あの日から、香蓮との間には言いようのない気まずい雰囲気が流れていた。
朝餉の準備はこれまで通り二人で行うし、同じ卓について食事もする。それでも、香蓮との距離は前よりも遠い。
「いってらっしゃいませ」
「……ああ」
その声や姿が、実家で聞いていたものと重なってしまって、思わず顔をしかめた。
なるべく香蓮の顔を見ないようにして戸に手をかける。夫婦ごっこですらない今の状況に、無意識に参っていた。
香蓮のすることは何も変わらない。炊事も洗濯も掃除も……何一つとして。変わってしまったのは、自分の方だった。
香蓮の言動一つ一つを思い返しては裏を探ってしまうのだ。香蓮はずっと偽っていたのだから、まだ隠していることがあるかもしれない。とっくに籠谷家へ情報を流しているかもしれない。
警戒するのは当然だと、そう思い込むしか自分を守る方法を知らなかった。
*
「やはり数が多いですね」
「丁度最近その辺りで殺人事件があったからだろう」
「なるほど、ならこっちは……」
表向き軍部に所属しているとはいえ、隔世の管理に携わる者たちは通常の訓練や会議には参加しない。暗黙に存在を認められた、いわば非公認の部隊である。
机に広げられた帝都の地図には、ぽつぽつと赤い点が書かれている。そこから線を引っ張って、最近起きた事件や事故などが簡潔に書き記されていた。新聞の切り抜きがいたるところに貼られ、素人には何を表しているのか分からないだろう。
「やはり、この事件は幽鬼が関係していると……?」
「ああ。わずかにだが現場に残滓があった」
幽鬼の中には稀に、現実世界に干渉する個体がいる。
小さな火種を作ったり、人の意識を狂わせたり……幽鬼自身も無意識なのだろうが。それが事件や事故を起こして人々の感情を煽り、隔世に幽鬼が発生する悪循環だった。
「……きりがありませんな」
「仕方ない。人の営みが続く限り、我らの務めがなくなることはないさ」
「今以上に厄介な幽鬼が現れぬよう間引いていくしかない」
淡々と紡がれていく会話を聞きながら、ぼうっと地図を見ていた。きっとここに示された以上に、幽鬼を発生させた出来事はあるのだろう。社会から見ればありふれたことで目に留まらないが、幽鬼を発生させるに足る大きな感情を孕んだなにかがきっと。
「なあ柊夜殿」
「……ああ」
半ば上の空で答えながら、地図から目を離せなかった。
*
逢魔が時の空は、黒と灰色をかき混ぜたようにまだら模様で、鬱屈とした自分の心情を表すようだった。今になって降りだした雨が、じんわりと軍服を重くしていく。
そういえば、家を出る前に香蓮が傘を持たせようとしていたのを思い出す。香蓮が何か言っていた気もするが、ろくに返事もせず家を出たのだった。
チッと短く舌打ちをして、大股で歩き始める。隔世に入ってしまえばどうってことはない。そう言い聞かせて、張り付く髪をどかした。
薄暗い視線の先に見えてきたのは、注連縄の巻かれた大木。現実と隔世の境目にあるそれは、籠谷家の管轄だった。
籠谷家。
霞城家に、結婚話を持ちかけてきた家。霞城家を失脚させるために、わざわざ使用人を引っ張ってきてまで。両家の仲は昔から悪かったが、それでも一応は人々を守るという役目の下、こうして共に隔世の管理をしてきた。
すっと、見えない境目を開けるように手を伸ばす。籠谷家の管理する結界。これのおかげで現実世界は平穏を保っているのだから。
だから、信用はする。……信頼はしないが。
隔世に足を踏み入れながら、刀を握った。
汚職事件、殺人事件、人攫い、大火事……軍部で見た資料の内容を思い出す。ここ最近はなにかと、人々の感情を煽るような事件が多かった。それに比例するように、隔世の幽鬼は数を増している。
いつまで、このいたちごっこを続けるのだろうと、ふと思った。討伐したところで次の夜には生まれる化け物たちを、いつまで相手にしなくてはならないのか。無意味なのではないか……そう認めてしまった瞬間、刀を振る腕が急に鉛のように重くなった。
人の営みが続く限りこの務めは終わらない。
ならば、「霞城柊夜」という務めが終わるのはどんな時なのだろう。死以外にそんな時など来るのだろうか……
