「好きだ」
その言葉は、好きな人の声をしていた。ずっと夢見ていた言葉。……諦めていた言葉。別に、答えを求めていたわけじゃなかった。ただ未練を断ち切りたくて告白しただけの、自己満足。
なのに、その言葉を蓮児に拾われてしまった。
夢じゃないかと怖くて、蓮児の顔を見たいはずなのにどうしても顔を上げられない。顔を上げればその瞬間に消えてしまいそうで。代わりに蓮児の胸元を掴む。布の感触が、幻でないことを教えてくれた。
「柊花」
いつまでも黙りこんでいることに焦ったのか、蓮児が名前を呼ぶ。自分が許した呼び名。もう霞城柊夜を演じる必要がなくなって、また柊花という名で呼ばれるようになったけれど。なぜか蓮児の口から紡がれたそれは、特別な響きを持っている気がした。
次から次に涙が零れてしまう。蓮児の服を濡らしてしまうのが申し訳なくて必死に止めようとするけど、止めようとすればするほど溢れてしまった。
「……もう、あの家で暮らしていた柊花はいないのに」
蓮児が好きになってくれた「柊花」はきっとあの家で暮らしていた人物で、今の変わり果てた自分ではないのに。着物を着て化粧を施されて、声だってあの時とは違う。
なのに、なんで好きだと言ってくれるのだろう。そう言うと、蓮児は大きくため息をついた。
「何も変わってねぇよ。……俺を救ってくれたあの夜からずっと」
「私が、救った……?」
想像してなかった言葉に、思わず聞き返す。蓮児の抱きしめる力が強くなった。
「俺の名前を肯定してくれたろ。好きだって言ってくれた」
「蓮児……」
「お前からしたら些細なことかもしれないけれど、それでも俺は確かに救われたんだ」
「っ……」
「凛とした姿も、お人好しなところも、歯を食いしばりながら懸命に生きる姿も……全部が好きだ」
蓮児の言葉に喜んでいる自分がいる。
とっくに殺したはずの恋心が、また息を吹きかえしていくように、胸が苦しくなっていく。
「……諦めた筈だったんだ。蓮児に告白できたし、思い出も貰えた。もう未練はないって」
息を詰める音がすぐ近くで聞こえた。身じろぎをすれば回された腕が少し緩む。
そっと顔を上げれば、痛そうに顔を歪めている蓮児が見えた。そっと蓮児から離れて、姿勢を正す。改まった自分の態度に何を思ったのか、蓮児もまた姿勢を正す。握られた拳が、小さく震えていた。
それを見ながら、おもむろに懐に入れていた簪を取り出す。折れていないか心配だったが、どうやら無事だったようだ。翡翠の珠と蓮児の瞳を見比べれば、やっぱり同じ色だった。
「……俺は、未練ある。諦めきれてない」
簪を見ながら蓮児が低く呟いた。拗ねたような、子供っぽい声だった。その言葉を聞きながら、まだ蓮児が自分を好いていてくれるのだと分かって、どこかホッとしてしまう。蓮児の言葉を信じたいと、蓮児に恋をした霞城柊花が叫んでいる。
「もう一度、……私と夫婦になってくれますか?」
声はみっともなく震えて擦れていた。ぎゅっと目を瞑り、ばくばくと煩い心臓の音を感じながら、言葉を待つ。
返事を聞くのが怖かった。数秒かそれとも数十秒か、永遠とも思える長い時間が経った後。
手に持っていた簪を、そっと蓮児に取られてしまった。けして強引ではなかったのに、胸に穴が開くかのような空虚さを覚える。
ああ、やっぱり。と滲む涙を堪えながら、目を開けようと思ったときだった。
何かが、髪に触れた。そして加えられる少しの重み。
訳が分からなくてパッと目を開けると、目の前にははにかんだ蓮児がいた。
「……喜んで」
髪に触れれば、指先に固いなにかが当たった。それが何なのか、ぼんやりとした頭は理解できなくて、数秒の間固まってしまう。
その後、じわじわと喜びが湧いてきた。
「っ、!」
「俺の柊花。」
なにか言わなくては、と口を開くもその前に蓮児が抱きしめてくる。子どもみたいに無邪気で、嬉しそうな声だった。抱きしめてくる腕は優しくて、先程の拘束するような強いものではないのに、自分を閉じ込めて離さない。
