初子と雪起との遭遇からしばらく経ち、支都禰はだんだんと日常へ戻っていった。
「支都禰様、先日はありがとうございました! 子どもも喜んで……」
「よかったです、お役に立てて」
侍女の子どもが愛用していた木馬が壊れたと聞いて、修繕を名乗り出たのだ。何度も礼をしながら戻る侍女を見送り、支都禰は自分の手のひらをそっと撫でた。自分が、この手が役に立てることが嬉しい。自分の手で居場所をつくれているような気がした。
『この手で、幸せを掴み取れる人です』
先日の言葉が、心を支えてくれている。自分の手を愛おしく思い、しばらくのあいだ眺めていた。
そのとき、廊下の向こうがざわめいた。玄関のほうから安達原の声が聞こえてくる。
「阿曽宮様、こちらに若様はいらっしゃいません」
「わかっているわよ。用があるのは宇羅様ではなく……」
突然の訪問者はそこで言葉を区切り、安達原の肩越しに現れた支都禰を見て、にっこりとほほ笑んだ。
「——そう、あなたよ。未来の奥方様?」
そこにいた美少女は、セーラー服に身を包み、凛とした青紫の瞳で支都禰を見ていた。
艶のある濃紺の髪はハーフアップにまとめられ、白いレースのリボンが飾られている。華奢な手で扇子を持ち、結び付けられた小さな鈴が動きに合わせて控えめに鳴った。歳は支都禰と同じくらいだろうか。優雅に、鈴を転がすような声で話しかけてきた。
「はじめまして、白木支都禰さん。わたくしは阿曽宮姫乃よ」
名乗られた瞬間、支都禰の心臓がどくどくと音を立てる。以前侍女たちの会話で耳にした言葉がよぎった。
『元婚約者候補筆頭、才色兼備の鬼のお姫様』
支都禰はごくりと唾をのみ、とまどう侍女たちを制して歩み出た。
(私が、しっかりしないと)
宇羅の顔を思い浮かべ、気持ちを奮い立たせる。
「はじめまして、阿曽宮様。どのようなご用件でしょうか」
「あら、お硬いのね」
扇子を開いて口元を隠し、小首をかしげ上品にふふ、と笑う。佇まいや所作からわかる、自分とはまったく異なる人生を歩んできた存在だと。
「そんなに警戒しないで。今日はあなたとお近づきになりたかっただけよ」
「ですが阿曽宮様、こんな急に——」
かばうように前へ出た道成寺に対し、姫乃のうしろに控えていた護衛がすっと前に出る。一触即発の空気に、支都禰は困惑しながら姫乃を見つめた。
(お近づきになりたいって、どういうこと……?)
姫乃がさっと手を上げ、護衛がうしろへ戻る。道成寺は振り返り、支都禰の目配せを受けて下がった。
「連絡もせず来たことは謝罪するわ。でも、こうするしかなかったのよ」
「え……?」
姫乃は扇子を畳みほほ笑んだ。ちりん、と小さく鈴が鳴る。
「ね、支都禰さん。一緒に来てくださらない?」
ふと、姫乃の手に目が止まった。その美しい手からなにか自分に近い気配を感じ、支都禰は誘いに乗ってみることにした。
「……わかりました」
「支都禰様!」
姫乃は侍女たちを一瞥し、優雅に笑った。
「あなたたちったら、わたくしをなんだと思っているのかしら。取って食べるわけでもあるまいし、用が済んだらきちんと送るわよ。宇羅様にもそう伝えてちょうだい」
「ですが……」
安達原が進み出たところで、支都禰は静かに首を振った。
「大丈夫。……行ってきます」
◆
阿曽宮家の邸宅は、鬼灯條家に引けを取らぬ優美さだった。
着いたのは、阿曽宮家の本邸にある稽古場。どうぞと手を上げ奥へ案内する姫乃に一礼し、その神聖な空間に足を踏み入れた。磨かれた板床はやわらかく光を反射させ、奥には一段高い舞台があった。奥の小さな神棚の、榊の緑が目に入る。
前を歩く姫乃の背中を見ながら、胸にちくりとした痛みが走る。周囲からお似合いと称され、身分も申し分ない、美しい才女。
(宇羅さんの隣に立つなら、こういう……)
そこまで考え、支都禰は慌てて頭を振る。宇羅が用意してくれた環境に見合う自分であろうと、心を決めたばかりではないか。気を取り直し、姫乃に続いた。
