茂正は大太刀と和颯の存在に気づくと目を見開く。そして、その後ろにいた紫穂の存在にややして気づいたようで紫穂に険しい視線を向けた。
「これはこれは和颯殿、こんばんは。大太刀とは物騒だな」
「ええ、こんばんは、茂正殿。夫人が俺を烏藤和颯と信じてくださらないので証明いたしました」
「うちの妻と……娘がご迷惑をおかけしたようだ。すぐに連れて帰る……ほら、紫穂」
しかし紫穂は動かない。動けない。
ここで帰ったら、どこかに嫁入りの日まで閉じ込められる未来が見える。
「紫穂」
苛立ったように茂正が言う。
その傍らにいた百代は母の多江に駆け寄り、身体を起こすのを手伝っていた。
そして、多江を助けると百代も口を開いた。
「姉が申し訳ありません、和颯様」
いつもは呼び捨てなのにこんな時は姉と呼ぶ百代。
「夫人が結婚云々とおっしゃっていたが」
和颯が訊ねる。
「ええ、和颯様。姉はもうすぐ嫁入りいたしますのよ? それが家族で出かけていたら姉が迷子になってしまいましたの。みんなで探しておりましたの」
「百代の言う通りだ。さて、紫穂。家に帰るぞ」
和颯が紫穂にしか聞こえないくらいの声量でささやく。
「帰りたい?」
紫穂はすぐに首を横に振る。
「帰りたくないです」
「わかった」
そっと、優しく。でも、どこか強引に和颯に引き寄せられる。
(……!?)
紫穂はひどく驚いたが抵抗しなかった。
そして、そのまま柔らかいものが口に触れた。
接吻されていると気づくのに少し要した。
(え!? ……え!?)
紫穂は顔が赤くなるのが自分でもわかった。初めての口づけ。今日会ったばかりの男性。でもなぜだろう。嫌ではなかった。
「紫穂ちゃんと俺はこういう仲なのでお引き取りを。彼女は俺と結婚しますので」
茂正、多江、百代は、一様にぽかんと口を開けていた。それがなんだかおかしかった。
(紫穂ちゃん……? いや、そうじゃなくて何で口づけ!?)
紫穂が混乱しているうちに和颯が話を続ける。
「よろしいですか?」
「あ、いや、よ、よろしくない!」
最初に正気に返ったのは茂正だ。
「うちの娘にはすでに相手が……」
和颯がちらりと紫穂の着物と足元を見る。
「……百代さん」
「えっ、何でしょう?」
「あなたは家族で出かけていたら紫穂ちゃんが迷子になったと言ったな?」
「はい、その通りです」
「嘘だね」
きっぱりと和颯が断言する。
「まさか。本当です」
「だが、そのお出かけとやらは徒歩ではないよね?」
「もちろんです。馬車で……」
「ではなぜ、紫穂ちゃんの草履はぼろぼろなのかな? 柳家からここまで歩いてきたからだ。それに継ぎ接ぎだらけの木綿の着物だ」
「それはこの子はおてんばで。汚していい服装を普段からしているのよ」
そう言ったのは多江だ。
「だとしても、わざわざお出かけでこんな格好はするはずがない。それに手のあかぎれはどう言い訳するつもりです? 髪や肌も手入れがされていない」
「……」
茂正、百代、多江の三人はその言葉に黙ったが、やがて茂正が声を上げた。
「とにかく、我が家の事情は和颯殿に関係ない! 紫穂を返してもらう」
「それは出来ません」
「な!?」
「言ったでしょう? 恋仲だと」
「だからといって――」
茂正の言葉を和颯は遮って笑顔で言った。
「ほら、さっきキスしたでしょう」
「あっ」
茂正の顔が見る見る青くなる。
「ほら、周りに人が」
和颯が視線を向けた先にはこの騒動に興味津々といった風情の幾人かの人々。
「みんな、紫穂ちゃんと俺のキスを見ていましたよね?」
やっと紫穂は和颯が言いたいことに気づく。
この桜国では口づけ程度でも、してしまえば責任を取るのが誠実な態度とされる。そして、結婚前に接吻はふしだらだ何だとすら言われるのだ。要は嫁の貰い手が少なくなる。特にそれなり以上の家だとほぼなくなる。接吻した相手と結婚するしかない。
また柳家がこの件を隠して紫穂を水山家に嫁がせたら一騒動起こる可能性がある。
しかも顛末を見ていた野次馬たちがいる。水山家に隠し通せるか怪しい。
「…………それ相応の金は払ってもらうぞ」
「わかりました」
和颯が同意する。
「え? お父様!?」
「あなた!?」
茂正の発言に百代と多江が驚きの声を上げる。
「ひとまず帰るぞ」
「でも……!」
「百代!」
茂正は妻と娘の腕を引っ張って、去っていった。その際、百代の憎々しげな視線を紫穂は感じたのだった。
★☆★☆
(誰これ?)