とっくの昔に答えを出すことを諦めたというのに、今になって浮かんだその問いが、頭から離れない。
『たすけて』
『ころさないで』
そんな鳴き声を発しながら襲い掛かってくる幽鬼たちを、歯を食いしばりながら迎え撃つ。
いつもは気にならないそれらも、今夜は妙に耳に残った。足取りは重く、肩で浅く息をする。斬った感触も断末魔も確かに聞こえるというのに、斬り伏せれば血の一滴も残さず消えていく幽鬼たち。こちらの精神だけを削っていくのだから、随分と都合の良いものだ。そしてまんまと消耗している自分にも腹が立つ。
自分の未熟さに顔をしかめ、また次の幽鬼を探そうと走った。
『柊花は頑張り屋だものな』
『あまり根を詰めると倒れちゃうぞ』
ずっと昔に兄が言ってくれた言葉たちが、物陰から聞こえてくる。声だけ真似たものではない。恐らく、自分の記憶が反映されたもの。音の発生源を特定しようと気配を探る。ちゃんと、頭では分かっていたのに。
隔世は、嘘も真実も等しく織り交ぜられた混沌だ。弱ければ死が待っているだけだと、父から厳しく言われていたというのに。
……自分のすぐ後ろから、声がした。申し訳なさそうに、後悔を滲ませて。
『約束守れなくて、ごめんな』
喉が、ひくりと収縮して上手く息が吸えなかった。地面に縫い付けられたように足が止まってしまう。
「にい、さま?」
その言葉を待っていたから?記憶になかったから?……分からない。ただ、その言葉を信じたかった。だから、思わず振り返ってしまった。
そんな都合の良いこと、あるわけないのに。
幽鬼の鋭い爪が視界に入る。ぐっと刀を握りしめながら、力なく笑った。
*
何度も柱にかかる時計を見つめながら、玄関の方に耳を澄ます。
明らかに柊夜の帰りが遅かったからだ。隔世での任務は夜明けと共に終わりを迎え、そこから一時間もすれば帰ってくることが多い。日が昇りきっても帰ってこないのは異常事態だった。帰宅に合わせて、と用意した朝餉はどんどん冷めていく。
先に食べてしまおうかと考えて、やめる。
内心では未だに疑っているだろうに、扱いを悪くせず日常を続けようとしている柊夜の姿を思い出したからだ。「食事は一緒に摂る」この約束を守ろう、そう思ったときだった。
ガタン。
物音にホッとして、玄関に向かう。
いつも通り「おかえりなさい」と言おうとして、言葉に詰まる。柊夜の様子がおかしかったからだ。脂汗がひどく、焦点がぶれている。浅い息が自分の耳にも届くほど。
体に視線を下ろしていけば、左の脇腹から尋常でない量の血が滲んでいた。手で抑えてはいるものの、止血に至っていない。
「しゅ、柊夜様……それ、血、」
「問題ない。触るな」
声が震えた。目の前の赤に目を奪われて、何を言うべきか分からなくなる。玄関に立ち尽くす自分を押し除けるように、柊夜は足を進めた。ぐらぐらと上体がふらついている。
支えようと手を伸ばすも、いらないと振り払われてしまう。柊夜はそのまま玄関を上がろうとしたが、次の瞬間にはばたりと倒れこんでしまった。
「はやく横になってください!」
湯を沸かすために台所へ走る。
まずは止血をしなくてはならない。清潔な布と包帯と……それとも焼いた方が良いのだろうか。でもどうやって?逸る気持ちを抑えながら家の中を走り回った。
その最中、自分で這いずって移動している柊夜を見つけてしまう。
「どこ向かうんですか!」
既に廊下はどす黒い血に塗られていた。どうやら自室に向かうつもりだったらしい。
自分の部屋から布団を持ってきて、居間に寝かせる。止血と傷の具合を見ようと、堅苦しい軍服の前をはだけさせれば、中のシャツは汗と血でぐっしょりと濡れており、肌に張り付いていた。なるべく傷に触らないように気をつけながら、そっとボタンを外していく。勝手に肌を見ることを、心の中で謝りながら。
「……は?」
呆然と、声が漏れた。
サラシに潰されているが、明らかに女の胸があった。身体は切り傷や止血のための火傷の痕などにまみれているが、たしかにくびれと、女性特有の曲線がある。
声は男だったはず。いや、男にしては少し高かったような?
