『香蓮』
最近、よく名前を呼ばれる。自分を表す呼び名だ。 呼ばれるたびに自分は返事をする。
最初はぎこちなかった柊花の声も、最近は柔らかくて親しさを感じさせた。失礼な例えだが、なかなか懐かなかった猫がやっと寄ってきたような感動を覚えてしまう。
同性だからと気が緩んでいるのか、自分を信用してくれているからかは分からない。それでも、真っ直ぐに「香蓮」を見てくれることに、少し胸が痛かった。
「香蓮……?手が止まってるが、どうかしたか」
「なんでもないです。ついでに結い上げても……」
「だめだ」
鏡越しに、柊花が視線を向けてくる。急に手を止めた自分のことを気遣ったようだった。
柊花が許したことは二つ。名前を口にすることと、こうして髪に触れさせることだった。櫛を通すのを再開させながら、怪訝そうにしている柊花を軽くあしらう。
柊花は、よく人を見ている。 初めて会った時もそうだった。
仲良くする気はないと言って分かりやすく顔を顰めていたのに、ごく当たり前のように料理をふるまい、体調を気遣ってきた。
長年対立していた籠谷の娘(これは嘘だったが)など目障りだったろうに。真実を伝えた後も、扱いが変わることはなかった。
霞城柊夜として冷たくあろうとしているが、その本質はきっと霞城柊花であった頃から変わっていない。自分は彼女のことについて何も知らないが、それだけは確信があった。……恐らく、相手が誰であろうと同じことをしただろうことも。
「……できましたよ」
「ん。ありがとう」
よく梳いた髪を一つに束ねる。銀の髪に朱色の髪紐がよく映えていた。
柊花が小さく微笑みながら自身の髪をひと撫でする。
未練を持ちながらも依然として霞城柊夜を演じ続ける姿を見るのは、本当は嫌だった。だけど、それを本人がが望むのなら自分がなにかを言う資格などない。櫛を片付けながら、小さくため息をついた。
いつも通り、軍部へと向かう柊夜を見送った後。
スタスタと柊花の自室に向かった。表立って口にはしないが、未だ柊花は自室へと足を踏み入れることを許可していない。ちらりと、鏡台の引き出しを見る。紅の入ったそこは、固く閉ざされたままだ。
あの夜以降、柊花が紅を差している姿を見ることは叶わなかったが、こっそりと自分に隠れてつけていたらいいなと思う。
泣き崩れるくらいなら、最初から割り切ってしまえばいいのに。自分にはどうしても理解できない。
改めて部屋を見渡せば、以前は整然としていた文机の周りには、様々な紙が散らばっていた。幽鬼の発生が増えた今、その調査に追われているようで、最近は帰宅してからも机に向かうことが多くなった。書き損じ、走り書いた文字たち、切り抜かれた後の新聞……それらを一瞥しながら、文机の引き出しをそっと開ける。
書類の奥。埋もれるようにして白い封筒がしまいこまれていた。いつぞやの時に自分が渡したもの……霞城家からの手紙だ。
ちょうど、柊花が自分の正体を疑い始めたときの。
ふう、と一つ息を吐いてから封筒を手に取る。角ばった神経質そうな字。そこに書かれていたのはたった一言。
『籠谷香蓮という女は存在しない』
結婚が決まってすぐ、籠谷家に探りを入れていたのだろう。随分と早い段階でバレていたようだ。
「……仮にも結界を担う籠谷家が、ざまあないな」
結婚を決めたときの、当主の顔を思い出す。相手を陥れるためだけに、ここまで手の込んだことをする神経なんて、自分には理解できなかった。
また丁寧に手紙を畳んで、引き出しに戻す。もし部屋に立ち入ったのが、手紙を勝手に読んだのがバレてしまったとして、今の「香蓮」に心を開きかけている柊花なら、許してくれるだろうか。
そんな馬鹿げたことを考えながら、そっと部屋を後にした。
*
夜。軍の仕事が長引いたのか少し遅めに帰ってきた柊花は、夕餉もそこそこに小さな包みを手渡してきた。
「これ、香蓮に」
「……これって」
