偽る柊はよすがを探す

「今日は軍部からそのまま隔世へ行くから、帰りは翌朝になる」
「分かりました。朝餉は一緒に食べましょうね」
「……ああ」

夫婦としての生活にも慣れてきた頃。香蓮はこうしてちょっとした約束をするようになった。隔世は人の命を簡単に奪う場所だ。その管理を担う家に生まれた二人も、当然その約束が果たされない可能性を知っている。
それでもこうして約束を作ってしまうのは、香蓮なりの小さな願掛けなのかもしれない。
毎回、返事をしてしまう自分を冷めた目で見ながら、漠然とした不安感が沸き起こる。

あの日の自分と、香蓮が重なったからだ。
兄さまは、死ぬ直前になにを思ったのだろう。自分のことを考えてくれただろうか。約束を果たせなかったことを悔やんでいたのだろうか。それとも別のことか……そんな意味もないことを考えてしまう。
無理やり思考を切り、玄関の扉に手をかける。自分の背にかけられた「行ってらっしゃいませ」という声に、知らず奥歯を噛みしめて。

「行ってくる」

行って、ちゃんと帰ってくる。
この返事が、今の自分にできる精いっぱいの答えだった。この言葉に意味が生じたのは、香蓮がこの家に来てから。自分の言葉は、香蓮に拾われる。
ならば、その意味を果たさなければならない。
それは自分なりの意地だった。



日中は軍部で仕事をし、夜になれば隔世で幽鬼の討伐を行う……それが生活の全てだった。
それは、たとえ妻を迎えようが変わらない。

すっかり日の落ちた夜。家とは反対方向の帝都の外れをスタスタと歩いていく。
目的地は注連縄の巻かれた立派な大木だ。
そのすぐ近くで、なにかを掻き分けるような仕草をして向こう(・・・)へと足を踏み入れる。
途端に、すうっと自分を取り囲む世界の色が薄くなる。蚊帳越しに見る景色のように。
現実の上から重ねられた世界。それが隔世だった。
もと来た道を駆けて、帝都の中心……人の多く集まる場所へと急ぐ。
前から人が来ても避けずにそのまま体をすり抜けながら。この瞬間は、自分が霊になった気がして心が冷たくなる。
隔世は、一般人には視認できない。そして、その中にいる者も現実には存在しないものとして認識される。
もし、自分が死んだら。そこまで考えて、舌打ちを一つする。……幽鬼だ。
腰に差していた刀を抜き、正面から見据える。

『おかあさん、おかあさん……』

その声は、今にも泣きだしそうな子どもの声だった。家路へと急ぐ女性に手を伸ばそうとしている。
しかし、その見た目はぎょろぎょろと動く無数の目玉に異様に長い手足、鋭い爪……人とは似ても似つかぬ化け物だ。さっさと倒そうと足を踏み出した瞬間だった。

ザシュッと派手な血飛沫をあげて、幽鬼が声も上げずに倒される。
地面に倒れこんだ巨体から覗いたのは……

「ん、柊夜じゃないか。久しぶりだな」
「……当真か」

――朝霧当真(あさぎりとうま)
霞城家と同じく討伐を専門とする家の者だ。手を振りながら呑気に近づいてくるのをじとりと見る。それを当真は気にする素振りも見せなかった。
当真は数少ない自分の幼馴染だ。それも、自分が「霞城柊花」のときからの。
そして、その過去を知りながらも「霞城柊夜」として接してくれる唯一の友人でもあった。
幽鬼は、討伐すれば血も残らず消え失せる。それでも、血払いをするかのように一つ刀を振って、当真はぎゅっと眉を寄せた。

「やっぱり幽鬼が増えてる。立て続けにいやな事件とか起きてたもんな」
「出来る限り数を減らすぞ」
「真面目だなあ」

あの籠谷家なら大丈夫だろ、と言いながらも当真の目は真剣だ。
幽鬼は人の負の感情から生まれ、力をつける。結界が破られる可能性もちゃんと考慮しているのだ。呑気そうに見えて、その実冷静に状況を見るこの男を一応評価はしている。口にはしないが。

