最初は、それがどこから発せられているのか分からなかった。ふわりと浮上した意識。寝起きの脳はうまく働かず、ぼんやりとその音を聞いていた。
誰かの啜り泣き。
そんな馬鹿げた問いを浮かべた自分の脳は、よっぽど寝ぼけていたらしかった。
……この屋敷に居るのは自分と、もう一人だけだというのに。
迷いなく障子を開けて部屋を出た。まもなく初夏を迎える最近は、夜も気温が高いことが多かったが、今夜は連日の雨のせいか少し肌寒い。月明かりのない庭に面した廊下は薄暗く、冷えた床が足裏を冷やしていく。
向かう先は、絶対に入るなと言われていた柊夜の自室。一度、看病の為に部屋に入ったことがある。
拍子抜けするほど就寝に必要な最低限のものしかない部屋は、もしかするとこの家の中で一番温度を感じない場所かもしれなかった。
「柊夜様?」
一つ息をつきながら襖を少し開けた。隙間から中の様子を窺えば、柊夜が真っ暗闇の中で鏡台の前で蹲っている。また傷口が開いて痛むのだろうかと不安になり、失礼を承知の上で部屋に立ち入った。
「大丈夫ですか?どこか痛むところでも……」
側に寄ってみて、初めて気づく。鏡台の右端。鍵のついた引き出しの中身。以前は閉じられていたそこが、開け放たれていた。
中には、小さな猪口があった。
それがなにか、自分は知っている。唇に乗せるもの。女性が自分を飾るもの……
呆然と見下ろせば、ゆったりとした寝間着の上からでも身体の線がほんのり分かった。この人は女なのだと改めて分かるくらいに。
そして、下ろされた銀髪。いつもは後ろで一つに括っているのに、さらりと下ろしたままだった。
それが余計に、無防備さと嫋やかさを際立たせてくる。日中は、そのシャンと立つ姿に、よくもまあ上手く男に化けていたものだと感心していたが、今、自分の見下ろすその背中は震えていて、小さくて脆かった。
その背に、 そっと手を乗せる。自分にはこれが精一杯だった。
「……悪い。就寝の邪魔をした」
「そんなこと、思ってません」
「お前の気遣いも、無駄にしてすまない。だけど、もうあのような気遣いはいらないんだ」
「……え、」
「私はもう、死んだから」
――揺らいだ一人称。
「俺」という一人称に慣れるまで、どれだけの年月を費やしたのか。そんな問いが、口元まで出かける。
この人は、同情することすら烏滸がましいほどに孤独で苦しい日々を生きてきたはずだ。自分の言動はさぞ苛立たしかっただろうに。
それでも、この人はそれを「気遣い」だと言い、あまつさえ謝るのか。
呆然としながら、その小さな背を見つめ続けることしかできなかった。
「なんで、諦めるんですか」
その言葉に責めるような意図はなかったが、柊夜はびくりと肩を震わせた。
不思議で仕方なかった。一人暮らしをしていれば、家でどんな姿でいようがバレようもないのに。父親からの監視の目も、柊夜が報告しない限りは問題ないというのに。
柊夜が自らを縛っていくのが、理解できない。
「辛いんでしょう?なら、なんでこんなこと……」
それまで何も言わなかった柊夜が、ここで初めて口を開く。疲れたような、諦めきっている声音だった。
「……前も言っただろう。何も知らないくせに、口を挟むなって」
昼間のような強い拒絶ではない。ただ、聞きたがりの子どもを窘めるような、溜息の混じる声だった。柊夜は、そのまま開けっ放しにしていた引き出しを閉めてしまった。中で、微かな音を立てて紅が動く。そのまま慣れた手つきで鍵をかけると、また座り込んでしまった。
隔世の任務を終え、疲れて帰ってきたときもここまで静かなことはなかったのに。
自分の中で、霞城柊夜という人物像が急速に遠ざかっていく。
「なら、私に教えてください、柊夜様のこと」
「なにから?」
「え……」
くるりと振り返ってこちらを見上げながら、柊夜は笑った。美しい笑みだと思った。赤い唇がそっと言葉を紡いでいくのを、息を止めて見ていた。
「私の名前すら、知らないくせに」
