琥珀は驚きで弾かれたように顔を上げる。
隣で雛子も見たことがないほどに仰天した表情をしていた。
「お、お待ちくださいな、緋彩さま。今なんとおっしゃいましたか?」
「結婚しようと言った。琥珀さんが拒否するなら、それはそれで構わない」
雛子の確認に、慧は淡々と答える。
慧の表情は真剣なままであり、嘘をついている様子も冗談を言っている様子も全くない。
「琥珀さん。あなたはどうしたい?」
慧が琥珀を見つめて、まっすぐ問いかけてくる。
なぜ、慧が琥珀との結婚を即決したのか。
理由はさっぱりわからなかったが、琥珀は躊躇することなくうなずいた。
「結婚、したいです」
亜琥と雛子にいびられ続ける日常の中で暴力を振るわれることも多かった。
深い傷を負うことも日常茶飯事であり、この傷から感染症を引き起こせばいずれ自分は死ぬのだろうという恐怖と隣り合わせの日々を琥珀は送ってきた。
それを深雪と共に毒を盛られたにもかかわらず生き延びた自分への罰だと思って受け入れてきたが、今目の前の死から逃れる方法があるのなら、それに縋りたい。
たとえ慧が冷酷という噂通りの冷たい夫となろうとも、亜琥と雛子による暴言と暴力に見舞われる日々よりもマシだ。
視線を見つめ返してまっすぐに答えた琥珀に、慧は「よし」とうなずいた。
「では、結納や結婚の日取りなどは景昭第三師団長と改めて相談させていただく。私は仕事が入ったので失礼する」
唖然としたままでいる雛子の横を通って、慧は颯爽と歩き去って行く。
慧の後ろを着いて行っていた初老の男性が笑顔で会釈をしてきたため、琥珀も会釈を返して、そのまま廊下に呆然と立ち尽くすしかなかった。
「どうなっているの……?」
料亭の静かな渡り廊下に雛子の困惑の声が静かに落ちた。
◇ ◇ ◇
琥珀の結婚は急遽決定し、トントン拍子に全てが決まっていった。
亜琥は「琥珀姉さまが見初められるなんてあり得ないわよ!」と騒ぎ立てていたが、嫁入り直前の体に傷をつける勇気はなかったようだ。
亜琥は暴言だけを吐き続け、雛子はずっと「琥珀なんかの何がよかったのかしら」と首を捻っていたが、決定した以上は話は進んでいく。
結婚の話が滞りなく進んだのは、景昭が琥珀の結婚を喜んで受け入れたからだ。
それは決して父として琥珀の幸せを祈ってのことではないことはわかっている。
血筋に恵まれない景昭に対して、慧は先祖代々続く緋彩伯爵家の優秀な血筋を受け継いでいる。
そんな家に娘が嫁いだとなれば、景昭の地位が向上することは明らかだ。
さらに琥珀が子どもを生み、その子どもが優秀な式神を召喚することができれば、景昭の地位は盤石なものになるだろう。
そんな景昭の下心もあり、あっという間に琥珀の嫁入りの日がやって来た。
「この屋敷でこんなにいい着物を着させてもらう日が来るなんて……」
今日が嫁入りだなんて未だに現実感がない。
鏡の前で化粧を済ませた琥珀は、新しく仕立てられた珊瑚色の見事な花柄の入った着物を着ている。
ずっと着物など買い与えられることもなく、何度も繕った麻の着物を着ていたが、そのまま嫁に出して何か言われることを危惧したらしい景昭が琥珀の嫁入り道具として様々な着物に加えて洋装のドレスまで買い与えて、先に緋彩家の屋敷に送ってくれた。
今着ている着物はその際に購入してもらった一着であり、嫁入りの日にはこれを着ていくようにと景昭から言われていた上等な品だ。
嫁入りの際には先方の家から迎えの馬車がやってくることになっている。
約束の時間の少し前に琥珀が玄関に向かうと、そこには亜琥と雛子が待っていた。
「あんたの方が先に嫁に行くなんてほんっと信じられない……」
「亜琥はすぐにでも水波さまの家に嫁げるでしょう。彼が本格的に政治家になってから結婚する約束になっているじゃない」
「そうだけど、納得いかないのよ」
水波というのは、亜琥に惚れ抜いている青龍の使い手のことだ。
