鬼に半妖 〜面打ち少女の再生譚

 継信の寝室の机に、義田医院の帳面と鬼灯條家の診察記録が並べられている。継信を診ていた主治医が、傍らの直衡を見上げた。
「ずいぶん落ち着かれましたな」
「そうですか」
 直衡が相槌を打つと、主治医は口ひげを撫でて頷いた。
「あなたの漢方薬が身体に合っていたのでしょう。ご助力、感謝します」
「妖の理(ことわり)を知るあなたの手当てがあればこそです」
 継信のまぶたが、かすかに震えた。呼吸はおだやかで、一時期聞こえていた喘鳴もなくなった。
 支都禰は継信のそばへ寄り、そっと頬に触れる。昨日より血色が戻りあたたかい。身体のうちで固まっていた不安が、ゆっくりとほぐれていく。
(……よかった)
 呪いの心配はつきないが、今、父が休めているという事実が希望を与えてくれる。
「お二人とも、ありがとうございます」
 礼をする支都禰に、医師の二人は表情をゆるませた。
 少しうしろで見守っていた宇羅は、最後に短く告げた。
「引き続き、頼む」

   ◆

 それから数日。支都禰が廊下へ出ると、屋敷の空気がいつもより軽く感じられた。
 ふと、以前この廊下を宇羅と歩いたときのことを思い出した。歩幅を合わせ、こちらに向けられるおだやかな眼差し。いつからかそばにいてくれる宇羅の気配に安堵を覚え、それが心のお守りとなっていた。なんだか早く会いたくなって、つい足早になってしまう。

 宇羅の部屋へ続く角を曲がろうとした瞬間だった。奥から人影が現れ、ぶつかりそうになった支都禰は反射的に後ずさる。
「わっ……!」
「おっと。——あれ?」
 そう声をあげたのは、見知らぬ洋装の美少年だ。支都禰と同じくらいの背丈の少年は愛想のよい笑みを浮かべ、首をかしげた。
「君、支都禰さん?」
「え……」
 突然名前を呼ばれ、困惑する。少年は一歩踏み込み、まるで観察するように支都禰の顔をのぞき込んだ。
「灰色の髪に、黄金の瞳……。やっぱそうだ。君、噂通りすっごく綺麗だね!」
「え、えっと——」
「半妖で面打師なんだって? お父さんが人間なの? 幻術使ってない感じ?」
「あの、その」
 支都禰はとまどいつつ、少年の大きな琥珀色の瞳に見入った。その色に見覚えがあり、記憶をたぐり寄せる。
(あれ? そういえばこの顔と、瞳の色……)
「——央丹(おうたん)
 支都禰の前に手が入り、次いで低い声が落ちてくる。
 宇羅が二人のあいだにすっと立ち、少年の額を軽く指で弾いた。
「支都禰を困らせるな」
「いてっ。兄上、だってぇ」
 少年は恨めしそうに額を押さえたが、すぐに口角を上げた。宇羅は溜め息をつき、支都禰へと向き直る。
「……弟の、央丹だ」
「弟……⁉︎」
 そういえば——以前宇羅が、弟がいると話していた。今は家にいないとだけ聞いていたので、なにか事情があるのかもしれないと、支都禰もそれ以上は聞かなかった。
 懐っこく笑う央丹を見て、ようやく気がつく。この瞳の琥珀は朱天の色だ。幼い面影や纏う雰囲気からも、朱天の血を感じさせる。

「予定より早かったな」
「そう? ちょっと前に手紙出したじゃん」
「ああ、あれか……」
 美形の兄弟が会話する姿は、絵になっていた。ぼんやりと見惚れていた支都禰は、はっと意識を戻し、遠慮がちに尋ねた。
「……あの、どこかへ行かれていたんですか?」
 小声で尋ねると、宇羅と央丹は一緒になってぱちぱちと瞬きをした。そして央丹が不満げに兄へ詰め寄る。
「ちょっと兄上、僕のことなにも教えてなかったの⁉︎」
「いや、てっきり父上たちが話してるもんだと……」
 ごまかすように視線をそらす宇羅と、不満げに頬をふくらませる央丹。
(仲よしだなあ)
 いつもとちがう宇羅の一面を見て嬉しくなった支都禰に、央丹がぱっと向き直った。
「短期留学に行ってたんだ。それで戻ってきたってわけ」
「留学……!」
 両手を合わせて目を輝かせる支都禰を見て、央丹はえっへんと胸を張る。
「そ。聞きたい? 留学先の話。あっちの鬼もおもしろくってさ……」
「ぜひ!」
 食い気味に返事をする支都禰を見て、宇羅は苦笑した。
「……お茶にしようか」