「こっちよ」
舞台の前に着いた姫乃は、支都禰を座らせた。人払いを済ませ、二人きりになる。支都禰は思わず背筋を伸ばした。
姫乃は横の棚のほうへと歩き出す。
「ねえ、支都禰さんは、宇羅様のことをどう思っているのかしら」
「どう、って……」
「妖の長、鬼灯條家の次期当主。わたくしを含め……その隣の座を目指していた令嬢は多いのよ」
姫乃を目で追いながら、支都禰は両手をぎゅうっと握る。それをちらりと見て、姫乃はくすりと笑った。棚に着き、その縁を指でなぞる。
「わたくしは幼いころから両親の言いつけを守ってきたわ。彼らはあなたのことを快く思ってはいないの」
引き出しを開け、なにかを取り出す。それを背後に隠したまま振り向き、支都禰のところへゆっくりと近づいてきた。そのほほ笑みからは、なにも読み取れない。
「家のため、両親の望む娘でいなければと思っていた」
支都禰はきゅっと口元を結び、視線をまっすぐ受け止めた。青紫と黄金が、交差する。
(ここで……逃げちゃだめだ)
宇羅の隣に、自分の足で立つために。手に力を込め、瞳の黄金が覚悟を受けて輝いた。
「でもね。あなたが変えてくれたのよ。……わたくしを」
そう言って美しく笑い、姫乃は腕を動かした。
◆
「……阿曽宮?」
屋敷へ戻り報告を受けた宇羅の声が、瞬時に低くなる。元婚約者候補筆頭と称された姫乃と現婚約者の支都禰。いやな予感しかない。
「阿久良」
「はい」
阿久良が瞬時に現れそばへ寄る。宇羅は玄関先に置かれた、届いたばかりの封筒にちらりと目をやった。見慣れない封筒に、見慣れた筆跡。
(いや、今は支都禰が先だ)
「出るぞ」
「承知しました」
「支都禰が阿曽宮の家のどこにいるか、探してくれ」
「はい。……狐火」
阿久良が呼ぶと、どこからともなく大量の青白い火玉が現れた。それらは手のひらほどの大きさの子狐に姿を変え、散り散りに走り去っていく。しばらくして狐火が支都禰の居場所を知らせ、宇羅たちはすぐに阿曽宮家へと駆け出した。
「これは鬼灯條の若様、うちにどんなご用で……」
「すまないが急いでいる。通してもらうぞ」
当主夫妻を阿久良に任せ、宇羅は一目散に稽古場へと向かった。
(無事でいてくれ、支都禰——)
思いきり扉を開け、叫んだ。
「支都禰‼︎」
声に驚き支都禰が振り返ったのを見て、肩で息をしながらほっとする。すぐさま近づいて支都禰をかばうように立ち、姫乃と対峙した。
「宇羅さ——」
「阿曽宮、勝手を許した覚えはないが」
あせりのあまり、支都禰の呼びかけを遮ってしまった。姫乃は平然と宇羅の視線を受け、おもしろそうにほほ笑んでいる。
「あら怖い。まるで人さらいみたいに」
「その通りだろ」
そう言ってから姫乃が手に持つものに気づき、疑問が口をついて出る。
「……神楽鈴?」
姫乃は優雅に笑い、しゃんと鈴をひと振りした。
「そう。これを見てほしくて、お呼びしたのよ」
◆
時はさかのぼり——。
目の前に現れた神楽鈴に支都禰はぱちぱちと目を瞬かせ、それを見て姫乃は満足そうに笑った。
「ふふ、思った通りの反応ね。痛めつけるとでも思った?」
「い、いえ……」
支都禰がしどろもどろで答えると、姫乃はおだやかに言った。
「わたくし、巫女として神楽を舞っているの。よかったら、少し見ていただけないかしら」
そうして見せられた姫乃の舞に、支都禰はすっかり魅了された。鈴の音が稽古場に美しく響き、空気が浄化される。姫乃が舞うさまは、どこか面を打つ自分と重なって見えた。支都禰は姫乃の手を見たときの、気配の正体に気づく。あれは長い時間を積み上げた者の気配だ。
舞い終えた姫乃が息ひとつ乱さず振り向き、支都禰は惜しみない拍手を送った。
「……すごいです!」
「ふふ、ありがとう」
舞台を降りた姫乃は、これまでの上品な笑みとはちがう、等身大の少女の顔で笑った。
「わたくし、あなたのことを尊敬しているの」
