もう何時間経ったか分からない。もしかしたら、数十分しか経っていないのかも知れないが。いつもなら、夕餉のあとは香蓮と茶を飲んだり、ゆっくりしていたはずなのに。
……いや、もう香蓮は居ないのだったか。
今夜は異様に夜が長いと感じた。
誰かが歩いている音がする。わざと足音を立てて、こちらに向かってきている。
それが誰のものなのか分かっていて、息を詰めた。ちょうど、兄と隠れんぼをした時みたいに。
そして案の定、その足音は自室の前でぴたりと止まった。なるべく襖から距離を取ろうと移動する。必然と、鏡台を背に座ることになった。じっと襖を見るも、いつまで経っても開く気配はない。
……あの夜、「香蓮」は入ってきたが、男は襖を開けることはしなかった。
「……明日の朝、籠谷家に帰るつもりだ」
「……」
「それだけ伝えに来た」
独り言のように淡々と、あるいは報告するように。男は襖越しに声をかけた。
「籠谷家から出られますもの」と、初めて顔を合わせた時にたしかそう言っていた。なのに、自分からその家に帰るのか。引き止めたいわけでもないのに、なぜかその言葉を思い出す。
「よろしくお願いします」なんていけしゃあしゃあと宣っていた口から零れたそれは、きっと本心だった……はずだ。もう今となっては分からないけれど。
「ああ、安心してほしい。アンタのことを言うつもりはない。いや、むしろ霞城家側から告発してくれた方が……」
男は、自分の無言を秘密を漏らすのではないかと警戒しているように受け取ったらしい。騙していたくせに、なぜ自分を気遣うのか理解できない。
「お前は、家に帰って……どうなる」
「え?」
無視すればいいのに。このまま朝まで隠れていればいいのに。
思わず、聞いてしまった。襖の向こうから呆けたような声がする。そんなこと聞かれると思っていなかったという風に。
先ほどよりも、幼そうな声だった。
「……まあ扱いは変わらないだろ。また使用人生活に戻るだけだ」
げんなりとしたような声音で男は大きくため息をついた。わざと茶化すように。
あんなにこの家に留まろうとしていたくせに。あれも全て演技だったのだろうか。こちらを気遣うような言動の裏で、きっと笑っていたのだ。
香蓮との日々を思い出して、また涙が出てくる。ぎゅっと膝を抱えながら、そこに顔をうずめた。なるべく小さくなるように。
「懐いてくる私を見るのは、滑稽だっただろう」
「思っていない」
「……うそつき」
否定がすぐに飛んできた。別に、正直に言ったところでもうどうでもいいのに。これ以上、嘘を重ねられるのは勘弁だった。何が本当なのか考え続けることも。
「嘘じゃない……信じてないだろうけど」
自嘲するように言って、男はそのまま襖の前に座り込んだ。擦れるような音から、どうやら襖に背をつけているらしい。大きくため息をついたのが聞こえた。
「俺は庶子でさ。実家では無視されることも罵倒されることも日常茶飯事だった。だから、嫁入りしろって命令された時も、まあ何とかなるだろうって」
だって、あの霞城家だもんな。
男の期待していなかったような声音に思わず眉を寄せる。自分の反応を待たずに男は語り続けた。
「やることは何も変わらなかったから、楽だった。実家よりもマシだったかもしれない」
「……ならなんで、バラしたんだ。お前が口にしなければ、私は一生気づかなかったのに」
先ほど見た御守りのようなもの。
恐らく籠谷家の術が込められたものだろう。香蓮をじっと観察しようとして、輪郭がぼやけるように見えたのはそのせいだ。見た目も声も、こうして日々を共に生活していても気づけなかったくらいだ。何食わぬ顔で、この家に居座り続ければよかったのに。
なぜ、自分からその生活を手放そうとするのか、理解できなかった。
