偽る柊はよすがを探す

『籠谷香蓮という女は存在しない』

手紙には淡々と、そう書かれていた。
元々、籠谷家には次期当主の嫡男の他に子どもがいるとは知られていなかった。妾との間に男児がいるらしいという噂があるくらいで。
だからこそ、嫁入りの話に父は訝しんだのだろうが……表に出ていないだけで、娘がいたのだろうと思い込んでいた自分にとって、この報告は奇妙としか言いようのないものだった。
本来ならば、背景の分からぬ人物を政略結婚とはいえ身内に入れるのは危険だ。今すぐにでも追い出すべきだと父なら考えそうなものだが。肝心の手紙には離縁しろとの文面はなかった。
父がそう決めたのなら、従うしかない。一応、香蓮の目に触ることがないよう引き出しにしまいながら小さく溜息をつく。
脳裏に浮かぶのは、香蓮のことだ。あの、妙に掴みどころのない姿を思い出す。にこにこと愛想よく笑って、いつの間にか自分の日常に入り込んできた女。
諜報目的で嫁いできたのだとしたら、進んで家事をしていたのも何か弱みとなるような情報を得ようとしていたからかもしれない。そんな風に、嫌な憶測が次々に沸いてきた。
それを振り払うように小さく頭を振り、自室を出る。分からないままに判断するのは危険だ。なら、自分の目で確かめればいい。
……確かめて、その後は?その問いに答えられなかったことに、知らず眉が寄った。



「いつも思うんだが……お前は料理が上手いな」
「ありがとうございます。家ではいつも作っていたので」

食べたいものがあれば言ってくださいねと付け加えながら、香蓮は茶を淹れようと湯を沸かしていた。
朝餉は香蓮一人に任せてしまったので、洗い物は自分が引き受けた。洗い桶に沈められた二人分の食器。香蓮が来てから新たに買い足したものがいくつか混じっている。なるべく柄の似ているものを選んだが、今一つ統一感がなかった。いっそのこと全て買い替えるのもいいかもしれない。

「お茶が淹りましたよ」
「今行く」

居間の方から聞こえる香蓮の声に思考を切り替えて台所を出る。
家の中に、他人の声がある。自分以外の足音がする。意識を向けてしまえば、一人だった時との違いばかりが目についてしまった。
その変化に、自分がどんな感情を抱いているのかも分からないまま。

「……静かだな」
「今日くらいゆっくりしても罰は当たりませんよ」

そう言いながら、香蓮が空の湯呑に茶を注ぐ。遅めの朝餉をとった後の、緩んだひと時だった。基本的に、隔世の任務があった次の日
は、軍部は非番である。
以前は家事に費やしていたこの時間も、香蓮が来てからは穏やかな時間へと変わっていた。前は、何もすることがない事態に落ち着かなかったのに。今はそれを当たり前のように受け入れている。
湯呑から手に伝わるじんわりとした熱が自分を溶かすような気がした。

「ずっと雨でいやになります」
「梅雨だからな」

洗濯物が乾かないと愚痴る香蓮に適当に返事をしながら、庭に目を向ける。
端の方に植わっていた紫陽花が、雨を受けながら咲いている。ついこの間までなら、つつじが咲いていた。
せっせと香蓮が整備した庭は、今では季節の花で彩られるようになっている。いや、香蓮が来る以前も咲くには咲いていたが乱雑で美しくなかったというのが正しいか。着古した着物をたくし上げて、黙々と草むしりしていた姿を思い出す。
夏に向けて朝顔を買う予定です、と話した香蓮は本当に庭いじりが好きなようだった。