   ◆

 湯気が立ち、香ばしさが部屋に満ちる。それぞれ茶を一口飲んだところで、央丹が身を乗り出した。
義姉(あね)上、鬼灯條家(うち)はもう慣れた?」
「はい。みなさんによくしていただいていますから」
「よかった。ね、僕は義弟(おとうと)なんだし、敬語やめてよ」
「わかりま……。わ、わかった」
(義姉上……)
 親しげな呼び方に、ふわふわとした気分になる。

 落ち着こうと湯呑に口を近づける支都禰に、央丹がさらに畳みかけた。
「ちなみに、兄上のどこに惚れたの?」
「ご、ごほっ!」
 喉が詰まり、咳き込む。宇羅がさっと背中をさすり、非難の目を央丹へと向けた。
「央丹」
「え、だって。気になるじゃん」
 悪びれず言う弟に、宇羅が溜め息をつく。どうしようかと悩んでいたら、央丹が眉を下げて笑った。
「ごめんごめん。……僕、義姉上のことまだあんまり知らないからさ。叔母さんと従姉妹だっけ? 大変だったね」
「あ、うん……」
 曖昧に返すと、央丹はひじをついてにっこりと笑いかけた。父によく似た琥珀の瞳が細められ、鈍い光を放つ。
「僕が、消してあげようか?」

「——えっ?」
 かわいらしい笑顔で言ってのける央丹に、思わず固まる。見た目と発言の隔たりに、しばらく言葉の意味を掴めなかった。あまりにやわらかな声音で、言葉に含まれた刃だけがつめたく光る。
 宇羅が央丹を鋭く見据えた。
「悪い冗談はよせ」
「えぇ〜、本気なのに」
 央丹は平然と返す。
「兄上の大事なものを傷つけるやつらは、排除しなくちゃ」
「……」
 その言葉だけで、央丹がどれほど兄を思っているかがわかった。だいぶ物騒ではあるが。宇羅がこめかみを抑える。
「……お前は」
「な〜んちゃって。そうかっかしないでよ」
 けらけらと笑う央丹は立ち上がって支都禰に近づき、がばっと抱きついた。
「!」
「僕、義姉上と早く仲良くなりたいな」
 石のように固まると、間髪入れず宇羅が央丹の肩を掴んで引きはがした。支都禰はドッドッと早鐘を打つ心臓を押さえながら、兄弟のほうを見た。宇羅がしかめっ面で腕を組み、にらみを利かせている。
「ふざけすぎだ」
「ごめんなさーい」
 舌を出す央丹に、呆れ顔の宇羅。呆然とする支都禰に向かって、央丹はこてんと首をかしげてみせた。
「これからよろしくね、義姉上?」
「央丹——」
「失礼します」
 宇羅がさらに小言を言おうとしたところで、扉の向こうから安達原の声がした。
「支都禰様。奥様がお戻りになりました」
「あっ、すみません。すぐ行きます!」
 支都禰は慌てて立ち上がる。紅葉の手が空いているときに、妖のことや術のこと、最低限の作法などを、少しずつ教えてもらっているのだ。ほっとするような名残惜しいような、妙な胸のざわめきを抱えながら、支都禰は二人に向かって礼をした。
「では、お先に失礼します」
「残念。留学の話がまだなのに〜」
 口を尖らせる央丹の隣で宇羅はほほ笑み、ひらりと手を振った。
「またあとで」

 支都禰が去ったあと、宇羅は室内の空気を切り替えるかのように、ふーっと息を吐いた。まぶたを上げ、弟を見据える。
「央丹」
「なぁに?」
「近づきすぎるなよ」
 支都禰は今、傷つき萎縮した心と身体をほぐしている最中だ。他人がそれを踏み荒らしてはならない——そう説明しようとしたところで、央丹は薄い笑みを浮かべながら尋ねた。
「それは——長として? それとも、男として?」
 宇羅は一瞬言葉に詰まり、曖昧にほほ笑み湯呑に手を伸ばした。
「……さあ、どっちだろうな」
「ふうん。じゃあ、兄上はどっちでいたいんです?」
 宇羅の指先がわずかに止まる。どちらを選んでも、嘘になる気がした。