「ずっと嫌だった。柊花が当真と仲良さそうにしていたことも、雅人との結婚が決まったことも……お兄さんの事ばかり考えてることも」
羅列していくその声音は軽いはずなのに、その裏にどろりとした何かがあった。
でも最後の言葉は本当に小さくて申し訳なさそうで、ああ優しいなあと思ってしまう。
「……簪、似合ってる?」
「当たり前だろ」
だって俺が選んだんだから。そう言って愛おしそうに軽く簪に触れてくる。それが嬉しくてたまらなかった。
体温が上がっていくのを感じる。熱でもあるのかと勘違いするほど。
「れん……」
名前を呼ぶ前に、そっと両手が頬に添えられる。温かくて、自分が大好きな手。それが心地よくてそっと目を閉じていれば、そっと唇が重ねられた。
触れた所から、じんわりと熱が移っていく。境界が溶けていく感覚に頭が茹だっていくようだ。慌てて蓮司に縋れば、更に口づけが深くなっていく。やっぱり、幸せというのは甘い味がするのだ。
目尻から流れていく涙をそのままにゆっくりと目を開ければ、蓮児もまた目に涙を湛えていた。どちらともなく笑ってしまう。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします。――旦那様」
「やめてくれよ。その……恥ずかしいから」
その台詞はかつて蓮児が言ったもので、今は自分が言っている。それが可笑しくて、また笑ってしまった。
「……一生かけて幸せにする」
ひとしきり笑った後、ふと真剣な顔になった蓮児が言った台詞に、また涙が出てきたことは秘密だ。
*
いつの間にか空は白み始めていて、朝が来ることを告げていた。
幽鬼が消え失せて静かになった世界の中、蓮児と二人で境界の端を目指す。
時折、道行く人々の体をすり抜けながら。幽霊になったみたいだ、と気味悪げに呟いた蓮児の反応が面白くてくすくすと笑うと、少しだけムッとされた。
そういえば楓も同じことを言っていたなと思い出す。二人は、変なところでとてもよく似ていた。
「足の怪我大丈夫か?」
「どうってことない。それよりも下駄……」
「いいから。大人しく使っとけ」
こちらを気遣ってくれる蓮児に、また胸が温かくなっていく。少し大きめの下駄を鳴らしながらゆっくり並んで歩いた。
結界の境目……大木が見えてきた時だった。遠くから、小さな影がこちらに向かって走ってくる。途中で転びかけながらそれでも必死に。
「楓……?」
思わず屈みながら手を広げれば、やがて泣きながら楓が飛び込んできた。背中に腕を回し、ぎゅうぎゅうと力の限り締め付けてくる。名前を呼んでもなかなか顔を合わせようとしてくれなくて、何度も名前を呼ぶ。落ち着かせるように背中を撫でれば、漸く楓は口を開いてくれた。
「なんで、なんで帰って来なかったんだ」
「ごめん、」
しゃくりあげながら、楓が小さく呟く。
脳裏に蓮児の言葉が蘇った。嫌われたのではないかと不安がっていたという楓。一人ぼっちにされて、どんなに心細かっただろう、辛かっただろう。その様子を想像してしまって、胸が傷んだ。
同時に、自分が誰かにとってそこまでの存在になれたことも嬉しくて、心の中で二人に謝る。口にすれば、きっと怒られてしまうから。
「……もう遠くに行かないで」
「うん」
「ずっと一緒にいて」
「一緒にいる」
「……ほんと?」
「うん。約束する」
その言葉にやっとホッとしたのか、楓はそろりと自分から離れた。しかし、袖を掴む手はそのままだ。
約束をしようと小指を立てれば、暫くそれをじっと見たあとに、自分の小指と絡めてくれる。心が温かくて、擽ったくてたまらない。
「これからはずっと、三人一緒だ」
「わっ」
「ちょ、蓮児苦しい」
自分と楓ごと、蓮児が抱きしめてくる。楓の抗議の声を無視して、そのまま蓮児は腕に力を込めた。
密着した肌から伝わる体温が溶け合って一つになるような感覚に、家族というものの温かさを思い出した気がした。
「ねえ、早く帰ろ。ご飯食べたい!」
