(冷たい……)
冷気が目の前の父、柳茂正からは放たれていた。部屋の中央にドカリと腰を下ろす父からは恐ろしいほど禍々しい気配が漂う。
底冷えするような寒々しさ。
夏であるというのに。
柳紫穂は、ごくりと息を呑む。
柳家は夢見鳥の巫女と退魔師を輩出する退魔家系だ。退魔師は妖魔を倒す使命を持つ。
しかし妖魔を斬れば退魔師はその身に穢れが溜まる。
夢見鳥の巫女は『蝶』を使いその退魔師の穢れを祓う。『蝶』そのものは霊力が高いものなら誰でも出せるがそれを操り穢れを浄化出来るのは才能ある女性のみ。妖魔を斬って溜まった穢れ。それを浄化するには夢見鳥の巫女の力が必要なのだ。
夢見鳥の巫女は霊力が高い女性が、退魔師は霊力が高い男性が務める。また退魔師と夢見鳥の巫女は夫婦となることが多かった。
高い霊力を子に引き継がせるにはそれが最善だからだ。
霊力を十分に使いこなせる身体となる十二歳を過ぎるとその異能を試すための簡単な試験がある。それが今日だった。
「さあ、紫穂。穢れを祓ってみろ」
茂正の期待に満ちた眼差し。
「はい」
こくんと紫穂はうなずく。
ふわぁと異母妹たる柳百代が小さなアクビをする。百代は十二歳だ。紫穂と同い年だ。異母妹と言っても、百代は紫穂より一日産まれるのが遅かっただけだ。この百代も紫穂が儀式を終えた後に同じく夢見鳥の巫女としての力を試す儀式を行う予定だ。
百代は紫穂の儀式にたいして興味がないのだろう。
そして百代の隣に座る継母の柳多江は無言であった。
その表情は穏やかだが、どこか氷のように冷ややかであった。
多江は紫穂を好きではない。
紫穂はそう思っている。
多江が柳家の妻となって一年。
百代にはデパートに行ってきたからと新しい簪や小物をやるのに紫穂にはない。
貰い物のケーキを百代にだけ出す。
多江と百代だけで洋食屋、呉服屋などに出かける。その話を紫穂の前でする。わざわざ、『紫穂さんがいないと気が楽ね。たまには息抜きしないと。百代も急に姉が出来て息苦しいでしょう?』と付け加えて。
そんな些細なことの積み重ね。
一つであれば気にしないが重なると偶然でないと気づかないわけがない。
ああ、この継母は紫穂のことを嫌っているのだと三月もすれば気づいた。
もともと多江は妾であったらしい。
紫穂はその存在を知らなかった。
妹の百代のこともだ。
それが母が亡くなり、急に多江が正妻の座に収まった。
最初から紫穂のことは気に食わなかったのだろう。
(でも、きちんと夢見鳥の巫女として結果を出せばお義母様も私を認めてくださるかも……)
紫穂は夢見鳥の巫女として茂正に期待されていた。豊富な霊力を持っていたからだ。
夢見鳥の巫女として最上位とされる白蝶を顕現し操れるかもれないとすら言われていた。
そうしたら、多江も百代も紫穂に優しくしてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。
夢見鳥の巫女として成果が出せたら、紫穂のことを見直してくれるかもしれない。
『ねえ、お母様! 白蝶の夢見鳥の巫女様を見たのよ! キヨさんというお方! すっごい綺麗だったわ。憧れるわ! 私も将来はすごい夢見鳥の巫女になるの!』
紫穂は前に百代が多江に語っていたことを思い出した。
(私が白蝶を出せたら……)
紫穂と百代の仲は良好とは言い難い。
百代は紫穂に話しかけられたら無視したり、紫穂宛の手紙を隠したりといったことをしていた。
だが紫穂は茂正に多江や百代に感じた違和感を言ったことはない。言ったら多江と百代と修復不可能なほどに仲がこじれると思ったからだ。
どうか継母と妹と仲良くしたい。それが紫穂の願い。
(……白蝶を……いえ、そこまででなくても夢見鳥の巫女として頑張ればいつか仲良く出来るかもしれない)
深く息を吸い込む。瞳を閉じて、霊力を身体に巡らせた。父に宿る穢れを溶かすことを想像した。
ふわり、と冷たい風が吹く。紫穂の長い黒髪がかすかになびいた。
そして紫穂の身体は柔らかい紫色の光に包まれた。
空気が揺らぐ。霊力が身体からこぼれたのを感じる。
パタパタと羽音がする。
