偽る柊はよすがを探す

平穏というのは、内側から腐っていくこともあれば、外側から強制的に壊されていくこともあるのだと、久しぶりに実感した。
ある日曜の昼下がり。その日は茹だるような暑さで、もう少し日が落ちてきたら帝都の喫茶でなにか冷たいものでも食べようかと二人で話し合っていた。
今のうちに夕餉に必要な食材を買ってくると意気込んで、日の照っている中買い物に出かけた蓮児を思い出す。
自分も付いていこうとしたが、日曜くらい休んでおけと断られたのが少し前。蝉の鳴き声を聞きながら、暇をしていた時だった。

とん、とん。

玄関の戸を叩く音が耳に届く。蓮児が帰ってくるのは早すぎるため、来客であるのは確かだ。こんな暑い日に誰だろうと、頭の中で知り合いの顔を浮かべてみるが、特に約束した覚えはなかった。
郵便か何かだろうと見越して、玄関の方に向かう。
戸の向こうに見える影の形から女性らしいが、家を訪ねてくるような人物はやはり思いつかない。

「何か用……」
「久しぶりねぇ柊花ちゃん。……あ、今は柊夜だったかしら?」
紗世(さよ)……」

日傘を差したままこちらを見上げてくるのは、従妹の紗世だった。
品の良い着物に意匠の凝らされた髪飾り。紅い唇が弧を描き、親しそうに笑みを浮かべている。

「偶々近くを通ったから。会いに来たの」

けして強引ではないのに、中に入れること以外を許さないような雰囲気。当たり前のように一歩足を前に出したのを見て、ひくりと喉が鳴った。


「大したものがなくてすまない」
「謝らなくていいのよ。勝手に押し掛けたのはこちらだもの」

水出し茶を出しながら、紗世の対面に座る。
思ってもないくせに、とは口にしない。昔から紗世はこうだった。気にしていないと言いながら、言外に思い通りにならないとこちらを責めてくる。昔から、一つ年下の紗世のことが自分は苦手だった。

「なんでまた急に俺の家に?」
「ちょっと前に軍服姿の柊花ちゃんを見かけて」
「ああ、調査で出向いていたから……」

当真と出向いていた時だろう。まさか紗世とすれ違っていたとは思わなかった。

「もうすっかり軍人さんも板に付いたのねぇ。パッと見ただけじゃ女だって分からないわ」
「……」

どう返答すればいいのか、分からなかった。軍部では何をしているのか。隔世はどんな世界なのか……紗世からの質問責めに、ただ答えていくしかなかった。
きっと、紗世はそんなことはどうでもいいのだろう。ただ、自分の反応を見たいだけなのだ。

「私なら耐えられないわぁ。お洒落も出来ないし、それに……顔に傷なんて、ねぇ」

紗世はそう言いながら身を乗り出して、机越しに手を伸ばしてきた。ふわりと香りが鼻腔をくすぐり、華やかな着物の袖が視界に映る。自分へと伸びてくるその指を避けることもできなくて、大人しく受け止める。
ざらりとした傷跡を何度も指が往復していくのをただ見ていた。膝の上で拳を握りながら耐える。
よく手入れされ、爪紅で彩られた爪が傷跡をひっかいた。痛い?とわざわざ聞いてきながら、楽しそうに。

「叔父様も酷いお方よね。男の真似なんかさせて。柊花ちゃんのことが大切じゃないのかしら」

その答えを、紗世は知っているくせに。自分の口から言わせたいのだ。白々しく眉を下げながら微笑んでくる沙世を少しだけ睨みつける。
無遠慮に傷を弄りながらこちらの反応を楽しみたいだけだと分かっている。下手に反応を示して、紗世に餌を与えてはならない。そう頭では分かっていても、どうやら顔に出ていたらしい。
弱点を見つけたというように、紫の瞳の奥が光ったような気がした。じわじわと、暑さが脳を茹でていく。視界がぶれていき、いやに紗世の紅が目についた。

「柊花ちゃん。私ね、一月前に結婚したのよ」
「……おめでとう。全然知らなかった」
「この簪もね、旦那様がくださったの。紗世に似合うからって。とってもお優しい方なのよ」