中から出てきたのは、蓮の花が彫られている美しい櫛だった。椿油に漬けられているのか深みのある飴色で、指の腹で撫でればどこまでも滑らかだった。質のいい櫛だと素人目にも分かる品だ。
黙りこくったまま櫛を見続ける自分に、居心地が悪いのか柊花はふいっと顔を逸らしている。
「歯が欠けていたし、当真……同僚が、なにか贈れってうるさいから」
「……ありがとうございます」
言い訳のように口ごもる柊花の耳は、少し赤い。「香蓮」のために、随分と悩んだのだろう。礼を口にすれば、柊花はほっとしたように相好を崩した。
「日頃の礼をしたかったんだ。香蓮は私を支えてくれているから」
霞城柊夜ではなく、柊花としての言葉だとすぐに分かった。
「香蓮はいつも、『いってらっしゃい』って言ってくれるだろう?」
「……」
「あの言葉のおかげで、私は今日も帰ってこれた」
……香蓮にそのつもりはないのかもしれないけれど。はにかみながら言った柊花は、随分と素直だった。鏡で、その顔を見せてやりたいくらいに。どれだけ、穏やかな表情を自分に向けているのかを、きっと分かっていないだろう。
「だからその……ありがとう」
ああ、その言葉は自分に向けられていないのだと、心が冷えていく。
柊花のその謝意は「香蓮」に向けて投げられたもので、自分ではない。今こうして素を見せているのも信頼も、なにもかも。
だから、自分は受け取れない。受け取ってはいけないのだ。 ……それが空しかった。
自室へ逃げ込もうとするその背を見る。女にしては背が高く、男にしては低めのその背を。さらりと揺れる長髪を見ながら、明日はこの櫛で梳いてやろうと思った。
そこでふと、もう一人の自分が囁いた。「香蓮」としてこれからも柊花の前に立つのか、と。
「……籠谷香蓮なんて女は、存在しない」
気づけば、そんなことを口走っていた。
*
思わず、自室へと向かおうとした足を止める。
後ろから投げかけられた言葉は、一言一句違わずあの手紙の言葉だった。
勝手に部屋に入って読んだのだろうか……いや、そもそもその問題は、もう解決したはずだ。香蓮は籠谷家に雇われている使用人で、諜報目的で嫁いできた……
「だから、貴女の言葉を受け取れない」
意味が分からなかった。顔を見れば分かるかもしれないと思って振り返るも、その顔からは何も読み取れなかった。ただじっと自分を見つめ返している。
「貴女が女だって知った時は流石に驚いた。似たような人がずっと身近に居たんだなって」
「なに、言って……」
香蓮の……香蓮であった人物の化けの皮が剥がれていく。丁寧な口調は崩れており、いつもの柔らかな笑みには影があった。 困惑している自分を他所に、香蓮はスタスタと近づくと、その手に櫛を握らせた。
堅い、感触。
「これは受け取れない。アンタが礼を言いたいのは『香蓮』だろ」
「お前は……誰なんだ」
一緒に食事を摂ったのは?自分を見送ってくれたのは?目の前の香蓮のはずなのに、本人がそれを否定する。無意識に握りこんでいたらしい。ぎちりと、櫛の歯が皮膚に食い込んで少し痛かった。
「前までは平気だったんだけどな……弱くなったみたいだ」
見た目も声もそのままなのに、香蓮ではない。それを理解してしまうのが恐ろしい。食い入るように見つめていれば、やはり香蓮の姿はぼやけてしまった。たしか前も、こんなことがあった気がする。
訝しそうにしている自分に気づいたのか、合点いったように香蓮は懐から何かを取り出した。
小さな、御守りのようなもの。それを地面に落とした途端、今まで見ていたはずの香蓮が目の前から消えた。
霧が晴れていくみたいに。
「柊花様」
「呼ぶな!!」
目の前にいるのは、男だった。自分よりも背が高くて、声だって低くて……華奢ではあるものの端々に堅さがあった。 なのに、自分を見つめるその緑の瞳だけが「香蓮」と同じ。それが、自分の名前を呼んでくる。
言いようのない嫌悪感に、思わず耳を塞いだ。