「おい、暴れるな!」
蓮児の腕の中から逃げ出そうと藻掻いている楓が声を弾ませた。その直後にくう、と鳴った腹の音に三人で笑ってしまう。
先に駆けていく楓の背を見ながら、蓮児と二人でその後を追った。
「……さよなら、兄さま」
一度、隔世を振り返る。
朝日が昇り幽鬼が消え去った今、隔世はただの空っぽな世界で、そこには何もない。そう分かっているけれど、兄の姿を探さずにはいられなかった。
蓮児は隔世に来たとき、何者かに引っ張られたと言った。幽鬼によるものなのか、或いは……
「ほら、行くぞ」
「うん」
蓮児の声に思考を止める。首を一つ振って、また前を向いた。
蓮児が差し出した手を取りながら結界を越える。自分たちを包み込む世界の色も音も、やけに鮮明だった。
帰ってきた、と一つ息をついた時だった。
「ん、無事に帰ってきたな」
「……当真?」
大木には、一人の見知った人物が凭れ掛かっていた。
当真!と駆け寄った楓の頭をわしゃわしゃと撫でながら、やれやれと呆れたようにこちらを見ている。
「目の前で蓮児が消えたって楓が慌てて帰ってきた時は驚いたが……無事に会えたようでよかった」
なんでここにいるのかと問えば、げんなりした様子で懇切丁寧に教えてくれた。
なんでも、帰ってくる成り自分も隔世に行くんだと楓が暴れたらしい。せめて朝になってからにしろと宥めながら、約束通り隔世に渡るための手助けをしてくれたのだった。
一般人を独断で隔世に入れたと他の名家たちに知られれば、ただでは済まないだろう。なぜそこまで卓けてくれたのか不思議だった。
正直に問えば、当真は心底呆れたというふうに大きくため息をついた。
「お前たちが幸せそうにしている姿を見たかったから。それじゃダメか?」
「え?」
言わせるな馬鹿と文句を言いながらも、当真の視線は柔らかかった。その視線が自分に挿さっている簪に注がれているのを知って、じわじわと顔が赤くなってしまう。それに気づいたのか、さりげなく蓮児が背に庇ってくれた。そのことにすら胸が高鳴ってしまう。
「ま、その様子ならうまくいったようだな」
そう言いながら、にやにやと蓮児に笑いかける。蓮児は不機嫌そうだったが、楓を匿ってくれたこと、助けてくれたことに感謝の言葉を伝えていた。それに目を丸くしながら当真も応える。自分はその様子をハラハラしながら見ていることしかできなかった。
「それで……これからどうするつもりだ?」
先ほどとは打って変わって真剣な声音だった。
それにつられて、自分も笑みを引っ込める。後継ぎ問題の秘密を知っている自分たちを、霞城家は脅威に思うはずだ。もしかしたら籠谷家も追手を放つかもしれない。もう、あの家には帰れないのは分かっていた。
「……どこか、遠くの地に行く」
「は?」
「そこで小さな家を建てて暮らすんだ。……三人で」
霞城家のこと、籠谷家のこと、隔世の務めのこと……考えることはたくさんあって、頭の中はぐちゃぐちゃになっていたのに、ふと鮮明に浮かんだのは見たこともない地で静かに三人で暮らす光景だった。
思わず口をついて出た言葉に、隣でふっと蓮児が笑う。
「いいな、それ。ちゃんとカエデの木も植えよう」
「ほんと!?」
ぱっと嬉しそうな声を上げた楓が、約束しろと蓮児に指切りを強請っている。
緊張感もなにもない空気に呆気にとられたようにぽかんとした後、当真は声を上げて笑った。
「っ、はは!最高だなお前ら」
「褒めてるのか?」
「これ以上ないくらいにな」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、当真が自分に笑いかける。
「良かったな、柊花」
その言葉に、するりとなんの抵抗もなく言葉があふれた。
「……うん。今が一番、幸せなんだ」
隔世まで追いかけてきて、好きだと言ってくれる人がいる。
名前を呼んで、抱きしめてくれる人がいる。
それだけで、心が満たされる。
これから先何があっても柊花として在れると、そう思えた。