言われて、結い上げられた髪に目を向ければ、桔梗を象った銀の簪が挿されていた。房飾りが、沙世の動作に合わせてしゃらりと揺れる。艶やかな黒髪に、よく似合っていた。頬に手を当てながら、本当に幸せそうに紗世は言った。

「やっぱり女は殿方に愛されてこそじゃない?」
「そう、だな」

じゃあ、自分は幸せじゃないのだろうか。そう問えば、沙世はなんと答えるだろう。
適当に相槌を打ちながらも、心の底には澱が溜まっていくようだった。それが顔に出ていたのだろう。
はっと驚いたような顔をして、申し訳なさそうに紗世が口を開く。

「私ったら……柊花ちゃんの前で」
「いや、大丈夫だ。幸せそうでよかった」

こちらを見てくる視線も、しおらしい声も全てが纏わりつくようで気持ち悪い。耳鳴りがして、視界が歪む。

「そういえば。籠谷のお嬢さんを迎えたんですってね」
「ああ。香蓮と言って……俺には過ぎた妻だよ」

香蓮……蓮児。
早く帰ってこないだろうか。温くなった茶を啜りながら、戸を開ける音がしないかと耳を澄ませる。きっと口の上手い蓮児なら、上手いこと紗世を追い出せるだろうから。

「やっぱり女だってことは隠してるの?」
「……ああ」
「大変ねぇ。隠し続けるのって辛くなぁい?気も休まらないでしょう」
「そんなことは、」
「奥さんもよ。夫となる人から隠し事されてるなんて、お気の毒に」

仕方のないことだけれど。紗夜は歌うように言って、ちろりと唇を湿らせた。ばくばくと心臓の音が煩くて、沙世の声が遠い。
視界が暗くなっていくような錯覚に、思わず目を閉じた時だった。

「……ただいま戻りました」

鈴を転がすような声。ハッとして顔を上げると、居間の入口に蓮児が立っていた。
玄関にある女物の履物を見て状況を理解していたのか、蓮児の声は既に香蓮のものになっている。戸の音も聞こえていなかった。いつ帰ってきたのだろう。

「はじめまして。貴女が香蓮さん?」
「籠谷香蓮と申します」

紗世は綺麗な所作で礼をした蓮児を上から下まで見まわした後、にこりと品よく笑った。

「まあ綺麗なお方。柊夜君が自慢したくなるのも納得だわぁ」
「……ああ」
「ちゃんと香蓮さんを幸せにしてる?あ、でも柊夜君なら心配ないわね」

ペラペラとよく口の回る紗世の言葉を流しながら、蓮児の視線は自分へと向けられていた。

「すみません。柊夜様は体調が優れないようなのでこの辺で……」
「まぁ大丈夫?」

言ってくれれば良かったのに。そう言いながら席を立つ紗世を、ぼうっと見ていることしかできなかった。
帰り際。紗世は見送る自分を振り返ると、わざと声を低めながら笑った。

「ちゃんと、香蓮さんを幸せにしてね。柊夜君」

頬の傷を一撫でしてから、くすくすと笑う。
紗世はそのまま、挨拶もそこそこに家を出ていった。くるくると楽しそうに日傘を回して。

「……厭味ったらしい女。よく我慢できるな」
「従妹の……紗世だ。すまない、身内の恥ずかしい所を見せてしまって」
「別に気にしてなんか……柊花?」

紗世の姿が見えなくなってすぐに御守りを置いたらしい蓮児は、元の声音で呆れたように呟いた。

「……喫茶に行くんだろう。支度してくる」
「おい、大丈夫か?」

心配そうな蓮児を適当にあしらって、自室へと急ぐ。……自分が情けなかった。今更紗世にあれこれ言われて揺らぐなんて。
今日は暑いから、洋装も良いかもしれない。そんな事を考えながら着流しの帯に手をかける。
そこでちらりと、鏡を見てしまう。それが失敗だった。
やけに傷が目に入って、ふらふらと鏡台に寄る。触れてみた傷跡は、少し赤みが差している気がした。

