「お元気にしておられましたかぁ? 緋彩家に嫁がれたと聞いて、お祝いをしなければと思っていたところだったんですよ。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます……」
水波は亜琥を訪ねて薄墨家にもよく出入りしていた。
その中で水波の前で亜琥が琥珀に虐げられる場面も何度もあった。
亜琥の恐ろしい一面を見ても水波は亜琥への恋心を燃やすばかりであり、ボロボロになってうずくまる琥珀を見てニタニタと楽しげに笑っていた記憶しかない。
今までは琥珀など眼中にない様子だったにもかかわらず、深い親交があったかのような笑みを向けてくる水波が不気味だ。
「おっと、そんなことを言っている場合ではございませんでしたねぇ。すてきなドレスを汚してしまって申し訳ございません」
「いえ、大丈夫ですのでお気になさらず……」
「そんなわけにはいきませんよぉ。控え室があるのでそちらに参りましょう。すぐに着替えを持たせますので。さあさあ、こちらです!」
「あっ」
拒否する間もなく水波は琥珀の手首を掴んでぐいぐいと引っ張って会場を出て、人気のない廊下へと向かって行く。
水波と二人きりになるのは恐ろしくて琥珀は抵抗したが、水波が手首を握る力を緩めることはなかった。
「水波さまっ、あの、困ります」
「気を遣わずとも結構ですよ。いずれ僕と亜琥さんは結婚するんですから、琥珀さんは僕の姉さまのようなものですからねぇ。ほら、こちらです」
「きゃあ!」
廊下を歩いて少ししたところにある部屋のドアを開けた水波は、穏やかな口調とは裏腹に乱暴に琥珀を部屋の中にあるソファーへと突き飛ばす。
履き慣れないヒールのせいもあり、ソファーに転んでしまった琥珀が慌てて振り返ると、水波はドアを後ろ手に閉めてこちらに歩み寄ってきているところだった。
「水波さま、本当に困ります。こんなところで二人きりだなんて」
「そうですよね。舞踏会で男女が抜け出して個室に二人きり。不倫をしていると思われても仕方がありませんよねぇ?」
ねっとりとした声音で言いながら水波が長い舌で唇を舐める。
その姿に鳥肌が立った。
会場の音楽が遠くにうっすら聞こえる部屋は薄暗くて狭い。
こんな部屋で男女が二人きりでいたら、どんな誤解をされても仕方がない。
それがわかった上で水波がこんなことをしているのだとわかり、琥珀は身が凍るのを感じた。
「な、なにを考えているんですか?」
「亜琥さんがあなたが幸せそうにしていることにそれはもうお怒りなんです。彼女の機嫌をとるために、僕が一肌脱ぎましょうかと提案したら喜んでくださったので、実行に移そうとしているところです」
「亜琥のことが好きなら、こんなことをするのは裏切りになりますよ!?」
「いえいえ。これは亜琥さんも存じ上げていることですから、なんの問題もありませんよ。むしろ亜琥さんが望んでいる『暴力』をこれから琥珀さんに振るうだけですので、僕のことは何もお気になさらず」
水波もソファーに腰掛けてきて、ワインで濡れた琥珀のドレスの肩に手をかけてくる。
ひっと喉に悲鳴がこみ上げたものの、恐怖でそれ以上の声が出なかった。
「鬼神なんて呼ばれている軍人が、不倫女との結婚を続けてくれますかねぇ? 離縁なんてことになってしまったら景昭さまは琥珀さんを許すでしょうか? 亜琥さんと雛子さんはあなたが離縁して戻ってきたら、どうするんでしょうねぇ? 怒りにまかせて亜琥さんがあなたを殺してしまっても不思議ではない。亜琥さんと一緒にあなたを埋めることになるかもしれないなんて、想像しただけでゾクゾクします……」
「っや、やめ」
