洋館の一室は、カーテンが閉じられ薄暗い。支都禰は継信の静かな寝顔を眺めていた。
(父さん……)
うしろ髪を引かれながら、そっと部屋を出た。
「容態は、一旦落ち着いております」
別室でそう告げたのは、鬼灯條家に出入りする主治医。老齢の男性で、ふさふさとした白い口ひげを撫でる癖がある。
「原因ですが……。やはり、呪いかと」
「……呪い」
支都禰の声が震え、口の中が乾いていった。宇羅はそれを見てほんの少し眉を寄せ、主治医に向き直る。
「何者かに狙われた、と?」
「ええ。非常に強い呪いを受けておられる。この手の呪いを断つには、呪術者を突き止め、術を封じるのが一番確実な方法です」
「でも父がそんな、誰かに強く恨まれることなど……」
不安に揺れる支都禰に、主治医は気遣わしげな視線をよこした。
「呪いといっても、ひとえに恨みだけではないのです。愛ですら、呪いとなることもあるのですから」
「……」
その言葉に支都禰だけでなく、宇羅も静かに息をのんだ。
雪起と過ごした幼き日々を思う。あのころは、お互い大好きで、大切だったはずなのに。
「儂も尽力します。あまりお気を落とされませんよう」
「呪術者については俺のほうでも調べてみる。心配だろうけど……時間をくれ」
二人の言葉に支都禰は顔を上げ、頷いた。悲観していても仕方がない。自分にできることを、積み重ねていかなければ。
「……はい。ありがとうございます」
◆
街のはずれにある義田医院。待合室には湿布のにおいと生薬の香りが入り混じり、独特の空気が漂っている。
医師の直衡はカルテに筆を走らせ、棚に並ぶ薬瓶を見た。ここ数日、似た訴えが増えている。
悪夢が原因だと騒ぐ者が多いが、病の原因はいつだって現実の中にある。直衡はそう信じていた。
次の患者は、若い男だった。目の下に濃い影が落ち、指先が震えている。ここしばらく、追われる夢ばかり見ると言う。怯え続ける若者をどうにか落ち着かせたが、診ると目立った異常はなく、単なる寝不足のように思えた。
「寝不足で神経が昂っているのだろう。落ち着かせる漢方と、それから……」
処方の説明をする直衡の言葉を遮り、若者は切羽詰まったようすで腰を上げた。
「先生、お、俺……、獏を見たんです。妖の……!」
「……君もか。噂は聞いている」
直衡はカルテに筆を走らせながら、努めて淡々と答えた。
「眠れなければ身体は壊れるし、変な夢とやらも見る。まずは身体を整えること。……噂に心を持っていかれるな」
丸まった背中が扉の向こうへ消えるのを見送りながら、直衡は眉間にしわを寄せ溜め息をついた。
正直、ここまで立て続けに似た症状を訴える者が現れると、疑問に思わざるを得ない。しかしそれを妖などという曖昧な存在で片づけるわけにもいかなかった。この街に、なにか気づかぬ病がはびこっているのか。それとも、本当に……?
幼いころ見た、恐ろしい絵巻を思い出す。その中の妖と目が合いそうになり、直衡は慌てて首を振った。
「はー……。俺も疲れているのかね」
眉間をつまんで背もたれに寄りかかっていると、扉が開き、部屋に明るい声が響いた。娘の澄子だ。
「お父さん、ただいまっ! 薬、届けてきたよ」
鼻から頬にかけてうっすらとそばかすが散り、髪は象牙の簪で低く束ねられている。明るく元気な、医院の看板娘。
「遅かったな」
「ちょっと寄り道しただけだよ。ねえ、それより聞いてよ」
父の小言を受け流し、澄子は薬箱を置きながら話題を変える。
「寝不足の患者さんたちのこと。やっぱり、みんな獏を見たんだって。夢を食べるっていう、あの……」
「ばかばかしい」
直衡は言い切って、カルテを閉じた。
「医療に携わる者が、そんな噂話に振り回されるな。病は病、夢は夢だ」
「でも、なにかの手がかりかもしれないじゃん。だから——」
「怖いものにそれらしい名前をつけて、安心したいだけだ」
ぴしゃりと遮り、溜め息混じりに言い捨てる。
「お前は医者の娘だ。噂に踊らされず、目の前の人を見ろ。そうやって記者ごっこなんてくだらないことはせず——」
言いかけて、はっとする。ここ数日の疲労が溜まっていたとはいえ、いら立ちをぶつけ、彼女の夢を揶揄してしまうとは。
