薄墨家の屋敷はほとんどが板の間であり、雛子も亜琥も洋装を好んだため、よくドレスを着ていたが、琥珀は数えるほどしかドレスを着たことがなかった。
雛子と亜琥に呼ばれた際にすぐ飛んで行って、何か仕事を押しつけられても着物の方が対応しやすかったこともあるが、高いドレスを買い与えられることなど琥珀にはなかったからだ。
日頃から着物を着慣れていたため、緋彩家に嫁入りした際に景昭から体面のために贈られたドレスもまだ袖を通していない。
そんな琥珀がワルツなど踊った経験があるはずもなく、常盤からの招待状に焦っていると宗一郎が教えてくれると申し出てくれた。
幸い、常盤夫人の誕生日会当日までにはまだ時間がある。
宗一郎が教えてくれるなら大丈夫だろうと安堵した琥珀だったが、なぜかそれは慧が却下してしまった。
「夜にはなるが、ワルツは俺が教える。琥珀さんは千鶴にカーテシーを教えてもらっておくといい。あれもコツがいると聞く。他の使用人からもワルツを教わろうとなどとはしなくていい。琥珀さんは俺としかワルツは踊らないのだからな」
そう言った慧を宗一郎がなぜか満面の笑みで見ていたのは不思議だったが、慧が教えてくれるのであれば問題はない。
慧とプリンを食べに行って、与えられた一週間の休日を終えた琥珀は翌日から早速カーテシーの練習をはじめることになった。
「わあ、琥珀さまはおきれいなのでドレスもお似合いですね!」
「ありがとう、千鶴」
自室の箪笥にしまい込んでいたドレスを千鶴に手伝ってもらって着付けた琥珀は鏡の前で頬を赤らめる。
普段は着ることがないドレス姿の自分は見慣れず、不安だった心を照らすように褒めてくれた千鶴の言葉は嬉しかった。
「では、早速カーテシーを教えます! まずは見ていてくださいね」
胸を張った千鶴も今日は着物ではなく、ワンピースを着ている。
改まった様子で姿勢を正し、千鶴はワンピースの裾を軽くつまんで広げて見事なカーテシーを披露する。
美しいカーテシーに琥珀は拍手を贈った。
「きれいね、千鶴」
「えへへ、ありがとうございます! コツはお相手から目を離さないことと、重心をしっかり保つことです。鏡を見てやってみるといいですよ」
「わかったわ」
千鶴がドレスに着替える際に宗一郎と一緒に持って来てくれた全身鏡を前に、琥珀も見よう見まねで覚えたカーテシーをやってみる。
鏡で客観的に見ると、千鶴よりも上半身の重心がずっと前に倒れてしまっていた。
「なかなか体を起こしたままカーテシーをするのは難しいのね」
「見た目よりずっと足の筋肉を使うんですよね。ですが、琥珀さまならきっとすぐにお上手になられますよ」
「がんばってみるわね」
夫人の誕生日会で、慧は琥珀を上司である常盤に紹介する必要があると言っていた。
みっともないカーテシーをして、慧に恥をかかせるわけにはいかない。
千鶴が女中の手伝いに行った後もずっと練習をしていた琥珀は、「やりすぎですよ~! もう今日の練習はおしまいです!」と千鶴に止められるまで励み、その後は少しお茶や読書をしてゆっくり過ごした。
まだまだがんばりすぎてしまう癖は抜けないが、最近は休むということを楽しめるようになってきている。
穏やかな時間を過ごしていてもそわそわと感じることが減ったのは、慧が気に掛けてくれたおかげだ。
深雪の死に顔をまた夢で見たとしても、頼れる人がいる。
そう思えたことが理由だからか、最近は悪夢も見ずに済んでいた。
夜になり、琥珀が部屋で本を読んで過ごしていると、ドアを叩く音がする。
机に本を置いて返事をすると、ドアを開けた軍服姿の慧がそのまま動きを止めた。
「おかえりなさいませ、慧さま。どうかされましたか?」
ドアノブを握ったままじっとしている慧に首を傾げる。
慧の視線が自分に釘付けであることに気付き、琥珀は着ているドレスを見下ろした。
「あの、どこか、おかしいでしょうか?」
「いや、おかしくない。ドレスを着てもきれいなのだなと、少し驚いただけだ」
ぼそっと言いながら慧が部屋に入ってくる。
率直に褒められたことが照れくさくて、顔が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます」
「……カーテシーはうまくできるようになったか?」
「少しはマシになったかと。ですが、まだまだ練習は必要そうです」
「そうか。琥珀さんはがんばりすぎるからな。無理はしないように」
「はい」
優しい声かけに、胸がきゅっと苦しくなる。