鏡に映る自分をまじまじと見る。
あれから屋敷の中に連れて行かれ、風呂を勧められそのまま入った。一瞬、断ろうとしたのだが、あまりに自分が汚い格好をしていることに気づき彼の言う通りにしたのだ。
風呂から出ると女中は、あかぎれに効くという塗り薬をくれた。
そして、次に新しい襦袢や着物を着せられた。
「よくお似合いですよ」
女中は笑顔で言ったが、お世辞であろうと紫穂は思った。
そして、部屋の一室に案内されたのだ。
部屋は洋室。
そもそも、この烏藤の洋館には和室はないのかもしれない。
ふかふかのベッドも備え付けられている。他にはテーブルや椅子、クローゼットもある。
そして、化粧台の鏡を発見して目の前に立ってみたのだ。
鏡の中の少女は水色の着物を着ている。髪には流行りの大きな水色のリボン。
汚れはすっかり落ちていて、その姿はいつもと別人のようだ。
鏡から離れ、ぽすんとベッドに腰掛ける。
「ふかふか……」
いつもは畳に直に寝ていた。
しかもベッドなんて初めてだ。
手でベッドを押してみる。手がベッドに沈んでいく。
(それにしても……和颯さんはどういうおつもりなのだろう?)
助けてくれたことには感謝している。口づけも柳家から紫穂を引き離すためにしてくれたことだろう。
本気で紫穂と結婚するつもりとは思えない。
紫穂が唸っていると部屋の外から声が聞こえた。
「紫穂ちゃん、入っていいかな?」
和颯の声。
「は、はい! もちろんです!」
和颯の家なのだから許可を取る必要などないだろうに。そう思いつつ、立ち上がって返事をする。
扉が開いて、中に和颯が入ってきた。
相変わらず書生のような出で立ち。そして肩にはあの小鳥。頭は黄色で身体は灰色。しかし正体は八咫烏。その鳥は紫穂を見ると、紫穂の肩に飛び乗ってきた。
不思議と嫌な感じはしない。ふふっと紫穂は八咫烏に微笑んだ。
和颯はお盆を持っていた。ポットとティーカップが乗っている。
「私が……」
持ちます、と言おうとしたがさっさっと和颯はテーブルにそれらを置いて紅茶を手早く淹れてしまった。
「色々話があるからね。とりあえず座って」
和颯はさっと椅子に座る。おずおずと紫穂もテーブルを挟み、和颯の正面に座る。
和颯はニコリと笑う。
「着物、よく似合ってるよ。リボンも。可愛いよ」
「えっ」
可愛い、と言われて戸惑う。そんなこと言われたのは五年振りだ。
「急いで買ってきたものだから俺の趣味でごめんね。今度、紫穂ちゃんが好きなのを買いに行こう」
(今度買いにいく? というかわざわざこの着物買ってきてくれたんだ……? 女中候補のために?)