「うわ、何よ、この蝶!」
「何てことだ!」
百代と茂正の悲鳴に近い声がして、ハッとして目を開けた。
(綺麗……)
そこにいたのは大量の黒蝶。
黒蝶たちが優雅に羽ばたく。それに息を呑む。
「黒蝶とは……家の恥ではないか!」
茂正が怒鳴る。
紫穂は黒蝶から慌てて父に視線を向ける。まなじりをつり上げる父がそこにいた。
隣の多江はにぃっとかすかに口元を上げている。
「黒蝶だと!? 早く、消せ」
「は、はい」
紫穂は、まずいことになったと気づく。紫穂がふっと息を黒蝶に吹きかければ溶けるように彼らは消えた。
(黒蝶……穢れを祓えない蝶……それに)
夢見鳥の巫女が顕現し操る蝶にはいくつか種類がある。白蝶が最高位であり、強力な穢れでも祓える。しかし黒蝶は無能の証。穢れを祓えないのだ。それだけならまだ良かったかもしれない。しかも黒蝶は、『死蝶』とも呼ばれる。死を招くと。
「お姉様ったら、無能だったのね」
どこか楽しげな口調の百代。
「まったく霊力が高いから期待していたというのに」
茂正が深いため息をつく。
「まさか我が家から無能が出るとは……! しかも黒蝶とは不吉な。死の呪いとも呼ばれる黒蝶だと……!」
茂正の言葉に多江が言う。
「あら、旦那様。うちには百代がおります」
「……そうだな。……百代、今度はお前が儀式を」
「はーい、お父様」
百代がずかずかと部屋の中央にやってくる。
呆然としていた紫穂に声をかけた。
「無能なお姉様は、さっさっとどいてくれる? 死蝶はとっとっと場所を譲りなさい」
ふらふらと紫穂は茂正の前から離れた。
紫穂がいた場所に百代が座る。
百代がその身に霊力を巡らす。
すると、金色の光が百代を包む。
「なんと……!」
「さすが百代だわ!」
純白の蝶たちが部屋中を羽ばたく。
そして蝶たちは茂正に群がった。茂正から穢れが消えていく。茂正が宿す穢れは強力だった。しかしさらさらと禍々しい気配は溶けていく。
百代は蝶たちに息を吹きかけた。
蝶は消え、茂正が現れる。穢れはなく、清廉な気配が漂っていた。
「すごいそ……! 百代! この家の跡取りはお前だ……!」
先ほどの紫穂への怒りと失望はどこへやら。茂正は歓喜の声を上げる。
「まぁ、百代。よかったわね。お母様、嬉しいわ」
多江はニコリと百代に笑ったあと、紫穂をちらっと見て嗤った。
百代も笑う。
「嬉しいです! 喜んでくれますよね、お姉様?」
紫穂を見る百代の瞳には蔑む色。
「……ええ」
紫穂はしかし、そういうしかなかった。
百代は、
「そうだ!」
と明るい声を出した。
何だろう? と紫穂は疑問に思う。嫌な予感しかしないが。
「もう私が跡取りだもの。お姉様、なんて敬う必要ありませんよね、お父様? 死蝶なんて家の恥だもの。今日からお姉様のことは紫穂って呼びます。……家に置いてあげてもいいけど、こんな死蝶に柳家の『娘』としての地位なんて不相応ですわよ」
「それもそうだな……」
父が同意する。それに紫穂は驚く。
父は紫穂のことを愛してくれていると思っていたのに。怒鳴られ失望されたとはいえ。
「さあ、お姉様……いえ、紫穂。今日から私が跡取りよ。わかったわね? 私に尽くしなさいよ、不吉な死蝶なんだから」
その百代の笑みは多江にそっくりだった。
紫穂が黙りこくっていると、ガッと髪を掴まれた。
「……っ! や、やめて」
「返事は? 無能の死蝶さん?」
「わ、わかったから。わかったから、離して」
ふんと鼻を鳴らして、百代はパッと手を離す。
「お父様、お母様! 私、新しい着物も……そうね、洋装も欲しいですわ! 簪もリボンも欲しいし……洋装に合う靴も欲しいわ。ライスカレーも食べたいし……。今から家族三人で出かけましょ?」
「あら、いいわね。百代が白蝶を出したのですもの。ねぇ、旦那様。お祝いしなくて」
「おお、そうだな」
「わぁ、じゃあ決まりね!」
紫穂を放ってわいわいと話す三人。少し前まで愛してくれていたと思っていた父まで紫穂を無視している。
(私が霊力が高いから夢見鳥の巫女として期待していただけだったの? お父様は……。それが期待外れだったからもう私のことはどうでもいいの?)