『夫となる人から隠し事されてるなんて、お気の毒に』

紗世の言葉が蘇る。
もし「香蓮」が本当に女で、後ろめたい事情を持っていない普通の娘だとしたら。
女であることを隠し通せたとして、今のように穏やかに生活することは可能だっただろうか。相手は幸せなのだろうか。
そもそも今、蓮児はこの生活をどう思っているのか……そんな不毛な事を考えてしまう。
喉が熱いのが、部屋に籠もった空気のせいなのかどうかも分からない。

「柊花」

部屋の外で、蓮児が名前を呼んだ。きっと、いつまで経っても出てこない自分に焦れたのだろう。

「……今出るから」

ちゃんと大丈夫になるから、今は見ないでほしい。そういう意味で言ったのだが。意図を読めなかったのかそれともわざとか、スッと開けられていく襖に慌てて手を動かす。
いつもならさっさと支度できるのに、今日はもたついて駄目だった。
そんな無様な姿を見て、蓮児は何を思っただろう。

「今日はもう家でのんびりしよう。喫茶はまた今度だ」
「大丈夫だ。少し暑さにやられただけだから」
「じゃあ尚更」

ちょっと待ってろ、と言ってまたどこかへ行ってしまった。自己嫌悪に目の前が暗くなる。ただでさえ蓮児には弱い所を見せたくなかったのに。
床に落ちた着流しを拾っていると、またガラリと襖が開いた。固まる自分を余所に、蓮児はそのまま文机の方へと向かった。散らかったままの書類やらを大雑把に隅へ退かし、カチャリと食器を置く。

「……なんで」
「なにって、錦玉羹(きんぎょくかん)だよ。美味しそうだろ」

手招きに吸い寄せられるように、のそのそと蓮児のもとへ行く。
皿には、透き通った和菓子が乗っていた。淡い青色の寒天の中には金魚が泳いでいるように配置してあり、底の方には小豆が沈められている。見ているだけで涼めるような、美しい菓子だった。

「本当は夕餉の後に食べようと思ったんだけど」

まぁ俺も疲れたしな、と言いながら隣に座る。
そのまま蓮児は片方の錦玉羹に楊枝を刺した。そのまま金魚が蓮児の口に消えていくのを、ぼうっと見る。

「やなことがあったらさ、甘いもん食えばいいんだよ。そうすれば忘れられるから」
「……経験談?」
「いいや、使用人仲間の口癖。家ではあんまり甘いものは食えなかったからな」

自分も一口食べてみる。ひんやりとしたそれは桃の果汁が入っていて、とても甘かった。さっぱりとしていてつるりと喉を通っていく。
蓮児は何があったのか聞いてくることはしなかった。もしかしたら沙世との会話を聞いていたのかもしれないが……ただ黙々と、手を動かしている。
蝉の鳴き声が響く家の中で、蓮児と一緒にいる空間だけが妙に静かだと思った。
口の中の甘味がじわりと体に沁みていくような気がして、小さく息をつく。代わりに涙が滲んできてしまい、訳が分からなくなった。

「ん。美味しいなこれ。また買ってこよ」

蓮児は何も言わない。当たり前のように自分の隣で、ただ独り言を呟いているだけだ。
それだけで、救われている自分がいる。

「……甘いな」
「な、でもさっぱりしてて丁度いいよな」

幸せという感情に味があるとするならば、きっとこんな味がするのだろう。そうであってほしい。

「……蓮児」
「ん?」
「ありがとう」

礼を伝えたくて隣を向けば、蓮児は形容しがたい表情をしていた。むすっとしてるような、でも微笑んでいるような。
そっと、蓮児の指が自分に向かってくる。少し身構えるもその指はそのまま目元へ行き、零れかけた涙を拭ってくれた。

「柊花は大丈夫なフリをするのが下手だな」
「な、」
「こういう時くらい頼ってくれてもいいだろ。一応夫婦なんだし」

世間一般のものとは違うけどさ。そう言いながら、蓮児はいじけるように言った。
涙を受け止めていた指はそのまま頬へと下りていき、そのまま頬をつまむ。力は込められていないから、全く痛くなかった。

「……うん」

自分の小さな返事に、蓮児が笑った。それにつられて口元を緩める。
これが自分たちの幸せの形で良いのか、まだ分からない。でも今はこれでいい気がした。