昼間のざわめきが嘘のように静まり返る街。一行は先を急いでいた。
直衡の背中から漂う焦燥が、冷えた空気の中ほどけずに残っている。父の背中と重なって、支都禰はわずかに眉を下げた。
先頭の宇羅が立ち止まり、静かにあたりを見まわした。鬼面が、暗がりの中で赤く浮かんでいる。
「阿久良」
宇羅の呼びかけに、阿久良が頷き手をかざした。
「——狐火」
すると暗がりの屋根の上、塀の陰、路地の奥から、狐火が現れた。ひっ、と声をあげた直衡の足の間をすり抜け、尻尾を揺らして駆け寄ってきた。
「報告」
阿久良の声に、狐火たちはいっせいに、びゃあ、と鳴いた。それは鳴き声というより、頭の中で直接響くこだまのようだった。
阿久良の切れ長の瞳が、わずかに細まる。しゃがみ込んで狐火のうちの一体に触れた。目を閉じ、なにかを感じ取る。やがてまぶたを上げ、宇羅のほうへ顔を向けた。
「街はずれの池にいるようです」
池の近く、灯りの届かない道中で、狐火がふと立ち止まり、鼻先を空へ向ける。水のにおいに混じって、甘ったるい、腐りかけの花のような香りがした。
「獏の領域が近いようです」
狐火に代わって阿久良が答える。どんどんと濃くなる気配に、支都禰は顔をしかめた。
「本当にいるのか。……妖が」
てちてちと先導する狐火を見ながら、直衡が呆然とつぶやく。
支都禰は宇羅と阿久良の横顔を見た。出発前、直衡に正体を明かすと聞かされたときは驚いた。宇羅は以前から義田親子の評判に目をつけていたらしい。妖を知る人間の協力者は貴重で、ほしい人材なのだという。
「澄子……」
かすれた声に、支都禰は胸を締めつけられた。感覚を研ぎ澄ませ、前へ進む。
闇の中で大きく口を開けたように、池があった。水面には空の群青が映り、世界が反転している。波紋の外側で、澄子の草履が転がっていた。
「澄子!」
飛び出しかけた直衡の腕を、阿久良がさっと腕を掴み引き止めた。支都禰は水面を見て声をあげた。
「あれは——!」
凪いでいるはずの水面の一部が不自然に上下し、まるで呼吸をするかのように揺れている。
「宇羅様、ここは俺が」
「ああ」
阿久良が一歩前へ出ると、青い火玉が夜道に並び、道筋を成していく。
阿久良は帯に吊った狐面に触れた。瞳と同じ色の線が描かれた面は、つい先日支都禰が託していたものだ。
阿久良が片ひざをつき指先で水面を叩くと、狐火が一体、すっと水へ溶けた。波紋が広がり、闇の底からこぽこぽと、なにかが息を吐いた気配がする。
「道を照らせ」
その言葉に応えるように狐火たちが次々と水へ飛び込み、淡い光が脈打つ。緊迫した状況に似つかわしくないほど幻想的な光が、水面の下でゆったりとほどけていった。
宇羅は一歩前へ出て目を細めた。支都禰も隣に立ち、水面から立ちのぼる気配を探る。
「これは……獏の結界?」
「支都禰は感覚が鋭いな。……阿久良、行けるか」
「はい。お待ちください」
阿久良は水面に手を伸ばし、まぶたを下ろした。その姿はやがて霧に包まれ、ふわりと霧散した。
「な、なにが起こってるんだ……」
呆然とした直衡の声だけが残る。支都禰は手を重ね、祈るように水面を眺めていた。
(阿久良さん、お願い)
◆
「ここは……?」
澄子が気づくと、なにもない空間にひとり座っていた。震えおののき辺りを見まわしていると、どこからか声がした。
「すミこ」
振り向くと、空虚な瞳の直衡がいた。広がる闇の中、彼の輪郭は曖昧に揺らいでいる。
「お前ハ医者ノ娘だ。現実ヲ見ろ」「記者なンテばかげた夢ハ、さっさと諦めるンだ」
言葉の刃があちこちから、容赦なく澄子を切りつける。澄子は頭を抱え、その言葉に抗った。
「やめて!」
すると直衡のようななにかは、ありえない角度で身体をくねらせ、ぬるりと澄子の鼻先へ近づいた。瞳があるはずの場所は、空っぽだ。
「お前ノ夢ハもう、終わりだ」
「ぁ——……」
涙でいっぱいになった目を見開き、澄子は唇を震わせる。すると、もうひとつ声がした。
「すミこ」
声は懐かしいはずなのに、ぬくもりが感じられない。澄子はがたがたと震えながら声のするほうを見た。
「お、お母さん……?」
直衡の肩越しに現れた母は、影のまま、輪郭だけがゆらゆらと揺れている。
「私ノ遺志ヲ継ぐンじゃなかったノ? 裏切るノ?」
「そ、そんな」
ちがう。母はそんなこと、最期まで一度も言わなかった。澄子のどんな夢でも笑って聞いてくれた。あなたならなんでもできる、と。
(でも、本当に?)
