12の春だった。
この世で一番大切な兄が死んだ。
いや、正確には死んだのかすら不明である。ただ、隔世から帰ってこなかったのだから。
――だから兄は死んだのだ。
その日も朝早くに起きて、兄の帰りを待っていた。どんなに疲れていても、兄は「おかえりなさい」と出迎える柊花の頭を撫でてくれるから。頭を撫でられるその時間が一番好きだった。
しかしその日は、いつまで経っても兄が帰ってくることは無かった。
帰ったら花見をしようと約束したのに。
玄関前で一人待ち続けたあの日の心細さを一生忘れないだろう。
現実の上に重ねられた別世界――隔世。
そこには人を喰らう幽鬼が棲んでいる。
その隔世の管理及び討伐を担っているのが、霞城家のような名家だった。
「幽鬼の討伐。それが我が霞城家の役割だ。それは知っておるな」
「はい」
喪服に身を包んだ少女――柊花は小さく返事をした。
それ以外は許されていないと分かっていたからだ。
霞城家の後継ぎで、優しかった兄。幽鬼に喰われたのだろうと早々に父は結論付けて、形だけの葬儀を行った。体裁だけ整えられた空虚な葬式だった。空の棺は、自分に兄がまだ生きているかもしれないという幻想を抱かせたが、一方で兄の死を受け入れてもいた。父がそう決定づけたのだからきっとそうなのだ、と。
「隔世の管理は我らの務め。それに穴を開けるなどあってはならない」
「……」
――兄さまの死は、父にとってはただの穴なのだ。
それは、認めたくないだけで心のどこかで分かってもいた。父は家というものを最も重視する人で、兄も……きっと自分も、霞城家の駒なのだ、と。
「幸いお前はまだ世間に顔を知られていない。よって、お前が今日からこの家の後継ぎだ」
「後継ぎは、兄さまでは……」
「分からないか?」
父の声はいつも平坦で、どんな時もけして荒げたりはしない。しかし、その裏に隠された失望に気づいてしまい、思わず肩を強張らせる。
「これからは男として生きなさい。裁縫も生け花も、箏の稽古も止めだ」
「え……」
「剣の稽古と、男としての仕草を学べ。頃合いを見て隔世での討伐訓練も始める」
「お、お待ちください!」
言うだけ言って席を立つ父に、思わず腰を浮かせてしまう。
自分が兄の代わり?
男として生きる?
なにか言わなくては、と思うも言葉が出なかった。そんな自分を見下ろしながら、父は非情にも言葉を続けた。
「分かったな。柊夜」
「っ、」
ああ、もう柊花なんて人間はこの世に存在しなくて。父の中では、もう目の前の人間は「霞城柊夜」なのだ。
返事をしないのが異端。それに気づいた瞬間、自分の心が折れる音を聞いた。
「……はい」
ひどい声だった。霞城柊花の最期の声だ。そして、霞城柊夜としての初めての声だった。
どうやって、自室に帰ったのかは覚えていない。ただ、自分の部屋が近づくにつれ、使用人たちが忙しなく私物を運び出しているのが見えた。
「なんで、私の物を……」
「柊夜様には必要ないものだと仰せつかりましたので」
「必要、ない」
目の前で着物が、箏が、簪が運び出されていく。
その中に、兄から貰ったものが含まれているのを見て、思わず使用人の手を掴んだ。
「申し訳ありません。手を退いていただけませんか」
「いや!これは私が兄さまから頂いたもので……」
「柊夜様」
聞き分けのない子どもを咎めるような声は、たしかに自分に向けられている。
なのに、柊花ではない。本当に、霞城柊花という人間がこの世から消えたのだと柊花は……霞城柊夜は理解した。
桜の咲き始めの、12の春だった。
この世で一番大切な兄が死んだ。
いや、正確には死んだのかすら不明である。ただ、隔世から帰ってこなかったのだから。
――だから兄は死んだのだ。
その日も朝早くに起きて、兄の帰りを待っていた。どんなに疲れていても、兄は「おかえりなさい」と出迎える柊花の頭を撫でてくれるから。頭を撫でられるその時間が一番好きだった。
しかしその日は、いつまで経っても兄が帰ってくることは無かった。
帰ったら花見をしようと約束したのに。
玄関前で一人待ち続けたあの日の心細さを一生忘れないだろう。
現実の上に重ねられた別世界――隔世。
そこには人を喰らう幽鬼が棲んでいる。
その隔世の管理及び討伐を担っているのが、霞城家のような名家だった。
「幽鬼の討伐。それが我が霞城家の役割だ。それは知っておるな」
「はい」
喪服に身を包んだ少女――柊花は小さく返事をした。
それ以外は許されていないと分かっていたからだ。
霞城家の後継ぎで、優しかった兄。幽鬼に喰われたのだろうと早々に父は結論付けて、形だけの葬儀を行った。体裁だけ整えられた空虚な葬式だった。空の棺は、自分に兄がまだ生きているかもしれないという幻想を抱かせたが、一方で兄の死を受け入れてもいた。父がそう決定づけたのだからきっとそうなのだ、と。
「隔世の管理は我らの務め。それに穴を開けるなどあってはならない」
「……」
――兄さまの死は、父にとってはただの穴なのだ。
それは、認めたくないだけで心のどこかで分かってもいた。父は家というものを最も重視する人で、兄も……きっと自分も、霞城家の駒なのだ、と。
「幸いお前はまだ世間に顔を知られていない。よって、お前が今日からこの家の後継ぎだ」
「後継ぎは、兄さまでは……」
「分からないか?」
父の声はいつも平坦で、どんな時もけして荒げたりはしない。しかし、その裏に隠された失望に気づいてしまい、思わず肩を強張らせる。
「これからは男として生きなさい。裁縫も生け花も、箏の稽古も止めだ」
「え……」
「剣の稽古と、男としての仕草を学べ。頃合いを見て隔世での討伐訓練も始める」
「お、お待ちください!」
言うだけ言って席を立つ父に、思わず腰を浮かせてしまう。
自分が兄の代わり?
男として生きる?
なにか言わなくては、と思うも言葉が出なかった。そんな自分を見下ろしながら、父は非情にも言葉を続けた。
「分かったな。柊夜」
「っ、」
ああ、もう柊花なんて人間はこの世に存在しなくて。父の中では、もう目の前の人間は「霞城柊夜」なのだ。
返事をしないのが異端。それに気づいた瞬間、自分の心が折れる音を聞いた。
「……はい」
ひどい声だった。霞城柊花の最期の声だ。そして、霞城柊夜としての初めての声だった。
どうやって、自室に帰ったのかは覚えていない。ただ、自分の部屋が近づくにつれ、使用人たちが忙しなく私物を運び出しているのが見えた。
「なんで、私の物を……」
「柊夜様には必要ないものだと仰せつかりましたので」
「必要、ない」
目の前で着物が、箏が、簪が運び出されていく。
その中に、兄から貰ったものが含まれているのを見て、思わず使用人の手を掴んだ。
「申し訳ありません。手を退いていただけませんか」
「いや!これは私が兄さまから頂いたもので……」
「柊夜様」
聞き分けのない子どもを咎めるような声は、たしかに自分に向けられている。
なのに、柊花ではない。本当に、霞城柊花という人間がこの世から消えたのだと柊花は……霞城柊夜は理解した。
桜の咲き始めの、12の春だった。
