幸運の花嫁 〜厄介払いの結婚で最強式神使いの溺愛がはじまりました〜

 慧の書斎に足を踏み入れた瞬間、空気が一気に冷たくなった気がする。
 こちらを見つめる慧の視線に心臓を絡め取られたような気分になりながら、琥珀はていねいにお辞儀をした。

「改めまして、琥珀です。本日からどうぞよろしくお願いいたします」
「ああ」

 短く答えた慧はすぐに手元の書類に視線を落としてしまう。
 慧が何枚か書類を読み終わり、印鑑を三回捺すまで琥珀はそのまま待ってみたが、それ以上の言葉がない。

 どうすればいいのかと琥珀が硬直していると、慧がやっとこちらに視線を戻した。

「まだ何かあるのか?」
「えっ」
「挨拶は終わっただろう。いつまでもそこで見ていられると気が散る。用がないなら退室してくれ」

 これから夫婦としてやっていくというのに、慧はこの短い挨拶のみで会話を終える気だったらしい。
 貴族には肩書きだけの夫婦も多くいるが、この挨拶ではあまりにもお互いのことが何もわからなすぎるだろう。
 焦った琥珀は、おずおずと慧に尋ねた。

「ひとつ、お聞きしたいことがありまして……、よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「どうして、私と結婚してくださったんですか?」

 慧は琥珀と出会って即刻結婚を決めていたが、どう見ても琥珀に一目惚れしたという雰囲気でもない。
 結婚の理由がわからなければ、モヤモヤを抱えたまま過ごすことになるだろう。
 今を逃せば聞ける機会もなくなるかもしれないと思いきって尋ねた琥珀に、慧は淡々と答えた。

「形だけの妻が欲しかったからだ。相手は誰でも構わなかった」
「それは出世にはパートナーが必要だったということですか?」

 男は結婚してやっと一人前であり、二十歳を過ぎた独り身の女は行き遅れという考えは根強い。
 男社会である軍では、その考えはより強固なものだろう。
 軍で出世するためには結婚をしていることが条件とされているなんて噂も聞いたことがある。

(やっぱり慧様も男性だものね。出世したい欲が強いのかしら。……お父さまのように)

 どこか冷めた気持ちになった琥珀に、慧は持っていた書類を机に置いて向き直った。

「全く違う。俺は出世には興味がない」
「え……、ですが、慧さまは師団長にまで出世しておられますよね?」
「ああ、そうだ。ただ仕事を誠実にこなしていたら今の地位になったというだけだ」
「では、どうして妻が欲しかったのですか……?」
「面倒だったからだ」
「面倒?」

 予想もしていなかった言葉に琥珀は目をぱちぱちと瞬かせてしまう。
 きょとんとしている琥珀に対して、慧は真顔のままだ。

「軍の中では妻帯者でなければ一人前ではないという空気がある。それが理由でやたらと縁談を勧められたり、娘を紹介したいと言われたりで、それが面倒でかなわなかった。だが、妻ができればそんな面倒事は一切なくなるだろう」
「それで、私と結婚をすることにしたのですか?」
「ああ、そういうことだな」

 式神婚でも、政略結婚でも、恋愛結婚でもなく、慧はただただ面倒事を避けるために琥珀と結婚したらしい。
 信じられない思いでいる琥珀に慧はため息をついて続けた。

「見合いに遅刻された時にはどうしようかと思ったが、薄墨家の令嬢なら緋彩家の結婚相手としても誰も文句のつけようがないだろう。周りには俺の一目惚れだとでも言っておけば、これ以上の面倒は起こらない。これは仕事に集中するための結婚だ。だから、俺はあなたに妻であること以外に何も求めることはない」
「では、私はこの屋敷で何をすればいいのでしょうか……?」
「趣味でも何でも好きにすればいい。千鶴は計算が得意だから予算については彼女に任せている。金も彼女に相談して好きに遣ってくれて構わない。以上だ」

 突き放すように言った慧はペンを手に取って、書類に何か書きはじめてしまう。
 慧の全身から拒絶の雰囲気を感じる。
 これ以上の会話はかなわないだろうと理解した琥珀は、混乱したまま「失礼しました」と挨拶をして書斎を出る。

 大きな音を立てないように、そっとドアを閉めてから琥珀は胸にたまっていた息を思いきり吐き出した。

「突然そんな自由を与えられても……」

 薄墨家では雛子と亜琥に呼ばれた際にはすぐに飛んで行かなければ痛い目を見ていたため、いつ何時も油断はできなかった。
 その上、家の用事も多く押しつけられていて、眠る時間もほとんどない程に毎日が忙しかったのだ。
 そんな日々から一転して金も時間も好きにしていいと言われても、何をすればいいのかわからない。
 思えば琥珀は趣味すらなく、自分が何を好きなのかもわからなかった。

 だだっ広い場所にいきなり放り出されたような心地で途方に暮れたが、まずはこの屋敷に慣れるのが一番だろう。
 考えながらも琥珀が屋敷内を散歩していると、何やら宗一郎と廊下で話をしている千鶴に出くわした。

「あ、琥珀さま!」
「さっきは案内をしてくれてありがとう。慧さまへのご挨拶は終わったわ」
「よかったです〜!」
「慧さまは少々気難しいところがおありで、誤解されやすい方ではありますが、悪い方ではありませんので、広い心で見ていただければと思います」

 眉を下げてお願いしてくる宗一郎に、琥珀も同じような表情を返してしまう。
 仕事に真面目なのは感じられたが、見合いや紹介が面倒だからという理由で結婚した妻の立場としては、慧とどう接すればいいのか琥珀にはまだわからなかった。

「琥珀さま。ちょーっとだけお時間よろしいですか?」
「時間ならたっぷりあるから大丈夫よ」
「では、お部屋に参りましょう!」

 慧と話をすることに琥珀は思っていたよりも緊張していたらしい。
 明るく話す千鶴に癒されるのを感じながら一緒に琥珀の部屋に行くと、先に琥珀を部屋に入れた千鶴はドアを閉じて窓のカーテンを引いた。

「千鶴?」

 昼間とはいえ、カーテンまで閉めきられてしまうと部屋は一気に薄暗くなる。
 急にどうしたのかと思っていると、千鶴はにっこりと笑って言った。

「では琥珀さま、早速ではありますが、お着物を脱いでいただけますか?」