紫穂の頭にいくつもの疑問符が浮かぶ。紫穂に口づけしたのはあくまで柳家から引き離すためであり和颯は結婚するつもりなど毛頭ないだろうと思っていた。もしかしたら女中として雇ってくれるつもりかもしれないが。
「さっきは、接吻してごめんね」
和颯の言葉を紫穂は否定する。
「いえ。むしろ助かりました。あれで父が諦めて帰ってくれましたし。……色々とありがとうございました。結婚してくれると演技してくださったのもお着物もリボンも。図々しいお願いと承知ですが、ここで女中として雇っていただけませんか? 女中募集の広告を見てここまで来たのです。お着物やリボンの代金もお給料からお返しします」
深く頭を下げる。
和颯がおかしそうに言う。
「演技? 演技じゃないよ。俺は本気だよ」
「えっ……」
紫穂は思わず顔を上げる。
宝石のような琥珀の瞳と視線があって、ドキリとする。
「俺と結婚しよう、紫穂ちゃん」
「これはこれは和颯殿、こんばんは。大太刀とは物騒だな」
「ええ、こんばんは、茂正殿。夫人が俺を烏藤和颯と信じてくださらないので証明いたしました」
「うちの妻と……娘がご迷惑をおかけしたようだ。すぐに連れて帰る……ほら、紫穂」
しかし紫穂は動かない。動けない。
ここで帰ったら、どこかに嫁入りの日まで閉じ込められる未来が見える。
「紫穂」
苛立ったように茂正が言う。
その傍らにいた百代は母の多江に駆け寄り、身体を起こすのを手伝っていた。
そして、多江を助けると百代も口を開いた。
「姉が申し訳ありません、和颯様」
いつもは呼び捨てなのにこんな時は姉と呼ぶ百代。
「夫人が結婚云々とおっしゃっていたが」
和颯が訊ねる。
「ええ、和颯様。姉はもうすぐ嫁入りいたしますのよ? それが家族で出かけていたら姉が迷子になってしまいましたの。みんなで探しておりましたの」
「百代の言う通りだ。さて、紫穂。家に帰るぞ」
和颯が紫穂にしか聞こえないくらいの声量でささやく。
「帰りたい?」
紫穂はすぐに首を横に振る。
「帰りたくないです」
「わかった」
そっと、優しく。でも、どこか強引に和颯に引き寄せられる。
(……!?)
紫穂はひどく驚いたが抵抗しなかった。
そして、そのまま柔らかいものが口に触れた。
接吻されていると気づくのに少し要した。
(え!? ……え!?)
紫穂は顔が赤くなるのが自分でもわかった。初めての口づけ。今日会ったばかりの男性。でもなぜだろう。嫌ではなかった。
「紫穂ちゃんと俺はこういう仲なのでお引き取りを。彼女は俺と結婚しますので」
茂正、多江、百代は、一様にぽかんと口を開けていた。それがなんだかおかしかった。
(紫穂ちゃん……? いや、そうじゃなくて何で口づけ!?)
紫穂が混乱しているうちに和颯が話を続ける。
「よろしいですか?」
「あ、いや、よ、よろしくない!」
最初に正気に返ったのは茂正だ。
「うちの娘にはすでに相手が……」
和颯がちらりと紫穂の着物と足元を見る。
「……百代さん」
「えっ、何でしょう?」
「あなたは家族で出かけていたら紫穂ちゃんが迷子になったと言ったな?」
「はい、その通りです」
「嘘だね」
きっぱりと和颯が断言する。
「まさか。本当です」
「だが、そのお出かけとやらは徒歩ではないよね?」
「もちろんです。馬車で……」
「ではなぜ、紫穂ちゃんの草履はぼろぼろなのかな? 柳家からここまで歩いてきたからだ。それに継ぎ接ぎだらけの木綿の着物だ」
「それはこの子はおてんばで。汚していい服装を普段からしているのよ」
そう言ったのは多江だ。
「だとしても、わざわざお出かけでこんな格好はするはずがない。それに手のあかぎれはどう言い訳するつもりです? 髪や肌も手入れがされていない」
「……」
茂正、百代、多江の三人はその言葉に黙ったが、やがて茂正が声を上げた。
「とにかく、我が家の事情は和颯殿に関係ない! 紫穂を返してもらう」
「それは出来ません」
「な!?」
「言ったでしょう? 恋仲だと」
「だからといって――」
茂正の言葉を和颯は遮って笑顔で言った。
「ほら、さっきキスしたでしょう」
「あっ」
茂正の顔が見る見る青くなる。
「ほら、周りに人が」
和颯が視線を向けた先にはこの騒動に興味津々といった風情の幾人かの人々。
「みんな、紫穂ちゃんと俺のキスを見ていましたよね?」
やっと紫穂は和颯が言いたいことに気づく。
この桜国では口づけ程度でも、してしまえば責任を取るのが誠実な態度とされる。そして、結婚前に接吻はふしだらだ何だとすら言われるのだ。要は嫁の貰い手が少なくなる。特にそれなり以上の家だとほぼなくなる。接吻した相手と結婚するしかない。
また柳家がこの件を隠して紫穂を水山家に嫁がせたら一騒動起こる可能性がある。
しかも顛末を見ていた野次馬たちがいる。水山家に隠し通せるか怪しい。
「…………それ相応の金は払ってもらうぞ」
「わかりました」
和颯が同意する。
「え? お父様!?」
「あなた!?」
茂正の発言に百代と多江が驚きの声を上げる。
「ひとまず帰るぞ」
「でも……!」
「百代!」
茂正は妻と娘の腕を引っ張って、去っていった。その際、百代の憎々しげな視線を紫穂は感じたのだった。
★☆★☆
(誰これ?)