「最初はアンタの弱みを握ろうとしてたよ」
「じゃあなんで……!」
「だって、アンタが優しいから」
「は……?」
意味が分からない。自分の困惑をよそに、男はこちらを責めるように畳みかけてくる。
「朝餉作るの手伝ってきたかと思えば、妻としての役目も果たせない女を咎めもしない」
「それは、夫として……」
「嘘をついていたって分かっても、家に置いておこうとしただろ」
「それは、」
「同情か?本当に?」
そう問われても、もう分からない。最初は警戒していたはずだ。籠谷家から提案された婚姻。
なにか裏があるに違いないと思っていた。初夜……妻としての役目を果たせないなら、それを理由に送り返せば良かった。
思い返せば、何度も追い出す理由はあったはずだ。なのに、自分はそうしなかった。
反論しようとするも、言葉が出なかった。
「鬱陶しかっただろ、香蓮は。べたべたと世話焼こうとして、着物勧めてきて」
「……私を気遣ってだろう」
「ほら、そうやって解釈してくれる」
違う、思い込みなんかじゃない。そう言い返したかった。だってあの夜、そっと手を置いてくれたから。
……霞城柊花に寄り添ってくれたから。このまま籠谷家に報告することもできたのに、そうしなかったから。
理由なんて山ほど出てくる。でも、それが言い訳なのか判別できない。
「礼を言われた時、嬉しかった。この櫛も……でも」
そこで初めて、淀みなく話していた男の口が止まった。ことり、と櫛を置く音がする。
「おかしいよな、別にあの家から離れられるなら女装も、男に嫁ぐのもどうでもよかったのに」
「……」
「アンタが見ているのは香蓮であって、俺じゃないって気づいたら……」
擦れた声は、聞き取りにくかった。今、どんな表情をしているのだろう。
知ったところでその後どうするのか、自分でも分からない。なのに自然と、自分の足は襖へと向かっていく。
「まあいいや。今のは全部信じてくれなくていい。ただ、」
襖に手をかけて、止める。
少し言いよどんだ後、男は言葉を続けた。
「……香蓮が言ったことは、信じてくれ」
その声が、懇願に近くて。
問いただしたいと強く思った。本当にあの日々が嘘じゃなかったのか、本心だったのか。
正体を隠していたのは、もうどうでもいい。さっき言っていたように、それは自分も同じだから。
衝動が自分の体を突き動かす。頭の隅で冷静な自分がやめろと叫んでいたが、止めるには至らない。
気づけば、襖を開けていた。
びっくりしたようにこちらを見上げる男は、やっぱり香蓮と同じ目をしている。
それが腹立たしくも、ほっとする。
「名前……なんて言うんだ」
自分が柊花を晒したように、相手にも晒してほしい……そう思った。
だって、自分たちは共犯者だから。今更隠す必要なんてないのだから。そう言ったのは香蓮だ。
「……蓮児」
呆然としたような表情のまま紅い唇から漏れた音は、美しい響きをしていた。
きっと、これが初めて蓮児に会った瞬間なのだろう。でも、今までの全てが彼だというのならば。
自分が言うことは一つだった。
「ありがとう、蓮児。……私を支えてくれて」
くしゃりと歪んだ蓮児の顔を見て、少し胸がすいた。
蓮児の隣に置かれた櫛を見る。蓮の意匠が入った、香蓮にと思って贈ったものだ。
それを拾いあげる。もう必要ないと思ったから。
なのに、櫛を持つ手を蓮児がぐっと力強く掴んできた。
「……返してくれ。それは、俺が貰ったんだ」
玩具を取り上げられた子どものように、説得力も何もない言葉。ただ、その目が必死で、櫛を掴む手を緩めてしまう。
「……また私の髪を梳いてくれ」
「……うん」
その手に、櫛を渡す。男らしい大きな手。所々ささくれ立っていて、ガサガサしていた。
なのに温度だけはあの時と同じく温かかった。……私を救ってくれた、手。
