日が傾き始め木々の影が長く伸びるころ、支都禰は宇羅と並んで歩いていた。規則的に鳴る砂利の音が、心の余白を彩っていく。
「……あれは」
支都禰の足が、ふいに止まった。
庭園の奥、少し離れたところに、雄大な檜が一本立っていた。太くまっすぐで、根が地に深く食い込んでいる。夕陽の光を受けて、樹皮が金のうろこのようにきらめいていた。木に呼ばれるかのように、ゆっくりと近づく。
「この木が、気になる?」
宇羅に聞かれ、支都禰は木から目が離せないまま、ぼんやりとつぶやいた。
「なんだか、呼ばれた気がして……」
導かれるようにその木肌へ手を伸ばし、触れる。手のひらから静かなぬくもりが伝わり、雄大な生命の息吹を感じた。風に揺れる葉が応えるように、さわさわと音を立てた。
同じころ。森の奥深く、光の届きづらい場所に、一本の神木が立っていた。幹はひび割れて枯れていて、葉はひとつもついていない。枝はもがくようにうねり、土の色まで濁っている。この木を神木たらしめるしめ縄も、今はこの木を縛りつける呪いのように感じられた。
その神木に狐面がひとつ、ついている。白かったはずの面は黒ずみ、口元にひびが走っていた。狐の笑みが、ここでは空虚に見える。
神木の前に男が立ち、ゆっくりと手を伸ばした。指先が木肌に触れ、愛おしげに撫でる。
「……やっと、ここまで来た」
低い声が森に落ちる。男は狐面を見上げ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「君の娘の力で、妖の世を取り戻そうじゃないか。なあ……玉藻?」
狐面が風もないのにわずかに揺れ、その男——司箭院政元は嬉しそうに笑った。
森は鳥のさえずりさえなく、応えない。黒いもやの中で、司箭院の笑い声だけが響いた。
◆
秋を漂わせる風が街へ流れ込む。雪起は女学校からの帰り道を、友人と歩いていた。
「雪起、今日も先生に褒められてたね!」
「ふふ、ありがと」
友人の明るい声に、雪起はほほ笑んだ。趣味だった裁縫で一目置かれるようになり、気の合う友人に恵まれ、充実した日々を送っている。
「ね、またお団子買って帰らない? あそこ、おいしいじゃん」
「それ、いいわね」
この些細な日常が、雪起にとっての幸せだった。
だから、油断していた。自分の暗く澱んだ感情の塊を、ついうっかり忘れていた。
「そういえばさ」
団子を買い歩いていると、友人が首をかしげた。
「最近、従姉妹はどうしてるの? なんか、有名なお宅にいるって噂、聞いたんだけど……」
雪起の手から、団子の包みが落ちた。
「ちょっと雪起、大丈夫?」
「ああ……ごめん」
顔を見られないよう、かがんで包みを拾う。がさがさと鳴る音に、心のざわつきが重なった。
「なんの知らせもなく出て行っちゃったから、詳しくはあたしもわからないの」
しゅんとした声を作る自分は、今なら女優にもなれる気がした。だって、あの灰色の髪と黄金の瞳を思い出すだけで、暗く重い激情が全身から吹き出て叫んでしまいそうだというのに。今の雪起は誰が見ても、健気でやさしい従姉妹なのだから。
「ええっ、面倒見てあげてたんでしょ? なんの音沙汰もなしって……。ひどくない⁉︎」
無邪気な友人が腹を立てるのを見て、雪起は気分がよくなった。殊勝にほほ笑み、先を促す。
「ううん、いいの。……ほら、行きましょ」
しばらく歩き、分かれ道で友人に手を振り、雪起は背を向けた。貼りつけていた笑みをさっと拭いとる。
いつまでもまとわりつく支都禰の存在。小さな幸せがあっけなく崩れ落ち、雪起は道端で足を止め、拳を握りしめた。従姉妹の噂ひとつでこんなにも心が乱れてしまう。それがただただみじめで、くやしい。
「消えてよ、あたしのまわりから——!」
思わずつぶやいたときだった。