「え……っ?」
突然の告白に、困惑の声が漏れる。
「このあいだの夜会であなたと、その面を見たとき……心が震えた」
側頭部の狐面に手を添えた支都禰を見てほほ笑み、姫乃は鈴を撫でながら話を続けた。
「面を外すときのあなたの手。その手できっと作ったのだと直感したわ。こんな素敵な面を打てる人が、わたくしと同じくらいの女の子だなんて。運命を感じたの」
支都禰が姫乃の気配を感じたように、姫乃も支都禰の手から感じ取ってくれた。遠い存在であるはずの姫乃が急に身近に感じられ、支都禰は胸の前で手を握りしめる。
「それで、ぜひわたくしの神楽面をお願いしたいと思ったの」
「神楽面?」
「ええ。いつかあなたの面をつけて神楽を舞いたい。……お願い、できるかしら」
今までの堂々とした口ぶりとは異なり、やや遠慮がちな声。
自分の打った面が誰かの心を動かせるなんて、嬉しかった。喜びを胸に、支都禰は力強く頷いた。
「私でよければ、ぜひ……!」
◆
「……それで、面や舞について話し込んでいた、と」
額に手をやりながらつぶやく宇羅に、姫乃はかわいらしく口を尖らせる。
「どこかの誰かさんが愛しの婚約者を隠してばかりいるから、話せずにいたのだもの。意趣返しよ」
愛しの婚約者、という言葉に支都禰は顔を赤くする。宇羅は溜め息をつきながら腕を組んだ。
「こちらにも事情があるんだ。事前に一言あるべきだろう」
「事前に言っても、会わせてくれなかったじゃない」
「それは……」
口ごもる宇羅に、姫乃は「ほら」と呆れた。
「……会わせたいわけがないだろ」
「まあ、そうでしょうけれど」
神楽鈴で口元を隠しながら、姫乃は声を落とした。
「わたくしだって、あなたに言い寄るのは本意じゃなかったのよ」
「えっ?」
思わず声に出てしまい、支都禰は慌てて口を覆う。それを見て姫乃は笑った。
「もちろん、長の妻という肩書きは魅力的よ。けれど宇羅様は誰にもなびかないし、わたくしももう、夢見るだけではないから……。とはいえ、こちらにも体面があってね」
「……体面って」
宇羅は眉を寄せ、もう一度溜め息をついた。
「……家のことはさておき、わたくしはあなたと友人になりたいのよ。支都禰さん」
「——友人?」
「ええ。だめかしら?」
差し出された手を見て、支都禰は宇羅と握手をしたときのことを思い出した。
支都禰の隣で宇羅が動きかけたが、そのまま黙って待っている。それに気がつき、心が軽くなる。
(宇羅さんは、また、選ばせてくれてるんだ)
本当に危険などがあるのなら、宇羅は止めてくれるはず。つまり、姫乃個人については問題がないということだろう。
姫乃に向き直り、差し出された手をそっと握る。ここにも、自らの手で積み上げてきた人がいる。
「お願いします。……姫乃様」
「ふふ、姫乃でいいわよ」
宇羅の視線が、二人の手元へ落ちた。
「……帰ろう。支都禰」
いつもの声が、今日はいちだんとやさしく感じる。支都禰は手を名残惜しげに放し、頷いた。
「——はい。宇羅さん」
宇羅の目がわずかに細まる。姫乃は二人のようすを静かに見守っていた。
この日、支都禰ははじめて、妖の友を得た。
夕焼けで、阿曽宮家の門が赤く染まっていた。
「今度はもっとゆっくり話しましょう。支都禰さん」
「はい。ぜひ」
姫乃は扇子で口元を隠し、ふふふとほほ笑んだ。
「隣の殿方は、納得いってなさそうだけれど」
「…………支都禰が望むなら」
おだやかにほほ笑む宇羅だが、目の奥は笑っていなかった。二人の間に散る火花が見えた気がして、支都禰はとっさに宇羅の腕に触れた。
「か、帰りましょう。宇羅さん」
宇羅は自分の腕に触れる手を見て一瞬固まり、ほほ笑んで手を添えた。耳元の鬼灯が、夕焼けを反射する。
「ああ」
阿久良を連れて帰路についた二人を見送りながら、姫乃は扇子を畳んで頬に添えた。青紫の瞳が、並び立つ背中を映す。