それをぎゅっと握りこみながら、しばらくその温度を感じていた。
……いや、もう香蓮は居ないのだったか。
今夜は異様に夜が長いと感じた。
誰かが歩いている音がする。わざと足音を立てて、こちらに向かってきている。
それが誰のものなのか分かっていて、息を詰めた。ちょうど、兄と隠れんぼをした時みたいに。
そして案の定、その足音は自室の前でぴたりと止まった。なるべく襖から距離を取ろうと移動する。必然と、鏡台を背に座ることになった。じっと襖を見るも、いつまで経っても開く気配はない。
……あの夜、「香蓮」は入ってきたが、男は襖を開けることはしなかった。
「……明日の朝、籠谷家に帰るつもりだ」
「……」
「それだけ伝えに来た」
独り言のように淡々と、あるいは報告するように。男は襖越しに声をかけた。
「籠谷家から出られますもの」と、初めて顔を合わせた時にたしかそう言っていた。なのに、自分からその家に帰るのか。引き止めたいわけでもないのに、なぜかその言葉を思い出す。
「よろしくお願いします」なんていけしゃあしゃあと宣っていた口から零れたそれは、きっと本心だった……はずだ。もう今となっては分からないけれど。
「ああ、安心してほしい。アンタのことを言うつもりはない。いや、むしろ霞城家側から告発してくれた方が……」
男は、自分の無言を秘密を漏らすのではないかと警戒しているように受け取ったらしい。騙していたくせに、なぜ自分を気遣うのか理解できない。
「お前は、家に帰って……どうなる」
「え?」
無視すればいいのに。このまま朝まで隠れていればいいのに。
思わず、聞いてしまった。襖の向こうから呆けたような声がする。そんなこと聞かれると思っていなかったという風に。
先ほどよりも、幼そうな声だった。
「……まあ扱いは変わらないだろ。また使用人生活に戻るだけだ」
げんなりとしたような声音で男は大きくため息をついた。わざと茶化すように。
あんなにこの家に留まろうとしていたくせに。あれも全て演技だったのだろうか。こちらを気遣うような言動の裏で、きっと笑っていたのだ。
香蓮との日々を思い出して、また涙が出てくる。ぎゅっと膝を抱えながら、そこに顔をうずめた。なるべく小さくなるように。
「懐いてくる私を見るのは、滑稽だっただろう」
「思っていない」
「……うそつき」
否定がすぐに飛んできた。別に、正直に言ったところでもうどうでもいいのに。これ以上、嘘を重ねられるのは勘弁だった。何が本当なのか考え続けることも。
「嘘じゃない……信じてないだろうけど」
自嘲するように言って、男はそのまま襖の前に座り込んだ。擦れるような音から、どうやら襖に背をつけているらしい。大きくため息をついたのが聞こえた。
「俺は庶子でさ。実家では無視されることも罵倒されることも日常茶飯事だった。だから、嫁入りしろって命令された時も、まあ何とかなるだろうって」
だって、あの霞城家だもんな。
男の期待していなかったような声音に思わず眉を寄せる。自分の反応を待たずに男は語り続けた。
「やることは何も変わらなかったから、楽だった。実家よりもマシだったかもしれない」
「……ならなんで、バラしたんだ。お前が口にしなければ、私は一生気づかなかったのに」
先ほど見た御守りのようなもの。
恐らく籠谷家の術が込められたものだろう。香蓮をじっと観察しようとして、輪郭がぼやけるように見えたのはそのせいだ。見た目も声も、こうして日々を共に生活していても気づけなかったくらいだ。何食わぬ顔で、この家に居座り続ければよかったのに。
なぜ、自分からその生活を手放そうとするのか、理解できなかった。
「最初はアンタの弱みを握ろうとしてたよ」
「じゃあなんで……!」
「だって、アンタが優しいから」
