友達以上。恋人以上になりたくて。

 翠とキスをした。
 唇に残る余韻と、遠ざかっていく蒼ざめた翠の顔がやけに鮮烈で、俺は咄嗟に引き寄せて抱きしめて…。
「自分からキスしちゃったんだよなぁ…」
 思わず心の声が漏れてしまう。
 しかも2回も、だ。
 あの時はそれでいいと思った。
 このままだと翠がいなくなってしまうような気がして、繋ぎ止めたかった。
 息をするように自然にキスしていた。
「俺、やっぱり翠のこと…好きなのかな」
 今までなるべく考えないようにしていた。
 友達以上、恋人未満という言葉で誤魔化していた。
 でも、この気持ちは。
 あの日、抱き合って眠った。
 俺は翠の腕の中で目が覚めて、そばにいることにひどく安心した。
 どうしてそんなふうに思ったのかは自分でもわからない。
 今までの関係が壊れてしまうのが怖かったとか?
 いや、もうキスした時点でとっくに壊れてる。
 ああそうか。
 俺はきっと、例え関係が壊れたとしても、ずっと翠と一緒にいたいんだ。
 翠のことは好きだ。それは間違いない。
 でもそれって、本当に恋愛感情か?
 翠は本当にかっこよくて、俺の理想の外見をしてる。中身もどこか危うさのようなものがあって、放って置けない。一緒にいて居心地がいいのもあるけれど常にそばにいたいと思う。でも、それだけで恋愛的に好きってことになる?
 2人で迎えた朝は、予想に反して何事もなく、名残すらも感じさせず翠は当たり前のように帰っていった。
 その後1週間、翠からの連絡はない。
 正確にいうと、返信ならある。
 でもそれは当たり障りのないものばかりで、今までとは違うような気がする。
 気のせいかとも思うけれど…。
 捲し立てるような蝉の声が、俺の不安をよりいっそう掻き立てる。 
 それとも俺が異常?
 あの時の唇の感触と体温を思い出す。
「もう前みたいにいられないっていうのかよ…」
 でも俺は翠とずっと一緒にいたい。
 これからも、ずっと。
 会って、翠の顔を見て、話がしたい。
 覚悟を決めて、俺はスマホを手に取った。
 ラインを開く。
 少しだけ迷って、結局用件だけのシンプルなメッセージを送ることにした。
『翠、明日空いてる?』
 大して待つこともなく通知音がなった。
 メッセージを確認するのが怖い。
 俺は無意識に息を止めて画面を見た。
『夕方までバイト』
 やっぱりそっけない。
 いつもだったら、別日の提案や連絡した理由とか、もっと色々会話を広げるような返信が来るのに。
 返信は早いのに、どこか遠くに感じる。
『そっか、じゃあまたラインする』
 いつが空いてるのかなんて、聞く勇気はなかった。もう会うつもりはないと言われたら、俺はきっとどうにかなってしまう。
 翠のあの涙が忘れられない。
「…明日、会いに行こう」
 バイト先がどこかは知らないけれど、翠の家の最寄駅の近くのカフェというのは前に聞いて知っている。
 どうせ家にいたって、同じようなことを繰り返し考えて燻ってるだけだ。
 例え見つからなくても、会えなくたっていい。
 行動すれば自分の気持ちの整理もつくかも知れない。
 財布の中身を見る。
 これだけあれば、往復の交通費とちょっとした食事代くらいはあるだろう。
 —翌日。
 居ても立っても居られない俺は、手早く着替えて身なりを整える。
 急いで階段を駆け降りた。
「出かけてくるー!昼飯いらないから!」
 リビングで掃除機をかけている母さんに一声かけて、俺は玄関を飛び出した。
 
 
 
