真夜中に、金銭も持たずに失踪した柊花が行ける場所など限られている。
乱れた息を整えながら見慣れた道を歩いていけば、やがて三人で暮らしていた家が見えてきた。それだけでホッとしてしまい、自然と早足になっていく。
きっと、柊花は居ないだろう。霞城家の人間が真っ先に探しに来ただろうに、夜が明けた今になっても見つかっていないのだから。
それでもこの家へと足が向いてしまった自分が不思議だった。
「ただいま」
返事が返ってくるわけないのにそれでも言ってしまうのは癖になっているからだろう。初めてこの家に足を踏み入れた時、隣で柊花が呟いていたのを思い出す。
玄関前は落ち葉が散乱していて、まさに空き家という雰囲気だった。戸は固く閉まっており、人が出入りした形跡もない。
「やっぱ居ないよな」
さて、次はどこへ行こうかと踵を返そうとした時だった。後ろから、誰かが抱きついてくる。追手かと一瞬身構えたが、後ろから巻きついた腕は子どものものだった。
身を捩じって抱きついてくる相手を見る。見慣れた旋毛だった。
「元気してたか、楓」
「……うん」
顔をぐりぐりと押し付けながら、なおも離さない楓に一つため息をつく。
ここでは人目に付くだろう。移動しながら話そうと体を引きはがして家から背を向ければ、必死の形相で楓が腕を掴んでくる。
「どこ行くんだよ!」
「どこにも行かねえよ」
「嘘つき!また消えちゃうんだろ!」
その言葉に、足が止まる。改めて楓の方を向けば楓の目には涙が浮かんでいた。ぎゅっと唇を噛みながら泣くのを堪えている。
普段は明るくて聞き分けのいい子どもだったが、まだほんの10かそこらの年齢なのだ。
「……どこにも行かない。一緒に行くぞ」
「……わかった」
爪を立てる勢いで掴んでいた楓の腕を外しながら、その小さい手を繋ぐ。驚いたようにこちらを見上げてくる楓の頭を撫でながら、家を後にした。
とりあえず柊花と一緒に訪れた場所を虱潰しに探していこうと街の方へ向かう。
「蓮児がその格好してるの見慣れない」
「そうかよ」
「着物の方も好きだった」
「嫌味か?」
楓は鼻を啜りながら「へへっ」と笑った。久しぶりの掛け合いにつられて少し笑う。話を聞いていくと、どうやら家を飛び出して霞城家を目指したもののたどり着けず、数日経ったのちにまた家に帰ってきたらしかった。
「でも、今度は蓮児も居なくなってた」
「俺も籠谷家に呼び戻されたんだよ。……悪かった」
「ん。許す」
なんとか家に帰ってきたというのに誰も居なかったというのは心細かっただろうに。先ほどの反応に納得がいって申し訳なくなる。空気を重くさせないためだろう。茶化すような返答が痛かった。
「でさ、家の前でこれからどうしようってぼんやりしてたらさ、あの兄ちゃんが来たんだよ」
「兄ちゃん?」
「ほら、柊花の幼馴染」
その単語に思わず顔をしかめると、呆れながらも楓は話を続けた。その後は朝霧当真の家に転がり込んでいたらしい。なんでも、もし自分に何かあったら二人を頼むと柊花にお願いされていたとか……それで楓の事を保護してくれたのだろう。
「それから毎日あの家の様子を見に行ってたんだ。そしたら今日は蓮児が帰ってきた!」
「……」
「蓮児が帰ってきたならさ、柊花ももうすぐ帰ってくる?」
繋いだ手を大きく振りながら弾んだ声で楓は言う。今のうちにあの家を綺麗にしておかないと柊花が悲しむぞ、なんて提案しながら。その無邪気さに、押し込んだはずの焦燥がまた顔を出す。
黙りこくった自分を見上げながら、楓が首を傾げた。
「……柊花は、失踪した」
「なんで?霞城家にいるんだろ?」
「輿入れすることになったんだ。その前夜に姿を消したらしい」
こしいれ……と意味を分かっていなさそうな楓に結婚のことだと教えれば、分かりやすく顔を歪ませた。
