鬼灯條家の本邸に、一家四人がそろっていた。
日は高いが部屋はやや薄暗く、障子を通った光が畳をうっすらと照らしている。庭の紅葉が風に揺れ、カサカサと軽やかな音を立てる。
紅葉が、視線をついと宇羅に向けた。
「——それで、負傷者は?」
「道成寺は支都禰がすぐ止血し、処置も早く済んだので大事に至りませんでした。本人も元気そうで近々復帰すると。他も皆、軽傷です」
「そう、よかったわ。支都禰さんは?」
そこで宇羅は一拍、呼吸を整える。
「支都禰は……」
視線を落とし、唇を噛む。あの山から戻った夜のつめたさが、今も指先に残っている気がした。
「意識は戻りました。ですが、もう面は……打たないと」
あの日、支都禰は配下と共に道成寺を支えて帰宅した。宇羅や周囲が代わろうとしても譲らず、最初から最後まで、道成寺に寄り添い続けた。そして医務室へ着いたのち、意識を失い倒れ込み、そこから数日眠り続けた。直衡も澄子を連れて駆けつけたが、昏睡の原因を解き明かすことはできなかった。
宇羅は毎日、ベッドの横で回復を願った。そのまつ毛が震え、黄金の瞳が自分を映す日を、ただひたすら待ち続けた。
目覚めたと聞いて駆けつけた宇羅が見たものは、輝きを失った黄土色の瞳だった。
『私が面を打てば、また誰かを苦しめるかもしれない。……だから』
視線はこちらを向いているはずなのに、その瞳が宇羅をとらえることはない。
『やめます。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい』
支都禰の悲痛な決定を思い出し、爪が食い込むほど手を握る。
「すでに各地に納品した面も、悪用されぬよう回収して……破棄してほしいと。俺の責任です。彼女の生きがいを、奪わせてしまった」
「兄上……」
央丹が痛ましげに宇羅を見やる。
「宇羅、央丹」
いつもより低い父の声に、息子二人が顔を向ける。
「どうやらうちの中に、ちょっかいをかけられた子がいるみたいでね」
「……!」
「術で口を割られたと。おそらく……奪いにきたのと同じ奴だ」
「今回のことは、鬼灯條家全体の問題よ。何者かが、悪しき強大な力を求めている」
支都禰は周囲のために、生きがいを、誇りを捨てる決断をした。
宇羅はこれまでの己の行動を悔いた。もっと別の方法があったはずだ。支都禰の意思に反したとしても、彼女も術も外へ出さず、ゆるやかに囲っていれば……。
紅葉は息子の胸の内を見透かし、扇子を広げてきっぱりと告げた。
「支都禰さんの術の問題は、いずれにせよ直面したはず。だからこそ、元凶を追うだけでなく、防ぐ手立てを探すべきでしょう」
紅葉は扇子を前へと向けた。小さな炎がゆらりと浮かび上がる。
「そもそも妖の術は、本人の意思によって操るもの。ならば解決の糸口は、支都禰さんの中にあるはずよ」
宇羅は立ち上がった。
「今の彼女に必要なのは、休養と安全です」
央丹は兄を見上げた。宇羅の灰色の瞳は、ほの暗い光を鋭く放っている。
「天狗面とその元凶については、俺の手で決着をつけます。……かならず」
◆
支都禰はベッドの上で上半身を起こし、窓の向こうで流れる雲を、うつろな目で眺めていた。そこに狐面はない。
「支都禰、こんなにやせちゃって……!」
見舞いに来た澄子が支都禰の両頬に手を添えた。隣の姫乃は乱れた灰色の髪を撫で、骨ばった手を握る。
「話は聞いたわ。天狗面については、うちのほうでも調べているから」
姫乃の言葉にぴくりと身体をこわばらせ、支都禰は力なくほほ笑んだ。
「うん、ありがとう……。もう打たないから、これ以上は心配ないよ」
「……!」
「そんな、なに言ってるの……!?」
二人が息をのむ。言い寄ろうとする澄子を、姫乃が扇子を持つ手で制した。
「私、舞い上がってた。ずっとやってきた面打ちが役に立って、幸せで。それでつい、よくばっちゃった……。だからきっと、ばちが当たったんだね」
「支都禰……」
「私の面が、大切な人を傷つけた。私には、これしかないのに」
そう言って支都禰は目を伏せた。愛おしいはずの自分の手が、色褪せて見える。
