天狗の面が消えてから数日。
安達原が盆を手に縁側へ向かうと、支都禰がぼんやりと庭を眺めていた。
「支都禰様、ほうじ茶はいかがですか?」
湯呑と甘味をそっと置く。支都禰はゆるゆると湯呑へ視線を落とし、か細い声で礼を述べた。
「ありがとう……。いただきます」
「支都禰様、これ私のお土産。ぜひ食べてくださいね〜!」
安達原のうしろから、道成寺が甘味を指さす。支都禰はここ数日で食がさらに細くなってしまった。鬼灯條家へ来てから徐々に明るさを取り戻していた支都禰の表情に、今は暗い影が差している。
安達原は支都禰の手をちらりと見た。面が消えたあの晩、安達原は宇羅の言づけで支都禰の手当てをした。そのときの彼女の憔悴ぶりが頭から離れない。妖の世界や鬼灯條家のことを学ぶ傍ら、面を打ち続けてきた支都禰。生み出した面たちは、そのすべてが大切な存在にちがいない。
「天狗面については、若様が引き続き調査していますから」
「そうですね。今は……待たないと」
励ましの言葉に、支都禰は弱々しく笑う。
奥のほうで、ひそかに見守っていた宇羅が静かに踵を返した。それに気づいた安達原は、宇羅が去っていったほうを気遣わしげに見つめた。
(若様……)
宇羅は険しい顔つきを崩さないまま廊下を歩く。先ほどの支都禰のようすがちらついて、口惜しさに歯を食いしばった。
(あんな顔、させたくないのに)
連日、屋敷と街を行き来し、面の行方を追い続けた。しかし手がかりが得られない。使いの者も、なにも覚えていないという。ただ、彼に残る気配には、術の痕跡が残っていた。
「兄上」
執務室に戻ると、央丹が振り向いた。
「なにかわかったか」
「いや。……術者はたぶん、新手だろうね」
宇羅は速やかに席につき、積まれた書類に目を走らせた。この件以外にも、近ごろは怪異の発生が頻発している。
央丹も書類を仕分け、紙をめくりながら会話を続けた。
「きっと最初から、狙いは義姉上の面だったんだ」
支都禰に関する情報は、鬼灯條家の中でもごく少数しか把握していない。さらに面は家、荷車、奉納先のすべてに結界が張られ、厳重に守られている。相手は結界を破るほどの力を持ち、面に宿る術についても知っている可能性がある。
宇羅は紙を持つ手に力を込め、くやしげにつぶやいた。
「情報が、もれている」
◆
報せが届いたのは、西陽が差し込み始めたころだった。
全体が御神体とされていた山で、怪異が発生したという。報告書に記された怪異の特徴、それは……。
「天狗面……!」
支都禰の口から、悲鳴に近い声がもれる。足の力が抜けそうになり、一歩下がった。目の前が真っ暗になったような感覚に身体が冷え、手が震える。
「怪異は単独ですが、強大で、捜査隊では歯が立たず……。一時撤退したそうです」
いつもは淡々とした阿久良が、悩ましげに、言葉を選びながら告げた。
宇羅が前に出る。
「行くぞ阿久良。央丹、あとは任せる」
「私も行きます!」
支都禰はとっさに立ちふさがった。
「危険だから君はここで——」
「私の面が関わっていることなら、行かせてください。お願いします!」
支都禰の悲痛な叫びが部屋に響く。黄金の瞳からあふれる決意の固さに、宇羅は息をのんだ。
「支都禰……」
悩んでいる時間はない。支都禰がいることで、状況を変えられるかもしれない。
「わかった。ただし絶対に、前には出ないで」
◆
多くの信心が寄せられていた山は、かつての姿を失って久しい。鳥居は朽ちかけ傾き、くり返された伐採によって、山肌の一部が茶色くはがれていた。沢は濁り、細い土色がまるで血のように流れている。
そこでは、長いあいだ、神馬がじっと耐えていた。信仰が薄れ、自然が侵されても、姿を現さなくなった神をその背に乗せる日を待ち続けた。
