偽る柊はよすがを探す

「ん……」

何やら美味しそうな匂いが鼻を掠めて、ぼんやりと目を覚ました。ふかふかの布団の感触と、視界に映る天井は見慣れないもので、一瞬脳が混乱する。
その後、ぼんやりと柊夜の家に連れてこられたのだと思い出した。たしか、朝餉を食べた後に風呂に入れられて……その後の記憶がない。
しばらく部屋をぼんやりと見回していたが、じっとしているのも落ち着かなくて、二人を探そうと部屋を出る。 廊下から見える空は少し朱を帯びていて、自分が夕方まで眠りこけていたことを示していた。
居間には誰もいなかったので、きょろきょろと辺りを見回しながら音のする方へと向かうと、台所に行き着く。
そっと中を窺うと、蓮児が手際よく料理をしているのが見えた。たすき上げられた着物は女物で、なのにそれが当たり前かのように蓮児は着ている。

「……おはよ」
「おはよう。って言ってももう夜だけどな」
「柊夜は?」
「軍部に呼び出されたって言って午後に出かけた」

よく眠れたか?と聞きながらも、蓮児は手を止めていない。トントンと小気味いい包丁の音に、また瞼が下がってくる。
でも使用人として雇われたからにはちゃんと仕事をしたかった。頬を叩いて眠気を飛ばす。

「……俺もやる」
「まだ眠いんだろ。居間で休んどけ」
「やだ」
「いいから」

蓮児はなおも見上げてくる自分を無視するように、鍋の様子を見たり皿を用意したりと忙しそうにしていた。勝手に動き回ってはかえって邪魔になるだろう。
どうすることもできず、台所の入り口で座り込む。
眠りこけていたのを怒っているのだろうか。それが少し怖くて、話しかけることもできなかった。

「……ほら、これ運んでいけ」

ぎゅっと膝を抱えて小さくなって時間が過ぎるのを待っていれば、ふいに蓮児に声をかけられた。いつの間にか料理が皿に盛り付けられていた。自分に仕事をくれたのが嬉しくて、ぱっと立ち上がる。
落とすなよ、と口を酸っぱくして言われながら二人で居間へと運んでいった。

「なんで俺の分も?」
「その反応、分かるぞ」
「だって俺、使用人で……」
「いいからいいから」

自分の分の箸まで用意されていたことにぎょっとしたら、箸を置いた当の本人に共感されてしまい、訳が分からなかった。
しかし、これがこの家の「普通」だと言われてしまったので、困惑しながらも席に着く。
すぐ目の前の料理たちに、少し居心地が悪かった。

「ん。今日は随分と豪勢な夕餉だな」
「お、帰ったか。おかえり」
「ただいま」

やがて柊夜も帰ってきて、ごく自然に自分の隣に座ってきた。疲れは取れたか?なんて聞いてきながら。一つの机を囲んで、一緒に食事をとる。それがこの家の当たり前らしかった。

「楓も手伝ったのか?」
「いや……俺は運んだだけ」
「偉いな。蓮児なんて、初めて来たときは……」

ちらりと蓮児の方を見ながら、柊夜が軽口を叩く。初めて来た時、というのは蓮児が嫁入り(男だけど)した時のことだろうか。

「おいおい聞き捨てならないな。俺が手伝おうとしても聞き入れてくれなかったくせに」
「そうだったか?」
「結局配膳まで全部柊花がやったんだろうが」

蓮児はむっとして口の中のものを急いで飲み込むと、行儀悪く箸を向けながら反論した。しらばっくれる柊夜は、自分を保護してくれた時よりも子どもっぽい。
二人の言い合いを聞き流しながら目の前の焼き魚と格闘する。上手く骨が取れなくていっそそのまま食べてしまおうかと思っていた時だ。
ふとある単語が引っかかった。

