。宇羅が支都禰や周囲を優先するあまり、奥底に蓋をして閉じ込めてしまった彼自身の感情に、触れたかった。
おぼろげだった感情が、確かな輪郭を持ち始める。早鐘を打つ心臓が、支都禰の想いを加速させた。まぶたを開く。その瞳の奥で、黄金の粒が転がるように光を放つ。
この感情に、名前をつけるのならば。
(私は、宇羅さんが——好きだ)
認めてしまうと、もう戻れない。名づけてしまった感情は、収まることを知らずにふくれ上がっていく。前へ進まなければ。あの背中に、追いつきたい。
(私も守りたい。大切な人の、力になりたい)
自分の力は、縁を結んだ大切な人たちのために使いたい。誰かの怨念のためでなく、祈りのために。
支都禰の脳裏に二本の糸が浮かんだ。それらは重なり、結ばれ、蝶の姿になって飛んでいく。そしてまた、するりとほどけた。
「——!」
身体のうちに漂う気配が紡がれていく。その糸をたぐり寄せ、ぴんと張る。点と点が繋がり、一本の線になった。支都禰は確信した。これが紅葉の言っていた、「術を操る」ことなのだと。
(術も、同じだ)
糸のように、縁のように。結んで、ほどいていけばいい。
廊下の板が鳴る。支都禰は無我夢中で走った。
「朱天様、紅葉様!」
支都禰は返事を聞くのも忘れ、当主の部屋の扉を勢いよく開けた。朱天が顔を上げ、紅葉が振り向く。
「支都禰さん?」
「おー支都禰ちゃん、どした? 俺たちこれから——」
「じゅ、術を……」
支都禰は肩で息をし、ふーっと大きく息を吐いた。落ち着いて。顔を上げ、はっきりと伝える。
「暴走している面の術を、私の手でほどきます」
「……!」
紅葉の目が見開かれ、反対に、朱天の目は細まった。
黄金の瞳に、決意の輝きが宿る。
「お願いします。宇羅さんのところへ、行かせてください」
◆
森へ向かう道は、夕刻にしては暗い。赤黒い雲が低く垂れ、地面には茶色の枯葉が重なり合う。遠くで鳥の群れが羽ばたく音がした。
鬼灯條家の一行は先を急ぐ。黙って進む宇羅の背中は、なにも語らない。側頭部につけた鬼の面が、足音に合わせて揺れた。
阿久良は前を行く主に向かって、そっと口を開いた。
「……宇羅様」
「なんだ」
「支都禰様のこと……。本当に、いいんですか」
めずらしく主従の線を越えてきた阿久良に、宇羅の足が一瞬止まりかけ、すぐ動く。
「いい」
きっぱりと答え、独り言のように続けた。
「俺は長として民を護る。彼女も……同じように」
阿久良はその言葉に眉を寄せた。長年仕えてはじめて見る、主の葛藤。宇羅は支都禰を、多くの護るべき民のひとりにはめ込もうとしている。
出すぎたまねだと承知のうえで、阿久良はもう一言、その背中に語りかけた。
「同じでないのは、宇羅様が一番お分かりのはずです」
宇羅の喉が動いた。視線はそのままに、宇羅は吐き出すように返す。
「……わかってるさ」
わかっている。
定められた道の途中で拾い上げた、たったひとつの、特別な輝き。輝く瞳、名を呼ぶ声、誇りが刻まれた美しい手。笑えば嬉しくて、泣けば心が痛んで。すべてが宇羅を掴んで離さない。
『それは——長として? それとも、男として?』
かつて央丹に投げられた問いが響く。
この感情がなんなのか、とっくに気がついていた。けれど、だからこそ、宇羅は奥深くに封じることを選んだのだ。
「わかってるから、だめなんだ」
宇羅はつぶやいた。自身の言葉に、心がうずく。
「たかが俺の心ひとつで、彼女を縛るわけにはいかない」
「……」
(それなら、あなたが縛り封じたその心は、どうするのですか)
木々のあいだを風が抜け、枯れ葉が巻き上がる。
阿久良の問いは声になることなく、風と共に立ち消えた。
奥へ近づくにつれ、空気が濁った。
一行の視界の先で、怪異がうごめいている。それはどろどろとうず高く、はっきりとした形を成さない。その中心に、天狗の面がついていた。
「ひっ」