「飽きないもんだねえ、幽鬼さんも。触れないって学習しないのかな」
「目の前の餌にしか目がいかないんだろう」
「ま、学習されても困るけどな」

ずっと昔に隔世に閉じ込められてから、今の今まで延々と同じことを繰り返す哀れな化け物。それが自分の、幽鬼に対する感情だった。それ以上でもそれ以下でもない。ただ切り伏せるだけだ。
それが「霞城柊夜」に課せられた役目だから。
幽鬼のことなど知らずに現実を生きる人々は、守るべき対象であると同時に幽鬼をおびき寄せるための餌でもあった。人口が多く、様々な感情が錯綜する帝都は特に。

「そっち頼んだ!」
「分かってる」

言葉一つで連携しながら、慣れた動作で幽鬼を討伐していく。
軍部に向かう途中で通った道、看板娘が評判の菓子屋……そこに腹を空かせた幽鬼が彷徨っている。
もし結界が存在しなかったら。それを想像して、頭を振る。もう何年もこの世界を出入りしているというのに、何度も同じことを考えてしまう自分が嫌になる。
――弱さを見せれば、待つのは死のみ。
父の言葉を思い出して、刀を握る手に力を込めた。

『柊花』
「柊夜後ろ!」
「っ、くそ」

弾かれたように振り返る。胴を薙ぐように振るわれた幽鬼の腕を、膝を折って姿勢を低くすることで何とか回避する。頭上を、鋭利な爪が数本の髪を切った。
そのまま片足を斬り落とせば、ぐらりと幽鬼は体勢を崩した。その直後、援護に入ってくれた当真がとどめを刺したことにより、つんざくような悲鳴をあげて消えていった。
息を整える自分に手を貸した当真は、周囲に誰もいないというのに声を低める。

「今の声って、お兄さんのだろ」
「……ああ」
「大丈夫なのか?」
「なにが。あんなのただの、鳴き声だろ」

ただの、という割に声は固くなってしまう。
幽鬼はその人の一番弱いものを知っている。先ほどの幽鬼も、躊躇するだろうと踏んで兄の声を真似たのだろう。初めて隔世に入ってから、もう何度も経験したことだった。

「おお怖。まあ嘘だって分かるけどさ。ちょっと心臓に悪いよなぁ」
「お前は誰の声が聞こえる?」
「え、聞いちゃう?俺は嫁さんの声だよ。当真さん、ってかわいい声で言うんだから幽鬼ってやつはたちが悪いよな」

はーやだやだ、と首を竦める当真に呆れた溜息しか出ない。この男は生きやすそうだなと心から思った。
緊迫した空気から一転、当真の惚気が始まったことに、数秒前の自分を罵りたくなる。

「あ、そうだ。柊夜に会ったら聞こうってずっと思ってたんだけどさ」
「なんだ?」
「結婚したってほんと?」
「……ほんとだ」
「不便させてないか?ほら、お前ってけっこう他人に対して冷たいし……気を利かせてやれよ?」
「余計なお世話だ」

幽鬼を斬り捨てながら会話をするという、器用なことをしながら当真は興味津々といったように視線を寄こしてきた。
急に矛先を向けられたことに、軽く嫌な顔をしてしまう。それでも当真が質問を止めないのは、これくらいならまだ怒らないだろうという経験則があるからだろう。一通り揶揄ったあと、当真はフッと真顔になった。
それに気づいて自分もまた眉間の皺を戻す。

「それで、お前の正体については」
「……今のところは問題ない」

一番の課題であった初夜も、香蓮が拒むからという真っ当な理由から回避できている。裸を見られない限りバレる心配はないだろう。

「あんなにいがみ合ってた籠谷の人間だろ。信用できるのか?」
「俺の弱みを探っていると?」

返事はしないものの、当真の視線は変わらない。
本気で心配しているのだろう。ずっと昔から、兄が死んだときも柊花が死んだときも、この男はずっと気にかけてくれる。優しい男だ。
一つ溜息をついて、笑う。