「そういえば……隔世には雨は降るのですか?」
「基本的には降らない。現実側にあるものが隔世に影響することはないから」

だから、現実で降っていた雨が隔世に齎されることはないのだ。それよりも……

「籠谷は結界の専門だろう。習わなかったのか」
「あ、えっと……」

香蓮は視線を落とし、親指で湯呑を撫でるように弄っている。そして、少し硬い声音で話し始めた。

「私には結界を張る才がなくて……恥さらしだと遠ざけられてましたから」

たしかに籠谷家は女も隔世の管理に参加している。顔を知られていなかったのはその為かと納得しかけて、やめる。
わざわざ父が動かした密偵が、それを見逃すとは思えなかったからだ。「籠谷香蓮という女は存在しない」という文言が頭をよぎる。「隠されていた」のではなく、「存在しない」。ならば、香蓮の物言いは嘘ということになる。
しかし、恥さらしと口にした瞬間微かに香蓮の顔が歪んだのを見てしまった。
この発言はきっと本心だろうと思う。結論付けたところで矛盾だらけに頭が痛くなるが。
温くなった茶を飲み干して湯呑を盆に戻す。その音にも香蓮はぴくりと肩を跳ねさせた。
緊張しているのが一目で分かった。
なにかやましいことがあるのか、それとも失望されるのが怖いのか。
判別することはできなかったが、このまま止めるつもりもなかった。

「……なにか、花を活けてくれないか?ちょうど紫陽花が咲いていることだし」
「生け花、ですか」
「ああ。家の中が華やぐだろう?」

脈絡がない自分の提案に、香蓮はついていけていないようだった。目を瞬かせてはいるが、先ほどと違い分かりやすく空気を緩ませている。
眉を下げて恥ずかしそうに香蓮は口を開いた。

「すみません、私は……」
「出来ないのか。花嫁修行の一つだろうに」

言葉を被せるようにして静かに問う。逃げ道をなくすように。ぴしり、と再度固まった香蓮は自分から見ても哀れだった。

「仮にも名家の子女が、いつも料理をするのか」
「……」
「ああ、そういえば。嫁入り道具も極端に少なかったな」
「……柊夜様」

香蓮の強張った顔を見ながら、静かに問いかける。

「香蓮。お前は何者だ」

淡々と追い詰めていくのを、どこか他人事のように見る。自分でも答えを知って何がしたいのか分からなかった。
糾弾したいのか、追い出したいのか……どんな答えなら満足するのかすら。
瞳を揺らめかせていた香蓮は、ぐいっと手に持っていた湯呑を呷ると、一つ溜息をついた後に観念したように呟いた。

「籠谷家に雇われていた、使用人です。霞城家に対して優位に立てるよう、探れと言われて……」

使用人というのは真実だろう。家事に手慣れていたことにも納得できた。
やはり偵察目的だったか、と自分の胸の奥が冷えるのを自覚する。その一方で、同情のようなものも芽生えていたのも事実だった。必死に妻を演じて、ぼろが出ないように気を張り詰めていたのではないか。

全て自分の勝手な想像だが。なるべく冷たく聞こえないよう意識して口を開く。

「バレた場合は?」
「……籠谷家に連れ戻されるかと。その後は……」

暇を出されるだけで済むならいいが。最悪のことまで想定して、やめる。無理に怖がらせる必要はないだろう。

「……なら、このままこの家で暮らせ。もちろん探りを入れるようなら容赦しないが」
「っ、はい!ありがとうございます!」

ぱあっと顔を輝かせた香蓮は深々と、それこそ畳に額がつくくらいに頭を下げた。
それを、ぼんやりと見つめる。
自分は、明らかに弱くなったと思う。今まで誰もいない家に帰って、一人で食事をして……そんな生活が当たり前だった。ちゃんと生きられていた。
女だとバレる危険性を考えれば、父に報告してさっさと離縁するのが望ましい。
なのに、こうして懸念材料を家に留めようとしている。

「……自室にいる」

そう言い残して、席を立つ。このままでは早速香蓮の前で無様を晒しそうだったから。
不甲斐なかった。こんなのでは「霞城柊夜」でいられない。奥歯を噛みしめながら自室へと向かった。
部屋の隅にある鏡台。ふらふらとそこに近づけば、そこには隠さなければならない自分が映っていた。

「俺は、霞城柊夜だ」

言い聞かせるように呟く。鍵付きの小さな引き出しに手を伸ばしそうになるのを抑えながら。
別に、香蓮の正体なんぞどうでもいい。その時は、先に霞城家が訴えればいいだけなのだから。主導権はこちらが握っている。何の問題もない、はずだ。
迷いを振り切るように、暗示をかけるように呟く。

ざあざあと、先ほどより強まった雨が屋根を叩いていた。