予想外のことに理解が追いつかないまま、もたつく手を無理やり動かしながら手当てをした。最初は抵抗していた柊夜も次第に大人しくなり、手当てが終わる頃には、死んだように意識を失っていた。
何度も呼吸を確認してその度に安堵する。その繰り返しだった。
漸く出血が治まった頃には、周りに真っ赤に染まった布が転がっていて、自分の手も真っ赤だった。のろのろと緩慢な動作で、洗い流す。目の奥がチカチカして、今になって血の匂いが鼻についた。
柊夜の方に目を向ければ、熱が出始めて苦しいのか眉間に皺が寄っている。長い睫毛が小さく震え、辛そうに浅い息をしていた。
汗で張り付いた前髪をどかしてやりながら、濡らした手拭いをそっと乗せる。
……これで少しは楽になればいいのだが。
「……旦那様」
この言い方が正しいのかすら、自分には分からなかった。
*
朝から柊夜の傍を離れずに看病していた自分は、いつの間にか手拭いを握りしめながら舟を漕いでいたらしい。
ハッとして目を開ければ、既に部屋の中は茜色に染まっており、今が夕方であることを告げていた。何か腹に入れるものを作った方がいいだろうと立ち上がりかけて、痺れる足に悶絶する。
今の声で起こさなかっただろうかと、そっと目を向けて、ビクッと肩を震わせる。柊夜がぼんやりと天井を見ていた。
「……見たか」
これが柊夜の、目が覚めてすぐの第一声だった。紫色の瞳が自分を映す。
そこになんの感情が込められているのか、どんなに見つめても分からなかった。
「申し訳ありません。一刻を争う事態でしたので……」
「いや、いい。……助かった」
暗に女だと知ってしまったと答えるも、柊夜は特に言葉を重ねることはしなかった。
ポツリと呟かれた礼の言葉は、弱々しくも温度を感じさせる。
「……しくじった。油断していた。討伐は成功したが、不甲斐ない」
聞いてもいないのに、柊夜はポツポツと傷の経緯を話した。恐らく、何から話せばいいか分からなかったからだろう。
いつもの理路整然とした口調は崩れていて、どこか幼かった。傷口が痛むのか、また目を閉じてじっとしている。
「重湯、食べられますか」
「食べる」
分かりました、と言いながら席を立つ。自分もまた、この重苦しい空気に耐えかねていたから。
女の身で……いつ死ぬかも分からない世界に身を置いて、自分の体を隠しながら何を思って生きているのだろう。
台所に向かいながら、そんな事を考え続けた。その体中の傷から、大怪我を負ったのは一度や二度じゃないだろうに。手当ての最中に見た大小さまざまな傷を思い出し、思わず顔を顰める。自分が負ったわけでもないのに。
一人で治療をしていたのだろうか。……誰もいない家に帰って。その様子を想像してしまって、また眉間に皺が寄ってしまった。
朝餉の準備はこれまで通り二人で行うし、同じ卓について食事もする。それでも、香蓮との距離は前よりも遠い。
「いってらっしゃいませ」
「……ああ」
その声や姿が、実家で聞いていたものと重なってしまって、思わず顔をしかめた。
なるべく香蓮の顔を見ないようにして戸に手をかける。夫婦ごっこですらない今の状況に、無意識に参っていた。
香蓮のすることは何も変わらない。炊事も洗濯も掃除も……何一つとして。変わってしまったのは、自分の方だった。
香蓮の言動一つ一つを思い返しては裏を探ってしまうのだ。香蓮はずっと偽っていたのだから、まだ隠していることがあるかもしれない。とっくに籠谷家へ情報を流しているかもしれない。
警戒するのは当然だと、そう思い込むしか自分を守る方法を知らなかった。
*
「やはり数が多いですね」
「丁度最近その辺りで殺人事件があったからだろう」
「なるほど、ならこっちは……」
表向き軍部に所属しているとはいえ、隔世の管理に携わる者たちは通常の訓練や会議には参加しない。暗黙に存在を認められた、いわば非公認の部隊である。
机に広げられた帝都の地図には、ぽつぽつと赤い点が書かれている。そこから線を引っ張って、最近起きた事件や事故などが簡潔に書き記されていた。新聞の切り抜きがいたるところに貼られ、素人には何を表しているのか分からないだろう。
「やはり、この事件は幽鬼が関係していると……?」
「ああ。わずかにだが現場に残滓があった」
幽鬼の中には稀に、現実世界に干渉する個体がいる。
小さな火種を作ったり、人の意識を狂わせたり……幽鬼自身も無意識なのだろうが。それが事件や事故を起こして人々の感情を煽り、隔世に幽鬼が発生する悪循環だった。
「……きりがありませんな」
