幸運の花嫁 〜厄介払いの結婚で最強式神使いの溺愛がはじまりました〜

「本当に信じられませんわよね……! 我が姉ながらがっかりですわ。どうして大切な夫を裏切るなんて真似ができるんでしょう!」

 悲劇っぽく亜琥が叫ぶ声に琥珀は身が竦む。
 瞬時に亜琥による暴力を受けていた過去の自分に戻ってしまったような感覚に目の前が暗くなった。

 歩み寄ってきた慧を見上げて、琥珀は息をのむ。
 慧の表情に明確に怒りが滲んでいた。

「慧さま、私は……」
「しゃべらなくていい」

 スーツの上着を脱いだ慧は、それを琥珀の肩にかけてくれる。

 不倫ではないことを弁明しなければと琥珀が口を開くよりも先に、慧が水波を睨み付けた。

「よくも俺の妻に手を出してくれたな」
「違うんです、緋彩伯爵。これは不倫などではなく……」
「そんなことはわかっている。おまえが一方的に手を出したんだろう」
「……は?」
「信じられないのはおまえだ。こんなことをして許されると思うなよ」

 活き活きと不倫男を演じていた水波が硬直する。
 慧が琥珀を覗き込んできた表情には心配の色しかなかった。

「何をされた? 離れてしまってすまなかった」
「いえ、私が離れたんです。ドレスを乱されただけで怪我もしていません」
「よかった……」

 ほっとした様子の慧は琥珀の手を取って立ち上がらせると、広い背中の後ろに庇ってくれる。

 慧が琥珀のことを信じてくれたという事実が何よりも嬉しかった。

「こ、この状況で琥珀姉さまは不倫をしていないとどうして思われるのですか!?」
「琥珀さんがそんなことをするはずがない」
「何を根拠にっ」
「俺が見てきた琥珀さんはそんな人間ではないからだ」

 目論見通りにいかなかったことに憤っている亜琥の怒声に淡々と返していた慧は、まだソファーに座り込んだままの水波を見下ろす。
 突き刺すような慧の眼差しに射貫かれて、水波は身動きひとつ取れない様子だった。

「とはいえ、証拠もない。おまえを罰することはできないことが残念でならない」
「ぼ、僕は……っ」
「自白したくなるようなことをさせてもらっても構わないが、どうする?」

 ガタガタと震えた水波は「ひぃ!」と叫び声を上げて立ち上がると、亜琥の手を取って一目散に逃げていく。
 引っ張られて部屋を去って行った亜琥の「ちょっと! 水波さま!」という怒鳴り声が遠くに消えていくのを聞いて、琥珀はようやく安心できた。

「っはぁ……」
「どうしてこんなことになったんだ」
「水波さまが私にワインをかけて、着替えを口実にこの部屋に連れ込んだんです。彼は亜琥に夢中ですから、きっと亜琥の指示で不倫を演出したのかと。私と慧さまを仲違いさせたかったんだと思います」
「ばかな真似を……」

 呆れた様子でため息をついた慧は琥珀の肩をそっと抱いた。

「怖い目に遭わせて申し訳なかった」
「とんでもないです。私が慧さまのお側を離れたのがいけなかったんです」
「そう思うなら、もう離れないでくれ。部屋のドアを開けたとき、心臓が潰れるかと思った。琥珀さんの声が廊下まで聞こえてよかった」

 身を切られたような慧の声に、琥珀も息が詰まる。
 琥珀が恐怖したのと同じように、慧も琥珀が傷つけられることを恐れてくれたのだろう。

「慧さま、ありがとうございます」

 今回助けてくれたことも、琥珀を大切に想ってくれていることも。
 いろいろな気持ちを込めて伝えた感謝に、慧は静かにうなずいてくれた。

「今日はもう帰らせてもらおう。ドレスが濡れていては風邪を引く」
「はい」

 肩にかけられた上着の前を合わせて、琥珀は慧と共に待たせていた馬車に戻り、帰路に就いた。

 千鶴は琥珀がドレスを汚されて帰って来たことに驚き、事情を話すと激怒して薄墨家にも水波家にも文句を言いに行くべきだと主張したが、琥珀が宥めて落ち着かせた。
 結果論ではあるが、琥珀は無事で済んだため大事(おおごと)にはしたくなかった。

 ドレスを脱ぎ、千鶴が用意してくれた風呂で温まりながら琥珀は自身の体に残る傷跡を見る。
 体中のあちこちに残る傷跡を見ると、水波が言った言葉を思い出した。

「こんな汚い肌でも、緋彩伯爵は愛してくださるんですか?」

 水波が嫌がらせのために言った言葉だというのはわかっている。
 だが、琥珀は肩の傷跡を見ただろう慧に、結局帰りの馬車の中でもどう思ったかを聞くことはできなかった。

(……慧さまは、気持ち悪いと思ったかしら)

 慧が琥珀のことを憎からず思ってくれていることはわかっている。
 琥珀も慧に想いを寄せていることもまた事実であるため、夫婦である以上愛し合う関係になることに問題はない。

 しかし、この肌を見て慧が一瞬でも嫌悪の表情を見せたら、琥珀は深く傷ついてしまう自信があった。

「……慧さまに、嫌われたくない」

 自分の体の傷なんてどうでもいいと思っていた。
 だが、今はこの傷がどうしようもなく恥ずかしい。

 湯船の中で膝を抱き、しばらく思い悩んでいた琥珀は風呂から上がってベッドに入ってもなかなか寝付くことができなかった。

 今夜は恐ろしい目にも遭い、新しく生まれた悩みも深い。
 ベッドで横になっていた琥珀は、寝ることを諦めて起き上がった。

 深雪の夢を見たわけではない。
 今夜眠ることが怖いわけでもない。
 ただ、まだ気持ちが落ち着かずに眠れないだけだ。
 だが、それでも怖い夢を見たら部屋を訪ねて起こしてくれて構わないと言ってくれた慧に甘えてみたかった。

 部屋を抜け出して、満月の明かりが差す廊下を静かに歩いて行く。
 慧の書斎は何度も訪ねてきたが、私室を訪ねるのは初めてのことだった。

 迷惑になるかもしれないという躊躇を飲み込ませたのは、今日心から心配してくれた慧の姿だ。

(慧さまならきっと甘えさせてくれるはず)

 勇気を出して、琥珀はドアを静かに叩く。
 これで慧が出てこなければ、諦めるつもりだったが、すぐに慧はドアを開けてくれた。

「どうした? 怖い夢を見たのか?」
「いえ、そうではなく……。眠れなくて」

 子どものような用事で訪ねてしまったことが今さらながらに少し恥ずかしい。
 笑われないかともじもじ話した琥珀に、慧は「そうか」と言うと部屋から出てきた。

「やっと来てくれたな」
「え?」
「琥珀さんがよく眠れているならそれで構わないと思っていたが、あの日からいつ夜に部屋を訪れてくれるのかと実は少し待っていた」
「そうだったんですね……」

 琥珀が気負わないように言ってくれているのかと思ったが、慧は琥珀と目が合うと照れた様子で軽く咳払いをする。
 本当に慧は琥珀が頼りに来るのを待ってくれていたのだという事実に心がほろりとほどける感覚がした。

「では、少し散歩でもしよう」
「いいんですか?」
「ひとりで散歩するよりも気が紛れるだろう」

 寝間着姿の慧は寝癖を手ぐしで整えて「行こう」と誘いかけてくれる。
 慧の優しさに、じんと胸の奥がしびれるような嬉しさを感じつつ琥珀は慧と共に庭へ出た。