「まあ嘘をついたのは謝るけどさ、それはアンタも同じだろ」
「黙れ!」
違うと言いたかった。お前と一緒にするな、と。でもそれ以上に認めたくなかったのは、こんな奴に勝手に救われて、素を見せていた自分だった。
今までの平穏が、音を立てて瓦解していくような感覚。初めて会った時からの日々が、走馬灯のように脳内をめぐる。
あれも全部、嘘だったのだ。なのに、それを平穏だと名付けて、心地いいと感じていた自分に反吐が出る。
どんなに滑稽だっただろう。きっと、この男からしたら道化だったに違いない。
そう思ってしまったら、もう駄目だった。
「……さっさと追い出せばよかった」
あの日、父から報告を受けてすぐに事情も聞かずに追い出していれば、正体がバレるなんて失態も犯さなかった。そもそも諜報目的で嫁入りしてきたことを香蓮の口から聞いた時点で、危険因子だと分かりきっていたはず。
それでも香蓮を置き続けたのは、自分の弱さに他ならない。
「しゅう……」
「……その名前を許したのは、お前なんかじゃない」
「っ、」
冷静になろうと努めてもだめだった。感情の濁流が、全てを押し流していく。
信じるんじゃなかった。期待するんじゃなかった!それだけが脳内を占めていて、自分の表情も、男がどんな表情をしているのかも、どうでもいい。ただ、逃げたかった。
手に持っていた櫛を投げつければ、少しだけ男はたじろいだ。その隙に、自室へと駆け込む。……そこだけは安全だと思っていたから。誰も入ってこられない場所だと。
ぴしゃりと襖を閉めて、そのままずるずると座り込む。上手く息が出来なくて、肩が震えた。
「信じてたのに……」
ぼんやりとする頭でふと、思い出す。
ああ、この部屋に香蓮を入れてしまった、と。 背中に置かれた温度を思い出す。温かくて、優しかった手。あれも、きっと自分を油断させるための嘘だったのだ。
「香蓮……」
呼んでも、返事は返って来ない。当たり前だ。そんな人物、この世に居なかったのだから。
最近、よく名前を呼ばれる。自分を表す呼び名だ。 呼ばれるたびに自分は返事をする。
最初はぎこちなかった柊花の声も、最近は柔らかくて親しさを感じさせた。失礼な例えだが、なかなか懐かなかった猫がやっと寄ってきたような感動を覚えてしまう。
同性だからと気が緩んでいるのか、自分を信用してくれているからかは分からない。それでも、真っ直ぐに「香蓮」を見てくれることに、少し胸が痛かった。
「香蓮……?手が止まってるが、どうかしたか」
「なんでもないです。ついでに結い上げても……」
「だめだ」
鏡越しに、柊花が視線を向けてくる。急に手を止めた自分のことを気遣ったようだった。
柊花が許したことは二つ。名前を口にすることと、こうして髪に触れさせることだった。櫛を通すのを再開させながら、怪訝そうにしている柊花を軽くあしらう。
柊花は、よく人を見ている。 初めて会った時もそうだった。
仲良くする気はないと言って分かりやすく顔を顰めていたのに、ごく当たり前のように料理をふるまい、体調を気遣ってきた。
長年対立していた籠谷の娘(これは嘘だったが)など目障りだったろうに。真実を伝えた後も、扱いが変わることはなかった。
霞城柊夜として冷たくあろうとしているが、その本質はきっと霞城柊花であった頃から変わっていない。自分は彼女のことについて何も知らないが、それだけは確信があった。……恐らく、相手が誰であろうと同じことをしただろうことも。
「……できましたよ」
「ん。ありがとう」
よく梳いた髪を一つに束ねる。銀の髪に朱色の髪紐がよく映えていた。
柊花が小さく微笑みながら自身の髪をひと撫でする。
未練を持ちながらも依然として霞城柊夜を演じ続ける姿を見るのは、本当は嫌だった。だけど、それを本人がが望むのなら自分がなにかを言う資格などない。櫛を片付けながら、小さくため息をついた。
いつも通り、軍部へと向かう柊夜を見送った後。