うしろの配下たちがひるむ。宇羅も足を止め、顔をしかめた。
「……これは」
妖の形をなした泥のような塊——怨泥——が本体からぼとりと落ち、こちらへずるずる向かってくる。それは妖が怪異に変ずるのとはまたちがう、不気味な光景だった。
「うわあああああーっ!」
悲鳴に視線を動かすと、配下が怨泥に覆われ、身体がむしばまれていく。そのまま宇羅たちの目の前で、怪異へと変わり始めた。
「——!」
「全員散れ! あれに触れるな! 二人一組になって対処しろ!」
宇羅の叫びで、全員が弾かれたように動き出した。
宇羅は怪異となりかけた配下にすぐさま炎を放つ。完全に意識を失う前に祓いきり、配下が咳き込みながらひざをつく。
「若様、すみません……!」
「お前は下がって仲間のところへ。周辺にこぼれたやつらを頼む。本体(あれ)は、俺と阿久良が」
「はっ……!」
宇羅と阿久良は、怨泥を吹き出し続ける怪異の前に立った。
「宇羅様、これは……」
「俺たちをのみ込んで、全員怪異に変えるつもりだ」
悔しさに歯を食いしばる。これは一体の妖が変異したものではないと気配でわかる。この怪異の塊ができるまで、どれほどの妖が犠牲になったのだろう。
目の前に広がる光景が、幼いころ見た絵巻を想起させた。その絵巻の名は……。
「——百鬼夜行?」
触れればたちまち命を奪うとされた、伝説の大行進。
宇羅の身体の芯が冷えた。もしこれが、ただの暴走ではないのなら。何者かが意図を持って怨念を集め、妖を怪異へと変え、ことを起こそうとしているのなら。
無機質にはりつく天狗面に、支都禰の顔が浮かぶ。彼女の誇りを、そんなことに使わせるわけにはいかない。
刹那、怪異がごぽりと動いた。身体中に開いた穴からうめき声が重ねられ、地面が震える。
「阿久良!」
二人が左右へ跳ぶと、もといた場所に吹き出た怨泥が激突した。しゅうしゅうと黒い煙が立ちのぼり、腐敗臭が鼻をつく。
宇羅は面に触れ、炎を立ち上げた。紋様が地を這い、怪異から伸びる泥の触手を焼き切る。阿久良も腰につけた面に触れ、叫んだ。
「狐火!」
声に狐火たちが散り、怨泥にのまれそうな配下たちを助けた。
阿久良は襲いくる怨念に向き合い、手を振りかざした。鋭い風を纏った霧が怨念を切り裂く。宇羅と阿久良は並び立ち、ふたたび飛び出した。
倒しても倒しても、怨泥は湧き続ける。行く手をふさがれ、本体へたどり着くことを許されない。怪異は禍々しい気を放ち、地に根を張るように広がろうとする。
この阿鼻叫喚の中で、天狗の面だけが静かにその光景を眺めていた。ひび割れた目の奥で、黒いものが脈打っている。
(よくも支都禰の面を、こんな——っ!)
宇羅は面をにらみつけた。強い憤りに炎が強くなり、周囲の空気が熱を持つ。
突然怪異がうねり、怨泥がいっせいに吹き上がった。配下が弾かれ、阿久良がかばう。宇羅が盾のように炎を広げると、天狗面の目元から飛び出た怨泥が激突した。押し込まれ、宇羅の足が滑る。
「っ……」
「宇羅様!」
阿久良が叫ぶと同時に宇羅の足元が崩れ、そこから飛び出た怨泥が宇羅の足首を掴んだ。不快な感触が皮膚を刺す。
「くっ——」
宇羅が足に力を込めた、そのとき。
どん、と空気が爆ぜ、膨大な炎が夕闇を裂くように立ち上がる。場が一瞬で照らされるほどの爆炎の担い手を、宇羅はよく知っている。
「父上……!」
振り向けば、沈む夕日を背に、朱天が手をかざしていた。
隣の紅葉が扇子を振ると頭上に炎の剣が連なり現れ、配下たちを襲う怨泥を焼き刺していく。
「朱天様、紅葉様……!」
安堵の混じった声があがる。当主夫妻の到着で、場の士気が高まった。
ほっと息をついた宇羅の耳に、いるはずのない声が響く。
「宇羅さん!」
弾かれたように声のするほうへ向く。大きく見開かれた灰と赤の瞳に、声の主が映し出された。
宇羅は導かれるようにその名を呼んだ。
「——支都禰」
