黒蝶の巫女と最強退魔師の婚約  死蝶は呪われた退魔師と謎を解く

 吐き出す息が白い。
 あかぎれだらけの手が震えた。
 井戸から汲んできた水は、氷のように冷たかった。
 洗濯物はたくさんある。
 洗濯板と石鹸を使って洗っていく。曇天の下、洗濯しているのは紫穂|《しほ》ただ一人。
 百代(ももよ)が他の女中に『紫穂一人で十分よ? お前たちは他の仕事をしなさい』と命じたからだ。
 洗っているのは主に木綿の浴衣や手巾などであるので解き洗いの必要がないのが不幸中の幸いか。木綿の浴衣は着物としては洗濯の負担が少ない。
 紫穂が着ているものも木綿の継ぎ接ぎだらけの着物だ。
 とはいえ、わざわざ冬に、それも一度に大量に紫穂だけに洗濯物を命じるなど嫌がらせでしかないのだが。
 ちらちらと女中たちの視線を感じるが、紫穂に声をかけることはない。
 この家の主人たる茂正(しげまさ)は紫穂の立場に興味は薄い。そして女主人の多江(たえ)と跡取りの百代が紫穂を嫌っているのだ。
 そして紫穂が『無能』というのは使用人たちも知っていた。だが黒蝶、ということまでは知らない。ただの『無能』より家の恥だとして茂正が家族全員に誰にも言わないよう言ったからだ。

 柳家に仕える使用人たちが紫穂の扱われ方について口出ししてくることはなかった。
 わざわざ虐めてこないが、助けもしない。
 それがこの家の使用人と紫穂の距離感である。

 洗濯をどうにか終えるころには夕方になっていた。

 それが一通り終わると紫穂はため息をついた。竹竿には大量の洗濯物が干されている。

「あら、紫穂。こんなに時間がかかったの?」

 鈴の鳴るような可愛いらしい声が背後からして、紫穂は振り返る。花柄の銘仙をまとう百代。黒髪には赤い大きなリボン。くりくりした大きな瞳が紫穂を見つめていた。
 あれから五年。十七歳の百代はとても可愛らしく成長していた。

「百代……様」
「さすが無能の死蝶。洗濯物さえろくに出来ないの? 今日中に乾かないんじゃない?」

 早めに終わっても今日は曇り空。どちらにしろ乾いたか怪しいもの。
 しかし、言い訳をしてもろくなことにならない。

「……」
「本当、無能ねぇ」

 百代が目を細める。
 
「謝ることも出来ないの?」

 百代が何かを唱えた。

「――」

 すると、紫穂は恐ろしいほどの頭痛に襲われた。

「……っ!」

 思わずその場にへたりこむ。百代が紫穂に術をかけたのだ。本来なら妖魔にかけるための術を。夢見鳥の巫女は前線に出ないが、万が一、妖魔と対峙した時のために退魔術をある程度習うのだ。

(痛い。……百代は白蝶を操り、こんな術まで……お父様にも期待されて……)

 正直に言えば、羨ましいのだと思う。紫穂が失ったものを、代わりに百代はすべて手に入れた。
 紫穂も父に期待され、術を習い夢見鳥の巫女となりたかったのに。
 身体より、むしろ心が痛む。
 
「……ごめんなさい」
「家事くらい出来なくてどうするの? 次は皿洗いでもしてきなさい。女中たちにはそれは紫穂がやるからお前たちはする必要ないって言っておいてあげたわ。……私はこれから劇を観に行って、呉服屋で買い物するわ。紫穂はせいぜいちゃんと仕事をしなさいよ?」

 ふふっと百代が笑ってから去っていった。
 紫穂はその背中が完全に見えなくなると、今度は台所に向かった。
 そして黙々と一人、皿洗いをしていく。
 これまた洗い物が大量にあった。百代や多江がわざとそうしたのかもしれない。いつものことではあるのだが。
 頬の痛みは取れてきた。
 しかし、胸の痛みは取れない。

(お母様。私、どうすればいいの? ずっとこのまま?)