「打てば打つほど、危険が増える。だったら……ぜんぶ、なくさないと」
気丈に笑ってみせると、澄子の目から涙が一筋流れた。
「澄子ちゃん?」
「だってあなたが、泣いてるから」
「え……?」
頬に手をやると、指が濡れた。支都禰はぼんやりとそれを見つめる。澄子はその細い手を、壊れ物を扱うように、両手でそっと包み込んだ。
「支都禰。私がね、悪夢にのまれそうになったとき、阿久良さんにかけてもらった言葉があるの」
澄子が祈るように言葉を紡ぐ。
「『諦めるな。君の夢は、誰にも奪えない』」
「——!」
「支都禰の夢は、誇りは、支都禰だけのものだよ。面が奪われても、それだけは、誰も奪えないから」
真っ暗な世界に、小さな小さな光がともる。
「だから支都禰……、諦めないで」
それまで黙って見守っていた姫乃が、すっと立ち上がった。ちりん、と小さく鈴が鳴る。
「もう、がまんならないわね」
支都禰に手を差し伸べ、凛と告げた。
「ほら。行きましょ」
姫乃になかば無理やり連れ出され、支都禰は澄子に支えられて阿曽宮家の稽古場に着いた。舞台の手前で待つように言われ、澄子と並んで座る。澄子の手が、支都禰の手をしっかりと握っていた。
「お待たせ」
気品のある声が響き、奥から姫乃が現れた。その姿に、支都禰と澄子は目をみはる。
姫乃は白衣に緋袴姿で、その上に千早を羽織っていた。頭には繊細な装飾のほどこされた前天冠。髪はうしろで束ねられ、熨斗や水引で鮮やかに飾られている。神の祝福をその身に宿した、ひとりの美しい巫女がそこにいた。
そして、その手に持っているのは……。
「なんで、それを」
首を振りながら、支都禰が声を震わせる。姫乃はほほ笑みながら、手に持つ小面を掲げてみせた。
「これのこと?」
「だってそれは——!」
(まだ、渡してなかったのに……)
以前、完成させた小面。けれど渡す機会を逃したまま、あの一件を迎えてしまった。
姫乃は腰を浮かせた支都禰の前まで歩いてきて、熱を秘めた眼差しで支都禰を射抜いた。
「央丹君に頼んだのよ。支都禰さんの気持ちを無視することになるけれど、責任は私が取るからって。……今からこれをつけて、神楽を舞うわ」
「そんな……。姫乃さん、やめて」
もし、彼女になにかあったら……。面の力が、大切な人を襲う悪夢を何度も見た。だからもう、味方にすら面をつけてほしくなかった。
「いやよ」
姫乃は支都禰に背を向け、面を顔に当てながら、ぴしゃりと言った。
「でも……」
すがる支都禰の肩に、澄子の手がのった。
「支都禰、姫乃さんならきっと大丈夫だよ。だから……ね?」
それを受けて、支都禰はやむなく座り込んだ。
面をつけた姫乃が、息を吸い、ゆっくりと滑り出した。神楽鈴の音が響く。
言葉はないのに、姫乃の想いが直接流れ込んでくる。鈴が鳴るたび支都禰の心を揺さぶり、鈴の軌道が迷いを切り払う。
(ああ、姫乃さん——)
支都禰の瞳に、鈴のきらめきが反射する。
(私のために、私のためだけに、舞ってくれてるんだね)
『いつかあなたの面をつけて、神楽を舞いたい』
はじめて会った日のあの約束が、姫乃の手によって叶えられた。
舞を終え、姫乃が面を外して降りてくる。支都禰と澄子は立ち上がった。
姫乃は支都禰と向き合い、面を差し出した。小面は支都禰を静かに見つめている。支都禰がためらいがちに顔を上げると、姫乃は頷き、力強い一言を添えた。
「私はあなたを、信じているわ。……支都禰」
支都禰の瞳が輝き、大粒の涙がこぼれた。面を受け取り、抱きしめる。
辞めることで皆を守れると思おうとした。けれど、それではただ逃げるだけだ。この誇りを誰かの悪意に奪わせなどしない。したくない。
大切なものを、守れる自分になりたい。
「ありがとう。二人とも……」
支都禰はそのまま、二人の友の腕の中で思いきり泣いた。
夕暮れが鬼灯條家の庭を染め上げ、紅葉が一枚、風に乗ってはらりと落ちる。
目元を真っ赤に腫らした支都禰が離れに戻ると、甘く香ばしい香りと共に、やさしい声がかけられた。
「支都禰さん」
薄手の羽織を肩にかけ、ほほ笑みを浮かべた紅葉が支都禰を出迎えた。
「……紅葉様」
