常磐夫人の誕生日会当日。
琥珀は千鶴と相談して、慧の式神である朱雀を想起させる朱色のドレスを選んだ。
髪型も着物ではなくドレスとなると、いつもとは違う髪型になる。
まとめあげた髪には金色の羽の形をした髪飾りをして、化粧もドレスに合うように華やかなものに仕上げた。
支度を済ませて階段を降りて玄関へと向かう。
女性より男性の方が身支度に時間はかからないと知ってはいても、慧を待たせてしまったと思うと申し訳ない。
玄関に見えた慧の姿に琥珀はドレスの裾を持ち上げて、急いで駆け寄った。
「慧さま、お待たせいたしました」
「いや、大して待っていない」
日中は普段通りに仕事をしていた慧も、夜からの会に間に合うようにスーツに着替えていた。
普段は降ろしている前髪を掻き上げてつるりとしたきれいな額を出している髪型は、慧の端正な顔立ちを際立たせていて美しい。
今さらながらに、こんなにきれいな人の妻になったのかと呆けてしまうほどに慧はいい男に仕上がっていた。
「わあ、慧さま。本当にお美しいですね」
「それはこちらの台詞だ。琥珀さんはどんな着物やドレスでも着こなしてしまうのだな」
「あ、ありがとうございます」
慧に褒められると、いつも自分でも信じられないほどに頬が火照ってしまう。
顔から湯気が出ているのではないかと琥珀が心配になっていると、傍で控えていた宗一郎が笑顔ながらもこほんとわざとらしく咳払いをした。
「仲睦まじいところ、たいへん失礼いたします。馬車のご用意ができました」
「ああ。行こう、琥珀さん」
「はい」
海外では女性が男性をエスコートすることが常識であり、そのためかドレスは非情に動きづらく、ヒールの靴も不安定だ。
慧が自然に手を取って導いてくれることは照れくさくも嬉しかったが、距離がいつもより近いことにはドギマギしてしまう。
用意されていた馬車に乗り、到着した常盤邸の車寄せには既に多くの馬車が停まっており、次々に着飾った男女が馬車から降りてきているところだった。
「たくさん馬車が停まっていますね」
「夫人の誕生日会とはいえ、一年に一度の常盤元帥が主催する集まりだからな。軍の上層部だけでなく、政治家なんかも多く出席している。降りられるか? 俺に捕まって構わない」
「はい。ありがとうございます」
琥珀も慧にエスコートされて馬車を降りる。
夜でも明るいように明かりが灯された咲き誇る薔薇の香りに満ちた小路を歩いて行くと西洋風の屋敷があり、入ってすぐに案内された部屋は広々とした空間の天井に大きなシャンデリアが吊されたきらびやかなダンスホールだった。
「すてきなところですね」
「俺はなんとなく落ち着かないがな……。会がはじまる前に常盤元帥に挨拶をしておきたい。行こう」
慧に連れられて向かうと、常盤はすぐに慧に気が付いて歓迎してくれた。
隣にいた夫人も笑顔で琥珀の挨拶を受け入れてくれる。
練習をしたカーテシーを夫人はとても褒めてくれて、海外風のハグによる挨拶を戸惑いながらも受け入れた琥珀を常盤夫妻は気に入ってくれたようだった。
しかし、和やかな談笑の中で琥珀は鋭い視線が突き刺さるのを感じる。
敵意しか感じないまなざしにゾッとして、常盤夫妻に勘づかれないように気を付けつつもそちらを窺うと、そこには鬼の形相をして親指の爪を噛みながらこちらを睨む亜琥と、驚いた様子で口元を扇子で隠している雛子がいた。
雛子は景昭の妻として訪れたのだろうが、娘である亜琥はきっとそうではない。
亜琥の傍には他の人と話をしてはいるが、商家であり政治家の息子である水波がいる。
水波は亜琥に惚れているため、亜琥は彼のパートナーとして訪れたに違いない。
亜琥と目が合ったため、琥珀が礼儀として目礼をすると、亜琥が嫌悪をむきだしにした表情でこちらを睨むまなざしをさらに鋭くした。