糸目を更に細めてにたにたと笑う水波の手が琥珀のドレスを肩からずらす。
露出した肩には白虎の牙で抉られた痛々しい傷跡があり、それを水波は嘲笑った。
「こんな汚い肌でも、緋彩伯爵は愛してくださるんですか?」
ぬるりと水波の手が背中に回り、琥珀は慧の手も背中に触れたことを思い出す。
慧に触れられても、どれだけ近付かれても、こんなに嫌悪感を抱くことはなく、むしろ幸せを感じられた。
慧のためにも、琥珀は自分の身を守ることを諦めるわけにはいかない。
「や、やめてください!」
気が付けば琥珀は水波の胸を突き飛ばして、大声を発していた。
しかし、いくら細身の水波であっても男女の力の差は覆らない。
くっくと喉を鳴らして笑っただけの水波に琥珀が絶望しかけた時、ドアが叩きつけるように勢いよく開いた。
「何をしている」
「っ慧さま!」
「いなくなったかと思えば……」
慧は姿を消した琥珀を探してここまで来てくれたのだろう。
助かったことに琥珀が安堵したのも束の間、慧の後ろから亜琥が姿を現して大袈裟なほどの悲鳴を上げた。
「きゃあ! あんた達なにしてるのよ!?」
「違うんだ、亜琥さん。これは浮気なんかではなくて」
「じゃあ、なんだって言うのよ!? 琥珀姉さまもひどいわ! 私との関係を知っておきながら、水波さまを寝取るだなんてっ!」
慧の横で亜琥がわっと泣きはじめる。
この泣き方を琥珀は知っていた。
亜琥が得意な泣き真似だ。
こうやって子どもの頃に亜琥が琥珀に意地悪をされたと泣きわめいたせいで、琥珀はやってもいないことを大人に叱られたことがある。
わざとらしく亜琥に弁明をした水波も、これが不倫であるかのように振る舞って琥珀を陥れようとしているのだろう。
最悪の芝居に巻き込まれてしまった琥珀は真っ青になって慧を見つめた。
亜琥の迫真の泣き真似を見下ろしていた慧の視線が琥珀に向く。
「信じられないな」
そのひと言は氷の刃のように鋭い響きを持っていた。
「ありがとうございます……」
水波は亜琥を訪ねて薄墨家にもよく出入りしていた。
その中で水波の前で亜琥が琥珀に虐げられる場面も何度もあった。
亜琥の恐ろしい一面を見ても水波は亜琥への恋心を燃やすばかりであり、ボロボロになってうずくまる琥珀を見てニタニタと楽しげに笑っていた記憶しかない。
今までは琥珀など眼中にない様子だったにもかかわらず、深い親交があったかのような笑みを向けてくる水波が不気味だ。
「おっと、そんなことを言っている場合ではございませんでしたねぇ。すてきなドレスを汚してしまって申し訳ございません」
「いえ、大丈夫ですのでお気になさらず……」
「そんなわけにはいきませんよぉ。控え室があるのでそちらに参りましょう。すぐに着替えを持たせますので。さあさあ、こちらです!」
「あっ」
拒否する間もなく水波は琥珀の手首を掴んでぐいぐいと引っ張って会場を出て、人気のない廊下へと向かって行く。
水波と二人きりになるのは恐ろしくて琥珀は抵抗したが、水波が手首を握る力を緩めることはなかった。
「水波さまっ、あの、困ります」
「気を遣わずとも結構ですよ。いずれ僕と亜琥さんは結婚するんですから、琥珀さんは僕の姉さまのようなものですからねぇ。ほら、こちらです」
「きゃあ!」
廊下を歩いて少ししたところにある部屋のドアを開けた水波は、穏やかな口調とは裏腹に乱暴に琥珀を部屋の中にあるソファーへと突き飛ばす。
履き慣れないヒールのせいもあり、ソファーに転んでしまった琥珀が慌てて振り返ると、水波はドアを後ろ手に閉めてこちらに歩み寄ってきているところだった。
「水波さま、本当に困ります。こんなところで二人きりだなんて」
