偽る柊はよすがを探す


翌朝。いつもより起床が遅くなってしまったことを認識しながらも、のろのろと廊下を歩いた。
向かう先は台所だ。今朝も、味噌の香りと小気味いい包丁の音が聞こえることに、ほっとしている自分がいる。

「……おはよう」
「お、おはようございます」

なるべくいつも通りを装って、声をかける。あらかた朝餉の準備は終わってしまったのか、自分が居てもやることはなさそうだった。昨夜は自分のせいで碌に寝られなかっただろうに、少し申し訳ない。香蓮は、自分が来ることを想定していなかったようだった。香蓮が目を向けた先を自分も追うと、握り飯が二つ取り分けられている。

「起きてこられないかと思って……」
「……食べる。香蓮がせっかく作ってくれたから」

皿をひょいっと持ち上げて、さっさと居間へ運んでいく。こうでもしないと、香蓮は自分で処理しようとするだろう。形のいい握り飯は美味しそうで、思わず頬が緩んだ。

「すまない。今朝は全部香蓮に任せてしまった」
「全然大丈夫ですよ。私も少し寝坊してしまいましたし」

昼餉は一緒に作りましょう、という香蓮の提案に頷きながら味噌汁を啜る。喉を通る熱さが心地よく、昨夜から何も食べていない体に沁みわたる。
同じ味で、何も変わっていない。そのことに少し安堵している自分がいて少し戸惑った。それは香蓮との生活を肯定しているのと同義だったから。
もう欺き続ける必要がなかったからだろうか。吹っ切れたような気軽さに、自分でも可笑しかった。
ふと、視線を上げるとこちらを怪訝そうに見ている香蓮と目が合った。

「柊花様?どうかなさいましたか」

ごく自然に、香蓮が自分の名前を呼んでくる。遠い昔に捨てさせられた名前。もう、その名を呼ぶ人はいないと思っていたのに。

「別に。……久しぶりで、慣れていないだけだ」
「……呼び名、変えた方がいいですか?」

もう、香蓮の中では自分は「霞城柊花」なのだろう。その事実が嬉しくて……同時に、怖い自分もいる。欲が出て、全部話してしまいそうになるから。そしたらもう二度と、霞城柊夜として生きられないだろう。
なのに、その呼び名を拒めない。

「……いや、少し驚いただけだ」

……それでいいと思ってしまう自分にも。
幸いなことに、香蓮がそれ以上詰めてくることはなかった。安堵したことがバレないよう、また箸を進める。そのままこの話はおしまいになると思っていたのに。

「私も驚いたことがあるんです」

その言葉は、独り言のようだった。現に、香蓮は食事をする手を止めない。そのまま言葉を待っていれば、香蓮はこちらを見ながら小さく笑った。

「今朝、初めて私の名前を口にしてくれましたね」
「……そうか」

指摘されるまで、気づかなかった。自分の今までの言動を振り返ってみるも、よく分からない。意識していなかったからだろう。
香蓮のその指摘は拗ねたようなものでも非難するものでもなかった。ただ淡々としていた。
なるべく、名前で呼ぼうと思った。



「結い上げるのは」
「却下」
「じゃあ髪飾り……」
「駄目だ」
「……せめて椿油を」
「それなら、まあ」

以前よりはマシになったものの、依然として香蓮は自分を飾りたいようだった。
一度、女に戻ってしまえば……受け入れてしまえば、もう二度と霞城柊夜に戻れない気がして少しだけ怖い。だから、油を塗らせるのが自分にとっての精一杯の妥協点だった。
一応人目につかないところに……と香蓮の自室に連れていかれ、小さな鏡台の前に座らされる。香蓮が家に来てすぐの時も思ったが、やはり香蓮の持ち物は少なかった。目の前に置かれている小物たちはどれも使い古されたもので、櫛なんて所々歯が欠けている。

「籠谷家は給金が安いのか?」
「……そんなことないですよ」

自分の雇い主を悪く言いたくないのか、香蓮は気まずそうに柊 自分から櫛を取り上げた。そのまま丁寧に髪に櫛を通していく。手入れをしていなかったせいか所々引っかかってしまう。よほど痛んでいたのだろう。髪の絡まりを取る手つきが優しくて、思わず鏡から目を反らす。

「初めてお目にかかった時も思ったんですけど、柊花様の髪はお美しいですね」
「そう、か?」

いつもの髪紐で自分の要望通り一つに括りながら、香蓮は楽しそうに言った。心なしか艶が出て、指通りもよくなった気がする。
……このくらいなら、いいかもしれない。そう思ってしまい、ぎゅっと眉を寄せる。香蓮の思惑通りになった気がして、少し悔しかった。

「柊花様の髪で織ったら、美しい絹織物ができそうです」
「……」
『柊花の髪は絹みたいに綺麗だな』

香蓮からしたら、ちょっとした冗談のつもりだったのだろう。でも、その言葉はずっと昔に兄から言われたものとよく似ていて。……懐かしかった。

「香蓮」
「はい、何でしょう」
「……ありがとう」

何に対してか自分でもよく分からない。不思議そうにしている香蓮が可笑しくて、でも同時につきりと胸が痛む。このまま、ずるずると香蓮の好意を受け入れてしまうのではないか、戻れなくなるんじゃないか、と。
じわじわと広がる温かさが心地よく、少し怖かった。

 *

傷も塞がり、激しい動きをしても問題なくなった頃。じめじめとした梅雨は明け、朝顔が花開く季節になっていた。
玄関の戸を開けて思わず目を細める。朝だというのに蒸し暑さを感じさせ、日が眩しかった。

「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」

このやりとりをするのは久しぶりだった。そう、丁度大怪我を負った日の朝ぶりだ。
思わずまじまじと香蓮を見てしまう。ああ、自分はこの言葉に、あの日必死に帰ってきたのだと思い出す。
いつぞやの時に当真が言っていた言霊の力だろうか。そんな馬鹿げたことを考えて、静かに家を出た。