 五年前、黒蝶を顕現させてしまってからこの調子だ。

 昔は、もしかしたら継母の多江と異母妹の百代と仲良く出来ると思っていた。
 しかしそれは甘い考えだった。
 父も助けてはくれない。

(昔に帰りたい。お母様が生きていた頃に……)

 そんなことは叶わないというのに。
 紫穂の目に涙が浮かぶ。

「……」

 どうにか涙を止めて、紫穂は皿を洗い続けるのだった。

 すべてが終わったころには真夜中になっており、紫穂は音を立てないようにそろりそろりと廊下を歩いた。
 紫穂の寝る場所は女中部屋と決まっている。
 元々、生活していた部屋からは五年前に追い出された。
 柳家には女中部屋がいくつかあり、最も古めかしく日当たりが悪い場所をあてがわれていた。
 とはいえ、他の女中はいない。
 さすがに真っ当な扱いをされていないとはいえ『お嬢様』と一緒の部屋に寝起きするのは女中たちが嫌がったらしい。
 多江は舌打ちしながらも、紫穂に今はもう使わていない女中部屋に住ませた。
 そっと、襖を開けて部屋に滑り込む。
 畳の上に座り込む。

「寒い……」

 布団すらない。着物は木綿のみ。

(いつまでこの生活が続くのだろう。まさか……死ぬまで?)

 その考えに至ってぞっとする。
 紫穂を娶りたいなんて男はいないだろう。
 職業婦人になるにしても雇って貰えるのか。

(尋常小学校は出たけど女学校は行ってないから教師にはなれないし……工場で働くとか?)

 だが、そもそも家から出して貰えるのだろうか。
 『死蝶』は外に出したら恥。家で飼い殺しなんて、もしかしたら茂正は考えているかも知れない。
 紫穂は気分が沈む。
 五年前、あの黒蝶を美しいと思ってしまった。
 しかし、黒蝶のせいでこんなことになってしまった。あれから一度も黒蝶は顕現させていない。

(どうして他の蝶じゃなかったの……?)

 最高位の白蝶、とまでは言わない。
 黄蝶や紅蝶だったら、と思う。
 紫穂は首を横に振ってから、横になった。
 どうしようもならないことを考えてもしかたあるまい。
 明日も早いのだ。
 少しでも寝なくては。
 紫穂はそっと目を閉じたのだった。