その囁くような声は寂しそうで、拗ねたような声音だった。声は相変わらず男のように低いのに、眉を下げたその表情や口調が、どうやったって男ではないのだと突きつける。
今まで口にしていた名前すら、偽りだった。
その事実に絶句してしまう。そんな自分を他所に、柊夜は……目の前の女性は笑っていた。全然楽しそうじゃないのに。
「別にいいんだ。とっくに私は、霞城柊夜だから」
ちらりと引き出しを見ながら、言う。諦めきったようなその言い方が、自分にはひどく不快だった。
今まで通り柊夜と呼んでほしい、と言いながら、柊夜は自分を追い出そうとする。口にするわけでもない。ただその視線が静かに出ていくように告げていた。明日の朝には、全て元通りになって、完璧な霞城柊夜として夫婦ごっこを続けるつもりなのだろう。やっと表に出てきた目の前の人物は、消えてしまうのだろう。
それが分かってしまって遣る瀬無い。ここで素直に柊夜の言葉に従う気はさらさらなかった。
「……私たちは、共犯者でしょう?今更隠す必要ありますか」
「共犯者……」
「それとも、私のことは信用できませんか」
自嘲するような発言に、柊夜はグッと顔をしかめた。自分のことは蔑ろにするのに、なんでそんな顔をするんだろう。柊夜を見つめ続けながら不思議に思う。……もっと、知りたかった。
その間にも、柊夜の瞳はゆらゆらと揺れ動いていた。あともう少しだと、口を開こうとした瞬間だった。
「……柊花」
本当に、小さな声だった。久しぶりにその音を発したかのように覚束なくて、掠れている。
でもその響きが美しくて。何度も舌の上でその音を転がした。
「……しゅうか、様」
目の前の人物は、目を伏せながらギュッと服の裾を握りしめている。その姿が、脳裏にあった霞城柊夜を霧散させる。
霞城……柊花。
「はじめまして。……籠谷香蓮と申します」
そう呟けば、柊花は少し驚いたように顔を上げた。その瞳にまた涙が滲んでいて、きらきらと輝いている。瞬いた拍子にポロリと落ちたそれを、美しいと思ってしまった。
誰かの啜り泣き。
そんな馬鹿げた問いを浮かべた自分の脳は、よっぽど寝ぼけていたらしかった。
……この屋敷に居るのは自分と、もう一人だけだというのに。
迷いなく障子を開けて部屋を出た。まもなく初夏を迎える最近は、夜も気温が高いことが多かったが、今夜は連日の雨のせいか少し肌寒い。月明かりのない庭に面した廊下は薄暗く、冷えた床が足裏を冷やしていく。
向かう先は、絶対に入るなと言われていた柊夜の自室。一度、看病の為に部屋に入ったことがある。
拍子抜けするほど就寝に必要な最低限のものしかない部屋は、もしかするとこの家の中で一番温度を感じない場所かもしれなかった。
「柊夜様?」
一つ息をつきながら襖を少し開けた。隙間から中の様子を窺えば、柊夜が真っ暗闇の中で鏡台の前で蹲っている。また傷口が開いて痛むのだろうかと不安になり、失礼を承知の上で部屋に立ち入った。
「大丈夫ですか?どこか痛むところでも……」
側に寄ってみて、初めて気づく。鏡台の右端。鍵のついた引き出しの中身。以前は閉じられていたそこが、開け放たれていた。
中には、小さな猪口があった。
それがなにか、自分は知っている。唇に乗せるもの。女性が自分を飾るもの……
呆然と見下ろせば、ゆったりとした寝間着の上からでも身体の線がほんのり分かった。この人は女なのだと改めて分かるくらいに。
そして、下ろされた銀髪。いつもは後ろで一つに括っているのに、さらりと下ろしたままだった。
それが余計に、無防備さと嫋やかさを際立たせてくる。日中は、そのシャンと立つ姿に、よくもまあ上手く男に化けていたものだと感心していたが、今、自分の見下ろすその背中は震えていて、小さくて脆かった。
その背に、 そっと手を乗せる。自分にはこれが精一杯だった。
「……悪い。就寝の邪魔をした」
「そんなこと、思ってません」