雛子はそんな亜琥の横で、不快そうな表情で琥珀を見ている。
雛子も亜琥も、きっと琥珀が嫁ぎ先で幸せに暮らしているなどとは想像もしていなかったのだろう。
鬼神と呼ばれる恐ろしい夫の元で、怯えながら毎日を暮らしていると思っていたに違いない。
それなのに、慧の隣で穏やかに話す琥珀を見てしまったものだから、驚愕すると共に理不尽な怒りまで抱いているのだと琥珀はすぐに理解した。
常盤夫妻が他の招待客と話をはじめると、慧は仕事をやり遂げた様子で琥珀と共に会場の隅に寄る。
疲れた様子でため息をついた慧に、琥珀は少し笑ってしまった。
「お疲れさまでした」
「ああ。これで義務は果たしたな。琥珀さんも愛想良くしてくれて助かった。ありがとう」
「妻として当然のことですよ」
「……それから、あの二人の視線は気にしなくていい。薄墨第三師団長についてもだ」
あの二人というのは亜琥と雛子についてだろう。
あれだけ琥珀を見ている視線に、隣にいた慧が気が付かないわけがない。
会場を見渡すと、景昭は仕事上で付き合いがあるのだろう人物と何やら楽しげに話している。
一応娘である琥珀とその夫である慧を気に掛ける様子もない父の姿に、琥珀はもう傷つきもしなかった。
「大丈夫です。私はもう薄墨の人間ではありませんから」
辛かった日々はもう終わった。
今の琥珀は緋彩家で幸せに暮らすことを許されている。
亜琥と雛子の視線も、景昭の無関心も何も気にすることはない。
微笑んで慧を見つめ返すと、控えていた楽団が音楽を奏ではじめる。
優雅な音楽に、パートナーと連れだって周囲の人々がワルツを踊り始めるのを見て、慧も恭しく琥珀の前に手を差しだした。
「琥珀さん、手を」
「はい」
慧の手に手を重ね、身を寄せ合ってワルツを踊る。
何度も練習したことではあるが、やはり慧の体温とにおいを近くで感じると鼓動が早く鳴ることを抑えられない。
至近距離で目が合って、思わず琥珀が微笑むと、慧も目を細めるようにして少しだけ笑んでくれる。
あたたかな幸せを感じたままワルツを終えて会場の隅に戻るときには、幸せな夢から覚めたような寂しさがあった。
「無事にワルツも踊れたな」
「慧さまが根気よく練習に付き合ってくださったおかげです」
「あとは好きに過ごせば問題ない。何か甘いものでも食べに……」
「緋彩師団長。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
「どうした?」
慧は軽食を探しに行こうとしていたようだが、すぐに知人に捕まって何かを話しはじめてしまう。
(慧さま、おなかが空いてらっしゃるのかしら)
慧と知人の話は仕事上の真面目な話であり、琥珀が立ち入れるような雰囲気ではない。
何か慧のために甘いものを取ってこようと琥珀が会場を歩きはじめると、テーブル席の端に焼き菓子が置かれているのを見つけた。
甘い物を食べたがっていたため、慧もきっと喜んでくれるだろう。
人の間を縫って、その焼き菓子を目指して歩いていた琥珀の脳裏に、不意にセピア色の映像が浮かんだ。
琥珀が足早に歩き去った後に誰かがワインをこぼしてしまい、琥珀が被るはずだったワインが他の令嬢のドレスを汚してしまう映像だ。
――歩き続けろ。
頭の中で声はそう言ったが、それに従ってしまうと他の令嬢のドレスが汚れてしまう。
咄嗟に立ち止まってしまった琥珀は次の瞬間に肩から胸元にかけて、ワインを被ってしまった。
「きゃっ」
「ああ、すみません! つまずいてしまいまして。おやおや、これは琥珀さんではありませんかぁ」
突然冷たいワインを浴びたことに悲鳴を上げてしまった琥珀は、ワインをかけてきた相手を確認して目を見開く。
空になったグラスを持ち、気まずそうにしている糸目の優男に琥珀は声を震わせた。
「お久しぶりでございます。水波さま……」