由緒正しい商家であり政治家でもある家の跡継ぎの水波は四神の一柱・青龍の使い手でもある。
亜琥の夫として申し分ない男である水波は、彼女の美貌に惚れ抜いており、ほぼ言いなりなのだから、亜琥も水波との結婚に文句はないのだろう。
ただ、琥珀の方が先に何かをするということが許せないだけという理不尽な怒りを静かに聞いていると、廊下の向こうから景昭がやって来る。
家族が見守る中での嫁入りという演出がしたいだけで、景昭は家族のことなど何も大切には思っていない。
それはこの場にいる誰もが理解していることであり、雛子も亜琥も景昭の姿が見えるなり口を閉ざした。
「今日でようやくおまえは薄墨の家の者ではなくなるな」
「……はい。今までお世話になりました」
景昭にしゃべりかけられると思っていなかった琥珀は驚いてしまって少し反応が遅れる。
同じ空間にいることがあっても、いないものとして扱われることが当然であったため、話すのは何年ぶりのことかわからなかった。
「やっと厄介払いができる。嫁入りしても余計なことは言うなよ。無能に生まれてきたのだから、これ以上私に迷惑をかけることは許さん」
「……承知いたしました」
嫁ぎ先でも、琥珀はこんな理不尽な扱いを受けていたことを話せる気はしていなかった。
惨めで、辛くて、話そうなんて気にもならない。
そもそも話したいと思うような相手ができるかさえ疑わしい。
そんな状況で釘を刺してくる景昭に、琥珀が何の感情もないままにうなずくと、使用人が玄関を開けて入ってくる。
「緋彩家の侍女を名乗る方がお迎えに参りました」
「入ってもらえ」
景昭の指示で使用人が玄関の外に戻っていき、少ししてえんじ色の着物を着た小柄な少女が入ってくる。
そして、とてもこの重苦しい薄墨家の空気には似つかわしくない、ぺかっとした輝く笑顔を見せた。
「はじめまして! 緋彩家の岩倉千鶴と申します。琥珀さまをお迎えにあがりました!」
隣で雛子も見たことがないほどに仰天した表情をしていた。
「お、お待ちくださいな、緋彩さま。今なんとおっしゃいましたか?」
「結婚しようと言った。琥珀さんが拒否するなら、それはそれで構わない」
雛子の確認に、慧は淡々と答える。
慧の表情は真剣なままであり、嘘をついている様子も冗談を言っている様子も全くない。
「琥珀さん。あなたはどうしたい?」
慧が琥珀を見つめて、まっすぐ問いかけてくる。
なぜ、慧が琥珀との結婚を即決したのか。
理由はさっぱりわからなかったが、琥珀は躊躇することなくうなずいた。
「結婚、したいです」
亜琥と雛子にいびられ続ける日常の中で暴力を振るわれることも多かった。
深い傷を負うことも日常茶飯事であり、この傷から感染症を引き起こせばいずれ自分は死ぬのだろうという恐怖と隣り合わせの日々を琥珀は送ってきた。
それを深雪と共に毒を盛られたにもかかわらず生き延びた自分への罰だと思って受け入れてきたが、今目の前の死から逃れる方法があるのなら、それに縋りたい。
たとえ慧が冷酷という噂通りの冷たい夫となろうとも、亜琥と雛子による暴言と暴力に見舞われる日々よりもマシだ。
視線を見つめ返してまっすぐに答えた琥珀に、慧は「よし」とうなずいた。
「では、結納や結婚の日取りなどは景昭第三師団長と改めて相談させていただく。私は仕事が入ったので失礼する」
唖然としたままでいる雛子の横を通って、慧は颯爽と歩き去って行く。
慧の後ろを着いて行っていた初老の男性が笑顔で会釈をしてきたため、琥珀も会釈を返して、そのまま廊下に呆然と立ち尽くすしかなかった。
「どうなっているの……?」
料亭の静かな渡り廊下に雛子の困惑の声が静かに落ちた。
◇ ◇ ◇
琥珀の結婚は急遽決定し、トントン拍子に全てが決まっていった。
亜琥は「琥珀姉さまが見初められるなんてあり得ないわよ!」と騒ぎ立てていたが、嫁入り直前の体に傷をつける勇気はなかったようだ。