そしてあるとき。氷のような瞳を持った妖が、ぬるりと神馬のもとを訪れた。神馬の嘆きに寄りそい、神聖な山を汚した愚かな人間に復讐するようせき立てた。神馬は静かに首を振る。そんなことをしても神が、自然が、戻るわけではないとわかっていたから。
しかし妖は、神馬の奥底に眠る憤りを見逃さなかった。妖が神馬の目元になにかをつけてからは、激昂に全身をむしばまれ、思考が黒く塗りつぶされた。
神馬は強大な怪異と成り果て、自分が何者かも忘れ、苦しみのたうちまわっていた。
「——そんな」
支都禰は目の前の現実に、絶句した。
神馬の白い毛並みはすすけ、この山と同じように、ところどころ肌が露出していた。地団駄をふむように地面を叩き、腹の底まで響く揺れが全身を襲った。甲高いいななきは、どこか悲鳴の様相をはらんでいる。その目元は、よく知る天狗の面で覆われていた。
自分が魂を込めて打った、かけがえのない面。それが今、大切な人たちに牙を向けている。
支都禰の脳裏に、宇羅がかけてくれた言葉がよぎる。
『俺の炎を強く、美しいと感じたなら……。それは君が俺に与えてくれたものだよ』
あのとき心に響いた言葉が、今度はつめたい刃となって突き刺さる。自分の面が、術が、怪異を増幅させ、皆を苦しめ傷つけている。あのとき美しかった光景が、今は真逆の姿で描き出されていた。
(まずいな。支都禰の面で強化されている)
宇羅は支都禰の視界をふさぐように立ちながら、心の中で舌打ちをした。この光景を支都禰に見せたくはなかった。だから屋敷に残すつもりだったけれど、彼女の気持ちも痛いほど理解できたから、道成寺の護衛という条件つきで許可をした。それに現状、もしこの局面において手立てがあるとしたら、支都禰に秘められた可能性だという直感があった。
「……よくも、彼女の誇りを穢したな」
声に怒気がこもる。いまだ謎に包まれた元凶に対する激しい怒りを胸に、宇羅は唇を噛んで神馬をにらみつけた。
「……支都禰は下がって。道成寺、頼んだ」
宇羅はそう言い残し、阿久良や配下たちと共に駆け出した。
支都禰は思わず宇羅の背中へ手を伸ばす。
「宇羅さん……っ!」
声も、手も、届かない。こんなとき、自分の無力さがもどかしく、くやしい。
宇羅の炎が神馬を包囲するも、面からもれ出るもやがそれを打ち消す。数多の攻撃に全員が押され、宇羅ですら押しとどめるので精一杯のようすだった。
「キィイイイイイ!」
咆哮に支都禰が顔を上げると、邪気にまみれた光線が、口から飛び出るところだった。幾筋にも伸びた光線のひとつが、こちらに向かっている。道成寺がかばおうとするも、太い一本の筋のようだったそれは二人の手前でほどけ、放射状になって襲いかかった。
離れたところに立つ宇羅が、自身を襲う光線を防ぎながら叫ぶ。
「支都禰‼︎」
「道成寺さん!」
支都禰が道成寺のうしろから手を伸ばす。無意味だろうが、ただ守られるだけではいられなかった。
「支都禰様! 下がって——」
そのとき、支都禰の狐面の目が光を放ち、ぶわりと風が広がる。視界が白く覆われた。
「支都禰様……⁉︎」
道成寺の声に支都禰がおそるおそる目を開くと、自分の手のひらの前に、光の膜が現れていた。支都禰の手から発せられているように見えるそれは、花咲くように広がり、光線を防いでいる。
支都禰の髪は、いつの間にか白銀に輝いていた。
「これは……?」
とまどっていると、身体の中で懐かしい気配がした。とっさにそれが、頭の狐面から発せられたものだと感じ取る。気配が栓を取り除き、内なる流れを取り戻してくれたようだった。
(母さん?)