「結婚するの嫌だったのかな」
「どうだろうな」
口では殊勝に言ってみるも、そうであってほしかった。
柊花が可哀そうだと言いながら、楓が足元の石を蹴っ飛ばす。気づけば、二人の足はまた家の方に向かっていた。
空は赤く染まり遠くでカラスが鳴いている。
やはり、柊花の姿はなかった。
「柊花はこの家、好きじゃなかったのかな」
「……」
「俺たちとの生活、楽しくなかったのかな」
「そんなわけないだろ」
思わず強い口調で言ってしまう。
ハッとして楓の方を見れば、楓は目を丸くしてこちらを見上げている。ここまで言い切ることに驚いたのだろう。ぽかんと口を開けていた。
「……そんなわけないだろ。あいつはずっと楽しそうだった。お前が来てからは特に」
「そう、かな。そうだといいな……」
また俯いてしまった楓に、心の中で舌打ちをする。こういう時に上手いことが言えない自分が嫌だった。蓮児は不器用だな、といつかの時に柊花が言っていたのを思い出す。
これからどうしようかと焦っていた時だった。
「なんだ急に人が沢山来るようになったのお」
「……?」
「あ、じいちゃん!」
振り返ってみると、そこにはよく挨拶をしていた近所に住む初老の男だった。駆け寄っていった楓の頭を撫でながら、どこに行ってたんだと男は心配そうな声音で楓に問い詰めていた。
先ほどの言葉を思いだす。沢山来るようになったというのは恐らく柊花を探しに来た使用人だろう。それでも一応聞いてみる。
「前にもこの家に来た人が居たんですか」
「ああ、昨夜にな。えらい別嬪さんが家の前に突っ立ってたのよ。……ありゃあ訳アリだね。草履も履かないでかわいそうだった」
……柊花だとすぐに分かった。話を遮りたいのを我慢しながら、男の言葉に耳を傾ける。心臓が耳の横にあるのかというほど自分の音が煩かった。昨夜を思い出したのか、男は眉を下げながら話を続ける。
「ここは空き家になったから誰もいないって伝えたら、そうですかって。そのままふらーってどこかへ行っちまったんだ」
「どこかへ……」
柊花は、ちゃんとここに帰ってきたのだ。だけど、どこかへ行ってしまった。……どこに?柊花と訪れた場所は全て回ったというのに。心配そうに去っていく男に礼をしながら、頭の中で考え続けた。
「やっぱり、柊花帰ってきてたんだ」
一度帰ってきたとして、もうここには居ないというのに楓はホッとしたようだった。
「なあ蓮児。俺さ、柊花はここにいると思う」
「何言ってんだよ……鍵だって掛かってる。人が入った形跡もない」
「うん。だからさ、あっちの方じゃないかなって」
楓につられてもう一度家の方に向き直る。しんと静まり返った家。そこに柊花がいるとは考えにくい。だけどあっちならば。
「隔世の方、か」
「そ!」
現実と全く同じ構造で、しかし一般の人の目には映らないもう一つの世界。
たしかに考えれば考えるほど納得がいく。現実のものが隔世に干渉することはない。それを教えてくれたのは他でもない柊花だ。
きっと、自分たちの声も聞こえていないのだろう。
「問題はどうやって行くか、だな」
「なんか大きな木の所でこうやって……」
ひょいっと見えない暖簾をくぐるような仕草をしてみせる。たしかにそれは籠谷家が管理する結界を行き来するための動作だった。しかし、これが出来るのは隔世の管理を担う者だけ。
恐らく楓が越えられたのは、隣に柊花がいたからだろう。自分は才能がないので隔世に入ることが出来ない。
それを伝えれば、楓は不服そうにしていた。
「それに、籠谷家の管轄だから部外者が入ろうとすれば多分バレる」
「蓮児も籠谷なのに」
出来損ないだから、とは言わないでおいた。こんな時になって才能の無い自分が嫌になる。もし、庶子だとしても結界を張る才能があったら家族として認められただろうか。柊花の隣に居たのは自分だっただろうか……そんなもしもを考えてしまう。