その言葉は、好きな人の声をしていた。ずっと夢見ていた言葉。……諦めていた言葉。別に、答えを求めていたわけじゃなかった。ただ未練を断ち切りたくて告白しただけの、自己満足。
なのに、その言葉を蓮児に拾われてしまった。
夢じゃないかと怖くて、蓮児の顔を見たいはずなのにどうしても顔を上げられない。顔を上げればその瞬間に消えてしまいそうで。代わりに蓮児の胸元を掴む。布の感触が、幻でないことを教えてくれた。
「柊花」
いつまでも黙りこんでいることに焦ったのか、蓮児が名前を呼ぶ。自分が許した呼び名。もう霞城柊夜を演じる必要がなくなって、また柊花という名で呼ばれるようになったけれど。なぜか蓮児の口から紡がれたそれは、特別な響きを持っている気がした。
次から次に涙が零れてしまう。蓮児の服を濡らしてしまうのが申し訳なくて必死に止めようとするけど、止めようとすればするほど溢れてしまった。
「……もう、あの家で暮らしていた柊花はいないのに」
蓮児が好きになってくれた「柊花」はきっとあの家で暮らしていた人物で、今の変わり果てた自分ではないのに。着物を着て化粧を施されて、声だってあの時とは違う。
なのに、なんで好きだと言ってくれるのだろう。そう言うと、蓮児は大きくため息をついた。
「何も変わってねぇよ。……俺を救ってくれたあの夜からずっと」
「私が、救った……?」
想像してなかった言葉に、思わず聞き返す。蓮児の抱きしめる力が強くなった。
「俺の名前を肯定してくれたろ。好きだって言ってくれた」
「蓮児……」
「お前からしたら些細なことかもしれないけれど、それでも俺は確かに救われたんだ」
「っ……」
「凛とした姿も、お人好しなところも、歯を食いしばりながら懸命に生きる姿も……全部が好きだ」
蓮児の言葉に喜んでいる自分がいる。
とっくに殺したはずの恋心が、また息を吹きかえしていくように、胸が苦しくなっていく。
「……諦めた筈だったんだ。蓮児に告白できたし、思い出も貰えた。もう未練はないって」
息を詰める音がすぐ近くで聞こえた。身じろぎをすれば回された腕が少し緩む。
そっと顔を上げれば、痛そうに顔を歪めている蓮児が見えた。そっと蓮児から離れて、姿勢を正す。改まった自分の態度に何を思ったのか、蓮児もまた姿勢を正す。握られた拳が、小さく震えていた。
それを見ながら、おもむろに懐に入れていた簪を取り出す。折れていないか心配だったが、どうやら無事だったようだ。翡翠の珠と蓮児の瞳を見比べれば、やっぱり同じ色だった。
「……俺は、未練ある。諦めきれてない」
簪を見ながら蓮児が低く呟いた。拗ねたような、子供っぽい声だった。その言葉を聞きながら、まだ蓮児が自分を好いていてくれるのだと分かって、どこかホッとしてしまう。蓮児の言葉を信じたいと、蓮児に恋をした霞城柊花が叫んでいる。
「もう一度、……私と夫婦になってくれますか?」
声はみっともなく震えて擦れていた。ぎゅっと目を瞑り、ばくばくと煩い心臓の音を感じながら、言葉を待つ。
返事を聞くのが怖かった。数秒かそれとも数十秒か、永遠とも思える長い時間が経った後。
手に持っていた簪を、そっと蓮児に取られてしまった。けして強引ではなかったのに、胸に穴が開くかのような空虚さを覚える。
ああ、やっぱり。と滲む涙を堪えながら、目を開けようと思ったときだった。
何かが、髪に触れた。そして加えられる少しの重み。
訳が分からなくてパッと目を開けると、目の前にははにかんだ蓮児がいた。
「……喜んで」
髪に触れれば、指先に固いなにかが当たった。それが何なのか、ぼんやりとした頭は理解できなくて、数秒の間固まってしまう。
その後、じわじわと喜びが湧いてきた。
「っ、!」
「俺の柊花。」
なにか言わなくては、と口を開くもその前に蓮児が抱きしめてくる。子どもみたいに無邪気で、嬉しそうな声だった。抱きしめてくる腕は優しくて、先程の拘束するような強いものではないのに、自分を閉じ込めて離さない。