スタスタと柊花の自室に向かった。表立って口にはしないが、未だ柊花は自室へと足を踏み入れることを許可していない。ちらりと、鏡台の引き出しを見る。紅の入ったそこは、固く閉ざされたままだ。
あの夜以降、柊花が紅を差している姿を見ることは叶わなかったが、こっそりと自分に隠れてつけていたらいいなと思う。
泣き崩れるくらいなら、最初から割り切ってしまえばいいのに。自分にはどうしても理解できない。
改めて部屋を見渡せば、以前は整然としていた文机の周りには、様々な紙が散らばっていた。幽鬼の発生が増えた今、その調査に追われているようで、最近は帰宅してからも机に向かうことが多くなった。書き損じ、走り書いた文字たち、切り抜かれた後の新聞……それらを一瞥しながら、文机の引き出しをそっと開ける。
書類の奥。埋もれるようにして白い封筒がしまいこまれていた。いつぞやの時に自分が渡したもの……霞城家からの手紙だ。
ちょうど、柊花が自分の正体を疑い始めたときの。
ふう、と一つ息を吐いてから封筒を手に取る。角ばった神経質そうな字。そこに書かれていたのはたった一言。
『籠谷香蓮という女は存在しない』
結婚が決まってすぐ、籠谷家に探りを入れていたのだろう。随分と早い段階でバレていたようだ。
「……仮にも結界を担う籠谷家が、ざまあないな」
結婚を決めたときの、当主の顔を思い出す。相手を陥れるためだけに、ここまで手の込んだことをする神経なんて、自分には理解できなかった。
また丁寧に手紙を畳んで、引き出しに戻す。もし部屋に立ち入ったのが、手紙を勝手に読んだのがバレてしまったとして、今の「香蓮」に心を開きかけている柊花なら、許してくれるだろうか。
そんな馬鹿げたことを考えながら、そっと部屋を後にした。
*
夜。軍の仕事が長引いたのか少し遅めに帰ってきた柊花は、夕餉もそこそこに小さな包みを手渡してきた。
「これ、香蓮に」
「……これって」
中から出てきたのは、蓮の花が彫られている美しい櫛だった。椿油に漬けられているのか深みのある飴色で、指の腹で撫でればどこまでも滑らかだった。質のいい櫛だと素人目にも分かる品だ。
黙りこくったまま櫛を見続ける自分に、居心地が悪いのか柊花はふいっと顔を逸らしている。
「歯が欠けていたし、当真……同僚が、なにか贈れってうるさいから」
「……ありがとうございます」
言い訳のように口ごもる柊花の耳は、少し赤い。「香蓮」のために、随分と悩んだのだろう。礼を口にすれば、柊花はほっとしたように相好を崩した。
「日頃の礼をしたかったんだ。香蓮は私を支えてくれているから」
霞城柊夜ではなく、柊花としての言葉だとすぐに分かった。
「香蓮はいつも、『いってらっしゃい』って言ってくれるだろう?」
「……」
「あの言葉のおかげで、私は今日も帰ってこれた」
……香蓮にそのつもりはないのかもしれないけれど。はにかみながら言った柊花は、随分と素直だった。鏡で、その顔を見せてやりたいくらいに。どれだけ、穏やかな表情を自分に向けているのかを、きっと分かっていないだろう。
「だからその……ありがとう」
ああ、その言葉は自分に向けられていないのだと、心が冷えていく。
柊花のその謝意は「香蓮」に向けて投げられたもので、自分ではない。今こうして素を見せているのも信頼も、なにもかも。
だから、自分は受け取れない。受け取ってはいけないのだ。 ……それが空しかった。
自室へ逃げ込もうとするその背を見る。女にしては背が高く、男にしては低めのその背を。さらりと揺れる長髪を見ながら、明日はこの櫛で梳いてやろうと思った。
そこでふと、もう一人の自分が囁いた。「香蓮」としてこれからも柊花の前に立つのか、と。
「……籠谷香蓮なんて女は、存在しない」
気づけば、そんなことを口走っていた。
*
思わず、自室へと向かおうとした足を止める。
後ろから投げかけられた言葉は、一言一句違わずあの手紙の言葉だった。