「あ、じゃあ当真に頼んだら連れて行ってくれるかも」
「……」
名案とばかりに楓が当真の名前を口にした。きっとあの男なら、柊花のために自分の立場を悪くしてでも助けてくれるだろう。
その光景が容易に浮かぶ。現状それが最善手だ。そう分かっていても、素直に頷くことが出来なかった。
『これからもよろしく頼むぜ』
柊花が柊花でいられるように。当真からそう言われ、自分はそれに当たり前だと返した。
なのに、今のこの現状はなんだ?何も出来ないままこうして柊花が失踪するまで指をくわえて見ていただけだった。
「蓮児?変な顔してどうしたんだ?」
当真の家へ案内しようと歩き出した楓が、不思議そうにこちらを見てくる。変な顔とはどんな顔だろうか。鏡がないから分からない。見たくもない。
「なんでも……」
「蓮児!?」
……ない。
そう言おうとした時だった。何者かに後ろから引っ張られる。ぐいっとありえない力で。
後ろを振り向くも何もいない。ただ、透明な腕が後ろへと引っ張っているようだった。
重心が崩れてそのまま後ろへ倒れそうだ。思わず平衡を保とうと、左足を後ろに下げる。
地に、足がつく。
なんとか倒れずに済んだことにホッとするが、そこではたと気づく。
世界が、おかしい。
「嘘だろ……」
薄い膜の向こうから現実を見ているような。
楓が慌てたように周囲を見回している。目の前に居るというのに、見えていないようだった。口の動きから自分の名を呼んでいることが分かる。なのに、音は聞こえない。試しに楓に触れようとするも、幽霊のように体をすり抜けてしまう。
自分には一生縁がないと思っていた世界。
「……隔世」
玄関の戸に触れる。現実では開かなかったのに、こちらの世界では既に鍵が壊されていたのか、すんなり開けることが出来た。
心臓の音が煩い。
柊花がここにいる。その確信が足を動かした。
乱れた息を整えながら見慣れた道を歩いていけば、やがて三人で暮らしていた家が見えてきた。それだけでホッとしてしまい、自然と早足になっていく。
きっと、柊花は居ないだろう。霞城家の人間が真っ先に探しに来ただろうに、夜が明けた今になっても見つかっていないのだから。
それでもこの家へと足が向いてしまった自分が不思議だった。
「ただいま」
返事が返ってくるわけないのにそれでも言ってしまうのは癖になっているからだろう。初めてこの家に足を踏み入れた時、隣で柊花が呟いていたのを思い出す。
玄関前は落ち葉が散乱していて、まさに空き家という雰囲気だった。戸は固く閉まっており、人が出入りした形跡もない。
「やっぱ居ないよな」
さて、次はどこへ行こうかと踵を返そうとした時だった。後ろから、誰かが抱きついてくる。追手かと一瞬身構えたが、後ろから巻きついた腕は子どものものだった。
身を捩じって抱きついてくる相手を見る。見慣れた旋毛だった。
「元気してたか、楓」
「……うん」
顔をぐりぐりと押し付けながら、なおも離さない楓に一つため息をつく。
ここでは人目に付くだろう。移動しながら話そうと体を引きはがして家から背を向ければ、必死の形相で楓が腕を掴んでくる。
「どこ行くんだよ!」
「どこにも行かねえよ」
「嘘つき!また消えちゃうんだろ!」
その言葉に、足が止まる。改めて楓の方を向けば楓の目には涙が浮かんでいた。ぎゅっと唇を噛みながら泣くのを堪えている。
普段は明るくて聞き分けのいい子どもだったが、まだほんの10かそこらの年齢なのだ。
「……どこにも行かない。一緒に行くぞ」
「……わかった」
爪を立てる勢いで掴んでいた楓の腕を外しながら、その小さい手を繋ぐ。驚いたようにこちらを見上げてくる楓の頭を撫でながら、家を後にした。
