庭の木が色づく季節になった。せっせと楓が箒で掃いているのを手伝いながら、庭を見回す。一人で過ごしていた時はほったらかしにしていたので気づかなかったが、手入れの行き届いた庭は季節が巡ったことを知らせてくれる。
きっと冬を越えて春になれば、また色彩に満ちた景色が広がることだろう。
家の木がカエデではなくモミジだったことを楓が残念がっていたので、来年は新しく木を植えるのもいいかもしれない。
「ほら、休憩するぞ」
「きゅうけい!」
お盆を持った蓮児が、縁側から声をかけてきた。休憩という言葉に、一目散に楓が縁側へと走る。それに苦笑しながら自分も後を追った。
「おい、自分だけ先に食べるな」
「いいじゃん。柊花来たし」
さっと茶請けのカステラに手を伸ばした楓の手をぱしっと叩き落して、蓮児が叱る。
大体楓のやんちゃを叱るのは蓮児の役目だった。叩かれた手を擦りながら文句を言うのもいつもの光景だ。
長閑であたたかい毎日。隣に誰かが居るだけでこんなにも穏やかに暮らせることを、久しく忘れていた気がする。……霞城柊夜になってから、この12年間ずっと。
「家族みたいだ」
ぽつりと思わず出た独り言に、さっきまで言い合っていた二人が顔を見合わせている。
「いや家族だろ……」
「いまさら?」
疲れているんじゃないか?と楓にまで心配されてしまった。本当に一欠片だったけれど、自分の分のカステラまでくれた。
それに苦笑して、ありがたく食べる。しっとりとした甘さは、やっぱり幸せの味がした。
*
12の春から霞城柊夜という仮面を被って、もう女として生きた時と同じ時間を生きてしまった。
これから先もずっとこの生活は続くと、信じて疑わなかった。……諦めといった方が近いかも知れないけれど。
机の上にあるのは、一通の手紙。封筒には、「霞城柊夜殿」と書かれている。久しぶりに見た、父の字だった。
父が手紙を出してくるのはいつも、なにかあった時だけだ。香蓮の正体についての件はすでに解決済みのはず。楓の件がバレたのか、それとも籠谷家となにか問題があったのだろうかと、嫌な憶測だけが次々に浮かぶ。
別に、蓮児に見られた所で問題ないと分かっているはずなのに、近くに気配がないかを確認してしまうのは、長年の癖だった。
夜も遅く各々の部屋で過ごしている今、家の中は静まりかえっていた。鼓動が早まるのを感じながら、封を切る。
「なん、で……」
今度親戚筋から養子として男児を迎え、後継ぎに据えると書かれていた。
自分の処遇は霞城家に帰ってきた際に話すと、一方的に。まだ文字は続いていたが、視界がぐにゃりと歪んでいきそれ以上読めなくなってしまった。
ぐしゃりと、手紙を握りつぶす。
「なんで……!」
最初から養子をとってくれば、こんなにも苦しい思いをしなくて良かったのに。刀を握ることも、傷を作ることも、声だって潰さずに済んだのに。
もう何もかもが遅すぎて乾いた笑いしか起きなかった。机に突っ伏したまま頭だけ動かして、鏡台の鍵のついた引きだしを見る。ほとんど使っていない紅が入っているそこを。
もう、後継ぎとして生きる必要がなくなったのならば、もう一度女として……柊花として生きることが出来るのだろうかと、ぼんやりと思う。
「そんなの、無理に決まってる」
用済みになった今、顔を知られた自分は表に出てくることは叶わないだろう。
それらしい理由をつけて軍部を辞め、霞城家に縛り付けられる未来しか見えない。
それでも、一瞬だけ考えてしまった。
着物を着てちゃんと化粧をして、女として普通に生活する姿を。隣には蓮児がいて、楓と一緒に三人で……そんな、ありえない夢を。
*
未練が残らないように、人は最後のときになって大胆になる。
翌朝、腫れてしまった目を誤魔化しながら、いつも通りを装って朝餉の支度を手伝った。