「……柊花?」

そこでぴたりと二人の会話が止まる。どう説明したものかと柊夜が少しばつの悪そうな顔をしていた。

「私の名前だよ。霞城柊花。……外では柊夜と名乗っているけど」

一人称と、ついでに口調まで変われば、急に「柊夜」が目の前から消えた気がした。声も、姿かたちも何も変わっていないというのに。でも、なぜか「柊花」と言う名前の方がしっくりきた。

「俺は、柊花って名前の方が好きだな」

思わず呟けば、柊花は箸を持ったままぽかんとしていて、ちょっと面白かった。

「あ、ちなみに俺は外では香蓮だからな。蓮児って呼ぶなよ」
「ええ……騙せないだろ、声とかまんま男だし」
「バレないんだな、これが」

そんな風に、三人でたくさん喋りながら食べた夕餉は美味しかった。これが毎日続くのかと思うと、少しだけ明日が来るのが楽しみになる。そんな風に思えるのは初めてだった。



楓が加わっても、自分たちの生活が大きく変わることはなかった。ただ、少しだけ家の中が賑やかになっただけ。

「楓はちゃんと手伝ってるか?」
「まあ……」

朝の、蓮児に髪を結ってもらう時間。
この時間が自分にとって一番のお気に入りだ。ぽつぽつと会話をしながら静かに時間が流れていく、儀式のようなひと時。自分の質問に答えようとした蓮児の言葉を遮ったのは、こちらに駆けてくる大きな足音だった。

「手伝ってる!」
「お前じゃねえよ……家事も覚えてきたし、助かってはいる」

手紙届いてた!と蓮児の部屋に勢いよく入ってきた楓は、そのままきちんと畳まれていた布団に飛び込んでしまった。背後から蓮児の深いため息がする。日中はこんな調子で二人で過ごしているのだろう。鏡越しに蓮児をちらりと見ると、遠い目をしていた。
自分宛ての手紙だったらしく、楓はこちらに近寄ってくきて手渡すとそのままぴたりと隣に座ってくる。途端に顔を険しくした蓮児は、自分といる時とはまた別の表情を見せていて新鮮だった。

「なあ、この漢字が『しゅう』?」

ずいっと自分の眼前に封筒を見せてきた楓は、柊の文字に指を置いてくる。楓は文字が読めない。だから時々、郵便物や新聞を持ってきてはこうして聞いてくるのだ。

「そうだな。ヒイラギとも読む」
「ふうん。じゃあ、柊花の髪と同じだ」

話の流れが読めなくて困惑していると、楓は得意げに話し始めた。曰く、冬の初めに小さな白い花をつけるのだそうだ。魔除けに使われている印象しかなかったため感心していると、楓は嬉しそうに声を弾ませた。

「じゃあさ、蓮児の漢字はどんなの?」
「ハスに、稚児の『児』だな」

指で空に書いて教えてやると、楓は蓮児の方に向き直って唸っている。漢字から共通点を探そうとしているのだろう。

「……葉っぱと目の色が同じ!」
「ハス関係ないだろ……」

溜息をつく蓮児に、楓はなおも似ていると力説している。それを聞き流しながら、蓮児はいつも通り結ってくれた。

「いつもすまないな」
「……」
「蓮児……?」
「や、なんでもない。ほら、遅れるぞ」

珍しくぼうっとしていたから、具合が悪いのかと聞いてみたがうまくはぐらかされてしまう。後ろ髪を引かれながらも、家を出た。



『随分と立派な名前だな』

そう言った時の兄の表情を、声音を、まだ覚えている。
『蓮児』という名前は、母から自分に遺された唯一のものだった。名は体を表すというが、俺には過ぎたものだと思う。名前を呼ばれるたびに、小さい頃から思っていた。
大方、清らかに育ってほしいとかそんな意味合いで付けたのだろうが、妾の子という立場では無理に決まってる。
結界の才はなく、父親からは使用人としか見られない。かといって血が繋がっているから継承権は持っている……中途半端な存在。それが自分だった。
父親から、女装して霞城家に嫁げと御守りと共に着物を渡された時は、これは好機だと思った。体のいい厄介払いだと分かっていたけれど、少なくともあの閉塞的な家からは出られると。自尊心なんてものは、香蓮と名乗った時からとっくに捨てたから、女装だって苦じゃなかった。
でも、時々考える。女に化けて嫁いだなんてあの世で聞いたら母はなにを思うだろう、と。