「まあ変な女ではあるな」
「っお前な、人が心配してるっていうのに!」
「たった一人で霞城家に嫁入りして、一族相手に挑発した」
「はあ?」
「家事もそつなくこなすし働き者だ。悔しいが料理も美味しい」

怪訝そうな表情が、言葉を重ねるにつれてげんなりしたようなものに変わっていく。
その様を見るのが可笑しくて、胸がすく思いがした。

「素性はまだ分からんが、今のところは害はない。まあ家からの報告待ちだが」
「ふーん。ま、気をつけろよ。お前って案外無防備だし」

もちろん、父も突然の話に警戒はしていたようで内密に探りをいれているらしい。近い将来自分のもとにも情報が入ることだろう。
それまでは、夫婦ごっこを続けるつもりだった。

「ん、夜が明けたな」

山の端から顔を出す日に、目を細める。
幽鬼はいつの間にか数を減らし、残ったものはすうっと空気に溶けるように姿を消した。また夜が来れば姿を現すが、この早朝が最も隔世で安全な時間なことには変わらない。
自分たちの家へと帰るべく、再び結界の端を目指した。
あー、はやく朝餉食べたいと呟く当真の横顔をちらりと見る。

「……香蓮に、行ってらっしゃいって言われた」

当真の独り言でかき消されると思ったが、ちゃんと届いてしまったらしい。珍しいとばかりに眉を上げる当真を無視して、口を開く。ただの独り言だと自分に言い聞かせて。

「俺がちゃんと帰ってくるように、だろうか」
「言霊って言うしな」

当真も独り言だと分かっていた。それでも、その相槌は嬉しそうだった。
来た時と同じように暖簾をくぐるようにして隔世を出る。くぐもったような世界の音は明瞭になり、現実に戻ってきたのだと実感した。

「じゃあまたな」
「ああ。また組むことになったらよろしく頼む」

ひらひらと手を振って去っていく当真の背を見送る。
当真が「またな」と言うのも、言霊だろうか。そう考えながら、目を細めて幼馴染の背を見送る。当真の言葉を口の中で転がして、香蓮の待つ家へと足を向けた。



「ただいま」
「お帰りなさい。朝餉できてますよ」

風呂が先の方がいいですか、と聞きながら出迎えた香蓮をぼうっと見つめる。
自分が香蓮の素性を知らないように、香蓮もまたこちらのことをよく知らないはずだ。なのに、香蓮は自分によくしてくれる。
花嫁修業の賜物だとしても、たかが政略結婚の相手にここまでするのか自分には理解できなかった。
そして、それを当たり前のように受け入れかけていることも。
――恐ろしい。
ぬるりと入り込んできたこの女は、危険だ。先ほどの当真の警告が脳裏に蘇る。
静かに、しかし確実に自分の世界を侵食している。このままでは、今まで築き上げてきた「霞城柊夜」を壊されるのではないか。そう頭では分かっているのに、拒み切れない。
気づかれないように深く息を吐いて、自分の前を歩く香蓮の背を見た。目を凝らして、よく観察するように。
しかし、意識すればするほど輪郭がぼやけてしまうようだった。
ぎゅっと、目頭を押さえながら小さく舌打ちをする。

「そうだ。ご実家の方から手紙が届いていました」
「……分かった」

ひくりと喉が動くのを誤魔化して返事をする。幸い香蓮は変に思わなかったようだった。
手渡された手紙に視線を落とせば、「霞城柊夜殿」と書かれた父の文字が目に入る。途端に思考が止まり、胸の奥がすうっと冷えた。

「……隠し通す」

今まで通りすべてを、これからも永遠に。
無意識に力が入っていたからか、手紙がわずかに歪んでいた。