澄子は唇を噛みしめ、目に涙を溜めていた。瞬きをしないようにしていたが、やがて雫がこぼれ、床にぽたぽたと染みをつくる。
「澄子——」
「片づけ、してくる」
澄子は背を向け、静かに部屋を出る。直衡が上げた手は虚空を掴み、ゆるゆると落ちた。扉が開き、次の患者が入ってくる。
「先生、私の番だけど……」
申し訳なさそうに入ってきた中年の女性が、背後の扉を見やる。
「大丈夫かい? 澄子ちゃん、泣いていたようだけど」
「……ちょっとした親子喧嘩さ。それはそうと、今日の症状は——」
さらりと話題を変えた。今は、目の前の仕事に集中せねば。
あとで話そう。大丈夫、ちょっとした行き違いだ。いつものように……。直衡は自分にそう言い聞かせた。
◆
「……はあ」
澄子は布団の中でまぶたを開けた。窓に映る木の影が、ゆらゆらと揺れている。
直衡とはあれきり話せていない。澄子は夕餉を早めに済ませ自室にこもっていたし、多忙で不器用な直衡は、そんな娘の部屋を訪れることはしなかった。親子はわだかまりを抱えたまま、一日を終えようとしている。
直衡の言いたいことは十分理解している。原因不明の患者を次々診なければならないのだから、父の負担も相当だろう。疲れた横顔が脳裏によぎり、澄子はもう一度溜め息をついた。
「なんであんな、子どもっぽいことしちゃったんだろう……」
眠れず布団から起き上がり、机へ向かう。その上に置かれた手帳にそっと触れた。
澄子は父を支えたくて雑用を手伝いつつ、巷で話題のことがあれば聞き込みをし、この手帳に書きつけていた。そうしているうちに、記者を夢見るようになった。
そのことを直衡も知っていて、応援はしてくれないが、表立って反対もされなかった。本当は亡き母の志を引き継いで看護の道へ進んでほしいだろうに、それを強要されることも今まではなかったのだ。
(お父さんにあんな風に言われるの、はじめてだ)
ぶっきらぼうで小言は多いが、いつも見守ってくれていた父。母が亡くなってからも、澄子のため懸命に働いてくれていることは、身近にいる自分が一番わかっていた。
「明日、ちゃんと話そう」
そうつぶやき、布団に戻る。謝って、しっかり話そう。目を閉じたら、思いのほかすんなりと意識が底へ沈んでいく。
「……みこ、すミこ」
ややあって、父に似た誰かの声がした。澄子はゆっくりと起き上がる。
声のするほうを見ると窓が開いていて、そこにぼんやりと影が現れた。
「おいデ、真実ヲ知りたいデしょう?」
次いで聞こえてきたのは、懐かしい母の声。
澄子の身体が勝手に動き、立ち上がった。それを不思議に思う暇もなく、一歩、二歩と、糸に引かれるように影のほうへと進んでいく。
「……お母さん?」
窓辺に立ち、おそるおそる尋ねると、影がぞわぞわと形を変えた。それはやがて鼻の長い怪物の姿へと変わり、吸い込まれそうな闇の中、ニィ、と口元が青白くにやついた。ぬるりと湿った甘い風が、誘うように澄子の頬を撫でる。
「夢ノ世界へようこそ、すミこ」
「っ——」
足元に闇が広がり、崩れた。声を発することもできないまま、闇の中へと堕ちていく。
澄子の意識は、そこで途切れた。
◆
夜半の廊下は、やけに冷えた。直衡が歩くたび、ぱき、とかすかに家鳴りがする。
眠りの浅い直衡は、小さな物音で目が覚めた。こんな時間に娘が起きたのだろうかと、灯りを持ち部屋へと向かっていた。
「澄子?」
返事はない。胸がざわつき、直衡は戸を開けた。
布団は乱れ、澄子の姿はない。窓は半分ほど押し開けられ、夜の闇が薄く差し込んでいた。
「……澄子!」
直衡は窓辺へ駆け寄り、外をのぞき込んだ。人影はなく、足跡も見えない。まるで、最初からいなかったかのように。
机の上には、手帳と簪が残っていた。
直衡が捜索の準備をしていると、背後で扉が静かに叩かれた。思わず走り寄り扉を開ける。けれどそこにいたのは、望んでいた人物ではなかった。
「こんばんは、義田先生」
現れたのは、従者を連れた一組の男女だった。男に見覚えがあったような気もするが、変わった髪と目の色をし、狐面をつけた女のほうに視線が止まる。娘と同じ年ごろだろうか。
「夜分に失礼。私は鬼灯條宇羅という者です」
(あの鬼灯條の、『若様』か?)