歩み寄ってきた慧はいつもより近い距離で琥珀の前に立った。
「ワルツの練習をしに来た。俺と踊ってもらえるか?」
「……喜んで」
慧が差し出した手に手を重ねる。
琥珀の手より慧の手は体温が高く、皮膚が厚くて硬い。
男らしい手にドキドキしていると、そっと慧が背に手を添えてきてあまりの近さに心臓がせり上がってきているような感覚がした。
「琥珀さんも、俺の背に手を」
「あっ、は、はい」
緊張したまま慧の背中に手を滑らせる。
筋肉の厚みを感じるたくましい背中の感触に目が回りそうになる。
「難しいステップはない。俺に身を預けて、体を揺らすだけでいい」
「はいっ……」
背に回していない方の手は伸ばした腕の先で慧の大きな手に包み込まれている。
身長差から慧の胸元に顔が来るため、どこか甘さを感じる慧の香りがする。
言われたとおりに慧の体の動きに合わせてステップを踏んでいたが、こんなにもドキドキしていることが知られてしまったらと思うと気が気ではなかった。
「大丈夫か?」
「えっ……?」
思わず顔を上げると至近距離で目が合ってしまう。
耳元で心臓が鳴っているのではないかと思うほどに鼓動の音が大きい。
じわじわと顔が熱くなるのを感じて、琥珀は戸惑った。
「顔が赤い。体調が悪いなら今日はもうやめておこう」
「あの、違うんです。私……、ドキドキしてしまって。心臓の音が、聞こえてしまっていませんか?」
「……琥珀さんの耳の方が俺の心臓に近い。聞こえていないか俺の方が心配していた」
珍しく困ったように眉を下げて慧が言う。
確かに琥珀の耳の方が慧の胸元に近い。
慧も琥珀と同じようにドキドキしているのかと思うと、胸に耳をくっつけてみたくなったが、そんなことをしたら自分の心臓が保たない気がした。
「慧さまも同じなら、大丈夫ですね」
「ああ。ワルツは十分うまいが、もう少し、がんばれそうか?」
「はい」
ワルツのステップは簡単で、慧に身を任せていれば困ることなどなかった。
それでも琥珀は、練習後に誕生日会当日まで時間があれば慧にワルツを教えてほしいとお願いしてみた。
慧も、琥珀にはもう練習の必要がないことはわかっていただろう。
それでも「ああ。わかった」と言って、当日まで毎晩ワルツの練習をしに来てくれた慧との時間は琥珀にとって幸せなものだった。
雛子と亜琥に呼ばれた際にすぐ飛んで行って、何か仕事を押しつけられても着物の方が対応しやすかったこともあるが、高いドレスを買い与えられることなど琥珀にはなかったからだ。
日頃から着物を着慣れていたため、緋彩家に嫁入りした際に景昭から体面のために贈られたドレスもまだ袖を通していない。
そんな琥珀がワルツなど踊った経験があるはずもなく、常盤からの招待状に焦っていると宗一郎が教えてくれると申し出てくれた。
幸い、常盤夫人の誕生日会当日までにはまだ時間がある。
宗一郎が教えてくれるなら大丈夫だろうと安堵した琥珀だったが、なぜかそれは慧が却下してしまった。
「夜にはなるが、ワルツは俺が教える。琥珀さんは千鶴にカーテシーを教えてもらっておくといい。あれもコツがいると聞く。他の使用人からもワルツを教わろうとなどとはしなくていい。琥珀さんは俺としかワルツは踊らないのだからな」
そう言った慧を宗一郎がなぜか満面の笑みで見ていたのは不思議だったが、慧が教えてくれるのであれば問題はない。
慧とプリンを食べに行って、与えられた一週間の休日を終えた琥珀は翌日から早速カーテシーの練習をはじめることになった。
「わあ、琥珀さまはおきれいなのでドレスもお似合いですね!」
「ありがとう、千鶴」
自室の箪笥にしまい込んでいたドレスを千鶴に手伝ってもらって着付けた琥珀は鏡の前で頬を赤らめる。
普段は着ることがないドレス姿の自分は見慣れず、不安だった心を照らすように褒めてくれた千鶴の言葉は嬉しかった。
「では、早速カーテシーを教えます! まずは見ていてくださいね」
胸を張った千鶴も今日は着物ではなく、ワンピースを着ている。
改まった様子で姿勢を正し、千鶴はワンピースの裾を軽くつまんで広げて見事なカーテシーを披露する。
美しいカーテシーに琥珀は拍手を贈った。
「きれいね、千鶴」
「えへへ、ありがとうございます! コツはお相手から目を離さないことと、重心をしっかり保つことです。鏡を見てやってみるといいですよ」
「わかったわ」
千鶴がドレスに着替える際に宗一郎と一緒に持って来てくれた全身鏡を前に、琥珀も見よう見まねで覚えたカーテシーをやってみる。