「こんにちは、お嬢さん」
背後から声をかけられ、雪起は反射的に振り向いた。
上質な外套を纏い、甘い顔立ちの見知らぬ男が立っている。
「……どちら様」
警戒心をあらわにしながら雪起が声を振り絞ると、男は少しだけ肩をすくめた。
「失礼。君を探していたんだ。白木雪起さん」
「な、なんであたしの名前を……」
いやな予感がして後ずさる。逃げようとした足が、続く言葉でふいに止まった。
「鬼灯條のこと、そして……君の従姉妹の秘密を、知りたくはないかな?」
「……秘密?」
「私は君を救いに来たんだ。よかったら、話だけでも聞かないか?」
甘ったるいそれは、まるで悪魔のささやきのようだった。
◆
夕陽が落ち、夜が訪れるころ。支都禰は工房で完成した面を持ち上げた。
姫乃に渡す神楽用の小面。あどけなさと色気が共存する面影は、ふっくらとした頬に、薄く笑みをたたえている。
(姫乃さん、きっと似合うだろうな)
姫乃が面をつけ神楽を舞う姿を思い浮かべるだけで、胸があたたかくなる。生きがいが役に立ち、必要とされている。この調子で日々を丁寧に積み上げていけば、いつかきっと、明るい未来を掴める気がした。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「……支都禰?」
慌てて立ち上がり扉を開けると、宇羅がいつものほほ笑みを浮かべて立っていた。
「お帰りなさい、宇羅さん。……どうしましたか?」
「支都禰の顔を見たくなって」
「あ、えっと……」
あまりにさらりと言うものだから、支都禰は固まり、目を泳がせた。それを見て、宇羅がいたずらっぽく笑う。
「……あとは、久々に面打ちを見せてもらおうかなと」
「ど、どうぞ」
身体が熱くなるのを感じ、支都禰は頬を触りながらうつむいた。
「宇羅さんが工房にくるの、久しぶりですね」
「ああ。ようやく来れた」
最近は怪異が立て続けに発生し、宇羅は東奔西走していた。支都禰は事務仕事や面で協力してはいるものの、できることが限られていて、それがもどかしい。
「でも、休んだほうが……」
「休めてるよ」
宇羅はほほ笑み、支都禰を示すように手のひらを差し出した。
「これが、癒し」
気恥ずかしさに、支都禰はぱたぱたと手で顔をあおいだ。
色々な都合や偶然が重なり、宇羅の厚意で用意してもらった、かりそめの椅子。いつか、自分はこの座を降りなければならない。けれど。
(すべて解決した……そのあとも、近くにいられたら)
この手で打った面に宿る術。それがあれば、いずれ婚約が解けても、どこかで繋がっていられるのではないか……。このあたたかな場所が離れがたくて、淡い希望を抱きたくなってしまう。
そんなことを考えながら削ろうとした矢先、手元が狂った。
「——っ!」
刃が支都禰の指をかすめ、とっさに面から手を離す。ごとん、とノミが床に落ち、机の上に赤い点がぽつりと落ちた。面に血がつかなかったことに、ほっと安堵の息をもらす。
「支都禰!」
宇羅の声に、支都禰は反射的に指を握って傷を隠した。
「大丈夫。ちょっとかすっただけですよ」
安心させるよう笑いかけたものの、そばに寄ってきた宇羅の表情は険しい。
「……見せて」
「本当に平気で——」
「血が、出てただろ」
宇羅の声は低く、震えていた。心配が嬉しいだなんて図々しさを、支都禰はこっそり胸にしまった。
救急箱を持って戻ってきた宇羅に手当てをされ、支都禰は恐縮して小さくなる。
「あの、本当に大丈夫ですよ。面打ちにけがはつきものですし……」
支都禰が遠慮がちに声をかけると、宇羅は視線を落としたまま答えた。
「だとしても、支都禰が傷つくのは……俺がいやなんだ」
その言葉に支都禰は押し黙り、手を差し出し続けた。
「ひとまずこれで。頼むから、気をつけて」