澄子の心が、闇の中でぐらぐらと揺らいでいく。
「夢ヲ追うノハ、あなたにハ無理よ」
「……そんなこと、言わないで」
母の声をした影は、澄子の胸の内側を引っ掻くように削っていく。
「あなたノ夢は、みンなヲ不幸にするわ——」
気づけば、池のほとりに立っていた。水面は黒く、空の星さえ映さない。澄子の瞳は輝きを失い、目尻から涙がはらはらと流れていた。
澄子は一歩踏み出した。足が、勝手に奥へ奥へと進んでいく。ぽちゃりと音がして、水が足にまとわりついた。ぼんやりとする頭に、声が響く。
「おいデ」「おいデ」
一歩、また一歩と池の中へ進んでいく。笑い声が、耳の奥でこだました。
そのとき。
青い火玉が、ぼわりと光った。火玉は澄子の足元を通りすぎ、来た道を逆行していく。水面の向こう、闇の縁に、淡い光が揺れた。火玉はふたつ、みっつと増え、並ぶように澄子の前へ道をつくる。
気づけば澄子は踵を返し、灯りへと引き寄せられていた。
「ちガう、ちガう」「戻っテ、すミこ」
影の声を無視して導かれるように青い火を追うと、景色が変わった。
ぼんやりと浮き上がってきたのは、澄子の机だった。その上には、あの手帳が置かれている。火玉は手帳を示すかのようにそれを囲み、ゆらゆらと動いた。
澄子は手帳に触れた。ざらりとした紙の感触に、指先から熱が戻ってくる。
(そうだ、私は——)
その瞬間、闇の声が遠ざかった。代わりに知らない声が、はっきりと耳に届く。
「諦めるな。君の夢は、誰にも奪えない」
聞き覚えのない、淡々とした呼びかけ。けれどその声は、澄子の心にまっすぐ刺さった。続いて、父と誰かの、切実な叫びが重なった。
「澄子、戻ってこい!」
「——澄子さん!」
手帳から光が弾け、澄子の視界を覆った。
◆
池の水面が、ざぶ、と跳ねた。青白い霧が風を裂き、池のほとりに澄子を横抱きにした阿久良が現れる。
「——っ、げほ、ごほっ……」
澄子はむせた。水を吐き、息を吸う。肺の奥が痛い。痛みの奥から、嗅覚が戻ってきた。土と水と、草の香り。生きているにおい。かすむ視界の端で、白髪が揺れた。
「澄子!」
澄子はうっすらと目を開け、父を見た。涙が一筋、頬をつたう。
「……お父、さん」
直衡は涙をこらえ、娘を強く強く抱きしめた。
「獏は……」
親子のようすを見守っていた支都禰の隣で、宇羅が小さくこぼす。怪異はまだ終わっていない。支都禰はあたりを見まわし、水面の一点に細く漂う気配をとらえた。
「宇羅さん、あそこ!」
支都禰が示した先、池の向こう側で影が揺れた。宇羅が瞬時に動く。黒い塊が、ぬるりと水面から浮かび上がる。獏がどろどろとした怨念を身に纏い、グルルとうなり声をあげた。宇羅は側頭部の鬼面に指を添えた。
空気が、ふっと変わる。足元から立ちのぼった炎は、紋様を描きながら池へと向かった。草が伏せ、水面が波打つ。瞳の炎を揺らめかせ、宇羅が手を掲げた。
「鎮まれ」
低い声に合わせて炎は薄い膜のように編み上がり、獏を包み込む。抵抗する獏の身体から怨念があふれ出した。炎の網は一度ふくらみ、しぼんでいく。
獏は、水面に沈むように消えた。
◆
夜が白み始め、医院の庭先に薄い霧がたなびいた。
澄子は布団で身体を起こし、白湯で喉を潤していた。顔色はまだ白いが、目にははっきりとした光が宿っている。
「娘を助けていただき、ありがとうございました」
直衡の声はかすれていた。宇羅がやわらかく応える。
「協力感謝する。突然押しかけて、すまなかった」
「本当にありがとうございます。えっと……阿久良様も」
澄子の礼に、うしろで控えていた阿久良が小さく会釈を返した。その肩で狐火がしっぽを振っている。
「……あの」
澄子がふいに支都禰を見た。
「?」
「支都禰様も、ありがとうございます」
「い、いえ。私はなにも……」
「あなたも私を呼んでくれたでしょう? おかげで私、戻ってこられた」