軍部へ行くのと同じ朝。もう少ししたら楓が起きてくることだろう。鍋に味噌を溶かして味見をしながら、なんでもない風に口を開く。
「ああそうだ。今日は非番になったんだ」
「え、早く言えよ。もっとゆっくり寝れたのに」
「すまん。忘れてた」
さらりと嘘を言えたのが、自分でも不思議だった。不思議と鼓動は落ち着いていて、もしかしたら自分は詐欺師に向いているのではないかとさえ思う。
「今日は、三人で街歩きをしたい」
「珍しいな。なんか買うものでもあったか?」
「ほら、夏に喫茶に行く約束を反故にしてしまっただろう?折角だし今日行きたい」
もう三人で暮らせないから。なんて正直に話すこともできなくて、それらしい理由を言ってみる。きっと甘いものを食べれば、この痛みも誤魔化せるだろう。
「……嫌なことがあったら、甘いものを食べればいい」
「なんか言ったか?」
聞き返してきた蓮児になんでもないと首を振りながら、見えないようにぎゅっと唇を噛んだ。
嘘をついて軍部を休んだというのに、罪悪感は沸かなかった。もうどうにでもなれと、吹っ切れていたからかもしれないが。平日の昼から3人でいられることが余程嬉しいのか、楓は家を出てからというもののずっと喋り続けていた。それを窘めながら、色んな店を回っていく。
その帰り道だった。無意識に、ある店の前で足が止まる。
「ここって……」
驚いたように蓮児が言うのも無理はないだろう。訪れたのは小物問屋。普段なら足を運ばないところだ。
様々な装飾品が並ぶ中、たどり着いたのは簪が多く並んでいる場所。様々な簪がずらりと並んでいた。
そこまで蓮児を引っ張っていく。戸惑っているのが可笑しくて、気分がよかった。
「私のために、選んでくれないか」
「なんで」
「別に。もう、いいかなって思えただけだ」
その言葉を、蓮児がどう受け取ったのかは分からない。ただ、神妙な顔をして一つ頷いた後、一つ一つ手にとってじっくりと選んでいくのを、少し後ろから眺めていた。
「……これ」
蓮児が恥ずかしそうに選んできたのは、翡翠の珠がついた玉簪だった。揺れる赤の房が上品で美しい。深みのある緑色には、覚えがあった。
「ふふ、蓮児の色だ」
「やめてくれ、ほんとに」
耳を赤くしながらも蓮児は否定しなかった。それが嬉しくて、何度も珠を撫でる。翡翠はひんやりとしていて気持ちよかった。
「楓、見てくれ。蓮児が選んでくれた」
物珍しそうに店内を見て回っていた楓を捕まえて、自慢するように簪を見せる。覗き込んできた楓は、蓮児の意図を察したのかにやにやと蓮児を見上げていた。
それに蓮児は耐えられなくなったのか、ふいと視線を逸らすのがかわいかった。
「ありがとう。大事にする」
金を出すのは柊花だろ、とお礼に納得していない様子で口をとがらせながら蓮児が言う。
蓮児が選んでくれたというだけで嬉しいのに。変なところで蓮児は頭が固い。さっそく家に帰ったらつけてみようと、大事に布で包む。今の自分は男装をしているから仕方ないのだが、街中で挿せないのが残念だった。
*
「柊花、ちょっといいか」
「……どうしたんだ」
就寝前、自室へと行こうとするのを引き留めたのは蓮児だった。先に布団に入った楓を起こさないように声は抑えられていたが、その声は固い。
蓮児は真剣そうに見つめてくる。なにか、自分の表情から探ろうとするように。
「なぁ、ほんとに今日はどうしたんだ?」
「……別に。気分だっただけだ」
「嘘つけ」
何でもないような声音で言ってみたが、蓮児は納得してくれなかった。どんどん眉間に皺が寄っていき、顔が強張っている。
なんで、そんな顔をしているのだろう。最後だというのに、笑っていてほしいのに。 最後に見る蓮児の表情がこれなのは、嫌だった。
そっと、蓮児の頬に手を伸ばす。全くの無意識だった。
困惑しているだろうに、蓮児は少しだけ背を屈めてくれた。
「私を柊花として見てくれてありがとう。とっても嬉しかった」