「仕方ない。人の営みが続く限り、我らの務めがなくなることはないさ」
「今以上に厄介な幽鬼が現れぬよう間引いていくしかない」
淡々と紡がれていく会話を聞きながら、ぼうっと地図を見ていた。きっとここに示された以上に、幽鬼を発生させた出来事はあるのだろう。社会から見ればありふれたことで目に留まらないが、幽鬼を発生させるに足る大きな感情を孕んだなにかがきっと。
「なあ柊夜殿」
「……ああ」
半ば上の空で答えながら、地図から目を離せなかった。
*
逢魔が時の空は、黒と灰色をかき混ぜたようにまだら模様で、鬱屈とした自分の心情を表すようだった。今になって降りだした雨が、じんわりと軍服を重くしていく。
そういえば、家を出る前に香蓮が傘を持たせようとしていたのを思い出す。香蓮が何か言っていた気もするが、ろくに返事もせず家を出たのだった。
チッと短く舌打ちをして、大股で歩き始める。隔世に入ってしまえばどうってことはない。そう言い聞かせて、張り付く髪をどかした。
薄暗い視線の先に見えてきたのは、注連縄の巻かれた大木。現実と隔世の境目にあるそれは、籠谷家の管轄だった。
籠谷家。
霞城家に、結婚話を持ちかけてきた家。霞城家を失脚させるために、わざわざ使用人を引っ張ってきてまで。両家の仲は昔から悪かったが、それでも一応は人々を守るという役目の下、こうして共に隔世の管理をしてきた。
すっと、見えない境目を開けるように手を伸ばす。籠谷家の管理する結界。これのおかげで現実世界は平穏を保っているのだから。
だから、信用はする。……信頼はしないが。
隔世に足を踏み入れながら、刀を握った。
汚職事件、殺人事件、人攫い、大火事……軍部で見た資料の内容を思い出す。ここ最近はなにかと、人々の感情を煽るような事件が多かった。それに比例するように、隔世の幽鬼は数を増している。
いつまで、このいたちごっこを続けるのだろうと、ふと思った。討伐したところで次の夜には生まれる化け物たちを、いつまで相手にしなくてはならないのか。無意味なのではないか……そう認めてしまった瞬間、刀を振る腕が急に鉛のように重くなった。
人の営みが続く限りこの務めは終わらない。
ならば、「霞城柊夜」という務めが終わるのはどんな時なのだろう。死以外にそんな時など来るのだろうか……
とっくの昔に答えを出すことを諦めたというのに、今になって浮かんだその問いが、頭から離れない。
『たすけて』
『ころさないで』
そんな鳴き声を発しながら襲い掛かってくる幽鬼たちを、歯を食いしばりながら迎え撃つ。
いつもは気にならないそれらも、今夜は妙に耳に残った。足取りは重く、肩で浅く息をする。斬った感触も断末魔も確かに聞こえるというのに、斬り伏せれば血の一滴も残さず消えていく幽鬼たち。こちらの精神だけを削っていくのだから、随分と都合の良いものだ。そしてまんまと消耗している自分にも腹が立つ。
自分の未熟さに顔をしかめ、また次の幽鬼を探そうと走った。
『柊花は頑張り屋だものな』
『あまり根を詰めると倒れちゃうぞ』
ずっと昔に兄が言ってくれた言葉たちが、物陰から聞こえてくる。声だけ真似たものではない。恐らく、自分の記憶が反映されたもの。音の発生源を特定しようと気配を探る。ちゃんと、頭では分かっていたのに。
隔世は、嘘も真実も等しく織り交ぜられた混沌だ。弱ければ死が待っているだけだと、父から厳しく言われていたというのに。
……自分のすぐ後ろから、声がした。申し訳なさそうに、後悔を滲ませて。
『約束守れなくて、ごめんな』
喉が、ひくりと収縮して上手く息が吸えなかった。地面に縫い付けられたように足が止まってしまう。
「にい、さま?」
その言葉を待っていたから?記憶になかったから?……分からない。ただ、その言葉を信じたかった。だから、思わず振り返ってしまった。
そんな都合の良いこと、あるわけないのに。
幽鬼の鋭い爪が視界に入る。ぐっと刀を握りしめながら、力なく笑った。
*
何度も柱にかかる時計を見つめながら、玄関の方に耳を澄ます。
明らかに柊夜の帰りが遅かったからだ。隔世での任務は夜明けと共に終わりを迎え、そこから一時間もすれば帰ってくることが多い。日が昇りきっても帰ってこないのは異常事態だった。帰宅に合わせて、と用意した朝餉はどんどん冷めていく。
先に食べてしまおうかと考えて、やめる。
内心では未だに疑っているだろうに、扱いを悪くせず日常を続けようとしている柊夜の姿を思い出したからだ。「食事は一緒に摂る」この約束を守ろう、そう思ったときだった。
ガタン。
物音にホッとして、玄関に向かう。