★☆★☆

「このみそ汁、まずいわね。紫穂が作ったものでしょ? 料理も出来ないの? そんなんじゃお嫁に行けないわよ? あ、紫穂と結婚したいなんて殿方なんていなかったわね」

 翌朝。朝食の場にてみそ汁をすすった後に、百代は楽しげに言う。

「そうねぇ、百代とは結婚したいって男性がたくさんいるけれど『無能』な娘と結婚したいなんて変わり者はいないわよ」

 多江がニコニコ笑いながら百代に同意する。
 茂正は何も言わずに時折、新聞を読みながら白米を食べていた。
 紫穂がどう言われようがどうでもいいのだろう。

「まったくですわね」

 やれやれと言わんばかりに百代がつぶやく。

「あ、そうだ」

 百代がにぃっと口の端を上げた。

「ねぇ、朝食はまだでしょう、紫穂?」

 紫穂は朝早くから炊事掃除などを言いつけられているので基本的に朝食は食べていない。まだ、ですらない。

「……はい」

 だが紫穂は短くそう答えた。

「これ、食べてもいいわよ?」

 そう言って百代はみそ汁を紫穂のほうに押しやった。

「えっ」

 何を百代が考えているか分からず戸惑う。

「だから食べていいわよ?」
「……」
「早く受け取りなさいよ」
「は、はい」

 紫穂はみそ汁を受け取ろうとした。
 しかし。

「あっ、ごめんね」

 百代はみそ汁を紫穂にぶっかけた。
 ポタポタとみそ汁が紫穂から滴り落ちる。
 たいして熱くなかったのは幸いだった。

「……」
「なにボケっとしてんの? 早く、こぼれたみそ汁の掃除して?」
「……はい」

 紫穂は雑巾と水を取ってくると掃除を始めた。掃除中には和やかな会話が聞こえてくる。

「ねぇ、お父様、お母様。私、また退魔師の方たちに褒められましたのよ? 一瞬で身体が軽くなるって! さすが白蝶の夢見鳥の巫女だって!」
「本当に百代はすごいな。自慢の娘だ」
「百代は天才だものね」
「色々な殿方の視線を感じて困りますわ」

 困ると言いつつ百代の顔は喜色満面である。

「百代もそろそろ結婚する頃だな」

 茂正が言う。

「美男で強い退魔師の殿方がいいですわ……そうですわね……烏藤和颯(からすふじかずさ)さんみたいな方が理想ですわ。うるさい親戚もいませんし」

 そして、百代はため息をつく。

「名家で美男で国一番とも呼ばれる優秀な退魔師。でも残念ですわ。和颯さんの呪いは根深いんですもの。もう身体が持ちませんわ……あの孤児誘拐事件のせいで。和颯さんもお気の毒に。呪いを受けたら一年で死ぬのでしょう。もう亡くなるまで二ヶ月もないじゃない」

 紫穂の手が一瞬止まる。

(白蝶の夢見鳥の巫女でも祓えないほど強力な呪いなの?)

 白蝶の夢見鳥の巫女にも祓えない呪いが存在するとは。

「まぁ、でも百代。和颯さんは身体を蝕まれてから奇妙なことをしていると噂で聞いたわよ。変な性格の男なんて強い退魔師でも百代にふさわしくないわ」
「はあ、残念ね。お身体のことがなかったら私と結婚して欲しかったわ。お母様、和颯さんのお顔、とっても好みですの」
河島孝治(かわしまこうじ)さんはどうなの? あの方も美男でしょう? 婚約者の方が亡くなられたから今は相手がいないでしょう?」
「あの方も素敵ですわ。孝治さんは何カ国も訪れたのことがあるそうですけれど、それも素敵。私も外国に遊びに行ってみたいですもの。……それと孝治さんはいつも良い香りがするのですけれど、私、あの香りが好きですわ。甘くて……。どんな香水か教えてほしいのに教えてくれないのですけれど」

(奇妙なこと?)

 紫穂は内心、疑問に思ったがもちろん口に出しはしない。

「あら、紫穂。手が止まってるわよ?」

 多江が目ざとく注意する。

「……申し訳ありません」

 紫穂は再び、手を動かし始めたのだった。
 多江は紫穂から目を背けひどく心配気な瞳を百代に向ける。

「百代、最近は物騒だから気をつけるのよ? 先々月は夢見鳥の巫女の一人が行方不明。今月は夢見鳥の巫女が死んだのよ。夢見鳥の巫女は前線に出ないから滅多に亡くならないのに」 
「大丈夫よ、お母様。先々月は行方不明だけれど、今月のは自殺じゃない。誰かに何かされたわけじゃないですもの。自殺した女なんてどうでもいいですわ。キヨさんは無事帰って欲しいですけれど」
「多江は心配性だからな」
「あら、旦那様ったら。心配性だなんて、娘を思うのは母として当然です」

 三人の会話を耳にしながら紫穂は掃除を続ける。 
 やがて掃除も終わり、朝食の時間も終了し紫穂一人となった。今から片付けだ。
 紫穂は食器を片付けようとして、ふと茂正が無造作に置いていった新聞が目に留まった。
 女中募集の触れ込み。烏藤という家の募集だった。百代が言及していた烏藤和颯の家だろうか。
 住所を見たところ柳家から遠いわけではない。同じ帝都にある。徒歩でも行こうと思えば行ける距離。

「……」
 
 紫穂は、新聞から目を逸らし、片付けを始めたのだった。