「——もしかすると、本当に『奥方様』とお呼びする日がくるかもしれないわね」
「支都禰様、先日はありがとうございました! 子どもも喜んで……」
「よかったです、お役に立てて」
侍女の子どもが愛用していた木馬が壊れたと聞いて、修繕を名乗り出たのだ。何度も礼をしながら戻る侍女を見送り、支都禰は自分の手のひらをそっと撫でた。自分が、この手が役に立てることが嬉しい。自分の手で居場所をつくれているような気がした。
『この手で、幸せを掴み取れる人です』
先日の言葉が、心を支えてくれている。自分の手を愛おしく思い、しばらくのあいだ眺めていた。
そのとき、廊下の向こうがざわめいた。玄関のほうから安達原の声が聞こえてくる。
「阿曽宮様、こちらに若様はいらっしゃいません」
「わかっているわよ。用があるのは宇羅様ではなく……」
突然の訪問者はそこで言葉を区切り、安達原の肩越しに現れた支都禰を見て、にっこりとほほ笑んだ。
「——そう、あなたよ。未来の奥方様?」
そこにいた美少女は、セーラー服に身を包み、凛とした青紫の瞳で支都禰を見ていた。
艶のある濃紺の髪はハーフアップにまとめられ、白いレースのリボンが飾られている。華奢な手で扇子を持ち、結び付けられた小さな鈴が動きに合わせて控えめに鳴った。歳は支都禰と同じくらいだろうか。優雅に、鈴を転がすような声で話しかけてきた。
「はじめまして、白木支都禰さん。わたくしは阿曽宮姫乃よ」
名乗られた瞬間、支都禰の心臓がどくどくと音を立てる。以前侍女たちの会話で耳にした言葉がよぎった。
『元婚約者候補筆頭、才色兼備の鬼のお姫様』
支都禰はごくりと唾をのみ、とまどう侍女たちを制して歩み出た。
(私が、しっかりしないと)
宇羅の顔を思い浮かべ、気持ちを奮い立たせる。
「はじめまして、阿曽宮様。どのようなご用件でしょうか」
「あら、お硬いのね」
扇子を開いて口元を隠し、小首をかしげ上品にふふ、と笑う。佇まいや所作からわかる、自分とはまったく異なる人生を歩んできた存在だと。
「そんなに警戒しないで。今日はあなたとお近づきになりたかっただけよ」
「ですが阿曽宮様、こんな急に——」
かばうように前へ出た道成寺に対し、姫乃のうしろに控えていた護衛がすっと前に出る。一触即発の空気に、支都禰は困惑しながら姫乃を見つめた。
(お近づきになりたいって、どういうこと……?)
姫乃がさっと手を上げ、護衛がうしろへ戻る。道成寺は振り返り、支都禰の目配せを受けて下がった。
「連絡もせず来たことは謝罪するわ。でも、こうするしかなかったのよ」
「え……?」
姫乃は扇子を畳みほほ笑んだ。ちりん、と小さく鈴が鳴る。
「ね、支都禰さん。一緒に来てくださらない?」
ふと、姫乃の手に目が止まった。その美しい手からなにか自分に近い気配を感じ、支都禰は誘いに乗ってみることにした。
「……わかりました」
「支都禰様!」
姫乃は侍女たちを一瞥し、優雅に笑った。
「あなたたちったら、わたくしをなんだと思っているのかしら。取って食べるわけでもあるまいし、用が済んだらきちんと送るわよ。宇羅様にもそう伝えてちょうだい」
「ですが……」
安達原が進み出たところで、支都禰は静かに首を振った。
「大丈夫。……行ってきます」
◆
阿曽宮家の邸宅は、鬼灯條家に引けを取らぬ優美さだった。
着いたのは、阿曽宮家の本邸にある稽古場。どうぞと手を上げ奥へ案内する姫乃に一礼し、その神聖な空間に足を踏み入れた。磨かれた板床はやわらかく光を反射させ、奥には一段高い舞台があった。奥の小さな神棚の、榊の緑が目に入る。
前を歩く姫乃の背中を見ながら、胸にちくりとした痛みが走る。周囲からお似合いと称され、身分も申し分ない、美しい才女。
(宇羅さんの隣に立つなら、こういう……)
そこまで考え、支都禰は慌てて頭を振る。宇羅が用意してくれた環境に見合う自分であろうと、心を決めたばかりではないか。気を取り直し、姫乃に続いた。
「こっちよ」