とりあえず柊花と一緒に訪れた場所を虱潰しに探していこうと街の方へ向かう。
「蓮児がその格好してるの見慣れない」
「そうかよ」
「着物の方も好きだった」
「嫌味か?」
楓は鼻を啜りながら「へへっ」と笑った。久しぶりの掛け合いにつられて少し笑う。話を聞いていくと、どうやら家を飛び出して霞城家を目指したもののたどり着けず、数日経ったのちにまた家に帰ってきたらしかった。
「でも、今度は蓮児も居なくなってた」
「俺も籠谷家に呼び戻されたんだよ。……悪かった」
「ん。許す」
なんとか家に帰ってきたというのに誰も居なかったというのは心細かっただろうに。先ほどの反応に納得がいって申し訳なくなる。空気を重くさせないためだろう。茶化すような返答が痛かった。
「でさ、家の前でこれからどうしようってぼんやりしてたらさ、あの兄ちゃんが来たんだよ」
「兄ちゃん?」
「ほら、柊花の幼馴染」
その単語に思わず顔をしかめると、呆れながらも楓は話を続けた。その後は朝霧当真の家に転がり込んでいたらしい。なんでも、もし自分に何かあったら二人を頼むと柊花にお願いされていたとか……それで楓の事を保護してくれたのだろう。
「それから毎日あの家の様子を見に行ってたんだ。そしたら今日は蓮児が帰ってきた!」
「……」
「蓮児が帰ってきたならさ、柊花ももうすぐ帰ってくる?」
繋いだ手を大きく振りながら弾んだ声で楓は言う。今のうちにあの家を綺麗にしておかないと柊花が悲しむぞ、なんて提案しながら。その無邪気さに、押し込んだはずの焦燥がまた顔を出す。
黙りこくった自分を見上げながら、楓が首を傾げた。
「……柊花は、失踪した」
「なんで?霞城家にいるんだろ?」
「輿入れすることになったんだ。その前夜に姿を消したらしい」
こしいれ……と意味を分かっていなさそうな楓に結婚のことだと教えれば、分かりやすく顔を歪ませた。
「結婚するの嫌だったのかな」
「どうだろうな」
口では殊勝に言ってみるも、そうであってほしかった。
柊花が可哀そうだと言いながら、楓が足元の石を蹴っ飛ばす。気づけば、二人の足はまた家の方に向かっていた。
空は赤く染まり遠くでカラスが鳴いている。
やはり、柊花の姿はなかった。
「柊花はこの家、好きじゃなかったのかな」
「……」
「俺たちとの生活、楽しくなかったのかな」
「そんなわけないだろ」
思わず強い口調で言ってしまう。
ハッとして楓の方を見れば、楓は目を丸くしてこちらを見上げている。ここまで言い切ることに驚いたのだろう。ぽかんと口を開けていた。
「……そんなわけないだろ。あいつはずっと楽しそうだった。お前が来てからは特に」
「そう、かな。そうだといいな……」
また俯いてしまった楓に、心の中で舌打ちをする。こういう時に上手いことが言えない自分が嫌だった。蓮児は不器用だな、といつかの時に柊花が言っていたのを思い出す。
これからどうしようかと焦っていた時だった。
「なんだ急に人が沢山来るようになったのお」
「……?」
「あ、じいちゃん!」
振り返ってみると、そこにはよく挨拶をしていた近所に住む初老の男だった。駆け寄っていった楓の頭を撫でながら、どこに行ってたんだと男は心配そうな声音で楓に問い詰めていた。
先ほどの言葉を思いだす。沢山来るようになったというのは恐らく柊花を探しに来た使用人だろう。それでも一応聞いてみる。
「前にもこの家に来た人が居たんですか」
「ああ、昨夜にな。えらい別嬪さんが家の前に突っ立ってたのよ。……ありゃあ訳アリだね。草履も履かないでかわいそうだった」
……柊花だとすぐに分かった。話を遮りたいのを我慢しながら、男の言葉に耳を傾ける。心臓が耳の横にあるのかというほど自分の音が煩かった。昨夜を思い出したのか、男は眉を下げながら話を続ける。