予想外の来訪者に言葉を失う直衡に、宇羅は落ち着き払った口ぶりで続けた。
「獏の噂について、聞かせてもらいたい」
うなだれる直衡の向かいに、宇羅と支都禰が座る。二人のうしろに控える阿久良が、淡々と話をまとめた。
「——つまり、近ごろこの街では獏によるとされる悪夢の被害が多発しており、それを調べていたお嬢様が突然姿を消した、と」
「獏は関係ありません。娘はきっと、家出をしたか……さらわれたにちがいない」
直衡は自分で発した言葉が刺さり、唇を噛む。組んだ両手に力が入った。
「なにはともあれ、手がかりがない以上、ひとり闇雲に動いたところで見つかる可能性は低い」
宇羅の冷静な指摘に、直衡は勢いよく顔を上げた。宇羅の薄黒い瞳の中に炎がちらついた気がして、目をこする。
「俺たちがここへ来たのは、妖の気配を感じたからだ」
纏う空気が変わった宇羅に、直衡は息をのむ。
「妖……?」
「ああ。先生も信じられないだろうが、事態は一刻を争う。ご息女のため協力してほしい」
趣味の悪い冗談だと言ってやりたかったが、目の前の宇羅はいたって落ち着いている。
場に沈黙が流れ、それまで黙っていた支都禰が、あの、と控えめに声をあげた。
「怨念にとらわれた獏は、心の隙間を狙い夢と希望を食べ、悪夢を見せる怪異となってしまった。澄子さんも、もしかすると……」
「夢……?」
澄子の夢、心の隙間。些細な喧嘩と片づけたあの時間を思い出す。胸の中にぽたりと落ちた染みが無視できないほど広がり、ざわざわと直衡の心をえぐる。黙り込んだ直衡を見て、支都禰が静かに申し出た。
「一緒に探しましょう。手伝わせてください」
医院を出る宇羅に、阿久良が声をかける。
「宇羅様、今回の件……」
「ああ」
意図を察し、頷く。獏は本来邪気を払う存在。そんな獏が怪異へと姿を変えた。
「何者かが、故意に怪異を起こしているのかもしれない」
宇羅の低いつぶやきは、闇に溶けた。
(父さん……)
うしろ髪を引かれながら、そっと部屋を出た。
「容態は、一旦落ち着いております」
別室でそう告げたのは、鬼灯條家に出入りする主治医。老齢の男性で、ふさふさとした白い口ひげを撫でる癖がある。
「原因ですが……。やはり、呪いかと」
「……呪い」
支都禰の声が震え、口の中が乾いていった。宇羅はそれを見てほんの少し眉を寄せ、主治医に向き直る。
「何者かに狙われた、と?」
「ええ。非常に強い呪いを受けておられる。この手の呪いを断つには、呪術者を突き止め、術を封じるのが一番確実な方法です」
「でも父がそんな、誰かに強く恨まれることなど……」
不安に揺れる支都禰に、主治医は気遣わしげな視線をよこした。
「呪いといっても、ひとえに恨みだけではないのです。愛ですら、呪いとなることもあるのですから」
「……」
その言葉に支都禰だけでなく、宇羅も静かに息をのんだ。
雪起と過ごした幼き日々を思う。あのころは、お互い大好きで、大切だったはずなのに。
「儂も尽力します。あまりお気を落とされませんよう」
「呪術者については俺のほうでも調べてみる。心配だろうけど……時間をくれ」
二人の言葉に支都禰は顔を上げ、頷いた。悲観していても仕方がない。自分にできることを、積み重ねていかなければ。
「……はい。ありがとうございます」
◆
街のはずれにある義田医院。待合室には湿布のにおいと生薬の香りが入り混じり、独特の空気が漂っている。
医師の直衡はカルテに筆を走らせ、棚に並ぶ薬瓶を見た。ここ数日、似た訴えが増えている。
悪夢が原因だと騒ぐ者が多いが、病の原因はいつだって現実の中にある。直衡はそう信じていた。
次の患者は、若い男だった。目の下に濃い影が落ち、指先が震えている。ここしばらく、追われる夢ばかり見ると言う。怯え続ける若者をどうにか落ち着かせたが、診ると目立った異常はなく、単なる寝不足のように思えた。
「寝不足で神経が昂っているのだろう。落ち着かせる漢方と、それから……」
処方の説明をする直衡の言葉を遮り、若者は切羽詰まったようすで腰を上げた。
「先生、お、俺……、獏を見たんです。妖の……!」
「……君もか。噂は聞いている」
直衡はカルテに筆を走らせながら、努めて淡々と答えた。
「眠れなければ身体は壊れるし、変な夢とやらも見る。まずは身体を整えること。……噂に心を持っていかれるな」
丸まった背中が扉の向こうへ消えるのを見送りながら、直衡は眉間にしわを寄せ溜め息をついた。
正直、ここまで立て続けに似た症状を訴える者が現れると、疑問に思わざるを得ない。しかしそれを妖などという曖昧な存在で片づけるわけにもいかなかった。この街に、なにか気づかぬ病がはびこっているのか。それとも、本当に……?