琥珀は千鶴と相談して、慧の式神である朱雀を想起させる朱色のドレスを選んだ。
髪型も着物ではなくドレスとなると、いつもとは違う髪型になる。
まとめあげた髪には金色の羽の形をした髪飾りをして、化粧もドレスに合うように華やかなものに仕上げた。
支度を済ませて階段を降りて玄関へと向かう。
女性より男性の方が身支度に時間はかからないと知ってはいても、慧を待たせてしまったと思うと申し訳ない。
玄関に見えた慧の姿に琥珀はドレスの裾を持ち上げて、急いで駆け寄った。
「慧さま、お待たせいたしました」
「いや、大して待っていない」
日中は普段通りに仕事をしていた慧も、夜からの会に間に合うようにスーツに着替えていた。
普段は降ろしている前髪を掻き上げてつるりとしたきれいな額を出している髪型は、慧の端正な顔立ちを際立たせていて美しい。
今さらながらに、こんなにきれいな人の妻になったのかと呆けてしまうほどに慧はいい男に仕上がっていた。
「わあ、慧さま。本当にお美しいですね」
「それはこちらの台詞だ。琥珀さんはどんな着物やドレスでも着こなしてしまうのだな」
「あ、ありがとうございます」
慧に褒められると、いつも自分でも信じられないほどに頬が火照ってしまう。
顔から湯気が出ているのではないかと琥珀が心配になっていると、傍で控えていた宗一郎が笑顔ながらもこほんとわざとらしく咳払いをした。
「仲睦まじいところ、たいへん失礼いたします。馬車のご用意ができました」
「ああ。行こう、琥珀さん」
「はい」
海外では女性が男性をエスコートすることが常識であり、そのためかドレスは非情に動きづらく、ヒールの靴も不安定だ。
慧が自然に手を取って導いてくれることは照れくさくも嬉しかったが、距離がいつもより近いことにはドギマギしてしまう。
用意されていた馬車に乗り、到着した常盤邸の車寄せには既に多くの馬車が停まっており、次々に着飾った男女が馬車から降りてきているところだった。
「たくさん馬車が停まっていますね」
「夫人の誕生日会とはいえ、一年に一度の常盤元帥が主催する集まりだからな。軍の上層部だけでなく、政治家なんかも多く出席している。降りられるか? 俺に捕まって構わない」
「はい。ありがとうございます」
琥珀も慧にエスコートされて馬車を降りる。
夜でも明るいように明かりが灯された咲き誇る薔薇の香りに満ちた小路を歩いて行くと西洋風の屋敷があり、入ってすぐに案内された部屋は広々とした空間の天井に大きなシャンデリアが吊されたきらびやかなダンスホールだった。
「すてきなところですね」
「俺はなんとなく落ち着かないがな……。会がはじまる前に常盤元帥に挨拶をしておきたい。行こう」
慧に連れられて向かうと、常盤はすぐに慧に気が付いて歓迎してくれた。
隣にいた夫人も笑顔で琥珀の挨拶を受け入れてくれる。
練習をしたカーテシーを夫人はとても褒めてくれて、海外風のハグによる挨拶を戸惑いながらも受け入れた琥珀を常盤夫妻は気に入ってくれたようだった。
しかし、和やかな談笑の中で琥珀は鋭い視線が突き刺さるのを感じる。
敵意しか感じないまなざしにゾッとして、常盤夫妻に勘づかれないように気を付けつつもそちらを窺うと、そこには鬼の形相をして親指の爪を噛みながらこちらを睨む亜琥と、驚いた様子で口元を扇子で隠している雛子がいた。
雛子は景昭の妻として訪れたのだろうが、娘である亜琥はきっとそうではない。
亜琥の傍には他の人と話をしてはいるが、商家であり政治家の息子である水波がいる。
水波は亜琥に惚れているため、亜琥は彼のパートナーとして訪れたに違いない。
亜琥と目が合ったため、琥珀が礼儀として目礼をすると、亜琥が嫌悪をむきだしにした表情でこちらを睨むまなざしをさらに鋭くした。