いつも通り「おかえりなさい」と言おうとして、言葉に詰まる。柊夜の様子がおかしかったからだ。脂汗がひどく、焦点がぶれている。浅い息が自分の耳にも届くほど。
体に視線を下ろしていけば、左の脇腹から尋常でない量の血が滲んでいた。手で抑えてはいるものの、止血に至っていない。
「しゅ、柊夜様……それ、血、」
「問題ない。触るな」
声が震えた。目の前の赤に目を奪われて、何を言うべきか分からなくなる。玄関に立ち尽くす自分を押し除けるように、柊夜は足を進めた。ぐらぐらと上体がふらついている。
支えようと手を伸ばすも、いらないと振り払われてしまう。柊夜はそのまま玄関を上がろうとしたが、次の瞬間にはばたりと倒れこんでしまった。
「はやく横になってください!」
湯を沸かすために台所へ走る。
まずは止血をしなくてはならない。清潔な布と包帯と……それとも焼いた方が良いのだろうか。でもどうやって?逸る気持ちを抑えながら家の中を走り回った。
その最中、自分で這いずって移動している柊夜を見つけてしまう。
「どこ向かうんですか!」
既に廊下はどす黒い血に塗られていた。どうやら自室に向かうつもりだったらしい。
自分の部屋から布団を持ってきて、居間に寝かせる。止血と傷の具合を見ようと、堅苦しい軍服の前をはだけさせれば、中のシャツは汗と血でぐっしょりと濡れており、肌に張り付いていた。なるべく傷に触らないように気をつけながら、そっとボタンを外していく。勝手に肌を見ることを、心の中で謝りながら。
「……は?」
呆然と、声が漏れた。
サラシに潰されているが、明らかに女の胸があった。身体は切り傷や止血のための火傷の痕などにまみれているが、たしかにくびれと、女性特有の曲線がある。
声は男だったはず。いや、男にしては少し高かったような?
予想外のことに理解が追いつかないまま、もたつく手を無理やり動かしながら手当てをした。最初は抵抗していた柊夜も次第に大人しくなり、手当てが終わる頃には、死んだように意識を失っていた。
何度も呼吸を確認してその度に安堵する。その繰り返しだった。
漸く出血が治まった頃には、周りに真っ赤に染まった布が転がっていて、自分の手も真っ赤だった。のろのろと緩慢な動作で、洗い流す。目の奥がチカチカして、今になって血の匂いが鼻についた。
柊夜の方に目を向ければ、熱が出始めて苦しいのか眉間に皺が寄っている。長い睫毛が小さく震え、辛そうに浅い息をしていた。
汗で張り付いた前髪をどかしてやりながら、濡らした手拭いをそっと乗せる。
……これで少しは楽になればいいのだが。
「……旦那様」
この言い方が正しいのかすら、自分には分からなかった。
*
朝から柊夜の傍を離れずに看病していた自分は、いつの間にか手拭いを握りしめながら舟を漕いでいたらしい。
ハッとして目を開ければ、既に部屋の中は茜色に染まっており、今が夕方であることを告げていた。何か腹に入れるものを作った方がいいだろうと立ち上がりかけて、痺れる足に悶絶する。
今の声で起こさなかっただろうかと、そっと目を向けて、ビクッと肩を震わせる。柊夜がぼんやりと天井を見ていた。
「……見たか」
これが柊夜の、目が覚めてすぐの第一声だった。紫色の瞳が自分を映す。
そこになんの感情が込められているのか、どんなに見つめても分からなかった。
「申し訳ありません。一刻を争う事態でしたので……」
「いや、いい。……助かった」
暗に女だと知ってしまったと答えるも、柊夜は特に言葉を重ねることはしなかった。
ポツリと呟かれた礼の言葉は、弱々しくも温度を感じさせる。
「……しくじった。油断していた。討伐は成功したが、不甲斐ない」
聞いてもいないのに、柊夜はポツポツと傷の経緯を話した。恐らく、何から話せばいいか分からなかったからだろう。
いつもの理路整然とした口調は崩れていて、どこか幼かった。傷口が痛むのか、また目を閉じてじっとしている。
「重湯、食べられますか」
「食べる」
分かりました、と言いながら席を立つ。自分もまた、この重苦しい空気に耐えかねていたから。
女の身で……いつ死ぬかも分からない世界に身を置いて、自分の体を隠しながら何を思って生きているのだろう。
台所に向かいながら、そんな事を考え続けた。その体中の傷から、大怪我を負ったのは一度や二度じゃないだろうに。手当ての最中に見た大小さまざまな傷を思い出し、思わず顔を顰める。自分が負ったわけでもないのに。
一人で治療をしていたのだろうか。……誰もいない家に帰って。その様子を想像してしまって、また眉間に皺が寄ってしまった。