応急処置を終え、宇羅は支都禰の手をそっと包んだ。近い距離で見つめ合い、支都禰の鼓動がどきどきと高鳴る。
そこへ、やや荒々しく扉が叩かれ、支都禰と宇羅は同時に振り向いた。
「宇羅様、支都禰様!」
勢いよく扉を開けたのは、めずらしく息を荒げた阿久良だった。
「どうした」
宇羅がすぐさま立ち上がる。阿久良は一瞬だけ支都禰の手元を見て、すぐ報告へ戻った。
「支都禰様の面が……失われたようです」
「——!」
「……面が?」
支都禰は状況をすぐにのみ込めず、呆然とくり返す。
「納品に向かっていた荷車が突如横転し、何者かに結界が解かれたようです。使いの者は無事でしたが、ひどく混乱しているようで……」
「どの、どの面ですか……⁉︎」
詰め寄った支都禰にたじろぎつつ、阿久良は答えた。
「天狗です。天狗の面だと」
「支都禰はここに。もうすぐ安達原たちが来るから」
「……はい」
宇羅と阿久良は、すぐさま現場へ向かうことになった。本当は一緒に行きたかったが、状況がわからない今、足手まといになるわけにはいかない。
出発しかけた宇羅が振り返り、安心させるようにほほ笑んだ。
「……手、ちゃんと見てもらって」
二人を見送り、支都禰は指に巻かれた布を撫でた。いやな予感が止まらない。満ちていたはずの心が削れていくのを感じながら、支都禰はそのまま立ち尽くしていた。
◆
人ごみから離れた、薄暗い街道。
横転した荷車の横で、雪起はふらふらと立っていた。あたりには木箱が散らばっている。乱れた髪もそのまま、手に持つ面を持ち上げた。その手の甲に、花と目が組み合わさったかのような刻印が浮き上がっている。
「これが……あの女の」
支都禰が打った、天狗の面。あの黄金が見出し、削り、磨き、命を吹き込んだもの。面を眺めながら、少し前の、あの男との会話を思い出した。
「妖……ですって?」
男の家の、書院造の客間。雪起は思わず腰を浮かせていた。
「そんなの、信じられるわけ……」
「白木支都禰はその中でも、特別な血を継ぐ半妖だ。君もおかしいと思わなかったか? あの髪、あの瞳、あの纏う雰囲気を……」
「そ、れは……」
ゆったりと話す男に、雪起は言いよどむ。何度もちらつくあの輝きは、いくら振り払おうとも頭から離れない。
「いつだって注目を集めるのは彼女で、君はいつも取り残される。君がどれだけ努力し、もがこうとも、特別な存在がそばにいるだけでかすんでしまう」
なめらかに紡がれる言葉によって、雪起の心は幾度も刺された。きっと死ぬまで折り合いのつかない、他人に知られたくない部分。うつむき、腕に爪を立てる。じくじくと痛むのが腕なのか心なのか、わからない。
「けれど、それは君のせいじゃない」
その言葉に雪起は、はっと顔を上げた。
「すべては、白木支都禰が元凶だ。あれは、妖の中でも異端。混乱の世の象徴となる存在なのだから」
「支都禰が……異端?」
自分の声に卑劣な期待が入り混じるのを、見て見ぬふりをした。
男は鷹揚に溜め息をつく。
「そうとも。いるだけで周囲を狂わせる、まさに禁断の存在。君は不幸だった。そんな人物と、共に暮らしてきたのだから……」
自分は、悪くない? 悪いのは——。雪起の中に、ほの暗い希望がちらついた。
「鬼灯條家も、最初は彼女を捕えたかったのだろうが……。今では屋敷の者は皆、彼女に夢中だと聞く。恐ろしい話だろう?」
「じゃあ、まさか、宇羅様も……?」
「彼が一番、影響を受けているのだろうね。私が彼女に接触しようとしたときも、すさまじい形相で引きはがされてしまったよ」
男はこわいこわい、と肩をすくめる。
雪起は胸に手を当てた。あの日こちらをつめたく見据え、支都禰の手を握っていた、麗しい青年。彼もあの女の被害者だなんて。
「君は美しく、賢い。……共に真の平和を取り戻さないか?」