勝手に部屋に入って読んだのだろうか……いや、そもそもその問題は、もう解決したはずだ。香蓮は籠谷家に雇われている使用人で、諜報目的で嫁いできた……
「だから、貴女の言葉を受け取れない」
意味が分からなかった。顔を見れば分かるかもしれないと思って振り返るも、その顔からは何も読み取れなかった。ただじっと自分を見つめ返している。
「貴女が女だって知った時は流石に驚いた。似たような人がずっと身近に居たんだなって」
「なに、言って……」
香蓮の……香蓮であった人物の化けの皮が剥がれていく。丁寧な口調は崩れており、いつもの柔らかな笑みには影があった。 困惑している自分を他所に、香蓮はスタスタと近づくと、その手に櫛を握らせた。
堅い、感触。
「これは受け取れない。アンタが礼を言いたいのは『香蓮』だろ」
「お前は……誰なんだ」
一緒に食事を摂ったのは?自分を見送ってくれたのは?目の前の香蓮のはずなのに、本人がそれを否定する。無意識に握りこんでいたらしい。ぎちりと、櫛の歯が皮膚に食い込んで少し痛かった。
「前までは平気だったんだけどな……弱くなったみたいだ」
見た目も声もそのままなのに、香蓮ではない。それを理解してしまうのが恐ろしい。食い入るように見つめていれば、やはり香蓮の姿はぼやけてしまった。たしか前も、こんなことがあった気がする。
訝しそうにしている自分に気づいたのか、合点いったように香蓮は懐から何かを取り出した。
小さな、御守りのようなもの。それを地面に落とした途端、今まで見ていたはずの香蓮が目の前から消えた。
霧が晴れていくみたいに。
「柊花様」
「呼ぶな!!」
目の前にいるのは、男だった。自分よりも背が高くて、声だって低くて……華奢ではあるものの端々に堅さがあった。 なのに、自分を見つめるその緑の瞳だけが「香蓮」と同じ。それが、自分の名前を呼んでくる。
言いようのない嫌悪感に、思わず耳を塞いだ。
「まあ嘘をついたのは謝るけどさ、それはアンタも同じだろ」
「黙れ!」
違うと言いたかった。お前と一緒にするな、と。でもそれ以上に認めたくなかったのは、こんな奴に勝手に救われて、素を見せていた自分だった。
今までの平穏が、音を立てて瓦解していくような感覚。初めて会った時からの日々が、走馬灯のように脳内をめぐる。
あれも全部、嘘だったのだ。なのに、それを平穏だと名付けて、心地いいと感じていた自分に反吐が出る。
どんなに滑稽だっただろう。きっと、この男からしたら道化だったに違いない。
そう思ってしまったら、もう駄目だった。
「……さっさと追い出せばよかった」
あの日、父から報告を受けてすぐに事情も聞かずに追い出していれば、正体がバレるなんて失態も犯さなかった。そもそも諜報目的で嫁入りしてきたことを香蓮の口から聞いた時点で、危険因子だと分かりきっていたはず。
それでも香蓮を置き続けたのは、自分の弱さに他ならない。
「しゅう……」
「……その名前を許したのは、お前なんかじゃない」
「っ、」
冷静になろうと努めてもだめだった。感情の濁流が、全てを押し流していく。
信じるんじゃなかった。期待するんじゃなかった!それだけが脳内を占めていて、自分の表情も、男がどんな表情をしているのかも、どうでもいい。ただ、逃げたかった。
手に持っていた櫛を投げつければ、少しだけ男はたじろいだ。その隙に、自室へと駆け込む。……そこだけは安全だと思っていたから。誰も入ってこられない場所だと。
ぴしゃりと襖を閉めて、そのままずるずると座り込む。上手く息が出来なくて、肩が震えた。
「信じてたのに……」
ぼんやりとする頭でふと、思い出す。
ああ、この部屋に香蓮を入れてしまった、と。 背中に置かれた温度を思い出す。温かくて、優しかった手。あれも、きっと自分を油断させるための嘘だったのだ。
「香蓮……」
呼んでも、返事は返って来ない。当たり前だ。そんな人物、この世に居なかったのだから。