「ここは空き家になったから誰もいないって伝えたら、そうですかって。そのままふらーってどこかへ行っちまったんだ」
「どこかへ……」
柊花は、ちゃんとここに帰ってきたのだ。だけど、どこかへ行ってしまった。……どこに?柊花と訪れた場所は全て回ったというのに。心配そうに去っていく男に礼をしながら、頭の中で考え続けた。
「やっぱり、柊花帰ってきてたんだ」
一度帰ってきたとして、もうここには居ないというのに楓はホッとしたようだった。
「なあ蓮児。俺さ、柊花はここにいると思う」
「何言ってんだよ……鍵だって掛かってる。人が入った形跡もない」
「うん。だからさ、あっちの方じゃないかなって」
楓につられてもう一度家の方に向き直る。しんと静まり返った家。そこに柊花がいるとは考えにくい。だけどあっちならば。
「隔世の方、か」
「そ!」
現実と全く同じ構造で、しかし一般の人の目には映らないもう一つの世界。
たしかに考えれば考えるほど納得がいく。現実のものが隔世に干渉することはない。それを教えてくれたのは他でもない柊花だ。
きっと、自分たちの声も聞こえていないのだろう。
「問題はどうやって行くか、だな」
「なんか大きな木の所でこうやって……」
ひょいっと見えない暖簾をくぐるような仕草をしてみせる。たしかにそれは籠谷家が管理する結界を行き来するための動作だった。しかし、これが出来るのは隔世の管理を担う者だけ。
恐らく楓が越えられたのは、隣に柊花がいたからだろう。自分は才能がないので隔世に入ることが出来ない。
それを伝えれば、楓は不服そうにしていた。
「それに、籠谷家の管轄だから部外者が入ろうとすれば多分バレる」
「蓮児も籠谷なのに」
出来損ないだから、とは言わないでおいた。こんな時になって才能の無い自分が嫌になる。もし、庶子だとしても結界を張る才能があったら家族として認められただろうか。柊花の隣に居たのは自分だっただろうか……そんなもしもを考えてしまう。
「あ、じゃあ当真に頼んだら連れて行ってくれるかも」
「……」
名案とばかりに楓が当真の名前を口にした。きっとあの男なら、柊花のために自分の立場を悪くしてでも助けてくれるだろう。
その光景が容易に浮かぶ。現状それが最善手だ。そう分かっていても、素直に頷くことが出来なかった。
『これからもよろしく頼むぜ』
柊花が柊花でいられるように。当真からそう言われ、自分はそれに当たり前だと返した。
なのに、今のこの現状はなんだ?何も出来ないままこうして柊花が失踪するまで指をくわえて見ていただけだった。
「蓮児?変な顔してどうしたんだ?」
当真の家へ案内しようと歩き出した楓が、不思議そうにこちらを見てくる。変な顔とはどんな顔だろうか。鏡がないから分からない。見たくもない。
「なんでも……」
「蓮児!?」
……ない。
そう言おうとした時だった。何者かに後ろから引っ張られる。ぐいっとありえない力で。
後ろを振り向くも何もいない。ただ、透明な腕が後ろへと引っ張っているようだった。
重心が崩れてそのまま後ろへ倒れそうだ。思わず平衡を保とうと、左足を後ろに下げる。
地に、足がつく。
なんとか倒れずに済んだことにホッとするが、そこではたと気づく。
世界が、おかしい。
「嘘だろ……」
薄い膜の向こうから現実を見ているような。
楓が慌てたように周囲を見回している。目の前に居るというのに、見えていないようだった。口の動きから自分の名を呼んでいることが分かる。なのに、音は聞こえない。試しに楓に触れようとするも、幽霊のように体をすり抜けてしまう。
自分には一生縁がないと思っていた世界。
「……隔世」
玄関の戸に触れる。現実では開かなかったのに、こちらの世界では既に鍵が壊されていたのか、すんなり開けることが出来た。
心臓の音が煩い。
柊花がここにいる。その確信が足を動かした。