「……平和?」
「私は妖の幸福を願っている。そして人と妖の関係も、今よりもっと変えられると信じているのだよ」
ねっとりと甘い声が、雪起の耳をくすぐる。いつの間にか男は雪起の隣に来ていて、顔をのぞき込み、悠然と笑った。
「力をあげよう。そう、彼女にも負けない、人を操る力を——」
「うっ……」
うめき声に、雪起の意識が現在へと引き戻される。
振り返ると、使いの男が這いつくばっている。傷だらけだが、致命傷はまぬがれたようだ。
「……だ、誰だ……身体が勝手に——」
雪起は身をこわばらせた。今、見られてはまずい。
すると突然、手の甲が熱くなる。見れば、刻印が浮き上がっていた。雪起は刻印に導かれるまま使いの顔の前へ手をかざし、唱えるようにささやく。
「あなたは、なにも見ていないわ」
雪起の瞳に、手の甲と同じ花が描かれる。使いの瞳が、ゆらりと揺れた。
「見て、いない……?」
「そう……なにも。あなたは知らない。見ていない」
雪起が言葉を重ねるたび、使いの意識が薄れていく。使いはがくりと頭を垂れ、眠るように動かなくなった。
雪起は肩で息をしながら、手の甲を見下ろした。刻印は熱を残したまま、薄れ消えていく。
「……できた。あたしも、術を使えるんだわ」
声を弾ませ天狗の面を見ると、その目が、鈍い光を宿したように見えた。
あの男——司箭院政元の言葉がよみがえる。
『加護を与えるには、対価がいる。それでも君は、力がほしいか?』
契約のとき。司箭院の手が雪起に触れた瞬間、激しい痛みと共に手の甲に刻印が刻み込まれ、消えた。
両手を空へとかかげ、うっとりとつぶやく。
「あの女に勝てるのなら、なんだってくれてやるわ」
支都禰に打ち勝ち、人も妖も救い、憧れの存在を自分のものにできるのなら。支都禰に向けられたあのあたたかな眼差しが、これからは自分にだけ、向けられるのなら。この痛みも、勝利への布石と思えば造作ない。
「……あれは」
支都禰の足が、ふいに止まった。
庭園の奥、少し離れたところに、雄大な檜が一本立っていた。太くまっすぐで、根が地に深く食い込んでいる。夕陽の光を受けて、樹皮が金のうろこのようにきらめいていた。木に呼ばれるかのように、ゆっくりと近づく。
「この木が、気になる?」
宇羅に聞かれ、支都禰は木から目が離せないまま、ぼんやりとつぶやいた。
「なんだか、呼ばれた気がして……」
導かれるようにその木肌へ手を伸ばし、触れる。手のひらから静かなぬくもりが伝わり、雄大な生命の息吹を感じた。風に揺れる葉が応えるように、さわさわと音を立てた。
同じころ。森の奥深く、光の届きづらい場所に、一本の神木が立っていた。幹はひび割れて枯れていて、葉はひとつもついていない。枝はもがくようにうねり、土の色まで濁っている。この木を神木たらしめるしめ縄も、今はこの木を縛りつける呪いのように感じられた。
その神木に狐面がひとつ、ついている。白かったはずの面は黒ずみ、口元にひびが走っていた。狐の笑みが、ここでは空虚に見える。
神木の前に男が立ち、ゆっくりと手を伸ばした。指先が木肌に触れ、愛おしげに撫でる。
「……やっと、ここまで来た」
低い声が森に落ちる。男は狐面を見上げ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「君の娘の力で、妖の世を取り戻そうじゃないか。なあ……玉藻?」
狐面が風もないのにわずかに揺れ、その男——司箭院政元は嬉しそうに笑った。
森は鳥のさえずりさえなく、応えない。黒いもやの中で、司箭院の笑い声だけが響いた。
◆
秋を漂わせる風が街へ流れ込む。雪起は女学校からの帰り道を、友人と歩いていた。
「雪起、今日も先生に褒められてたね!」
「ふふ、ありがと」