鏡で客観的に見ると、千鶴よりも上半身の重心がずっと前に倒れてしまっていた。
「なかなか体を起こしたままカーテシーをするのは難しいのね」
「見た目よりずっと足の筋肉を使うんですよね。ですが、琥珀さまならきっとすぐにお上手になられますよ」
「がんばってみるわね」
夫人の誕生日会で、慧は琥珀を上司である常盤に紹介する必要があると言っていた。
みっともないカーテシーをして、慧に恥をかかせるわけにはいかない。
千鶴が女中の手伝いに行った後もずっと練習をしていた琥珀は、「やりすぎですよ~! もう今日の練習はおしまいです!」と千鶴に止められるまで励み、その後は少しお茶や読書をしてゆっくり過ごした。
まだまだがんばりすぎてしまう癖は抜けないが、最近は休むということを楽しめるようになってきている。
穏やかな時間を過ごしていてもそわそわと感じることが減ったのは、慧が気に掛けてくれたおかげだ。
深雪の死に顔をまた夢で見たとしても、頼れる人がいる。
そう思えたことが理由だからか、最近は悪夢も見ずに済んでいた。
夜になり、琥珀が部屋で本を読んで過ごしていると、ドアを叩く音がする。
机に本を置いて返事をすると、ドアを開けた軍服姿の慧がそのまま動きを止めた。
「おかえりなさいませ、慧さま。どうかされましたか?」
ドアノブを握ったままじっとしている慧に首を傾げる。
慧の視線が自分に釘付けであることに気付き、琥珀は着ているドレスを見下ろした。
「あの、どこか、おかしいでしょうか?」
「いや、おかしくない。ドレスを着てもきれいなのだなと、少し驚いただけだ」
ぼそっと言いながら慧が部屋に入ってくる。
率直に褒められたことが照れくさくて、顔が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます」
「……カーテシーはうまくできるようになったか?」
「少しはマシになったかと。ですが、まだまだ練習は必要そうです」
「そうか。琥珀さんはがんばりすぎるからな。無理はしないように」
「はい」
優しい声かけに、胸がきゅっと苦しくなる。
歩み寄ってきた慧はいつもより近い距離で琥珀の前に立った。
「ワルツの練習をしに来た。俺と踊ってもらえるか?」
「……喜んで」
慧が差し出した手に手を重ねる。
琥珀の手より慧の手は体温が高く、皮膚が厚くて硬い。
男らしい手にドキドキしていると、そっと慧が背に手を添えてきてあまりの近さに心臓がせり上がってきているような感覚がした。
「琥珀さんも、俺の背に手を」
「あっ、は、はい」
緊張したまま慧の背中に手を滑らせる。
筋肉の厚みを感じるたくましい背中の感触に目が回りそうになる。
「難しいステップはない。俺に身を預けて、体を揺らすだけでいい」
「はいっ……」
背に回していない方の手は伸ばした腕の先で慧の大きな手に包み込まれている。
身長差から慧の胸元に顔が来るため、どこか甘さを感じる慧の香りがする。
言われたとおりに慧の体の動きに合わせてステップを踏んでいたが、こんなにもドキドキしていることが知られてしまったらと思うと気が気ではなかった。
「大丈夫か?」
「えっ……?」
思わず顔を上げると至近距離で目が合ってしまう。
耳元で心臓が鳴っているのではないかと思うほどに鼓動の音が大きい。
じわじわと顔が熱くなるのを感じて、琥珀は戸惑った。
「顔が赤い。体調が悪いなら今日はもうやめておこう」
「あの、違うんです。私……、ドキドキしてしまって。心臓の音が、聞こえてしまっていませんか?」
「……琥珀さんの耳の方が俺の心臓に近い。聞こえていないか俺の方が心配していた」
珍しく困ったように眉を下げて慧が言う。
確かに琥珀の耳の方が慧の胸元に近い。
慧も琥珀と同じようにドキドキしているのかと思うと、胸に耳をくっつけてみたくなったが、そんなことをしたら自分の心臓が保たない気がした。
「慧さまも同じなら、大丈夫ですね」
「ああ。ワルツは十分うまいが、もう少し、がんばれそうか?」
「はい」
ワルツのステップは簡単で、慧に身を任せていれば困ることなどなかった。
それでも琥珀は、練習後に誕生日会当日まで時間があれば慧にワルツを教えてほしいとお願いしてみた。
慧も、琥珀にはもう練習の必要がないことはわかっていただろう。
それでも「ああ。わかった」と言って、当日まで毎晩ワルツの練習をしに来てくれた慧との時間は琥珀にとって幸せなものだった。