役割に徹すればいいのに、柊夜としてではなく柊花として接してくれた。それがどれほど自分を狂わせたか、分かっていないまま。
他人となってしまう前の、最後の思い出づくりに。拒絶されたら、悲しい。それでも、止められなかった。
一瞬だけ唇を合わせる。
驚愕に目を見開いているのをじっと見ながら。ばくばくと心臓が煩かった。もしかしたら、蓮児に聞こえているのかもしれない。
「しゅう、」
「好きだよ、蓮児」
みるみるうちに顔を紅潮させていく蓮児が愛おしくて、頬が緩んでしまう。寒いはずなのに、なぜか顔に熱を感じる。きっと、自分の顔も赤くなっているに違いない。
「……簪、ありがとう。大事に使う」
「待てって、どういう……」
突然の告白に固まったままなのをいいことに、くるっと踵を返してそのまま逃げようとする。
そしたら、ぎゅっと強い力で蓮児に腕を掴まれた。少し痛かったけれど、それだけ狼狽してくれたのだと思うと嬉しかった。
「……おやすみ」
今にも逃げ出したいのを抑えて、腕を掴む蓮児の手をそっと離す。自分の肌から体温が遠のいていくのは少し名残惜しかった。
背を向けて、自室へと急ぐ。足早に歩いていく中、無意識に唇へと手が行ってしまう。
一瞬だったけれど、まだ感触が残っている。
乾燥で少しだけガサついていて、でも柔らかかった。初めての接吻は甘かった……と思う。
やっぱり幸せの味は甘いのだ。
「もう、いいんだ」
未練はなくなったことだし、最高の終わりだと、そう言い聞かせる。
なのに、水の中みたいに視界がどんどん歪んでいく。それを必死に拭いながら、声を押し殺した。
霞城柊花の未練がなくなってしまったら、自分は何になるのだろう。霞城柊夜すら、あと少しで消えてしまうというのに。
翌朝。まだ誰も起きていない時間。
けして起こさないように、静かに玄関の戸を開けた。
初めて、「行ってきます」と挨拶をしなかった。だって、もう帰ってこれないから。意味がないのだから。
そう言い訳しながら、何も言わずに家を出た。
きっと冬を越えて春になれば、また色彩に満ちた景色が広がることだろう。
家の木がカエデではなくモミジだったことを楓が残念がっていたので、来年は新しく木を植えるのもいいかもしれない。
「ほら、休憩するぞ」
「きゅうけい!」
お盆を持った蓮児が、縁側から声をかけてきた。休憩という言葉に、一目散に楓が縁側へと走る。それに苦笑しながら自分も後を追った。
「おい、自分だけ先に食べるな」
「いいじゃん。柊花来たし」
さっと茶請けのカステラに手を伸ばした楓の手をぱしっと叩き落して、蓮児が叱る。
大体楓のやんちゃを叱るのは蓮児の役目だった。叩かれた手を擦りながら文句を言うのもいつもの光景だ。
長閑であたたかい毎日。隣に誰かが居るだけでこんなにも穏やかに暮らせることを、久しく忘れていた気がする。……霞城柊夜になってから、この12年間ずっと。
「家族みたいだ」
ぽつりと思わず出た独り言に、さっきまで言い合っていた二人が顔を見合わせている。
「いや家族だろ……」
「いまさら?」
疲れているんじゃないか?と楓にまで心配されてしまった。本当に一欠片だったけれど、自分の分のカステラまでくれた。
それに苦笑して、ありがたく食べる。しっとりとした甘さは、やっぱり幸せの味がした。
*
12の春から霞城柊夜という仮面を被って、もう女として生きた時と同じ時間を生きてしまった。
これから先もずっとこの生活は続くと、信じて疑わなかった。……諦めといった方が近いかも知れないけれど。
机の上にあるのは、一通の手紙。封筒には、「霞城柊夜殿」と書かれている。久しぶりに見た、父の字だった。
父が手紙を出してくるのはいつも、なにかあった時だけだ。香蓮の正体についての件はすでに解決済みのはず。楓の件がバレたのか、それとも籠谷家となにか問題があったのだろうかと、嫌な憶測だけが次々に浮かぶ。