幼いころ見た、恐ろしい絵巻を思い出す。その中の妖と目が合いそうになり、直衡は慌てて首を振った。
「はー……。俺も疲れているのかね」
眉間をつまんで背もたれに寄りかかっていると、扉が開き、部屋に明るい声が響いた。娘の澄子だ。
「お父さん、ただいまっ! 薬、届けてきたよ」
鼻から頬にかけてうっすらとそばかすが散り、髪は象牙の簪で低く束ねられている。明るく元気な、医院の看板娘。
「遅かったな」
「ちょっと寄り道しただけだよ。ねえ、それより聞いてよ」
父の小言を受け流し、澄子は薬箱を置きながら話題を変える。
「寝不足の患者さんたちのこと。やっぱり、みんな獏を見たんだって。夢を食べるっていう、あの……」
「ばかばかしい」
直衡は言い切って、カルテを閉じた。
「医療に携わる者が、そんな噂話に振り回されるな。病は病、夢は夢だ」
「でも、なにかの手がかりかもしれないじゃん。だから——」
「怖いものにそれらしい名前をつけて、安心したいだけだ」
ぴしゃりと遮り、溜め息混じりに言い捨てる。
「お前は医者の娘だ。噂に踊らされず、目の前の人を見ろ。そうやって記者ごっこなんてくだらないことはせず——」
言いかけて、はっとする。ここ数日の疲労が溜まっていたとはいえ、いら立ちをぶつけ、彼女の夢を揶揄してしまうとは。
澄子は唇を噛みしめ、目に涙を溜めていた。瞬きをしないようにしていたが、やがて雫がこぼれ、床にぽたぽたと染みをつくる。
「澄子——」
「片づけ、してくる」
澄子は背を向け、静かに部屋を出る。直衡が上げた手は虚空を掴み、ゆるゆると落ちた。扉が開き、次の患者が入ってくる。
「先生、私の番だけど……」
申し訳なさそうに入ってきた中年の女性が、背後の扉を見やる。
「大丈夫かい? 澄子ちゃん、泣いていたようだけど」
「……ちょっとした親子喧嘩さ。それはそうと、今日の症状は——」
さらりと話題を変えた。今は、目の前の仕事に集中せねば。
あとで話そう。大丈夫、ちょっとした行き違いだ。いつものように……。直衡は自分にそう言い聞かせた。
◆
「……はあ」
澄子は布団の中でまぶたを開けた。窓に映る木の影が、ゆらゆらと揺れている。
直衡とはあれきり話せていない。澄子は夕餉を早めに済ませ自室にこもっていたし、多忙で不器用な直衡は、そんな娘の部屋を訪れることはしなかった。親子はわだかまりを抱えたまま、一日を終えようとしている。
直衡の言いたいことは十分理解している。原因不明の患者を次々診なければならないのだから、父の負担も相当だろう。疲れた横顔が脳裏によぎり、澄子はもう一度溜め息をついた。
「なんであんな、子どもっぽいことしちゃったんだろう……」
眠れず布団から起き上がり、机へ向かう。その上に置かれた手帳にそっと触れた。
澄子は父を支えたくて雑用を手伝いつつ、巷で話題のことがあれば聞き込みをし、この手帳に書きつけていた。そうしているうちに、記者を夢見るようになった。
そのことを直衡も知っていて、応援はしてくれないが、表立って反対もされなかった。本当は亡き母の志を引き継いで看護の道へ進んでほしいだろうに、それを強要されることも今まではなかったのだ。
(お父さんにあんな風に言われるの、はじめてだ)
ぶっきらぼうで小言は多いが、いつも見守ってくれていた父。母が亡くなってからも、澄子のため懸命に働いてくれていることは、身近にいる自分が一番わかっていた。
「明日、ちゃんと話そう」
そうつぶやき、布団に戻る。謝って、しっかり話そう。目を閉じたら、思いのほかすんなりと意識が底へ沈んでいく。
「……みこ、すミこ」
ややあって、父に似た誰かの声がした。澄子はゆっくりと起き上がる。
声のするほうを見ると窓が開いていて、そこにぼんやりと影が現れた。