鏡に映る自分をまじまじと見る。
あれから屋敷の中に連れて行かれ、風呂を勧められそのまま入った。一瞬、断ろうとしたのだが、あまりに自分が汚い格好をしていることに気づき彼の言う通りにしたのだ。
風呂から出ると女中は、あかぎれに効くという塗り薬をくれた。
そして、次に新しい襦袢や着物を着せられた。
「よくお似合いですよ」
女中は笑顔で言ったが、お世辞であろうと紫穂は思った。
そして、部屋の一室に案内されたのだ。
部屋は洋室。
そもそも、この烏藤の洋館には和室はないのかもしれない。
ふかふかのベッドも備え付けられている。他にはテーブルや椅子、クローゼットもある。
そして、化粧台の鏡を発見して目の前に立ってみたのだ。
鏡の中の少女は水色の着物を着ている。髪には流行りの大きな水色のリボン。
汚れはすっかり落ちていて、その姿はいつもと別人のようだ。
鏡から離れ、ぽすんとベッドに腰掛ける。
「ふかふか……」
いつもは畳に直に寝ていた。
しかもベッドなんて初めてだ。
手でベッドを押してみる。手がベッドに沈んでいく。
(それにしても……和颯さんはどういうおつもりなのだろう?)
助けてくれたことには感謝している。口づけも柳家から紫穂を引き離すためにしてくれたことだろう。
本気で紫穂と結婚するつもりとは思えない。
紫穂が唸っていると部屋の外から声が聞こえた。
「紫穂ちゃん、入っていいかな?」
和颯の声。
「は、はい! もちろんです!」
和颯の家なのだから許可を取る必要などないだろうに。そう思いつつ、立ち上がって返事をする。
扉が開いて、中に和颯が入ってきた。
相変わらず書生のような出で立ち。そして肩にはあの小鳥。頭は黄色で身体は灰色。しかし正体は八咫烏。その鳥は紫穂を見ると、紫穂の肩に飛び乗ってきた。
不思議と嫌な感じはしない。ふふっと紫穂は八咫烏に微笑んだ。
和颯はお盆を持っていた。ポットとティーカップが乗っている。
「私が……」
持ちます、と言おうとしたがさっさっと和颯はテーブルにそれらを置いて紅茶を手早く淹れてしまった。
「色々話があるからね。とりあえず座って」
和颯はさっと椅子に座る。おずおずと紫穂もテーブルを挟み、和颯の正面に座る。
和颯はニコリと笑う。
「着物、よく似合ってるよ。リボンも。可愛いよ」
「えっ」
可愛い、と言われて戸惑う。そんなこと言われたのは五年振りだ。
「急いで買ってきたものだから俺の趣味でごめんね。今度、紫穂ちゃんが好きなのを買いに行こう」
(今度買いにいく? というかわざわざこの着物買ってきてくれたんだ……? 女中候補のために?)
紫穂の頭にいくつもの疑問符が浮かぶ。紫穂に口づけしたのはあくまで柳家から引き離すためであり和颯は結婚するつもりなど毛頭ないだろうと思っていた。もしかしたら女中として雇ってくれるつもりかもしれないが。
「さっきは、接吻してごめんね」
和颯の言葉を紫穂は否定する。
「いえ。むしろ助かりました。あれで父が諦めて帰ってくれましたし。……色々とありがとうございました。結婚してくれると演技してくださったのもお着物もリボンも。図々しいお願いと承知ですが、ここで女中として雇っていただけませんか? 女中募集の広告を見てここまで来たのです。お着物やリボンの代金もお給料からお返しします」
深く頭を下げる。
和颯がおかしそうに言う。
「演技? 演技じゃないよ。俺は本気だよ」
「えっ……」
紫穂は思わず顔を上げる。
宝石のような琥珀の瞳と視線があって、ドキリとする。
「俺と結婚しよう、紫穂ちゃん」