雛子はそんな亜琥の横で、不快そうな表情で琥珀を見ている。
雛子も亜琥も、きっと琥珀が嫁ぎ先で幸せに暮らしているなどとは想像もしていなかったのだろう。
鬼神と呼ばれる恐ろしい夫の元で、怯えながら毎日を暮らしていると思っていたに違いない。
それなのに、慧の隣で穏やかに話す琥珀を見てしまったものだから、驚愕すると共に理不尽な怒りまで抱いているのだと琥珀はすぐに理解した。
常盤夫妻が他の招待客と話をはじめると、慧は仕事をやり遂げた様子で琥珀と共に会場の隅に寄る。
疲れた様子でため息をついた慧に、琥珀は少し笑ってしまった。
「お疲れさまでした」
「ああ。これで義務は果たしたな。琥珀さんも愛想良くしてくれて助かった。ありがとう」
「妻として当然のことですよ」
「……それから、あの二人の視線は気にしなくていい。薄墨第三師団長についてもだ」
あの二人というのは亜琥と雛子についてだろう。
あれだけ琥珀を見ている視線に、隣にいた慧が気が付かないわけがない。
会場を見渡すと、景昭は仕事上で付き合いがあるのだろう人物と何やら楽しげに話している。
一応娘である琥珀とその夫である慧を気に掛ける様子もない父の姿に、琥珀はもう傷つきもしなかった。
「大丈夫です。私はもう薄墨の人間ではありませんから」
辛かった日々はもう終わった。
今の琥珀は緋彩家で幸せに暮らすことを許されている。
亜琥と雛子の視線も、景昭の無関心も何も気にすることはない。
微笑んで慧を見つめ返すと、控えていた楽団が音楽を奏ではじめる。
優雅な音楽に、パートナーと連れだって周囲の人々がワルツを踊り始めるのを見て、慧も恭しく琥珀の前に手を差しだした。
「琥珀さん、手を」
「はい」
慧の手に手を重ね、身を寄せ合ってワルツを踊る。
何度も練習したことではあるが、やはり慧の体温とにおいを近くで感じると鼓動が早く鳴ることを抑えられない。
至近距離で目が合って、思わず琥珀が微笑むと、慧も目を細めるようにして少しだけ笑んでくれる。
あたたかな幸せを感じたままワルツを終えて会場の隅に戻るときには、幸せな夢から覚めたような寂しさがあった。
「無事にワルツも踊れたな」
「慧さまが根気よく練習に付き合ってくださったおかげです」
「あとは好きに過ごせば問題ない。何か甘いものでも食べに……」
「緋彩師団長。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
「どうした?」
慧は軽食を探しに行こうとしていたようだが、すぐに知人に捕まって何かを話しはじめてしまう。
(慧さま、おなかが空いてらっしゃるのかしら)
慧と知人の話は仕事上の真面目な話であり、琥珀が立ち入れるような雰囲気ではない。
何か慧のために甘いものを取ってこようと琥珀が会場を歩きはじめると、テーブル席の端に焼き菓子が置かれているのを見つけた。
甘い物を食べたがっていたため、慧もきっと喜んでくれるだろう。
人の間を縫って、その焼き菓子を目指して歩いていた琥珀の脳裏に、不意にセピア色の映像が浮かんだ。
琥珀が足早に歩き去った後に誰かがワインをこぼしてしまい、琥珀が被るはずだったワインが他の令嬢のドレスを汚してしまう映像だ。
――歩き続けろ。
頭の中で声はそう言ったが、それに従ってしまうと他の令嬢のドレスが汚れてしまう。
咄嗟に立ち止まってしまった琥珀は次の瞬間に肩から胸元にかけて、ワインを被ってしまった。
「きゃっ」
「ああ、すみません! つまずいてしまいまして。おやおや、これは琥珀さんではありませんかぁ」
突然冷たいワインを浴びたことに悲鳴を上げてしまった琥珀は、ワインをかけてきた相手を確認して目を見開く。
空になったグラスを持ち、気まずそうにしている糸目の優男に琥珀は声を震わせた。
「お久しぶりでございます。水波さま……」