「お前の気遣いも、無駄にしてすまない。だけど、もうあのような気遣いはいらないんだ」
「……え、」
「私はもう、死んだから」
――揺らいだ一人称。
「俺」という一人称に慣れるまで、どれだけの年月を費やしたのか。そんな問いが、口元まで出かける。
この人は、同情することすら烏滸がましいほどに孤独で苦しい日々を生きてきたはずだ。自分の言動はさぞ苛立たしかっただろうに。
それでも、この人はそれを「気遣い」だと言い、あまつさえ謝るのか。
呆然としながら、その小さな背を見つめ続けることしかできなかった。
「なんで、諦めるんですか」
その言葉に責めるような意図はなかったが、柊夜はびくりと肩を震わせた。
不思議で仕方なかった。一人暮らしをしていれば、家でどんな姿でいようがバレようもないのに。父親からの監視の目も、柊夜が報告しない限りは問題ないというのに。
柊夜が自らを縛っていくのが、理解できない。
「辛いんでしょう?なら、なんでこんなこと……」
それまで何も言わなかった柊夜が、ここで初めて口を開く。疲れたような、諦めきっている声音だった。
「……前も言っただろう。何も知らないくせに、口を挟むなって」
昼間のような強い拒絶ではない。ただ、聞きたがりの子どもを窘めるような、溜息の混じる声だった。柊夜は、そのまま開けっ放しにしていた引き出しを閉めてしまった。中で、微かな音を立てて紅が動く。そのまま慣れた手つきで鍵をかけると、また座り込んでしまった。
隔世の任務を終え、疲れて帰ってきたときもここまで静かなことはなかったのに。
自分の中で、霞城柊夜という人物像が急速に遠ざかっていく。
「なら、私に教えてください、柊夜様のこと」
「なにから?」
「え……」
くるりと振り返ってこちらを見上げながら、柊夜は笑った。美しい笑みだと思った。赤い唇がそっと言葉を紡いでいくのを、息を止めて見ていた。
「私の名前すら、知らないくせに」
その囁くような声は寂しそうで、拗ねたような声音だった。声は相変わらず男のように低いのに、眉を下げたその表情や口調が、どうやったって男ではないのだと突きつける。
今まで口にしていた名前すら、偽りだった。
その事実に絶句してしまう。そんな自分を他所に、柊夜は……目の前の女性は笑っていた。全然楽しそうじゃないのに。
「別にいいんだ。とっくに私は、霞城柊夜だから」
ちらりと引き出しを見ながら、言う。諦めきったようなその言い方が、自分にはひどく不快だった。
今まで通り柊夜と呼んでほしい、と言いながら、柊夜は自分を追い出そうとする。口にするわけでもない。ただその視線が静かに出ていくように告げていた。明日の朝には、全て元通りになって、完璧な霞城柊夜として夫婦ごっこを続けるつもりなのだろう。やっと表に出てきた目の前の人物は、消えてしまうのだろう。
それが分かってしまって遣る瀬無い。ここで素直に柊夜の言葉に従う気はさらさらなかった。
「……私たちは、共犯者でしょう?今更隠す必要ありますか」
「共犯者……」
「それとも、私のことは信用できませんか」
自嘲するような発言に、柊夜はグッと顔をしかめた。自分のことは蔑ろにするのに、なんでそんな顔をするんだろう。柊夜を見つめ続けながら不思議に思う。……もっと、知りたかった。
その間にも、柊夜の瞳はゆらゆらと揺れ動いていた。あともう少しだと、口を開こうとした瞬間だった。
「……柊花」
本当に、小さな声だった。久しぶりにその音を発したかのように覚束なくて、掠れている。
でもその響きが美しくて。何度も舌の上でその音を転がした。
「……しゅうか、様」
目の前の人物は、目を伏せながらギュッと服の裾を握りしめている。その姿が、脳裏にあった霞城柊夜を霧散させる。
霞城……柊花。
「はじめまして。……籠谷香蓮と申します」
そう呟けば、柊花は少し驚いたように顔を上げた。その瞳にまた涙が滲んでいて、きらきらと輝いている。瞬いた拍子にポロリと落ちたそれを、美しいと思ってしまった。