   ◆

「失礼します」
 紅葉の部屋を出て、支都禰は外の景色をぼんやり眺めた。央丹との邂逅、そして先ほど安達原たちに教えてもらったことを思い出す。
 央丹について話していなかったことを謝罪されたが、支都禰自身も鬼灯條家に関してあまり尋ねなかった。どこまで踏み込んでよいかわからなかったし、いつかこの不相応な立場から離れなければならないという考えが、支都禰を消極的にさせていた。
 後継として育てられた宇羅と、比較的のびのびと育った央丹。小柄でかわいらしい彼だが、その強さは朱天と肩を並べるほどらしい。巷では兄は秀才、弟は天才と呼ばれているという。
 数年前にはよからぬ者たちが後継争いを煽ろうとしたことがあったが不発に終わり、首謀者たちは忽然と姿を消した。央丹が関与したとされていて、あの純粋無垢そうな見た目からかけ離れた噂に、支都禰は底知れぬものを感じた。

 いつの間にか夕刻になり、心地よい風が吹いた。視線を移すと、央丹が縁側に腰かけ、風に髪を揺らしている。ふと振り向いた央丹は、支都禰を見るなり弾けんばかりの笑顔で手を振った。
「義姉上!」
 央丹にうながされ隣に腰かけた支都禰は、ちらりと横を盗み見る。視線に気がついた央丹が、にっこりと笑いかけた。
「ん。なあに?」
 支都禰は少しのあいだ迷ったが、気になっていたことを尋ねることにした。
「……私のこと、いやじゃないの?」
「どうして?」
 心当たりがなさそうに首をかしげる央丹に、思わずぎゅっと手を握る。兄思いの彼に自分がどう映っているのか、想像するだけで冷や汗が出た。
「家に帰ったら怪しい半妖の女がいて、お兄さんの婚約者になってて……」
「そんなことか。いやなわけないじゃん。むしろ嬉しい。ハッピーだよ!」
「は、はっぴぃ……?」
 とまどう支都禰に、央丹はやさしくほほ笑んだ。その表情が宇羅に似ていて、支都禰は思わずどきりとする。
「君は、兄上が選んだ女性(ひと)なんだからさ。半妖だろうとなんだろうと、僕は大大大歓迎」
「央丹君……」

 うまく返事ができずにいると、手を差し出された。
「手、見せて」
「手?」
 不思議に思いつつ両手を差し出すと、央丹は触れずに視線でなぞった。やがてやさしい口調で告げる。
「この手を見ればわかるよ。義姉上の積み重ねてきた時間が」
「——!」
「鍛錬を積まなきゃこうはならない。君はすごい人だね」
 支都禰は瞳を揺らした。これまでの短い合間に、央丹はここまで見てくれていたのだ。

「義姉上。僕はね、兄上こそ次の当主たるお人だと信じてる」
 二人並んで空を見上げると、流れる雲がふたつ並んでいた。
「僕は戦闘向きだし——統治と共存が求められる現代(いま)、兄上以上の適任はいない。兄上は生まれ持ったものを背負いながら、たゆまぬ努力を重ねてる。だから僕は兄上を支えたいし、義姉上が来てくれて本当に嬉しいんだ」
(央丹君は……すごいな)
 まだ幼い央丹の落ち着きと広い視野に、彼が天才と謳われる理由のひとつが垣間見えた気がした。

「でもさ。『婚約者』ってのも、単純な話じゃないんでしょ?」
「え、っと……」
「あの兄上のことだし、だいたい察しはつくよ」
「……そっか」
 くすりと笑う央丹に、ほっと息をつく。
「だから、あんまり気負わないでほしいんだけど……」
 央丹は空へと視線を戻した。流れていたふたつの雲は形を変えて繋がり、ひとつになっている。それに向かって、独り言のようにつぶやいた。
「兄上のこと、どうかよろしくね」

   ◆

 執務室の灯りは、遅くまでともっている。
 宇羅は椅子に腰かけ、書類に目を通していた。ふと紙をめくる手が止まる。脳裏に浮かぶのは、央丹が支都禰に抱きついた瞬間と、あの問いかけだった。
『——長として? それとも、男として?』
 宇羅は背もたれに身を預け、まぶたを閉じて息を整えた。机の鬼面が、灯りに照らされまるで笑っているかのように見える。
「……どっちでいたい、か」
 央丹の、深みのある琥珀の瞳を思い出す。聡明な彼には、すべて見透かされているような気がした。