澄子のほほ笑みに、支都禰も口元をゆるめた。
「澄子さん……」
「あの、それで、突然ですが……」
澄子がゆっくりと起き上がり、支都禰の向かいに座る。そして支都禰の手を取った。驚く支都禰の横で、宇羅が腰を浮かす。
「支都禰様。私と、お友だちになってもらえますか?」
「……えっ?」
言葉に詰まる支都禰に、澄子が照れくさそうに笑う。
「あなたのこと、もっと知りたくて。それに……あなたを、素敵だと思ったから。その髪も瞳も、とても綺麗」
まっすぐな言葉に心を打たれた。今まで遠ざけられていたこの見た目を、誉めてくれる人間がいたなんて。澄子の眼差しには、恐れも蔑みもない。この親子からは、差別の気配がまったくしない。ありのままの自分を見てくれている。
(……友だち)
ふと、姫乃の手を思い出した。異なるふたつの感触が、友という同じ糸で結ばれていく。支都禰は澄子の汗ばむ手を、そっと握り返した。
「私で、よかったら」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな澄子の笑顔に、支都禰も笑みを返す。妖の友と、人間の友。ふたつの友情が支都禰の心を満たしてくれた。
宇羅は澄子と話す支都禰の横顔を、黙って見ていた。
澄子が支都禰の手を握った瞬間、司箭院のときと同じように手が出そうになった。けれどそれをしなかったのは、支都禰の瞳を見たからだ。驚きの奥の、あたたかな希望の光を。
萎縮していた支都禰が、人との繋がりを得て少しずつ回復している。それは喜ばしいことのはずだった。けれど胸の奥に、小さな棘がちくりと刺さる。
(……なんだ、今のは)
一瞬の感覚にとまどい、宇羅はひそかに息を整えるふりをした。
直衡の背中から漂う焦燥が、冷えた空気の中ほどけずに残っている。父の背中と重なって、支都禰はわずかに眉を下げた。
先頭の宇羅が立ち止まり、静かにあたりを見まわした。鬼面が、暗がりの中で赤く浮かんでいる。
「阿久良」
宇羅の呼びかけに、阿久良が頷き手をかざした。
「——狐火」
すると暗がりの屋根の上、塀の陰、路地の奥から、狐火が現れた。ひっ、と声をあげた直衡の足の間をすり抜け、尻尾を揺らして駆け寄ってきた。
「報告」
阿久良の声に、狐火たちはいっせいに、びゃあ、と鳴いた。それは鳴き声というより、頭の中で直接響くこだまのようだった。
阿久良の切れ長の瞳が、わずかに細まる。しゃがみ込んで狐火のうちの一体に触れた。目を閉じ、なにかを感じ取る。やがてまぶたを上げ、宇羅のほうへ顔を向けた。
「街はずれの池にいるようです」
池の近く、灯りの届かない道中で、狐火がふと立ち止まり、鼻先を空へ向ける。水のにおいに混じって、甘ったるい、腐りかけの花のような香りがした。
「獏の領域が近いようです」
狐火に代わって阿久良が答える。どんどんと濃くなる気配に、支都禰は顔をしかめた。
「本当にいるのか。……妖が」
てちてちと先導する狐火を見ながら、直衡が呆然とつぶやく。
支都禰は宇羅と阿久良の横顔を見た。出発前、直衡に正体を明かすと聞かされたときは驚いた。宇羅は以前から義田親子の評判に目をつけていたらしい。妖を知る人間の協力者は貴重で、ほしい人材なのだという。
「澄子……」
かすれた声に、支都禰は胸を締めつけられた。感覚を研ぎ澄ませ、前へ進む。
闇の中で大きく口を開けたように、池があった。水面には空の群青が映り、世界が反転している。波紋の外側で、澄子の草履が転がっていた。
「澄子!」
飛び出しかけた直衡の腕を、阿久良がさっと腕を掴み引き止めた。支都禰は水面を見て声をあげた。
「あれは——!」
凪いでいるはずの水面の一部が不自然に上下し、まるで呼吸をするかのように揺れている。
「宇羅様、ここは俺が」
「ああ」
阿久良が一歩前へ出ると、青い火玉が夜道に並び、道筋を成していく。
阿久良は帯に吊った狐面に触れた。瞳と同じ色の線が描かれた面は、つい先日支都禰が託していたものだ。