亜琥は暴言だけを吐き続け、雛子はずっと「琥珀なんかの何がよかったのかしら」と首を捻っていたが、決定した以上は話は進んでいく。
結婚の話が滞りなく進んだのは、景昭が琥珀の結婚を喜んで受け入れたからだ。
それは決して父として琥珀の幸せを祈ってのことではないことはわかっている。
血筋に恵まれない景昭に対して、慧は先祖代々続く緋彩伯爵家の優秀な血筋を受け継いでいる。
そんな家に娘が嫁いだとなれば、景昭の地位が向上することは明らかだ。
さらに琥珀が子どもを生み、その子どもが優秀な式神を召喚することができれば、景昭の地位は盤石なものになるだろう。
そんな景昭の下心もあり、あっという間に琥珀の嫁入りの日がやって来た。
「この屋敷でこんなにいい着物を着させてもらう日が来るなんて……」
今日が嫁入りだなんて未だに現実感がない。
鏡の前で化粧を済ませた琥珀は、新しく仕立てられた珊瑚色の見事な花柄の入った着物を着ている。
ずっと着物など買い与えられることもなく、何度も繕った麻の着物を着ていたが、そのまま嫁に出して何か言われることを危惧したらしい景昭が琥珀の嫁入り道具として様々な着物に加えて洋装のドレスまで買い与えて、先に緋彩家の屋敷に送ってくれた。
今着ている着物はその際に購入してもらった一着であり、嫁入りの日にはこれを着ていくようにと景昭から言われていた上等な品だ。
嫁入りの際には先方の家から迎えの馬車がやってくることになっている。
約束の時間の少し前に琥珀が玄関に向かうと、そこには亜琥と雛子が待っていた。
「あんたの方が先に嫁に行くなんてほんっと信じられない……」
「亜琥はすぐにでも水波さまの家に嫁げるでしょう。彼が本格的に政治家になってから結婚する約束になっているじゃない」
「そうだけど、納得いかないのよ」
水波というのは、亜琥に惚れ抜いている青龍の使い手のことだ。
由緒正しい商家であり政治家でもある家の跡継ぎの水波は四神の一柱・青龍の使い手でもある。
亜琥の夫として申し分ない男である水波は、彼女の美貌に惚れ抜いており、ほぼ言いなりなのだから、亜琥も水波との結婚に文句はないのだろう。
ただ、琥珀の方が先に何かをするということが許せないだけという理不尽な怒りを静かに聞いていると、廊下の向こうから景昭がやって来る。
家族が見守る中での嫁入りという演出がしたいだけで、景昭は家族のことなど何も大切には思っていない。
それはこの場にいる誰もが理解していることであり、雛子も亜琥も景昭の姿が見えるなり口を閉ざした。
「今日でようやくおまえは薄墨の家の者ではなくなるな」
「……はい。今までお世話になりました」
景昭にしゃべりかけられると思っていなかった琥珀は驚いてしまって少し反応が遅れる。
同じ空間にいることがあっても、いないものとして扱われることが当然であったため、話すのは何年ぶりのことかわからなかった。
「やっと厄介払いができる。嫁入りしても余計なことは言うなよ。無能に生まれてきたのだから、これ以上私に迷惑をかけることは許さん」
「……承知いたしました」
嫁ぎ先でも、琥珀はこんな理不尽な扱いを受けていたことを話せる気はしていなかった。
惨めで、辛くて、話そうなんて気にもならない。
そもそも話したいと思うような相手ができるかさえ疑わしい。
そんな状況で釘を刺してくる景昭に、琥珀が何の感情もないままにうなずくと、使用人が玄関を開けて入ってくる。
「緋彩家の侍女を名乗る方がお迎えに参りました」
「入ってもらえ」
景昭の指示で使用人が玄関の外に戻っていき、少ししてえんじ色の着物を着た小柄な少女が入ってくる。
そして、とてもこの重苦しい薄墨家の空気には似つかわしくない、ぺかっとした輝く笑顔を見せた。
「はじめまして! 緋彩家の岩倉千鶴と申します。琥珀さまをお迎えにあがりました!」