光線をしりぞけ、支都禰は自分の手のひらを見つめた。
(母さんが抑えてた術の気配って、このことだったの?)
「支都禰様、ありがとうございます……!」
道成寺の声で我に返る。まだ油断できない。支都禰は手を握りしめ、顔を上げた。
「はぁ……」
宇羅から安堵の声がもれる。おそらく、支都禰がなんらかの術に目覚めたのだろう。
息をつき、神馬に向き直る。窮地でまたひとつ強さを得た彼女に敬意を抱くも、やはり、危険に身を晒させてしまった後悔と自責の念にさいなまれる。
(早く、決着をつけよう)
宇羅はゆっくりとまぶたを上げ、暴れまわる神馬を見据えた。
「——狐火!」
阿久良の声で、狐火たちがいっせいに飛び出した。神馬の周囲を阿久良の放った霧が覆い、宇羅の炎が、低くうねった。立ち上がった紋様が地面を這い、木々の影が揺れる。
神馬の背後をとった宇羅は、その手を前へかざした。瞳の炎が激しく揺れ、耳飾りが炎を反射した。
「ここで、鎮まれ——!」
炎が弧を描き、神馬の足元を囲むように走る。紋様が網目のように広がり、ついに神馬を包み込んだ。抵抗するように暴れ、光線を撒き散らすも、阿久良や配下の者たちの術でなんとか抑え込む。
神馬は炎の中で跳ねた。蹄が地面を打ち、土が舞う。天狗面はみしりと音を立てて、目元がひび割れた。その線は、神馬の流す、見えない涙のようだった。
離れたところに立つ支都禰の瞳に、そのひび割れが映る。胸が詰まり、声がもれた。
「もうやめて。苦しめないで……」
神馬にまとわりついた怨念が炎に焼かれ、落ちていく。しがみつくようにうねる邪気に、宇羅は新たな炎を覆い被せた。
その瞬間。天狗面が外れ、炎の中から飛び出し、空へ放たれた。
「あ……っ」
支都禰はつい、それを目で追った。
視線が逸れた、その刹那。神馬の身体から、最後の抵抗と言わんばかりに黒い濁流が噴き上がった。それはまるで意思を持つかのように、黒い筋となってまっすぐ支都禰へと向かった。
「支都禰!」
「支都禰様!」
宇羅と道成寺の叫びが重なった。
「——え?」
血しぶきが舞い、道成寺が倒れ込む。その一部始終が、まるで時間の流れが遅くなったかのように、ゆっくりと、支都禰の目に焼きつけられた。
「道成寺!」
宇羅が叫ぶも、まだ神馬が抵抗していた。
支都禰たちのほうへ駆けつけたい衝動を抑え、歯を食いしばって炎を放つ。天狗面の外れた神馬は少しずつその力を弱め、身体から力が抜けていった。甲高いいななきがだんだんと小さくなり、赤子のような泣き声をあげて、消えた。
「道成寺さん……!」
支都禰は目に涙を溜めながら、道成寺を抱き上げた。太もものあたりの着物が破れ、すっぱりと裂けた傷口が見えた。周囲の着物は赤黒く染まり、それがどんどん広がった。
(私のせいで……)
「かすり傷ですよ〜。だからそんな顔……っ!」
力なく笑った道成寺は、痛みで顔を歪ませる。
支都禰は唇を噛んだ。回復の術を持っていたらよかったのに。肝心なときに、いつも、なんの役にも立たない。視線を落とすと、すすけた灰色の髪のあいだから、自分の着物の袖が破れているのが目に入った。考える間もなく、思いきり引き裂く。
「支都禰様、そんな」
「しゃべらないで、止血するから……!」
震える手で衣を巻きつけ、きつく結ぶ。
そのとき、宇羅たちが駆けつけた。
「支都禰! 道成寺!」
支都禰は結び終えた自分の手を見た。血が、手のひらにべっとりとついている。生々しい感触が、支都禰に現実を突きつける。宇羅がなにかを言っているのに、それがよく聞こえない。
支都禰の視界が、どろりと赤く染まった。