「お帰りなさい。少し、話をしましょう」
日は高いが部屋はやや薄暗く、障子を通った光が畳をうっすらと照らしている。庭の紅葉が風に揺れ、カサカサと軽やかな音を立てる。
紅葉が、視線をついと宇羅に向けた。
「——それで、負傷者は?」
「道成寺は支都禰がすぐ止血し、処置も早く済んだので大事に至りませんでした。本人も元気そうで近々復帰すると。他も皆、軽傷です」
「そう、よかったわ。支都禰さんは?」
そこで宇羅は一拍、呼吸を整える。
「支都禰は……」
視線を落とし、唇を噛む。あの山から戻った夜のつめたさが、今も指先に残っている気がした。
「意識は戻りました。ですが、もう面は……打たないと」
あの日、支都禰は配下と共に道成寺を支えて帰宅した。宇羅や周囲が代わろうとしても譲らず、最初から最後まで、道成寺に寄り添い続けた。そして医務室へ着いたのち、意識を失い倒れ込み、そこから数日眠り続けた。直衡も澄子を連れて駆けつけたが、昏睡の原因を解き明かすことはできなかった。
宇羅は毎日、ベッドの横で回復を願った。そのまつ毛が震え、黄金の瞳が自分を映す日を、ただひたすら待ち続けた。
目覚めたと聞いて駆けつけた宇羅が見たものは、輝きを失った黄土色の瞳だった。
『私が面を打てば、また誰かを苦しめるかもしれない。……だから』
視線はこちらを向いているはずなのに、その瞳が宇羅をとらえることはない。
『やめます。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい』
支都禰の悲痛な決定を思い出し、爪が食い込むほど手を握る。
「すでに各地に納品した面も、悪用されぬよう回収して……破棄してほしいと。俺の責任です。彼女の生きがいを、奪わせてしまった」
「兄上……」
央丹が痛ましげに宇羅を見やる。
「宇羅、央丹」
いつもより低い父の声に、息子二人が顔を向ける。
「どうやらうちの中に、ちょっかいをかけられた子がいるみたいでね」
「……!」
「術で口を割られたと。おそらく……奪いにきたのと同じ奴だ」
「今回のことは、鬼灯條家全体の問題よ。何者かが、悪しき強大な力を求めている」
支都禰は周囲のために、生きがいを、誇りを捨てる決断をした。
宇羅はこれまでの己の行動を悔いた。もっと別の方法があったはずだ。支都禰の意思に反したとしても、彼女も術も外へ出さず、ゆるやかに囲っていれば……。
紅葉は息子の胸の内を見透かし、扇子を広げてきっぱりと告げた。
「支都禰さんの術の問題は、いずれにせよ直面したはず。だからこそ、元凶を追うだけでなく、防ぐ手立てを探すべきでしょう」
紅葉は扇子を前へと向けた。小さな炎がゆらりと浮かび上がる。
「そもそも妖の術は、本人の意思によって操るもの。ならば解決の糸口は、支都禰さんの中にあるはずよ」
宇羅は立ち上がった。
「今の彼女に必要なのは、休養と安全です」
央丹は兄を見上げた。宇羅の灰色の瞳は、ほの暗い光を鋭く放っている。
「天狗面とその元凶については、俺の手で決着をつけます。……かならず」
◆
支都禰はベッドの上で上半身を起こし、窓の向こうで流れる雲を、うつろな目で眺めていた。そこに狐面はない。
「支都禰、こんなにやせちゃって……!」
見舞いに来た澄子が支都禰の両頬に手を添えた。隣の姫乃は乱れた灰色の髪を撫で、骨ばった手を握る。
「話は聞いたわ。天狗面については、うちのほうでも調べているから」
姫乃の言葉にぴくりと身体をこわばらせ、支都禰は力なくほほ笑んだ。
「うん、ありがとう……。もう打たないから、これ以上は心配ないよ」
「……!」
「そんな、なに言ってるの……!?」
二人が息をのむ。言い寄ろうとする澄子を、姫乃が扇子を持つ手で制した。
「私、舞い上がってた。ずっとやってきた面打ちが役に立って、幸せで。それでつい、よくばっちゃった……。だからきっと、ばちが当たったんだね」
「支都禰……」
「私の面が、大切な人を傷つけた。私には、これしかないのに」
そう言って支都禰は目を伏せた。愛おしいはずの自分の手が、色褪せて見える。
「打てば打つほど、危険が増える。だったら……ぜんぶ、なくさないと」