別に、蓮児に見られた所で問題ないと分かっているはずなのに、近くに気配がないかを確認してしまうのは、長年の癖だった。
夜も遅く各々の部屋で過ごしている今、家の中は静まりかえっていた。鼓動が早まるのを感じながら、封を切る。
「なん、で……」
今度親戚筋から養子として男児を迎え、後継ぎに据えると書かれていた。
自分の処遇は霞城家に帰ってきた際に話すと、一方的に。まだ文字は続いていたが、視界がぐにゃりと歪んでいきそれ以上読めなくなってしまった。
ぐしゃりと、手紙を握りつぶす。
「なんで……!」
最初から養子をとってくれば、こんなにも苦しい思いをしなくて良かったのに。刀を握ることも、傷を作ることも、声だって潰さずに済んだのに。
もう何もかもが遅すぎて乾いた笑いしか起きなかった。机に突っ伏したまま頭だけ動かして、鏡台の鍵のついた引きだしを見る。ほとんど使っていない紅が入っているそこを。
もう、後継ぎとして生きる必要がなくなったのならば、もう一度女として……柊花として生きることが出来るのだろうかと、ぼんやりと思う。
「そんなの、無理に決まってる」
用済みになった今、顔を知られた自分は表に出てくることは叶わないだろう。
それらしい理由をつけて軍部を辞め、霞城家に縛り付けられる未来しか見えない。
それでも、一瞬だけ考えてしまった。
着物を着てちゃんと化粧をして、女として普通に生活する姿を。隣には蓮児がいて、楓と一緒に三人で……そんな、ありえない夢を。
*
未練が残らないように、人は最後のときになって大胆になる。
翌朝、腫れてしまった目を誤魔化しながら、いつも通りを装って朝餉の支度を手伝った。
軍部へ行くのと同じ朝。もう少ししたら楓が起きてくることだろう。鍋に味噌を溶かして味見をしながら、なんでもない風に口を開く。
「ああそうだ。今日は非番になったんだ」
「え、早く言えよ。もっとゆっくり寝れたのに」
「すまん。忘れてた」
さらりと嘘を言えたのが、自分でも不思議だった。不思議と鼓動は落ち着いていて、もしかしたら自分は詐欺師に向いているのではないかとさえ思う。
「今日は、三人で街歩きをしたい」
「珍しいな。なんか買うものでもあったか?」
「ほら、夏に喫茶に行く約束を反故にしてしまっただろう?折角だし今日行きたい」
もう三人で暮らせないから。なんて正直に話すこともできなくて、それらしい理由を言ってみる。きっと甘いものを食べれば、この痛みも誤魔化せるだろう。
「……嫌なことがあったら、甘いものを食べればいい」
「なんか言ったか?」
聞き返してきた蓮児になんでもないと首を振りながら、見えないようにぎゅっと唇を噛んだ。
嘘をついて軍部を休んだというのに、罪悪感は沸かなかった。もうどうにでもなれと、吹っ切れていたからかもしれないが。平日の昼から3人でいられることが余程嬉しいのか、楓は家を出てからというもののずっと喋り続けていた。それを窘めながら、色んな店を回っていく。
その帰り道だった。無意識に、ある店の前で足が止まる。
「ここって……」
驚いたように蓮児が言うのも無理はないだろう。訪れたのは小物問屋。普段なら足を運ばないところだ。
様々な装飾品が並ぶ中、たどり着いたのは簪が多く並んでいる場所。様々な簪がずらりと並んでいた。
そこまで蓮児を引っ張っていく。戸惑っているのが可笑しくて、気分がよかった。
「私のために、選んでくれないか」
「なんで」
「別に。もう、いいかなって思えただけだ」
その言葉を、蓮児がどう受け取ったのかは分からない。ただ、神妙な顔をして一つ頷いた後、一つ一つ手にとってじっくりと選んでいくのを、少し後ろから眺めていた。
「……これ」
蓮児が恥ずかしそうに選んできたのは、翡翠の珠がついた玉簪だった。揺れる赤の房が上品で美しい。深みのある緑色には、覚えがあった。