「そうですよね。舞踏会で男女が抜け出して個室に二人きり。不倫をしていると思われても仕方がありませんよねぇ?」
ねっとりとした声音で言いながら水波が長い舌で唇を舐める。
その姿に鳥肌が立った。
会場の音楽が遠くにうっすら聞こえる部屋は薄暗くて狭い。
こんな部屋で男女が二人きりでいたら、どんな誤解をされても仕方がない。
それがわかった上で水波がこんなことをしているのだとわかり、琥珀は身が凍るのを感じた。
「な、なにを考えているんですか?」
「亜琥さんがあなたが幸せそうにしていることにそれはもうお怒りなんです。彼女の機嫌をとるために、僕が一肌脱ぎましょうかと提案したら喜んでくださったので、実行に移そうとしているところです」
「亜琥のことが好きなら、こんなことをするのは裏切りになりますよ!?」
「いえいえ。これは亜琥さんも存じ上げていることですから、なんの問題もありませんよ。むしろ亜琥さんが望んでいる『暴力』をこれから琥珀さんに振るうだけですので、僕のことは何もお気になさらず」
水波もソファーに腰掛けてきて、ワインで濡れた琥珀のドレスの肩に手をかけてくる。
ひっと喉に悲鳴がこみ上げたものの、恐怖でそれ以上の声が出なかった。
「鬼神なんて呼ばれている軍人が、不倫女との結婚を続けてくれますかねぇ? 離縁なんてことになってしまったら景昭さまは琥珀さんを許すでしょうか? 亜琥さんと雛子さんはあなたが離縁して戻ってきたら、どうするんでしょうねぇ? 怒りにまかせて亜琥さんがあなたを殺してしまっても不思議ではない。亜琥さんと一緒にあなたを埋めることになるかもしれないなんて、想像しただけでゾクゾクします……」
「っや、やめ」
糸目を更に細めてにたにたと笑う水波の手が琥珀のドレスを肩からずらす。
露出した肩には白虎の牙で抉られた痛々しい傷跡があり、それを水波は嘲笑った。
「こんな汚い肌でも、緋彩伯爵は愛してくださるんですか?」
ぬるりと水波の手が背中に回り、琥珀は慧の手も背中に触れたことを思い出す。
慧に触れられても、どれだけ近付かれても、こんなに嫌悪感を抱くことはなく、むしろ幸せを感じられた。
慧のためにも、琥珀は自分の身を守ることを諦めるわけにはいかない。
「や、やめてください!」
気が付けば琥珀は水波の胸を突き飛ばして、大声を発していた。
しかし、いくら細身の水波であっても男女の力の差は覆らない。
くっくと喉を鳴らして笑っただけの水波に琥珀が絶望しかけた時、ドアが叩きつけるように勢いよく開いた。
「何をしている」
「っ慧さま!」
「いなくなったかと思えば……」
慧は姿を消した琥珀を探してここまで来てくれたのだろう。
助かったことに琥珀が安堵したのも束の間、慧の後ろから亜琥が姿を現して大袈裟なほどの悲鳴を上げた。
「きゃあ! あんた達なにしてるのよ!?」
「違うんだ、亜琥さん。これは浮気なんかではなくて」
「じゃあ、なんだって言うのよ!? 琥珀姉さまもひどいわ! 私との関係を知っておきながら、水波さまを寝取るだなんてっ!」
慧の横で亜琥がわっと泣きはじめる。
この泣き方を琥珀は知っていた。
亜琥が得意な泣き真似だ。
こうやって子どもの頃に亜琥が琥珀に意地悪をされたと泣きわめいたせいで、琥珀はやってもいないことを大人に叱られたことがある。
わざとらしく亜琥に弁明をした水波も、これが不倫であるかのように振る舞って琥珀を陥れようとしているのだろう。
最悪の芝居に巻き込まれてしまった琥珀は真っ青になって慧を見つめた。
亜琥の迫真の泣き真似を見下ろしていた慧の視線が琥珀に向く。
「信じられないな」
そのひと言は氷の刃のように鋭い響きを持っていた。