舞台の前に着いた姫乃は、支都禰を座らせた。人払いを済ませ、二人きりになる。支都禰は思わず背筋を伸ばした。
姫乃は横の棚のほうへと歩き出す。
「ねえ、支都禰さんは、宇羅様のことをどう思っているのかしら」
「どう、って……」
「妖の長、鬼灯條家の次期当主。わたくしを含め……その隣の座を目指していた令嬢は多いのよ」
姫乃を目で追いながら、支都禰は両手をぎゅうっと握る。それをちらりと見て、姫乃はくすりと笑った。棚に着き、その縁を指でなぞる。
「わたくしは幼いころから両親の言いつけを守ってきたわ。彼らはあなたのことを快く思ってはいないの」
引き出しを開け、なにかを取り出す。それを背後に隠したまま振り向き、支都禰のところへゆっくりと近づいてきた。そのほほ笑みからは、なにも読み取れない。
「家のため、両親の望む娘でいなければと思っていた」
支都禰はきゅっと口元を結び、視線をまっすぐ受け止めた。青紫と黄金が、交差する。
(ここで……逃げちゃだめだ)
宇羅の隣に、自分の足で立つために。手に力を込め、瞳の黄金が覚悟を受けて輝いた。
「でもね。あなたが変えてくれたのよ。……わたくしを」
そう言って美しく笑い、姫乃は腕を動かした。
◆
「……阿曽宮?」
屋敷へ戻り報告を受けた宇羅の声が、瞬時に低くなる。元婚約者候補筆頭と称された姫乃と現婚約者の支都禰。いやな予感しかない。
「阿久良」
「はい」
阿久良が瞬時に現れそばへ寄る。宇羅は玄関先に置かれた、届いたばかりの封筒にちらりと目をやった。見慣れない封筒に、見慣れた筆跡。
(いや、今は支都禰が先だ)
「出るぞ」
「承知しました」
「支都禰が阿曽宮の家のどこにいるか、探してくれ」
「はい。……狐火」
阿久良が呼ぶと、どこからともなく大量の青白い火玉が現れた。それらは手のひらほどの大きさの子狐に姿を変え、散り散りに走り去っていく。しばらくして狐火が支都禰の居場所を知らせ、宇羅たちはすぐに阿曽宮家へと駆け出した。
「これは鬼灯條の若様、うちにどんなご用で……」
「すまないが急いでいる。通してもらうぞ」
当主夫妻を阿久良に任せ、宇羅は一目散に稽古場へと向かった。
(無事でいてくれ、支都禰——)
思いきり扉を開け、叫んだ。
「支都禰‼︎」
声に驚き支都禰が振り返ったのを見て、肩で息をしながらほっとする。すぐさま近づいて支都禰をかばうように立ち、姫乃と対峙した。
「宇羅さ——」
「阿曽宮、勝手を許した覚えはないが」
あせりのあまり、支都禰の呼びかけを遮ってしまった。姫乃は平然と宇羅の視線を受け、おもしろそうにほほ笑んでいる。
「あら怖い。まるで人さらいみたいに」
「その通りだろ」
そう言ってから姫乃が手に持つものに気づき、疑問が口をついて出る。
「……神楽鈴?」
姫乃は優雅に笑い、しゃんと鈴をひと振りした。
「そう。これを見てほしくて、お呼びしたのよ」
◆
時はさかのぼり——。
目の前に現れた神楽鈴に支都禰はぱちぱちと目を瞬かせ、それを見て姫乃は満足そうに笑った。
「ふふ、思った通りの反応ね。痛めつけるとでも思った?」
「い、いえ……」
支都禰がしどろもどろで答えると、姫乃はおだやかに言った。
「わたくし、巫女として神楽を舞っているの。よかったら、少し見ていただけないかしら」
そうして見せられた姫乃の舞に、支都禰はすっかり魅了された。鈴の音が稽古場に美しく響き、空気が浄化される。姫乃が舞うさまは、どこか面を打つ自分と重なって見えた。支都禰は姫乃の手を見たときの、気配の正体に気づく。あれは長い時間を積み上げた者の気配だ。
舞い終えた姫乃が息ひとつ乱さず振り向き、支都禰は惜しみない拍手を送った。
「……すごいです!」
「ふふ、ありがとう」
舞台を降りた姫乃は、これまでの上品な笑みとはちがう、等身大の少女の顔で笑った。
「わたくし、あなたのことを尊敬しているの」
「え……っ?」
突然の告白に、困惑の声が漏れる。