友人の明るい声に、雪起はほほ笑んだ。趣味だった裁縫で一目置かれるようになり、気の合う友人に恵まれ、充実した日々を送っている。
「ね、またお団子買って帰らない? あそこ、おいしいじゃん」
「それ、いいわね」
この些細な日常が、雪起にとっての幸せだった。
だから、油断していた。自分の暗く澱んだ感情の塊を、ついうっかり忘れていた。
「そういえばさ」
団子を買い歩いていると、友人が首をかしげた。
「最近、従姉妹はどうしてるの? なんか、有名なお宅にいるって噂、聞いたんだけど……」
雪起の手から、団子の包みが落ちた。
「ちょっと雪起、大丈夫?」
「ああ……ごめん」
顔を見られないよう、かがんで包みを拾う。がさがさと鳴る音に、心のざわつきが重なった。
「なんの知らせもなく出て行っちゃったから、詳しくはあたしもわからないの」
しゅんとした声を作る自分は、今なら女優にもなれる気がした。だって、あの灰色の髪と黄金の瞳を思い出すだけで、暗く重い激情が全身から吹き出て叫んでしまいそうだというのに。今の雪起は誰が見ても、健気でやさしい従姉妹なのだから。
「ええっ、面倒見てあげてたんでしょ? なんの音沙汰もなしって……。ひどくない⁉︎」
無邪気な友人が腹を立てるのを見て、雪起は気分がよくなった。殊勝にほほ笑み、先を促す。
「ううん、いいの。……ほら、行きましょ」
しばらく歩き、分かれ道で友人に手を振り、雪起は背を向けた。貼りつけていた笑みをさっと拭いとる。
いつまでもまとわりつく支都禰の存在。小さな幸せがあっけなく崩れ落ち、雪起は道端で足を止め、拳を握りしめた。従姉妹の噂ひとつでこんなにも心が乱れてしまう。それがただただみじめで、くやしい。
「消えてよ、あたしのまわりから——!」
思わずつぶやいたときだった。
「こんにちは、お嬢さん」
背後から声をかけられ、雪起は反射的に振り向いた。
上質な外套を纏い、甘い顔立ちの見知らぬ男が立っている。
「……どちら様」
警戒心をあらわにしながら雪起が声を振り絞ると、男は少しだけ肩をすくめた。
「失礼。君を探していたんだ。白木雪起さん」
「な、なんであたしの名前を……」
いやな予感がして後ずさる。逃げようとした足が、続く言葉でふいに止まった。
「鬼灯條のこと、そして……君の従姉妹の秘密を、知りたくはないかな?」
「……秘密?」
「私は君を救いに来たんだ。よかったら、話だけでも聞かないか?」
甘ったるいそれは、まるで悪魔のささやきのようだった。
◆
夕陽が落ち、夜が訪れるころ。支都禰は工房で完成した面を持ち上げた。
姫乃に渡す神楽用の小面。あどけなさと色気が共存する面影は、ふっくらとした頬に、薄く笑みをたたえている。
(姫乃さん、きっと似合うだろうな)
姫乃が面をつけ神楽を舞う姿を思い浮かべるだけで、胸があたたかくなる。生きがいが役に立ち、必要とされている。この調子で日々を丁寧に積み上げていけば、いつかきっと、明るい未来を掴める気がした。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「……支都禰?」
慌てて立ち上がり扉を開けると、宇羅がいつものほほ笑みを浮かべて立っていた。
「お帰りなさい、宇羅さん。……どうしましたか?」
「支都禰の顔を見たくなって」
「あ、えっと……」
あまりにさらりと言うものだから、支都禰は固まり、目を泳がせた。それを見て、宇羅がいたずらっぽく笑う。
「……あとは、久々に面打ちを見せてもらおうかなと」
「ど、どうぞ」
身体が熱くなるのを感じ、支都禰は頬を触りながらうつむいた。
「宇羅さんが工房にくるの、久しぶりですね」
「ああ。ようやく来れた」