「ずっと嫌だった。柊花が当真と仲良さそうにしていたことも、雅人との結婚が決まったことも……お兄さんの事ばかり考えてることも」
羅列していくその声音は軽いはずなのに、その裏にどろりとした何かがあった。
でも最後の言葉は本当に小さくて申し訳なさそうで、ああ優しいなあと思ってしまう。
「……簪、似合ってる?」
「当たり前だろ」
だって俺が選んだんだから。そう言って愛おしそうに軽く簪に触れてくる。それが嬉しくてたまらなかった。
体温が上がっていくのを感じる。熱でもあるのかと勘違いするほど。
「れん……」
名前を呼ぶ前に、そっと両手が頬に添えられる。温かくて、自分が大好きな手。それが心地よくてそっと目を閉じていれば、そっと唇が重ねられた。
触れた所から、じんわりと熱が移っていく。境界が溶けていく感覚に頭が茹だっていくようだ。慌てて蓮司に縋れば、更に口づけが深くなっていく。やっぱり、幸せというのは甘い味がするのだ。
目尻から流れていく涙をそのままにゆっくりと目を開ければ、蓮児もまた目に涙を湛えていた。どちらともなく笑ってしまう。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします。――旦那様」
「やめてくれよ。その……恥ずかしいから」
その台詞はかつて蓮児が言ったもので、今は自分が言っている。それが可笑しくて、また笑ってしまった。
「……一生かけて幸せにする」
ひとしきり笑った後、ふと真剣な顔になった蓮児が言った台詞に、また涙が出てきたことは秘密だ。
*
いつの間にか空は白み始めていて、朝が来ることを告げていた。
幽鬼が消え失せて静かになった世界の中、蓮児と二人で境界の端を目指す。
時折、道行く人々の体をすり抜けながら。幽霊になったみたいだ、と気味悪げに呟いた蓮児の反応が面白くてくすくすと笑うと、少しだけムッとされた。
そういえば楓も同じことを言っていたなと思い出す。二人は、変なところでとてもよく似ていた。
「足の怪我大丈夫か?」
「どうってことない。それよりも下駄……」
「いいから。大人しく使っとけ」
こちらを気遣ってくれる蓮児に、また胸が温かくなっていく。少し大きめの下駄を鳴らしながらゆっくり並んで歩いた。
結界の境目……大木が見えてきた時だった。遠くから、小さな影がこちらに向かって走ってくる。途中で転びかけながらそれでも必死に。
「楓……?」
思わず屈みながら手を広げれば、やがて泣きながら楓が飛び込んできた。背中に腕を回し、ぎゅうぎゅうと力の限り締め付けてくる。名前を呼んでもなかなか顔を合わせようとしてくれなくて、何度も名前を呼ぶ。落ち着かせるように背中を撫でれば、漸く楓は口を開いてくれた。
「なんで、なんで帰って来なかったんだ」
「ごめん、」
しゃくりあげながら、楓が小さく呟く。
脳裏に蓮児の言葉が蘇った。嫌われたのではないかと不安がっていたという楓。一人ぼっちにされて、どんなに心細かっただろう、辛かっただろう。その様子を想像してしまって、胸が傷んだ。
同時に、自分が誰かにとってそこまでの存在になれたことも嬉しくて、心の中で二人に謝る。口にすれば、きっと怒られてしまうから。
「……もう遠くに行かないで」
「うん」
「ずっと一緒にいて」
「一緒にいる」
「……ほんと?」
「うん。約束する」
その言葉にやっとホッとしたのか、楓はそろりと自分から離れた。しかし、袖を掴む手はそのままだ。
約束をしようと小指を立てれば、暫くそれをじっと見たあとに、自分の小指と絡めてくれる。心が温かくて、擽ったくてたまらない。
「これからはずっと、三人一緒だ」
「わっ」
「ちょ、蓮児苦しい」
自分と楓ごと、蓮児が抱きしめてくる。楓の抗議の声を無視して、そのまま蓮児は腕に力を込めた。
密着した肌から伝わる体温が溶け合って一つになるような感覚に、家族というものの温かさを思い出した気がした。
「ねえ、早く帰ろ。ご飯食べたい!」