「このあいだの夜会であなたと、その面を見たとき……心が震えた」
側頭部の狐面に手を添えた支都禰を見てほほ笑み、姫乃は鈴を撫でながら話を続けた。
「面を外すときのあなたの手。その手できっと作ったのだと直感したわ。こんな素敵な面を打てる人が、わたくしと同じくらいの女の子だなんて。運命を感じたの」
支都禰が姫乃の気配を感じたように、姫乃も支都禰の手から感じ取ってくれた。遠い存在であるはずの姫乃が急に身近に感じられ、支都禰は胸の前で手を握りしめる。
「それで、ぜひわたくしの神楽面をお願いしたいと思ったの」
「神楽面?」
「ええ。いつかあなたの面をつけて神楽を舞いたい。……お願い、できるかしら」
今までの堂々とした口ぶりとは異なり、やや遠慮がちな声。
自分の打った面が誰かの心を動かせるなんて、嬉しかった。喜びを胸に、支都禰は力強く頷いた。
「私でよければ、ぜひ……!」
◆
「……それで、面や舞について話し込んでいた、と」
額に手をやりながらつぶやく宇羅に、姫乃はかわいらしく口を尖らせる。
「どこかの誰かさんが愛しの婚約者を隠してばかりいるから、話せずにいたのだもの。意趣返しよ」
愛しの婚約者、という言葉に支都禰は顔を赤くする。宇羅は溜め息をつきながら腕を組んだ。
「こちらにも事情があるんだ。事前に一言あるべきだろう」
「事前に言っても、会わせてくれなかったじゃない」
「それは……」
口ごもる宇羅に、姫乃は「ほら」と呆れた。
「……会わせたいわけがないだろ」
「まあ、そうでしょうけれど」
神楽鈴で口元を隠しながら、姫乃は声を落とした。
「わたくしだって、あなたに言い寄るのは本意じゃなかったのよ」
「えっ?」
思わず声に出てしまい、支都禰は慌てて口を覆う。それを見て姫乃は笑った。
「もちろん、長の妻という肩書きは魅力的よ。けれど宇羅様は誰にもなびかないし、わたくしももう、夢見るだけではないから……。とはいえ、こちらにも体面があってね」
「……体面って」
宇羅は眉を寄せ、もう一度溜め息をついた。
「……家のことはさておき、わたくしはあなたと友人になりたいのよ。支都禰さん」
「——友人?」
「ええ。だめかしら?」
差し出された手を見て、支都禰は宇羅と握手をしたときのことを思い出した。
支都禰の隣で宇羅が動きかけたが、そのまま黙って待っている。それに気がつき、心が軽くなる。
(宇羅さんは、また、選ばせてくれてるんだ)
本当に危険などがあるのなら、宇羅は止めてくれるはず。つまり、姫乃個人については問題がないということだろう。
姫乃に向き直り、差し出された手をそっと握る。ここにも、自らの手で積み上げてきた人がいる。
「お願いします。……姫乃様」
「ふふ、姫乃でいいわよ」
宇羅の視線が、二人の手元へ落ちた。
「……帰ろう。支都禰」
いつもの声が、今日はいちだんとやさしく感じる。支都禰は手を名残惜しげに放し、頷いた。
「——はい。宇羅さん」
宇羅の目がわずかに細まる。姫乃は二人のようすを静かに見守っていた。
この日、支都禰ははじめて、妖の友を得た。
夕焼けで、阿曽宮家の門が赤く染まっていた。
「今度はもっとゆっくり話しましょう。支都禰さん」
「はい。ぜひ」
姫乃は扇子で口元を隠し、ふふふとほほ笑んだ。
「隣の殿方は、納得いってなさそうだけれど」
「…………支都禰が望むなら」
おだやかにほほ笑む宇羅だが、目の奥は笑っていなかった。二人の間に散る火花が見えた気がして、支都禰はとっさに宇羅の腕に触れた。
「か、帰りましょう。宇羅さん」
宇羅は自分の腕に触れる手を見て一瞬固まり、ほほ笑んで手を添えた。耳元の鬼灯が、夕焼けを反射する。
「ああ」
阿久良を連れて帰路についた二人を見送りながら、姫乃は扇子を畳んで頬に添えた。青紫の瞳が、並び立つ背中を映す。
「——もしかすると、本当に『奥方様』とお呼びする日がくるかもしれないわね」