阿久良が片ひざをつき指先で水面を叩くと、狐火が一体、すっと水へ溶けた。波紋が広がり、闇の底からこぽこぽと、なにかが息を吐いた気配がする。
「道を照らせ」
その言葉に応えるように狐火たちが次々と水へ飛び込み、淡い光が脈打つ。緊迫した状況に似つかわしくないほど幻想的な光が、水面の下でゆったりとほどけていった。
宇羅は一歩前へ出て目を細めた。支都禰も隣に立ち、水面から立ちのぼる気配を探る。
「これは……獏の結界?」
「支都禰は感覚が鋭いな。……阿久良、行けるか」
「はい。お待ちください」
阿久良は水面に手を伸ばし、まぶたを下ろした。その姿はやがて霧に包まれ、ふわりと霧散した。
「な、なにが起こってるんだ……」
呆然とした直衡の声だけが残る。支都禰は手を重ね、祈るように水面を眺めていた。
(阿久良さん、お願い)
◆
「ここは……?」
澄子が気づくと、なにもない空間にひとり座っていた。震えおののき辺りを見まわしていると、どこからか声がした。
「すミこ」
振り向くと、空虚な瞳の直衡がいた。広がる闇の中、彼の輪郭は曖昧に揺らいでいる。
「お前ハ医者ノ娘だ。現実ヲ見ろ」「記者なンテばかげた夢ハ、さっさと諦めるンだ」
言葉の刃があちこちから、容赦なく澄子を切りつける。澄子は頭を抱え、その言葉に抗った。
「やめて!」
すると直衡のようななにかは、ありえない角度で身体をくねらせ、ぬるりと澄子の鼻先へ近づいた。瞳があるはずの場所は、空っぽだ。
「お前ノ夢ハもう、終わりだ」
「ぁ——……」
涙でいっぱいになった目を見開き、澄子は唇を震わせる。すると、もうひとつ声がした。
「すミこ」
声は懐かしいはずなのに、ぬくもりが感じられない。澄子はがたがたと震えながら声のするほうを見た。
「お、お母さん……?」
直衡の肩越しに現れた母は、影のまま、輪郭だけがゆらゆらと揺れている。
「私ノ遺志ヲ継ぐンじゃなかったノ? 裏切るノ?」
「そ、そんな」
ちがう。母はそんなこと、最期まで一度も言わなかった。澄子のどんな夢でも笑って聞いてくれた。あなたならなんでもできる、と。
(でも、本当に?)
澄子の心が、闇の中でぐらぐらと揺らいでいく。
「夢ヲ追うノハ、あなたにハ無理よ」
「……そんなこと、言わないで」
母の声をした影は、澄子の胸の内側を引っ掻くように削っていく。
「あなたノ夢は、みンなヲ不幸にするわ——」
気づけば、池のほとりに立っていた。水面は黒く、空の星さえ映さない。澄子の瞳は輝きを失い、目尻から涙がはらはらと流れていた。
澄子は一歩踏み出した。足が、勝手に奥へ奥へと進んでいく。ぽちゃりと音がして、水が足にまとわりついた。ぼんやりとする頭に、声が響く。
「おいデ」「おいデ」
一歩、また一歩と池の中へ進んでいく。笑い声が、耳の奥でこだました。
そのとき。
青い火玉が、ぼわりと光った。火玉は澄子の足元を通りすぎ、来た道を逆行していく。水面の向こう、闇の縁に、淡い光が揺れた。火玉はふたつ、みっつと増え、並ぶように澄子の前へ道をつくる。
気づけば澄子は踵を返し、灯りへと引き寄せられていた。
「ちガう、ちガう」「戻っテ、すミこ」
影の声を無視して導かれるように青い火を追うと、景色が変わった。
ぼんやりと浮き上がってきたのは、澄子の机だった。その上には、あの手帳が置かれている。火玉は手帳を示すかのようにそれを囲み、ゆらゆらと動いた。
澄子は手帳に触れた。ざらりとした紙の感触に、指先から熱が戻ってくる。
(そうだ、私は——)
その瞬間、闇の声が遠ざかった。代わりに知らない声が、はっきりと耳に届く。
「諦めるな。君の夢は、誰にも奪えない」
聞き覚えのない、淡々とした呼びかけ。けれどその声は、澄子の心にまっすぐ刺さった。続いて、父と誰かの、切実な叫びが重なった。
「澄子、戻ってこい!」
「——澄子さん!」