楓が寝た後、柊花と二人で晩酌をしていた。普段はあまり酒を飲まないが、月が綺麗だからと柊花に誘われて縁側に座る。満月になりかけの、ふっくらとした月だった。

「満月になったら団子でも作ろう」

楓も喜ぶだろうと、柊花は楽しそうに少し先の予定を立てている。それを見ながら、自分も酒を呷った。火照る体を夜風が冷ましていくのが心地よく、気分が浮ついていた。
だから、今から零れる言葉は全て酔っぱらいの戯言なのだ。

「俺は、柊花って名前が好きだ」
「……急にどうした」
「トゲトゲした葉を持つくせに、かわいい花を咲かせるから。まるきり柊花だろ」
「酔ってるだろ」

呆れたように柊花がお猪口を傾ける。柊花は酒に強いから、自分よりも沢山呑んでいるのにもかかわらず顔色が変わっていない。
風呂上がりの、下ろしたままの髪に手を伸ばす。それを一房手に取って指に巻き付けて遊んでいれば、柊花に咎められてしまった。

「蓮児って名前、好きじゃない」
「……どうして」

心底不思議そうに柊花が聞いてくる。それが可笑しくて仕方ない。酔っていると分かっていても、緩んだ口はもう閉じることが出来なかった。

「立派過ぎるだろ。俺には不釣り合いだ」
「不釣り合い?」

こんな、出来損ないにはもったいない立派な名前。名前負けも甚だしい。
もう、どんな声をしてるかも忘れてしまった母。顔すら朧気にしか思い出せないが、あの人の言ったことならはっきりと覚えている。「見返してやりなさい」「あの人に認められなさい」……それが口癖で、事あるごとに言うのだ。まるで呪詛のように。
それを聞くたびに、母にとって自分は父親から寵愛を得るための道具なのだと実感していた。

「庶子の時点で負けてるのにさ。馬鹿だろ」
「……」

柊花は、黙りこくったままだった。面白くもなんともない話を突然聞かされたら、反応にも困るだろう。変な空気にしてしまったのが申し訳なかった。せっかく楽しく呑んでいたのに。
ぐいっと酒を呷って、また酒を注ごうと徳利に手を伸ばそうとした時だった。

「どんな環境でも、逞しく生きられますように」
「……なんだよ、急に」

自分の思考を薙ぎ払うかのように、柊花が突然口を開く。それは故人を悪く言うことを責めるものでも、慰めでもなかった。
ただ、祈るようにひっそりと言った。

「蓮児らしい花だと思う。芯があって、けして自分を曲げない姿が特に」

そう言って、柊花は徳利を傾けて空のお猪口に酒を注いでくれた。なみなみと注がれた水面に、雫が小さな波紋を作る。

「きっと、御母堂はそう願って名前をつけたんだ」
「勝手な解釈だろ」

あの人が、そんなことを願うはずがない。ましてや柊花は会ったこともないのに。少しむきになって吐き捨てれば、柊花は少し寂しそうに眉を下げた。
ぎゅっと唇を噛んだ後、腹を括ったようにこちらを真っすぐに見つめてくる。

「……私が、その名前が好きだから」

それじゃあ駄目か?秘密を晒すように声量を落として呟いたその顔が、声が、脳に焼きついて離れない。
喉が焼けるように熱かった。それが酒によるものか判別できなくて、ただ苦しかった。