安達原が盆を手に縁側へ向かうと、支都禰がぼんやりと庭を眺めていた。
「支都禰様、ほうじ茶はいかがですか?」
湯呑と甘味をそっと置く。支都禰はゆるゆると湯呑へ視線を落とし、か細い声で礼を述べた。
「ありがとう……。いただきます」
「支都禰様、これ私のお土産。ぜひ食べてくださいね〜!」
安達原のうしろから、道成寺が甘味を指さす。支都禰はここ数日で食がさらに細くなってしまった。鬼灯條家へ来てから徐々に明るさを取り戻していた支都禰の表情に、今は暗い影が差している。
安達原は支都禰の手をちらりと見た。面が消えたあの晩、安達原は宇羅の言づけで支都禰の手当てをした。そのときの彼女の憔悴ぶりが頭から離れない。妖の世界や鬼灯條家のことを学ぶ傍ら、面を打ち続けてきた支都禰。生み出した面たちは、そのすべてが大切な存在にちがいない。
「天狗面については、若様が引き続き調査していますから」
「そうですね。今は……待たないと」
励ましの言葉に、支都禰は弱々しく笑う。
奥のほうで、ひそかに見守っていた宇羅が静かに踵を返した。それに気づいた安達原は、宇羅が去っていったほうを気遣わしげに見つめた。
(若様……)
宇羅は険しい顔つきを崩さないまま廊下を歩く。先ほどの支都禰のようすがちらついて、口惜しさに歯を食いしばった。
(あんな顔、させたくないのに)
連日、屋敷と街を行き来し、面の行方を追い続けた。しかし手がかりが得られない。使いの者も、なにも覚えていないという。ただ、彼に残る気配には、術の痕跡が残っていた。
「兄上」
執務室に戻ると、央丹が振り向いた。
「なにかわかったか」
「いや。……術者はたぶん、新手だろうね」
宇羅は速やかに席につき、積まれた書類に目を走らせた。この件以外にも、近ごろは怪異の発生が頻発している。
央丹も書類を仕分け、紙をめくりながら会話を続けた。
「きっと最初から、狙いは義姉上の面だったんだ」
支都禰に関する情報は、鬼灯條家の中でもごく少数しか把握していない。さらに面は家、荷車、奉納先のすべてに結界が張られ、厳重に守られている。相手は結界を破るほどの力を持ち、面に宿る術についても知っている可能性がある。
宇羅は紙を持つ手に力を込め、くやしげにつぶやいた。
「情報が、もれている」
◆
報せが届いたのは、西陽が差し込み始めたころだった。
全体が御神体とされていた山で、怪異が発生したという。報告書に記された怪異の特徴、それは……。
「天狗面……!」
支都禰の口から、悲鳴に近い声がもれる。足の力が抜けそうになり、一歩下がった。目の前が真っ暗になったような感覚に身体が冷え、手が震える。
「怪異は単独ですが、強大で、捜査隊では歯が立たず……。一時撤退したそうです」
いつもは淡々とした阿久良が、悩ましげに、言葉を選びながら告げた。
宇羅が前に出る。
「行くぞ阿久良。央丹、あとは任せる」
「私も行きます!」
支都禰はとっさに立ちふさがった。
「危険だから君はここで——」
「私の面が関わっていることなら、行かせてください。お願いします!」
支都禰の悲痛な叫びが部屋に響く。黄金の瞳からあふれる決意の固さに、宇羅は息をのんだ。
「支都禰……」
悩んでいる時間はない。支都禰がいることで、状況を変えられるかもしれない。
「わかった。ただし絶対に、前には出ないで」
◆
多くの信心が寄せられていた山は、かつての姿を失って久しい。鳥居は朽ちかけ傾き、くり返された伐採によって、山肌の一部が茶色くはがれていた。沢は濁り、細い土色がまるで血のように流れている。
そこでは、長いあいだ、神馬がじっと耐えていた。信仰が薄れ、自然が侵されても、姿を現さなくなった神をその背に乗せる日を待ち続けた。