手帳から光が弾け、澄子の視界を覆った。
◆
池の水面が、ざぶ、と跳ねた。青白い霧が風を裂き、池のほとりに澄子を横抱きにした阿久良が現れる。
「——っ、げほ、ごほっ……」
澄子はむせた。水を吐き、息を吸う。肺の奥が痛い。痛みの奥から、嗅覚が戻ってきた。土と水と、草の香り。生きているにおい。かすむ視界の端で、白髪が揺れた。
「澄子!」
澄子はうっすらと目を開け、父を見た。涙が一筋、頬をつたう。
「……お父、さん」
直衡は涙をこらえ、娘を強く強く抱きしめた。
「獏は……」
親子のようすを見守っていた支都禰の隣で、宇羅が小さくこぼす。怪異はまだ終わっていない。支都禰はあたりを見まわし、水面の一点に細く漂う気配をとらえた。
「宇羅さん、あそこ!」
支都禰が示した先、池の向こう側で影が揺れた。宇羅が瞬時に動く。黒い塊が、ぬるりと水面から浮かび上がる。獏がどろどろとした怨念を身に纏い、グルルとうなり声をあげた。宇羅は側頭部の鬼面に指を添えた。
空気が、ふっと変わる。足元から立ちのぼった炎は、紋様を描きながら池へと向かった。草が伏せ、水面が波打つ。瞳の炎を揺らめかせ、宇羅が手を掲げた。
「鎮まれ」
低い声に合わせて炎は薄い膜のように編み上がり、獏を包み込む。抵抗する獏の身体から怨念があふれ出した。炎の網は一度ふくらみ、しぼんでいく。
獏は、水面に沈むように消えた。
◆
夜が白み始め、医院の庭先に薄い霧がたなびいた。
澄子は布団で身体を起こし、白湯で喉を潤していた。顔色はまだ白いが、目にははっきりとした光が宿っている。
「娘を助けていただき、ありがとうございました」
直衡の声はかすれていた。宇羅がやわらかく応える。
「協力感謝する。突然押しかけて、すまなかった」
「本当にありがとうございます。えっと……阿久良様も」
澄子の礼に、うしろで控えていた阿久良が小さく会釈を返した。その肩で狐火がしっぽを振っている。
「……あの」
澄子がふいに支都禰を見た。
「?」
「支都禰様も、ありがとうございます」
「い、いえ。私はなにも……」
「あなたも私を呼んでくれたでしょう? おかげで私、戻ってこられた」
澄子のほほ笑みに、支都禰も口元をゆるめた。
「澄子さん……」
「あの、それで、突然ですが……」
澄子がゆっくりと起き上がり、支都禰の向かいに座る。そして支都禰の手を取った。驚く支都禰の横で、宇羅が腰を浮かす。
「支都禰様。私と、お友だちになってもらえますか?」
「……えっ?」
言葉に詰まる支都禰に、澄子が照れくさそうに笑う。
「あなたのこと、もっと知りたくて。それに……あなたを、素敵だと思ったから。その髪も瞳も、とても綺麗」
まっすぐな言葉に心を打たれた。今まで遠ざけられていたこの見た目を、誉めてくれる人間がいたなんて。澄子の眼差しには、恐れも蔑みもない。この親子からは、差別の気配がまったくしない。ありのままの自分を見てくれている。
(……友だち)
ふと、姫乃の手を思い出した。異なるふたつの感触が、友という同じ糸で結ばれていく。支都禰は澄子の汗ばむ手を、そっと握り返した。
「私で、よかったら」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな澄子の笑顔に、支都禰も笑みを返す。妖の友と、人間の友。ふたつの友情が支都禰の心を満たしてくれた。
宇羅は澄子と話す支都禰の横顔を、黙って見ていた。
澄子が支都禰の手を握った瞬間、司箭院のときと同じように手が出そうになった。けれどそれをしなかったのは、支都禰の瞳を見たからだ。驚きの奥の、あたたかな希望の光を。
萎縮していた支都禰が、人との繋がりを得て少しずつ回復している。それは喜ばしいことのはずだった。けれど胸の奥に、小さな棘がちくりと刺さる。
(……なんだ、今のは)
一瞬の感覚にとまどい、宇羅はひそかに息を整えるふりをした。
