偽る柊はよすがを探す

戸を開ければ、中はしんと静まり返っていた。

「ただいま」

小さく呟きながら玄関を上がる。隅に泥だらけの足袋が転がっていた。よくよく見ると、茶色く変色した血がこびりついている。
廊下にも転々と血がついていた。一体どれくらいの怪我をしたのか。大怪我を負って帰ってきた時のことが脳裏にちらつき、顔が強張っていくのを感じる。
血は柊花の自室まで続いていた。襖の前で息を詰めるも、中から人の気配らしきものは感じられなかった。

「……柊花」

返事はない。
ここには居ないのではないかと一瞬頭を過ったが、それを振り払うように襖に手をかけた。
ぐっと手に力を入れると、すっと合わせられた襖が開き、中が見える……
その時だった。

「っ、」

白刃の光が、目の前の空気を切り裂いた。皮膚がひりつき、半歩下がって距離を取る。
目の前には確かに柊花が居た。刀を構え直し、冷静にこちらを見据えている。顔は青白いというのに、目だけが冷たく怜悧に光っていた。

「俺だよ、柊花」
「嘘つき。だってあの人は、ここに来れないもの。だから、お前は偽物」
「違う!俺は本物で、」
「さっさと本性を現せばいい。蓮児の姿を使うな化け物め」

いつもよりも幼い声音だった。ぎゅっと刀を握る柊花は、自身に言い聞かせるように言った。どうやら幽鬼が化けたものだと勘違いしているらしい。
忌々しそうに吐き捨てて、なのに顔は悲痛そうに歪められている。一歩、足を踏み出せば呼応するように柊花が一歩後ろに下がった。きっと、下手に動いたら斬り殺されるだろう。

「っ、この分からず屋!」
「なっ!」

思わず、懐からあるものを投げつける。それに即座に対応した柊花は、それを真っ二つに斬り捨てようとして、寸前でぴたりと動きを止める。

「なん、で……」

ぽす、とそのまま柊花に当たって落ちたそれを、柊花は愕然とした様子で見下ろした。
柊花の足元にあるのは、櫛。蓮が彫られたそれは、見覚えのありすぎるものだろう。
するりと、柊花の右手から刀が滑り落ちる。重い音をして地面に転がったそれを無視して、柊花は力が抜けたようにぺたんと座り込んだ。
一歩一歩、柊花に近づく。もう、柊花が刀に手を伸ばすことはなかった。
呆然とした様子でこちらを見上げている。

「……これで分かったか」
「蓮児……?」 
「そーだよ。アンタの妻だ」

いや、離縁したから元妻か。そんなくだらないことを考えながら大きく息を吐く。
櫛をぎゅっと握りしめたままの柊花は、なにも言わないまま固まっている。ゆらゆらと揺れている瞳が、柊花の困惑具合を如実に語っていた。
隣に腰を下ろせば、少しだけ身じろぎして距離を取られてしまった。つきりと胸が痛むが、それを悟らせないように努めて軽い声を出す。

「いきなり斬りかかってきやがって」
「……また幽鬼だと思ったから」
「また?」

こくんと頷いた柊花は櫛を自分に返すと、そのまま膝を抱えて俯いてしまった。零れた髪が柊花の横顔すら隠してしまう。
くぐもった声はどこか浮ついていて、そのままどこかへ消えてしまうんじゃないかと恐ろしかった。

「前までは兄さまの声だった。でもなぜか今は蓮児の声がするんだ」
「……なんて」
「私の名前を呼びながら、おかえりって」

幽鬼は人をおびき寄せるために、親しい人の声を真似るらしい。柊花の心をずっと占めていた存在……亡くなったという兄に勝てたのだと、一瞬でも考えてしまった。

「……俺は最低だな」
「……?」

きょとんとして顔を上げた柊花に首を振りながら、自嘲する。零れた髪を耳にかけてやると、柊花は抵抗することなくそれを受け入れた。いっそ、拒絶してくれたらよかったのに。
落ち着いてきた柊花は、今度は現実世界のことが気になってきたらしく、ぼんやりと襖の向こうを見ながら呟いた。

「今頃、家はどうなってるかな」
「俺の父親と口論してた。みんな慌てふためいて、あれは傑作だった」
「そっか。見たかったな」

雅人の顔が見られなかったのが残念だった、とは口にしない。柊花に嫌われたくなかったから。ちらりと柊花の方を見れば、ゆるりと口元を上げている。

「なんか嬉しそうだな」
「うん。……嫌だったから」

何が、と聞くまでもない。ここまで言い切った柊花に少しだけ驚くと、柊花はこちらに視線を向けないまま目を細めた。

「最初は我慢できたんだ。口調を直すことも、化粧をすることも、着物を着ることも……」

指を折りながら、思い出すように羅列していく。
どれもずっと柊花が望んでいたことだ。……女として、素のままに生きること。丁度この部屋の鏡台の前で、泣き崩れていたのに。
その声音はどんどん曇っている。