そしてあるとき。氷のような瞳を持った妖が、ぬるりと神馬のもとを訪れた。神馬の嘆きに寄りそい、神聖な山を汚した愚かな人間に復讐するようせき立てた。神馬は静かに首を振る。そんなことをしても神が、自然が、戻るわけではないとわかっていたから。
しかし妖は、神馬の奥底に眠る憤りを見逃さなかった。妖が神馬の目元になにかをつけてからは、激昂に全身をむしばまれ、思考が黒く塗りつぶされた。
神馬は強大な怪異と成り果て、自分が何者かも忘れ、苦しみのたうちまわっていた。
「——そんな」
支都禰は目の前の現実に、絶句した。
神馬の白い毛並みはすすけ、この山と同じように、ところどころ肌が露出していた。地団駄をふむように地面を叩き、腹の底まで響く揺れが全身を襲った。甲高いいななきは、どこか悲鳴の様相をはらんでいる。その目元は、よく知る天狗の面で覆われていた。
自分が魂を込めて打った、かけがえのない面。それが今、大切な人たちに牙を向けている。
支都禰の脳裏に、宇羅がかけてくれた言葉がよぎる。
『俺の炎を強く、美しいと感じたなら……。それは君が俺に与えてくれたものだよ』
あのとき心に響いた言葉が、今度はつめたい刃となって突き刺さる。自分の面が、術が、怪異を増幅させ、皆を苦しめ傷つけている。あのとき美しかった光景が、今は真逆の姿で描き出されていた。
(まずいな。支都禰の面で強化されている)
宇羅は支都禰の視界をふさぐように立ちながら、心の中で舌打ちをした。この光景を支都禰に見せたくはなかった。だから屋敷に残すつもりだったけれど、彼女の気持ちも痛いほど理解できたから、道成寺の護衛という条件つきで許可をした。それに現状、もしこの局面において手立てがあるとしたら、支都禰に秘められた可能性だという直感があった。
「……よくも、彼女の誇りを穢したな」
声に怒気がこもる。いまだ謎に包まれた元凶に対する激しい怒りを胸に、宇羅は唇を噛んで神馬をにらみつけた。
「……支都禰は下がって。道成寺、頼んだ」
宇羅はそう言い残し、阿久良や配下たちと共に駆け出した。
支都禰は思わず宇羅の背中へ手を伸ばす。
「宇羅さん……っ!」
声も、手も、届かない。こんなとき、自分の無力さがもどかしく、くやしい。
宇羅の炎が神馬を包囲するも、面からもれ出るもやがそれを打ち消す。数多の攻撃に全員が押され、宇羅ですら押しとどめるので精一杯のようすだった。
「キィイイイイイ!」
咆哮に支都禰が顔を上げると、邪気にまみれた光線が、口から飛び出るところだった。幾筋にも伸びた光線のひとつが、こちらに向かっている。道成寺がかばおうとするも、太い一本の筋のようだったそれは二人の手前でほどけ、放射状になって襲いかかった。
離れたところに立つ宇羅が、自身を襲う光線を防ぎながら叫ぶ。
「支都禰‼︎」
「道成寺さん!」
支都禰が道成寺のうしろから手を伸ばす。無意味だろうが、ただ守られるだけではいられなかった。
「支都禰様! 下がって——」
そのとき、支都禰の狐面の目が光を放ち、ぶわりと風が広がる。視界が白く覆われた。
「支都禰様……⁉︎」
道成寺の声に支都禰がおそるおそる目を開くと、自分の手のひらの前に、光の膜が現れていた。支都禰の手から発せられているように見えるそれは、花咲くように広がり、光線を防いでいる。
支都禰の髪は、いつの間にか白銀に輝いていた。
「これは……?」
とまどっていると、身体の中で懐かしい気配がした。とっさにそれが、頭の狐面から発せられたものだと感じ取る。気配が栓を取り除き、内なる流れを取り戻してくれたようだった。
(母さん?)