「は……?」
意味が分からない。自分の困惑をよそに、男はこちらを責めるように畳みかけてくる。
「朝餉作るの手伝ってきたかと思えば、妻としての役目も果たせない女を咎めもしない」
「それは、夫として……」
「嘘をついていたって分かっても、家に置いておこうとしただろ」
「それは、」
「同情か?本当に?」
そう問われても、もう分からない。最初は警戒していたはずだ。籠谷家から提案された婚姻。
なにか裏があるに違いないと思っていた。初夜……妻としての役目を果たせないなら、それを理由に送り返せば良かった。
思い返せば、何度も追い出す理由はあったはずだ。なのに、自分はそうしなかった。
反論しようとするも、言葉が出なかった。
「鬱陶しかっただろ、香蓮は。べたべたと世話焼こうとして、着物勧めてきて」
「……私を気遣ってだろう」
「ほら、そうやって解釈してくれる」
違う、思い込みなんかじゃない。そう言い返したかった。だってあの夜、そっと手を置いてくれたから。
……霞城柊花に寄り添ってくれたから。このまま籠谷家に報告することもできたのに、そうしなかったから。
理由なんて山ほど出てくる。でも、それが言い訳なのか判別できない。
「礼を言われた時、嬉しかった。この櫛も……でも」
そこで初めて、淀みなく話していた男の口が止まった。ことり、と櫛を置く音がする。
「おかしいよな、別にあの家から離れられるなら女装も、男に嫁ぐのもどうでもよかったのに」
「……」
「アンタが見ているのは香蓮であって、俺じゃないって気づいたら……」
擦れた声は、聞き取りにくかった。今、どんな表情をしているのだろう。
知ったところでその後どうするのか、自分でも分からない。なのに自然と、自分の足は襖へと向かっていく。
「まあいいや。今のは全部信じてくれなくていい。ただ、」
襖に手をかけて、止める。
少し言いよどんだ後、男は言葉を続けた。
「……香蓮が言ったことは、信じてくれ」
その声が、懇願に近くて。
問いただしたいと強く思った。本当にあの日々が嘘じゃなかったのか、本心だったのか。
正体を隠していたのは、もうどうでもいい。さっき言っていたように、それは自分も同じだから。
衝動が自分の体を突き動かす。頭の隅で冷静な自分がやめろと叫んでいたが、止めるには至らない。
気づけば、襖を開けていた。
びっくりしたようにこちらを見上げる男は、やっぱり香蓮と同じ目をしている。
それが腹立たしくも、ほっとする。
「名前……なんて言うんだ」
自分が柊花を晒したように、相手にも晒してほしい……そう思った。
だって、自分たちは共犯者だから。今更隠す必要なんてないのだから。そう言ったのは香蓮だ。
「……蓮児」
呆然としたような表情のまま紅い唇から漏れた音は、美しい響きをしていた。
きっと、これが初めて蓮児に会った瞬間なのだろう。でも、今までの全てが彼だというのならば。
自分が言うことは一つだった。
「ありがとう、蓮児。……私を支えてくれて」
くしゃりと歪んだ蓮児の顔を見て、少し胸がすいた。
蓮児の隣に置かれた櫛を見る。蓮の意匠が入った、香蓮にと思って贈ったものだ。
それを拾いあげる。もう必要ないと思ったから。
なのに、櫛を持つ手を蓮児がぐっと力強く掴んできた。
「……返してくれ。それは、俺が貰ったんだ」
玩具を取り上げられた子どものように、説得力も何もない言葉。ただ、その目が必死で、櫛を掴む手を緩めてしまう。
「……また私の髪を梳いてくれ」
「……うん」
その手に、櫛を渡す。男らしい大きな手。所々ささくれ立っていて、ガサガサしていた。
なのに温度だけはあの時と同じく温かかった。……私を救ってくれた、手。
それをぎゅっと握りこみながら、しばらくその温度を感じていた。