最近は怪異が立て続けに発生し、宇羅は東奔西走していた。支都禰は事務仕事や面で協力してはいるものの、できることが限られていて、それがもどかしい。
「でも、休んだほうが……」
「休めてるよ」
宇羅はほほ笑み、支都禰を示すように手のひらを差し出した。
「これが、癒し」
気恥ずかしさに、支都禰はぱたぱたと手で顔をあおいだ。
色々な都合や偶然が重なり、宇羅の厚意で用意してもらった、かりそめの椅子。いつか、自分はこの座を降りなければならない。けれど。
(すべて解決した……そのあとも、近くにいられたら)
この手で打った面に宿る術。それがあれば、いずれ婚約が解けても、どこかで繋がっていられるのではないか……。このあたたかな場所が離れがたくて、淡い希望を抱きたくなってしまう。
そんなことを考えながら削ろうとした矢先、手元が狂った。
「——っ!」
刃が支都禰の指をかすめ、とっさに面から手を離す。ごとん、とノミが床に落ち、机の上に赤い点がぽつりと落ちた。面に血がつかなかったことに、ほっと安堵の息をもらす。
「支都禰!」
宇羅の声に、支都禰は反射的に指を握って傷を隠した。
「大丈夫。ちょっとかすっただけですよ」
安心させるよう笑いかけたものの、そばに寄ってきた宇羅の表情は険しい。
「……見せて」
「本当に平気で——」
「血が、出てただろ」
宇羅の声は低く、震えていた。心配が嬉しいだなんて図々しさを、支都禰はこっそり胸にしまった。
救急箱を持って戻ってきた宇羅に手当てをされ、支都禰は恐縮して小さくなる。
「あの、本当に大丈夫ですよ。面打ちにけがはつきものですし……」
支都禰が遠慮がちに声をかけると、宇羅は視線を落としたまま答えた。
「だとしても、支都禰が傷つくのは……俺がいやなんだ」
その言葉に支都禰は押し黙り、手を差し出し続けた。
「ひとまずこれで。頼むから、気をつけて」
応急処置を終え、宇羅は支都禰の手をそっと包んだ。近い距離で見つめ合い、支都禰の鼓動がどきどきと高鳴る。
そこへ、やや荒々しく扉が叩かれ、支都禰と宇羅は同時に振り向いた。
「宇羅様、支都禰様!」
勢いよく扉を開けたのは、めずらしく息を荒げた阿久良だった。
「どうした」
宇羅がすぐさま立ち上がる。阿久良は一瞬だけ支都禰の手元を見て、すぐ報告へ戻った。
「支都禰様の面が……失われたようです」
「——!」
「……面が?」
支都禰は状況をすぐにのみ込めず、呆然とくり返す。
「納品に向かっていた荷車が突如横転し、何者かに結界が解かれたようです。使いの者は無事でしたが、ひどく混乱しているようで……」
「どの、どの面ですか……⁉︎」
詰め寄った支都禰にたじろぎつつ、阿久良は答えた。
「天狗です。天狗の面だと」
「支都禰はここに。もうすぐ安達原たちが来るから」
「……はい」
宇羅と阿久良は、すぐさま現場へ向かうことになった。本当は一緒に行きたかったが、状況がわからない今、足手まといになるわけにはいかない。
出発しかけた宇羅が振り返り、安心させるようにほほ笑んだ。
「……手、ちゃんと見てもらって」
二人を見送り、支都禰は指に巻かれた布を撫でた。いやな予感が止まらない。満ちていたはずの心が削れていくのを感じながら、支都禰はそのまま立ち尽くしていた。
◆
人ごみから離れた、薄暗い街道。
横転した荷車の横で、雪起はふらふらと立っていた。あたりには木箱が散らばっている。乱れた髪もそのまま、手に持つ面を持ち上げた。その手の甲に、花と目が組み合わさったかのような刻印が浮き上がっている。
「これが……あの女の」
支都禰が打った、天狗の面。あの黄金が見出し、削り、磨き、命を吹き込んだもの。面を眺めながら、少し前の、あの男との会話を思い出した。
「妖……ですって?」
男の家の、書院造の客間。雪起は思わず腰を浮かせていた。