今更ながらそのことに思い至る。
そのうち三人は部屋を出ていき、ぽつんと紫穂は取り残された。
ポロポロと涙がこぼれる。
(お母様……助けて)
今は亡き母に助けを求めたが、もちろん返事はない。
拭いもせず、着物に涙が吸い込まれるのを無言で紫穂は眺めた。
冷気が目の前の父、柳茂正からは放たれていた。部屋の中央にドカリと腰を下ろす父からは恐ろしいほど禍々しい気配が漂う。
底冷えするような寒々しさ。
夏であるというのに。
柳紫穂は、ごくりと息を呑む。
柳家は夢見鳥の巫女と退魔師を輩出する退魔家系だ。退魔師は妖魔を倒す使命を持つ。
しかし妖魔を斬れば退魔師はその身に穢れが溜まる。
夢見鳥の巫女は『蝶』を使いその退魔師の穢れを祓う。『蝶』そのものは霊力が高いものなら誰でも出せるがそれを操り穢れを浄化出来るのは才能ある女性のみ。妖魔を斬って溜まった穢れ。それを浄化するには夢見鳥の巫女の力が必要なのだ。
夢見鳥の巫女は霊力が高い女性が、退魔師は霊力が高い男性が務める。また退魔師と夢見鳥の巫女は夫婦となることが多かった。
高い霊力を子に引き継がせるにはそれが最善だからだ。
霊力を十分に使いこなせる身体となる十二歳を過ぎるとその異能を試すための簡単な試験がある。それが今日だった。
「さあ、紫穂。穢れを祓ってみろ」
茂正の期待に満ちた眼差し。
「はい」
こくんと紫穂はうなずく。
ふわぁと異母妹たる柳百代が小さなアクビをする。百代は十二歳だ。紫穂と同い年だ。異母妹と言っても、百代は紫穂より一日産まれるのが遅かっただけだ。この百代も紫穂が儀式を終えた後に同じく夢見鳥の巫女としての力を試す儀式を行う予定だ。
百代は紫穂の儀式にたいして興味がないのだろう。
そして百代の隣に座る継母の柳多江は無言であった。
その表情は穏やかだが、どこか氷のように冷ややかであった。
多江は紫穂を好きではない。
紫穂はそう思っている。
多江が柳家の妻となって一年。
百代にはデパートに行ってきたからと新しい簪や小物をやるのに紫穂にはない。
貰い物のケーキを百代にだけ出す。
多江と百代だけで洋食屋、呉服屋などに出かける。その話を紫穂の前でする。わざわざ、『紫穂さんがいないと気が楽ね。たまには息抜きしないと。百代も急に姉が出来て息苦しいでしょう?』と付け加えて。
そんな些細なことの積み重ね。
一つであれば気にしないが重なると偶然でないと気づかないわけがない。
ああ、この継母は紫穂のことを嫌っているのだと三月もすれば気づいた。
もともと多江は妾であったらしい。
紫穂はその存在を知らなかった。
妹の百代のこともだ。
それが母が亡くなり、急に多江が正妻の座に収まった。
最初から紫穂のことは気に食わなかったのだろう。
(でも、きちんと夢見鳥の巫女として結果を出せばお義母様も私を認めてくださるかも……)
紫穂は夢見鳥の巫女として茂正に期待されていた。豊富な霊力を持っていたからだ。
夢見鳥の巫女として最上位とされる白蝶を顕現し操れるかもれないとすら言われていた。
そうしたら、多江も百代も紫穂に優しくしてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。
夢見鳥の巫女として成果が出せたら、紫穂のことを見直してくれるかもしれない。
『ねえ、お母様! 白蝶の夢見鳥の巫女様を見たのよ! キヨさんというお方! すっごい綺麗だったわ。憧れるわ! 私も将来はすごい夢見鳥の巫女になるの!』
紫穂は前に百代が多江に語っていたことを思い出した。
(私が白蝶を出せたら……)
紫穂と百代の仲は良好とは言い難い。
百代は紫穂に話しかけられたら無視したり、紫穂宛の手紙を隠したりといったことをしていた。
だが紫穂は茂正に多江や百代に感じた違和感を言ったことはない。言ったら多江と百代と修復不可能なほどに仲がこじれると思ったからだ。
どうか継母と妹と仲良くしたい。それが紫穂の願い。
(……白蝶を……いえ、そこまででなくても夢見鳥の巫女として頑張ればいつか仲良く出来るかもしれない)
深く息を吸い込む。瞳を閉じて、霊力を身体に巡らせた。父に宿る穢れを溶かすことを想像した。
ふわり、と冷たい風が吹く。紫穂の長い黒髪がかすかになびいた。
そして紫穂の身体は柔らかい紫色の光に包まれた。
空気が揺らぐ。霊力が身体からこぼれたのを感じる。
パタパタと羽音がする。
「うわ、何よ、この蝶!」