「おいデ、真実ヲ知りたいデしょう?」
次いで聞こえてきたのは、懐かしい母の声。
澄子の身体が勝手に動き、立ち上がった。それを不思議に思う暇もなく、一歩、二歩と、糸に引かれるように影のほうへと進んでいく。
「……お母さん?」
窓辺に立ち、おそるおそる尋ねると、影がぞわぞわと形を変えた。それはやがて鼻の長い怪物の姿へと変わり、吸い込まれそうな闇の中、ニィ、と口元が青白くにやついた。ぬるりと湿った甘い風が、誘うように澄子の頬を撫でる。
「夢ノ世界へようこそ、すミこ」
「っ——」
足元に闇が広がり、崩れた。声を発することもできないまま、闇の中へと堕ちていく。
澄子の意識は、そこで途切れた。
◆
夜半の廊下は、やけに冷えた。直衡が歩くたび、ぱき、とかすかに家鳴りがする。
眠りの浅い直衡は、小さな物音で目が覚めた。こんな時間に娘が起きたのだろうかと、灯りを持ち部屋へと向かっていた。
「澄子?」
返事はない。胸がざわつき、直衡は戸を開けた。
布団は乱れ、澄子の姿はない。窓は半分ほど押し開けられ、夜の闇が薄く差し込んでいた。
「……澄子!」
直衡は窓辺へ駆け寄り、外をのぞき込んだ。人影はなく、足跡も見えない。まるで、最初からいなかったかのように。
机の上には、手帳と簪が残っていた。
直衡が捜索の準備をしていると、背後で扉が静かに叩かれた。思わず走り寄り扉を開ける。けれどそこにいたのは、望んでいた人物ではなかった。
「こんばんは、義田先生」
現れたのは、従者を連れた一組の男女だった。男に見覚えがあったような気もするが、変わった髪と目の色をし、狐面をつけた女のほうに視線が止まる。娘と同じ年ごろだろうか。
「夜分に失礼。私は鬼灯條宇羅という者です」
(あの鬼灯條の、『若様』か?)
予想外の来訪者に言葉を失う直衡に、宇羅は落ち着き払った口ぶりで続けた。
「獏の噂について、聞かせてもらいたい」
うなだれる直衡の向かいに、宇羅と支都禰が座る。二人のうしろに控える阿久良が、淡々と話をまとめた。
「——つまり、近ごろこの街では獏によるとされる悪夢の被害が多発しており、それを調べていたお嬢様が突然姿を消した、と」
「獏は関係ありません。娘はきっと、家出をしたか……さらわれたにちがいない」
直衡は自分で発した言葉が刺さり、唇を噛む。組んだ両手に力が入った。
「なにはともあれ、手がかりがない以上、ひとり闇雲に動いたところで見つかる可能性は低い」
宇羅の冷静な指摘に、直衡は勢いよく顔を上げた。宇羅の薄黒い瞳の中に炎がちらついた気がして、目をこする。
「俺たちがここへ来たのは、妖の気配を感じたからだ」
纏う空気が変わった宇羅に、直衡は息をのむ。
「妖……?」
「ああ。先生も信じられないだろうが、事態は一刻を争う。ご息女のため協力してほしい」
趣味の悪い冗談だと言ってやりたかったが、目の前の宇羅はいたって落ち着いている。
場に沈黙が流れ、それまで黙っていた支都禰が、あの、と控えめに声をあげた。
「怨念にとらわれた獏は、心の隙間を狙い夢と希望を食べ、悪夢を見せる怪異となってしまった。澄子さんも、もしかすると……」
「夢……?」
澄子の夢、心の隙間。些細な喧嘩と片づけたあの時間を思い出す。胸の中にぽたりと落ちた染みが無視できないほど広がり、ざわざわと直衡の心をえぐる。黙り込んだ直衡を見て、支都禰が静かに申し出た。
「一緒に探しましょう。手伝わせてください」
医院を出る宇羅に、阿久良が声をかける。
「宇羅様、今回の件……」
「ああ」
意図を察し、頷く。獏は本来邪気を払う存在。そんな獏が怪異へと姿を変えた。
「何者かが、故意に怪異を起こしているのかもしれない」
宇羅の低いつぶやきは、闇に溶けた。