「でも、」
「でも?」

食い気味に聞き返せば、柊花はくしゃりと顔を歪める。

「全部、知らない男の為なんだって気づいたら……」

ほとんど泣きそうな声だった。ぎゅっと着物の裾を掴みながら俯いている。重力に沿って、ぽたりと涙が落ちた。

「……ちゃんとお終いに出来ると思ってたのに。忘れられるって、」
「それが、あの簪か?」
「……ごめん」

柊花の肩が強張る。怖がらせたくなかったのに、柊花を詰るような声音になってしまった。
でも、怒りを抱いているのは紛れもない事実だった。
なにも言わずにあんな別れ方をしたこと。言うだけ言って逃げたこと。……柊花にそのつもりはなかったんだろうが。
事情を説明してくれたところで、自分にはどうすることもできなかっただろう。でも、全てを捨てて一緒に逃げるくらいどうってことなかったのに。
はなから期待していなかったのではないかと、辛かった。
謝ってほしいわけじゃない。だけど、なんて言えばいいのか分からなかった。自分の口下手さが嫌になる。それでも、なけなしの言葉を振り絞るしかなかった。

「一緒に帰ろう。楓もずっと待ってる」
「私だって、帰りたい。また3人で暮らしたい……」
「じゃあ、」
「でも、無理だって……帰ってもまた家に縛り付けられるだけだって分かってるから」
「……」
「私は此処で、」

眉を下げながら柊花は笑った。無理やり口角を上げたような、歪な笑み。
この、諦めたような表情を一緒に暮らしている中で何度も見た。

「……柊花の、そういうところが大嫌いだ」
「え……」
「一人で抱え込んで勝手に決めつけて、勝手に諦めることも!!」

我慢できなくて、思わず怒鳴ってしまう。
びくっと肩を震わした拍子に、柊花の瞳から涙が一筋零れ落ちる。泣かせてしまった。怖がらせてしまった。そう分かっていても止められなかった。
絶句する柊花を睨みつけながら、荒く息をする。喉に熱い塊が詰まったみたいに、上手く呼吸が出来なくなる。恐る恐る、柊花が手を伸ばしてきた。このお人好しなところも、自分よりも相手を優先するところも……嫌いだった。

「楓がどんなに不安がっていたか、知らないだろ。自分のこと嫌いになったのかもって、ずっと怖がってたことも」
「っ、」

そして、このぐちゃぐちゃの感情も。
好きだと言われて、舞い上がるほど嬉しかったのに。自分と同じ気持ちだったのだと、人生で一番幸福だったのに。
なんの説明もないまま一方的に今までの関係を断ち切られたあの苦しみを、柊花はなんにも知らないのだ。

「俺は、あんな別れをするために簪を選んだんじゃない」
「……」
「言いたいこと言って、もう未練はないみたいな顔しやがって……」

伸ばされた手を掴み、そのままぐいっと自分の方へと引っ張る。
想定していなかったのだろう。あっさり体勢を崩すと、柊花は力の向きに従って倒れ込むように自分の胸元へと飛び込んできた。そのままぎゅっと抱きしめる。逃げられないように、またどこかへ消えてしまわないように。

「……なんで諦めるんだよ。なんで、相談してくれなかったんだ」

俺たちは家族だろ。そう告げれば、抱きしめた腕の中から嗚咽が聞こえてくる。

「もう、家族じゃない。離縁して他人になっちゃって、霞城柊夜は死んで……」
「……」
「もうずっと昔に霞城柊花は死んだのに。もう、何者にもなれなくて、」
「お前は柊花だろ」
「ちがう……」
「違わねえ。柊花はあの家で、俺たちと一緒にちゃんと生きてたろ」

纏まっていないまま、感情の溢れるままに紡がれた言葉たちは痛々しくて、知らず顔を歪めてしまう。もしも自分に力があったら。柊花を守れるくらい、力があったら。そしたら柊花を泣かせずに済んだかもしれない。そんなもしもを考えてしまう。
……いや、泣かせたのは俺か。
そう自嘲しながらも、抱きしめる力を緩めることができない。こんな男に好かれて、柊花は可哀そうだと思う。きっと柊花にはもっと相応しい人がいて、幸せにしてくれる人がいるはずなのに。
それでも、諦めることが出来なかった。

「俺も、好きだ」
「え……」
「あの時の返事。まだできていなかったから」

ばっと顔を上げた柊花は、零れんばかりに目を見開いていた。紫の瞳が、涙できらきらと輝いている。溢れた涙を人差し指で拭えば、次から次に流れるものだから困った。

「何度だって言う。この世で一番好きだ」

この言葉が、少しでも柊花の生きる理由になったらいい。そう願いながら、柊花を見つめることしか自分にはできなかった。