光線をしりぞけ、支都禰は自分の手のひらを見つめた。
(母さんが抑えてた術の気配って、このことだったの?)
「支都禰様、ありがとうございます……!」
道成寺の声で我に返る。まだ油断できない。支都禰は手を握りしめ、顔を上げた。
「はぁ……」
宇羅から安堵の声がもれる。おそらく、支都禰がなんらかの術に目覚めたのだろう。
息をつき、神馬に向き直る。窮地でまたひとつ強さを得た彼女に敬意を抱くも、やはり、危険に身を晒させてしまった後悔と自責の念にさいなまれる。
(早く、決着をつけよう)
宇羅はゆっくりとまぶたを上げ、暴れまわる神馬を見据えた。
「——狐火!」
阿久良の声で、狐火たちがいっせいに飛び出した。神馬の周囲を阿久良の放った霧が覆い、宇羅の炎が、低くうねった。立ち上がった紋様が地面を這い、木々の影が揺れる。
神馬の背後をとった宇羅は、その手を前へかざした。瞳の炎が激しく揺れ、耳飾りが炎を反射した。
「ここで、鎮まれ——!」
炎が弧を描き、神馬の足元を囲むように走る。紋様が網目のように広がり、ついに神馬を包み込んだ。抵抗するように暴れ、光線を撒き散らすも、阿久良や配下の者たちの術でなんとか抑え込む。
神馬は炎の中で跳ねた。蹄が地面を打ち、土が舞う。天狗面はみしりと音を立てて、目元がひび割れた。その線は、神馬の流す、見えない涙のようだった。
離れたところに立つ支都禰の瞳に、そのひび割れが映る。胸が詰まり、声がもれた。
「もうやめて。苦しめないで……」
神馬にまとわりついた怨念が炎に焼かれ、落ちていく。しがみつくようにうねる邪気に、宇羅は新たな炎を覆い被せた。
その瞬間。天狗面が外れ、炎の中から飛び出し、空へ放たれた。
「あ……っ」
支都禰はつい、それを目で追った。
視線が逸れた、その刹那。神馬の身体から、最後の抵抗と言わんばかりに黒い濁流が噴き上がった。それはまるで意思を持つかのように、黒い筋となってまっすぐ支都禰へと向かった。
「支都禰!」
「支都禰様!」
宇羅と道成寺の叫びが重なった。
「——え?」
血しぶきが舞い、道成寺が倒れ込む。その一部始終が、まるで時間の流れが遅くなったかのように、ゆっくりと、支都禰の目に焼きつけられた。
「道成寺!」
宇羅が叫ぶも、まだ神馬が抵抗していた。
支都禰たちのほうへ駆けつけたい衝動を抑え、歯を食いしばって炎を放つ。天狗面の外れた神馬は少しずつその力を弱め、身体から力が抜けていった。甲高いいななきがだんだんと小さくなり、赤子のような泣き声をあげて、消えた。
「道成寺さん……!」
支都禰は目に涙を溜めながら、道成寺を抱き上げた。太もものあたりの着物が破れ、すっぱりと裂けた傷口が見えた。周囲の着物は赤黒く染まり、それがどんどん広がった。
(私のせいで……)
「かすり傷ですよ〜。だからそんな顔……っ!」
力なく笑った道成寺は、痛みで顔を歪ませる。
支都禰は唇を噛んだ。回復の術を持っていたらよかったのに。肝心なときに、いつも、なんの役にも立たない。視線を落とすと、すすけた灰色の髪のあいだから、自分の着物の袖が破れているのが目に入った。考える間もなく、思いきり引き裂く。
「支都禰様、そんな」
「しゃべらないで、止血するから……!」
震える手で衣を巻きつけ、きつく結ぶ。
そのとき、宇羅たちが駆けつけた。
「支都禰! 道成寺!」
支都禰は結び終えた自分の手を見た。血が、手のひらにべっとりとついている。生々しい感触が、支都禰に現実を突きつける。宇羅がなにかを言っているのに、それがよく聞こえない。
支都禰の視界が、どろりと赤く染まった。