「ふふ、蓮児の色だ」
「やめてくれ、ほんとに」
耳を赤くしながらも蓮児は否定しなかった。それが嬉しくて、何度も珠を撫でる。翡翠はひんやりとしていて気持ちよかった。
「楓、見てくれ。蓮児が選んでくれた」
物珍しそうに店内を見て回っていた楓を捕まえて、自慢するように簪を見せる。覗き込んできた楓は、蓮児の意図を察したのかにやにやと蓮児を見上げていた。
それに蓮児は耐えられなくなったのか、ふいと視線を逸らすのがかわいかった。
「ありがとう。大事にする」
金を出すのは柊花だろ、とお礼に納得していない様子で口をとがらせながら蓮児が言う。
蓮児が選んでくれたというだけで嬉しいのに。変なところで蓮児は頭が固い。さっそく家に帰ったらつけてみようと、大事に布で包む。今の自分は男装をしているから仕方ないのだが、街中で挿せないのが残念だった。
*
「柊花、ちょっといいか」
「……どうしたんだ」
就寝前、自室へと行こうとするのを引き留めたのは蓮児だった。先に布団に入った楓を起こさないように声は抑えられていたが、その声は固い。
蓮児は真剣そうに見つめてくる。なにか、自分の表情から探ろうとするように。
「なぁ、ほんとに今日はどうしたんだ?」
「……別に。気分だっただけだ」
「嘘つけ」
何でもないような声音で言ってみたが、蓮児は納得してくれなかった。どんどん眉間に皺が寄っていき、顔が強張っている。
なんで、そんな顔をしているのだろう。最後だというのに、笑っていてほしいのに。 最後に見る蓮児の表情がこれなのは、嫌だった。
そっと、蓮児の頬に手を伸ばす。全くの無意識だった。
困惑しているだろうに、蓮児は少しだけ背を屈めてくれた。
「私を柊花として見てくれてありがとう。とっても嬉しかった」
役割に徹すればいいのに、柊夜としてではなく柊花として接してくれた。それがどれほど自分を狂わせたか、分かっていないまま。
他人となってしまう前の、最後の思い出づくりに。拒絶されたら、悲しい。それでも、止められなかった。
一瞬だけ唇を合わせる。
驚愕に目を見開いているのをじっと見ながら。ばくばくと心臓が煩かった。もしかしたら、蓮児に聞こえているのかもしれない。
「しゅう、」
「好きだよ、蓮児」
みるみるうちに顔を紅潮させていく蓮児が愛おしくて、頬が緩んでしまう。寒いはずなのに、なぜか顔に熱を感じる。きっと、自分の顔も赤くなっているに違いない。
「……簪、ありがとう。大事に使う」
「待てって、どういう……」
突然の告白に固まったままなのをいいことに、くるっと踵を返してそのまま逃げようとする。
そしたら、ぎゅっと強い力で蓮児に腕を掴まれた。少し痛かったけれど、それだけ狼狽してくれたのだと思うと嬉しかった。
「……おやすみ」
今にも逃げ出したいのを抑えて、腕を掴む蓮児の手をそっと離す。自分の肌から体温が遠のいていくのは少し名残惜しかった。
背を向けて、自室へと急ぐ。足早に歩いていく中、無意識に唇へと手が行ってしまう。
一瞬だったけれど、まだ感触が残っている。
乾燥で少しだけガサついていて、でも柔らかかった。初めての接吻は甘かった……と思う。
やっぱり幸せの味は甘いのだ。
「もう、いいんだ」
未練はなくなったことだし、最高の終わりだと、そう言い聞かせる。
なのに、水の中みたいに視界がどんどん歪んでいく。それを必死に拭いながら、声を押し殺した。
霞城柊花の未練がなくなってしまったら、自分は何になるのだろう。霞城柊夜すら、あと少しで消えてしまうというのに。
翌朝。まだ誰も起きていない時間。
けして起こさないように、静かに玄関の戸を開けた。
初めて、「行ってきます」と挨拶をしなかった。だって、もう帰ってこれないから。意味がないのだから。
そう言い訳しながら、何も言わずに家を出た。