「そんなの、信じられるわけ……」
「白木支都禰はその中でも、特別な血を継ぐ半妖だ。君もおかしいと思わなかったか? あの髪、あの瞳、あの纏う雰囲気を……」
「そ、れは……」
ゆったりと話す男に、雪起は言いよどむ。何度もちらつくあの輝きは、いくら振り払おうとも頭から離れない。
「いつだって注目を集めるのは彼女で、君はいつも取り残される。君がどれだけ努力し、もがこうとも、特別な存在がそばにいるだけでかすんでしまう」
なめらかに紡がれる言葉によって、雪起の心は幾度も刺された。きっと死ぬまで折り合いのつかない、他人に知られたくない部分。うつむき、腕に爪を立てる。じくじくと痛むのが腕なのか心なのか、わからない。
「けれど、それは君のせいじゃない」
その言葉に雪起は、はっと顔を上げた。
「すべては、白木支都禰が元凶だ。あれは、妖の中でも異端。混乱の世の象徴となる存在なのだから」
「支都禰が……異端?」
自分の声に卑劣な期待が入り混じるのを、見て見ぬふりをした。
男は鷹揚に溜め息をつく。
「そうとも。いるだけで周囲を狂わせる、まさに禁断の存在。君は不幸だった。そんな人物と、共に暮らしてきたのだから……」
自分は、悪くない? 悪いのは——。雪起の中に、ほの暗い希望がちらついた。
「鬼灯條家も、最初は彼女を捕えたかったのだろうが……。今では屋敷の者は皆、彼女に夢中だと聞く。恐ろしい話だろう?」
「じゃあ、まさか、宇羅様も……?」
「彼が一番、影響を受けているのだろうね。私が彼女に接触しようとしたときも、すさまじい形相で引きはがされてしまったよ」
男はこわいこわい、と肩をすくめる。
雪起は胸に手を当てた。あの日こちらをつめたく見据え、支都禰の手を握っていた、麗しい青年。彼もあの女の被害者だなんて。
「君は美しく、賢い。……共に真の平和を取り戻さないか?」
「……平和?」
「私は妖の幸福を願っている。そして人と妖の関係も、今よりもっと変えられると信じているのだよ」
ねっとりと甘い声が、雪起の耳をくすぐる。いつの間にか男は雪起の隣に来ていて、顔をのぞき込み、悠然と笑った。
「力をあげよう。そう、彼女にも負けない、人を操る力を——」
「うっ……」
うめき声に、雪起の意識が現在へと引き戻される。
振り返ると、使いの男が這いつくばっている。傷だらけだが、致命傷はまぬがれたようだ。
「……だ、誰だ……身体が勝手に——」
雪起は身をこわばらせた。今、見られてはまずい。
すると突然、手の甲が熱くなる。見れば、刻印が浮き上がっていた。雪起は刻印に導かれるまま使いの顔の前へ手をかざし、唱えるようにささやく。
「あなたは、なにも見ていないわ」
雪起の瞳に、手の甲と同じ花が描かれる。使いの瞳が、ゆらりと揺れた。
「見て、いない……?」
「そう……なにも。あなたは知らない。見ていない」
雪起が言葉を重ねるたび、使いの意識が薄れていく。使いはがくりと頭を垂れ、眠るように動かなくなった。
雪起は肩で息をしながら、手の甲を見下ろした。刻印は熱を残したまま、薄れ消えていく。
「……できた。あたしも、術を使えるんだわ」
声を弾ませ天狗の面を見ると、その目が、鈍い光を宿したように見えた。
あの男——司箭院政元の言葉がよみがえる。
『加護を与えるには、対価がいる。それでも君は、力がほしいか?』
契約のとき。司箭院の手が雪起に触れた瞬間、激しい痛みと共に手の甲に刻印が刻み込まれ、消えた。
両手を空へとかかげ、うっとりとつぶやく。
「あの女に勝てるのなら、なんだってくれてやるわ」
支都禰に打ち勝ち、人も妖も救い、憧れの存在を自分のものにできるのなら。支都禰に向けられたあのあたたかな眼差しが、これからは自分にだけ、向けられるのなら。この痛みも、勝利への布石と思えば造作ない。