気丈に笑ってみせると、澄子の目から涙が一筋流れた。
「澄子ちゃん?」
「だってあなたが、泣いてるから」
「え……?」
頬に手をやると、指が濡れた。支都禰はぼんやりとそれを見つめる。澄子はその細い手を、壊れ物を扱うように、両手でそっと包み込んだ。
「支都禰。私がね、悪夢にのまれそうになったとき、阿久良さんにかけてもらった言葉があるの」
澄子が祈るように言葉を紡ぐ。
「『諦めるな。君の夢は、誰にも奪えない』」
「——!」
「支都禰の夢は、誇りは、支都禰だけのものだよ。面が奪われても、それだけは、誰も奪えないから」
真っ暗な世界に、小さな小さな光がともる。
「だから支都禰……、諦めないで」
それまで黙って見守っていた姫乃が、すっと立ち上がった。ちりん、と小さく鈴が鳴る。
「もう、がまんならないわね」
支都禰に手を差し伸べ、凛と告げた。
「ほら。行きましょ」
姫乃になかば無理やり連れ出され、支都禰は澄子に支えられて阿曽宮家の稽古場に着いた。舞台の手前で待つように言われ、澄子と並んで座る。澄子の手が、支都禰の手をしっかりと握っていた。
「お待たせ」
気品のある声が響き、奥から姫乃が現れた。その姿に、支都禰と澄子は目をみはる。
姫乃は白衣に緋袴姿で、その上に千早を羽織っていた。頭には繊細な装飾のほどこされた前天冠。髪はうしろで束ねられ、熨斗や水引で鮮やかに飾られている。神の祝福をその身に宿した、ひとりの美しい巫女がそこにいた。
そして、その手に持っているのは……。
「なんで、それを」
首を振りながら、支都禰が声を震わせる。姫乃はほほ笑みながら、手に持つ小面を掲げてみせた。
「これのこと?」
「だってそれは——!」
(まだ、渡してなかったのに……)
以前、完成させた小面。けれど渡す機会を逃したまま、あの一件を迎えてしまった。
姫乃は腰を浮かせた支都禰の前まで歩いてきて、熱を秘めた眼差しで支都禰を射抜いた。
「央丹君に頼んだのよ。支都禰さんの気持ちを無視することになるけれど、責任は私が取るからって。……今からこれをつけて、神楽を舞うわ」
「そんな……。姫乃さん、やめて」
もし、彼女になにかあったら……。面の力が、大切な人を襲う悪夢を何度も見た。だからもう、味方にすら面をつけてほしくなかった。
「いやよ」
姫乃は支都禰に背を向け、面を顔に当てながら、ぴしゃりと言った。
「でも……」
すがる支都禰の肩に、澄子の手がのった。
「支都禰、姫乃さんならきっと大丈夫だよ。だから……ね?」
それを受けて、支都禰はやむなく座り込んだ。
面をつけた姫乃が、息を吸い、ゆっくりと滑り出した。神楽鈴の音が響く。
言葉はないのに、姫乃の想いが直接流れ込んでくる。鈴が鳴るたび支都禰の心を揺さぶり、鈴の軌道が迷いを切り払う。
(ああ、姫乃さん——)
支都禰の瞳に、鈴のきらめきが反射する。
(私のために、私のためだけに、舞ってくれてるんだね)
『いつかあなたの面をつけて、神楽を舞いたい』
はじめて会った日のあの約束が、姫乃の手によって叶えられた。
舞を終え、姫乃が面を外して降りてくる。支都禰と澄子は立ち上がった。
姫乃は支都禰と向き合い、面を差し出した。小面は支都禰を静かに見つめている。支都禰がためらいがちに顔を上げると、姫乃は頷き、力強い一言を添えた。
「私はあなたを、信じているわ。……支都禰」
支都禰の瞳が輝き、大粒の涙がこぼれた。面を受け取り、抱きしめる。
辞めることで皆を守れると思おうとした。けれど、それではただ逃げるだけだ。この誇りを誰かの悪意に奪わせなどしない。したくない。
大切なものを、守れる自分になりたい。
「ありがとう。二人とも……」
支都禰はそのまま、二人の友の腕の中で思いきり泣いた。
夕暮れが鬼灯條家の庭を染め上げ、紅葉が一枚、風に乗ってはらりと落ちる。
目元を真っ赤に腫らした支都禰が離れに戻ると、甘く香ばしい香りと共に、やさしい声がかけられた。
「支都禰さん」
薄手の羽織を肩にかけ、ほほ笑みを浮かべた紅葉が支都禰を出迎えた。
「……紅葉様」
「お帰りなさい。少し、話をしましょう」
