幸運の花嫁 〜厄介払いの結婚で最強式神使いの溺愛がはじまりました〜

 濡れた土と草のにおいがする。
 風の音と虫の鳴く声を聴覚が拾い、ここはどこなのかとぼんやりとした思考で考える。
 頬が感じるざらざらとした感触は石混じりの砂だろう。

 そこまで理解したところで、琥珀はハッとうつ伏せになっていた体を起こした。

「ここは……?」

 琥珀が投げ出されていたのは、どこかの暗い森だった。
 視界が悪く、空を見上げると鬱蒼(うっそう)と生い茂る木々の葉の隙間から月が見える。
 夜になるまで薬で眠らされていたのだと察した琥珀は、自分の体のどこにも傷がないことを確認してから急いで立ち上がった。

「早く逃げなくちゃ……」

 琥珀をここまで連れて来て放置した者が何者なのかはわからないが、恐らくもうここにはいないだろう。
 逃げなければと琥珀が感じた相手は、人間ではない。妖怪だ。

 軍の中でも慧が師団長を務める特妖師団(とくようしだん)の精鋭達が相手取る、式神を使ってしか討伐することがかなわない化け物を、人々は妖怪と呼んでいる。
 時折人里にも現れるが、妖怪は基本的に人里から離れた森や山を住処としており、暗い夜を好んで活動する。

 つまり、夜の森であるここは今、妖怪が闊歩する場所だ。
 こんな危険な場所に琥珀をさらった犯人が留まるとは思えない。

 ここがどこかもわからないが、じっとしたままではいつか妖怪に見つかって食い殺されてしまうかもしれない。
 どこでもいいから人が住んでいる場所に行かなければと、琥珀は暗い森を月明かりを頼りに歩き始めた。

「っはぁ、はぁ……」

 森の中は勾配(こうばい)も多く、木の根っこが露出していたりと、とにかく足下が悪い。
 気を付けて歩いていたため、幸い転ぶことはなかったが、着物の下で足はたちまち傷だらけになった。
 着物はそもそも運動に適した服装ではない。
 動いているうちに着乱れた着物を直す余裕すらなく、琥珀は涼しい夜風を感じながらも首元を流れる汗を拭った。

(どうしよう。どれだけ進んでも真っ暗。このままだと、本当に殺されてしまう)

 時間の感覚も方向の感覚もわからないため、どのくらいの時間どれだけ進めたのかもわからない。
 人里に向かって進むことができているのか、むしろ遠ざかっているのか。
 途方もない不安に心臓が押しつぶされそうで、ともすれば恐慌(きょうこう)状態に陥ってしまいそうな自身を、ゆっくり呼吸することを意識して必死に落ち着ける。

 その時、琥珀の耳に水の音が聞こえてきた。

「この音は……もしかして川があるの?」

 川があるのであれば、その先に人里がある可能性は高い。
 わずかな希望を持って、流れる水の音を頼りに進むと、そこには期待通りに川が流れていた。

「よかった……!」

 琥珀はほっと安堵の息を吐く。
 これで誰かに助けを求めることができるに違いない。
 ここがたとえ緋彩家からは遠く離れた森であったとしても、軍に繋がることができれば必ず慧の元に帰ることができるはずだ。

 安心した琥珀が川縁(かわべり)に歩み寄って乾いた喉を潤すために水を飲もうとしていると、視界の端に影が映る。
 恐怖に体が強ばり、琥珀はゆっくりと視線を影の方に向けた。

「……嘘」

 川の水音に隠れて、その足音が聞こえなかったのだろう。

 琥珀が立つ同じ川縁には、鬼の面を付けた真っ黒い体をした、琥珀の身長の優に二倍はある巨大なムカデのような妖怪がいた。
 鬼の面の下からは巨大な牙が二本突き出し、ぬらりと妖しく光っている。
 あんなもので噛みつかれたらひとたまりもない。

 ゾロゾロと気持ちの悪い動きでたくさんの足を動かして、妖怪はこちらに歩み寄ってくる。
 その歩みが川辺の小石を蹴り上げながらどんどん早くなるのを見て、琥珀は恐怖に竦む足でほぼ転がるように走り出した。

 琥珀が逃げ出したため、妖怪も足を速めたのだろう。
 背後から妖怪が走ってくるガシャガシャという激しい足音が聞こえてきた。
 琥珀は恐怖からこみ上げた涙で視界が滲むのを感じながらも、必死で足を動かした。

(死にたくないっ! 死にたくない!)

 今琥珀が死ねば、逃がした千鶴は一生琥珀が深雪に対して抱いていたものと同じような罪悪感を背負うことになるだろう。
 使用人達もきっと琥珀の死を心から悲しんでくれる。
 そして何より、慧はどれだけ悲嘆にくれることだろうか。

 大切に想う人々のためにも、琥珀は最期の瞬間まで迫り来る死に抗わなければいけなかった。

 履いていた下駄が脱げて、足裏に布越しに石の角が突き刺さろうとも速度を落とすことなく懸命に駆け続ける。
 助かることを祈って川を下っていた琥珀は突然視界が開けたことに絶望して足を止めた。

「そんな……っ!」

 視界を覆っていた森が突然途切れたのは、そこがごうごうと音を立てて落ちる滝のある崖だったからだ。

 振り返ると、妖怪はすぐそこにまで迫っている。
 今さら進行方向を変えたところで、きっと琥珀は助からない。
 かといって、このまま滝壺に飛び込んでも助かる高さだとは思えなかった。

(どうしよう、どうすれば……!)

 追い詰められた琥珀の脳裏にひらめくように声がしたのはその時だった。

 ――飛び降りろ。

 この滝を飛び降りて、助かるのかはわからない。
 だが、今はいつも琥珀の窮地を救い、慧に出会わせてくれたこの声を信じるしかなかった。

 止めていた足を再び全速力で動かし、滝のある崖に向かって突き進む。
 ぐっとつま先に力を込めて、思いきり踏み込んだ琥珀はそのまま宙に体を投げ出した。

(助けて! お願い!)

 誰にともなく祈った琥珀の想いが通じたかのように、琥珀が飛び出した瞬間に頭上に何かが輝く。
 黄金の輝きを放つそれは妖怪よりも巨大であり、琥珀と共に崖から駆け出し空へと飛び上がるようにして消えていった。

 あれは一体なんなのか。
 目を奪われた琥珀の体は、重力に従って真っ逆さまに崖の下へと落ちていった。