「何てことだ!」
百代と茂正の悲鳴に近い声がして、ハッとして目を開けた。
(綺麗……)
そこにいたのは大量の黒蝶。
黒蝶たちが優雅に羽ばたく。それに息を呑む。
「黒蝶とは……家の恥ではないか!」
茂正が怒鳴る。
紫穂は黒蝶から慌てて父に視線を向ける。まなじりをつり上げる父がそこにいた。
隣の多江はにぃっとかすかに口元を上げている。
「黒蝶だと!? 早く、消せ」
「は、はい」
紫穂は、まずいことになったと気づく。紫穂がふっと息を黒蝶に吹きかければ溶けるように彼らは消えた。
(黒蝶……穢れを祓えない蝶……それに)
夢見鳥の巫女が顕現し操る蝶にはいくつか種類がある。白蝶が最高位であり、強力な穢れでも祓える。しかし黒蝶は無能の証。穢れを祓えないのだ。それだけならまだ良かったかもしれない。しかも黒蝶は、『死蝶』とも呼ばれる。死を招くと。
「お姉様ったら、無能だったのね」
どこか楽しげな口調の百代。
「まったく霊力が高いから期待していたというのに」
茂正が深いため息をつく。
「まさか我が家から無能が出るとは……! しかも黒蝶とは不吉な。死の呪いとも呼ばれる黒蝶だと……!」
茂正の言葉に多江が言う。
「あら、旦那様。うちには百代がおります」
「……そうだな。……百代、今度はお前が儀式を」
「はーい、お父様」
百代がずかずかと部屋の中央にやってくる。
呆然としていた紫穂に声をかけた。
「無能なお姉様は、さっさっとどいてくれる? 死蝶はとっとっと場所を譲りなさい」
ふらふらと紫穂は茂正の前から離れた。
紫穂がいた場所に百代が座る。
百代がその身に霊力を巡らす。
すると、金色の光が百代を包む。
「なんと……!」
「さすが百代だわ!」
純白の蝶たちが部屋中を羽ばたく。
そして蝶たちは茂正に群がった。茂正から穢れが消えていく。茂正が宿す穢れは強力だった。しかしさらさらと禍々しい気配は溶けていく。
百代は蝶たちに息を吹きかけた。
蝶は消え、茂正が現れる。穢れはなく、清廉な気配が漂っていた。
「すごいそ……! 百代! この家の跡取りはお前だ……!」
先ほどの紫穂への怒りと失望はどこへやら。茂正は歓喜の声を上げる。
「まぁ、百代。よかったわね。お母様、嬉しいわ」
多江はニコリと百代に笑ったあと、紫穂をちらっと見て嗤った。
百代も笑う。
「嬉しいです! 喜んでくれますよね、お姉様?」
紫穂を見る百代の瞳には蔑む色。
「……ええ」
紫穂はしかし、そういうしかなかった。
百代は、
「そうだ!」
と明るい声を出した。
何だろう? と紫穂は疑問に思う。嫌な予感しかしないが。
「もう私が跡取りだもの。お姉様、なんて敬う必要ありませんよね、お父様? 死蝶なんて家の恥だもの。今日からお姉様のことは紫穂って呼びます。……家に置いてあげてもいいけど、こんな死蝶に柳家の『娘』としての地位なんて不相応ですわよ」
「それもそうだな……」
父が同意する。それに紫穂は驚く。
父は紫穂のことを愛してくれていると思っていたのに。怒鳴られ失望されたとはいえ。
「さあ、お姉様……いえ、紫穂。今日から私が跡取りよ。わかったわね? 私に尽くしなさいよ、不吉な死蝶なんだから」
その百代の笑みは多江にそっくりだった。
紫穂が黙りこくっていると、ガッと髪を掴まれた。
「……っ! や、やめて」
「返事は? 無能の死蝶さん?」
「わ、わかったから。わかったから、離して」
ふんと鼻を鳴らして、百代はパッと手を離す。
「お父様、お母様! 私、新しい着物も……そうね、洋装も欲しいですわ! 簪もリボンも欲しいし……洋装に合う靴も欲しいわ。ライスカレーも食べたいし……。今から家族三人で出かけましょ?」
「あら、いいわね。百代が白蝶を出したのですもの。ねぇ、旦那様。お祝いしなくて」
「おお、そうだな」
「わぁ、じゃあ決まりね!」
紫穂を放ってわいわいと話す三人。少し前まで愛してくれていたと思っていた父まで紫穂を無視している。
(私が霊力が高いから夢見鳥の巫女として期待していただけだったの? お父様は……。それが期待外れだったからもう私のことはどうでもいいの?)
今更ながらそのことに思い至る。
そのうち三人は部屋を出ていき、ぽつんと紫穂は取り残された。
ポロポロと涙がこぼれる。
(お母様……助けて)
今は亡き母に助けを求めたが、もちろん返事はない。
拭いもせず、着物に涙が吸い込まれるのを無言で紫穂は眺めた。