「おい、暴れるな!」
蓮児の腕の中から逃げ出そうと藻掻いている楓が声を弾ませた。その直後にくう、と鳴った腹の音に三人で笑ってしまう。
先に駆けていく楓の背を見ながら、蓮児と二人でその後を追った。
「……さよなら、兄さま」
一度、隔世を振り返る。
朝日が昇り幽鬼が消え去った今、隔世はただの空っぽな世界で、そこには何もない。そう分かっているけれど、兄の姿を探さずにはいられなかった。
蓮児は隔世に来たとき、何者かに引っ張られたと言った。幽鬼によるものなのか、或いは……
「ほら、行くぞ」
「うん」
蓮児の声に思考を止める。首を一つ振って、また前を向いた。
蓮児が差し出した手を取りながら結界を越える。自分たちを包み込む世界の色も音も、やけに鮮明だった。
帰ってきた、と一つ息をついた時だった。
「ん、無事に帰ってきたな」
「……当真?」
大木には、一人の見知った人物が凭れ掛かっていた。
当真!と駆け寄った楓の頭をわしゃわしゃと撫でながら、やれやれと呆れたようにこちらを見ている。
「目の前で蓮児が消えたって楓が慌てて帰ってきた時は驚いたが……無事に会えたようでよかった」
なんでここにいるのかと問えば、げんなりした様子で懇切丁寧に教えてくれた。
なんでも、帰ってくる成り自分も隔世に行くんだと楓が暴れたらしい。せめて朝になってからにしろと宥めながら、約束通り隔世に渡るための手助けをしてくれたのだった。
一般人を独断で隔世に入れたと他の名家たちに知られれば、ただでは済まないだろう。なぜそこまで卓けてくれたのか不思議だった。
正直に問えば、当真は心底呆れたというふうに大きくため息をついた。
「お前たちが幸せそうにしている姿を見たかったから。それじゃダメか?」
「え?」
言わせるな馬鹿と文句を言いながらも、当真の視線は柔らかかった。その視線が自分に挿さっている簪に注がれているのを知って、じわじわと顔が赤くなってしまう。それに気づいたのか、さりげなく蓮児が背に庇ってくれた。そのことにすら胸が高鳴ってしまう。
「ま、その様子ならうまくいったようだな」
そう言いながら、にやにやと蓮児に笑いかける。蓮児は不機嫌そうだったが、楓を匿ってくれたこと、助けてくれたことに感謝の言葉を伝えていた。それに目を丸くしながら当真も応える。自分はその様子をハラハラしながら見ていることしかできなかった。
「それで……これからどうするつもりだ?」
先ほどとは打って変わって真剣な声音だった。
それにつられて、自分も笑みを引っ込める。後継ぎ問題の秘密を知っている自分たちを、霞城家は脅威に思うはずだ。もしかしたら籠谷家も追手を放つかもしれない。もう、あの家には帰れないのは分かっていた。
「……どこか、遠くの地に行く」
「は?」
「そこで小さな家を建てて暮らすんだ。……三人で」
霞城家のこと、籠谷家のこと、隔世の務めのこと……考えることはたくさんあって、頭の中はぐちゃぐちゃになっていたのに、ふと鮮明に浮かんだのは見たこともない地で静かに三人で暮らす光景だった。
思わず口をついて出た言葉に、隣でふっと蓮児が笑う。
「いいな、それ。ちゃんとカエデの木も植えよう」
「ほんと!?」
ぱっと嬉しそうな声を上げた楓が、約束しろと蓮児に指切りを強請っている。
緊張感もなにもない空気に呆気にとられたようにぽかんとした後、当真は声を上げて笑った。
「っ、はは!最高だなお前ら」
「褒めてるのか?」
「これ以上ないくらいにな」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、当真が自分に笑いかける。
「良かったな、柊花」
その言葉に、するりとなんの抵抗もなく言葉があふれた。
「……うん。今が一番、幸せなんだ」
隔世まで追いかけてきて、好きだと言ってくれる人がいる。
名前を呼んで、抱きしめてくれる人がいる。
それだけで、心が満たされる。
これから先何があっても柊花として在れると、そう思えた。