 駅に着いて、発券機に向かう。こういう時Suicaとか持ってれば楽なんだろうけど仕方ない。
 翠の地元はここから8駅先、40分弱くらいかけて通学していると聞いたことがある。
 電車に乗る前に自販機でアイスティを買った。
 気持ちが抑えられずに小走りできた俺はだいぶ汗をかいていた。ハンドタオルで拭いつつ時刻表を見る。
 あと3分ほどで電車がくるようだ。
 俺はアイスティを一口飲んでから辺りを見回した。
 思っていたよりも利用客は少ない。
 夏休み期間の平日10時過ぎ、社会人も学生もちょうど利用しない時間なのだろう。
 電車が来て、降車する人々をなんとなく見送って乗り込んだ。
 車内は程よく空いている。冷房が効いているとは言い難いが、それでも熱った体には有り難かった。
 通学時間はなかなか座れないという翠の言葉を思い出す。
 席はいくつか空いていたけれど、俺は扉のそばの吊り革に手をかけた。
 翠がいつも見ている風景を見たいと思った。
 ガラス越しに流れる景色は当たり前だけど俺には馴染みのないもので、少しだけ淋しい気持ちになる。
 翠はどうして俺にキスをしたのだろう?
 やっぱり好きだから?
 そうだとしたら、今までどんな気持ちで俺と過ごしていたのだろう?
 3ヶ月ちょっとの短い期間なのに、もう思い出はいっぱいある。
 思い返せば、痛いほどに翠の思いが伝わってくる瞬間がこんなにもあるのに。
 俺は気づかないふりをして、翠を傷つけていたのかも知れない。
 ため息をついて、窓の外を見る。
 キラキラと陽の光を浴びる海が綺麗だった。
 俺は翠と2人でこの海を見たいと思った。
 


 目的の駅に到着し、俺は少し緊張しながらホームに降り立つ。
 翠がいつも使う駅。俺の知らない駅だ。
「だいぶ田舎だよ」と前に翠が言っていたが、都会ではないけれど何もないような田舎ではなかった。
 実際、電車の中、スマホで駅前のカフェを検索したところ思っていた以上にヒットした。見つけられるか不安になった。
 案内板を見て、階段を上り改札を目指す。
 改札を出てすぐ、駅の構内にカフェがあった。
「ここだったら、駅の近くじゃなくて駅の中って言うよな」
 思わず言葉が出る。
 翠にラインして聞いてもいいけれど、バイト中はスマホを触れないだろうし、そもそも教えてくれるとは限らない。
 さて、どう探そう。
 スマホの検索結果を片手に考える。
 流石に店に入っていきなり「綾瀬翠くん、ここで働いてますか?」なんて聞くわけにもいかない。
 ここは一旦、大人しく客として入店して、翠を探すのがいいかもしれない。
 手持ちは五千円ちょっと。
 帰りの交通費も考慮しないといけないだろう。
 俺は生ぬるくなったアイスティを飲み干して、ペットボトルをゴミ箱に突っ込んだ。
  
 
 
 スマホで地図を確認しながらカフェを探し、見つけては入り、ドリンクだけ注文して店内を観察する。
 もうそれを3回繰り返している。
 店の扉を開けたら「いらっしゃいませ」と翠が出てくるんじゃないかと軽く考えていた自分を殴りたかった。
 朝から飲み物しかとっていない。それも汗で外に全て出てしまってる気がする。
 疲れと暑さと空腹で心が折れそうだった。
 時計を見ると3時を回っている。
 金銭的にも時間的にももう限界だ。
「ここで最後にしよう」
 4軒めのカフェの扉を開けた。
 ここで会えなかったら、もう諦めるしかない。
「いらっしゃいませ。1名様ですか?」
 声をかけてくれたのは、大学生くらいの落ち着いた雰囲気の女性店員だった。
「はい、1人です。…あの…」
 いっそのこと、翠が働いているか聞いてしまおうかと思った。でも確証もなしにそんなことをしたら、きっと迷惑がかかる。それだけは避けたかった。
「どうされましたか?」
「いえ、なんでもないです」
 店員は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「空いてるお席にどうぞ。メニューをお持ちしますね」
 俺はカウンターに座って、店員が持ってきたメニューを開く。
 所持金もだいぶ減ってしまった。
 財布と相談して、サンドイッチとドリンクのセットを頼む。
 ランチタイムを過ぎているからか、店内は閑散としていた。
 こっそりとキッチンを覗き込む。年配の男性と若そうな長身男性の後ろ姿が見える。これ以上は確認できない。
「お待たせしました」
 さっきの店員が料理を持ってくる。
 綺麗に盛り付けられたサンドイッチとアイスティ。そして小さなデザート皿にクッキーが3枚。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「あ、俺、クッキー頼んでないです」
「ドリンクとセットでお出ししてるんです。マスター特製レシピのクッキー、美味しいですよ」
「あ、ありがとうございます」
 俺は戻って行く店員を見送りながらアイスティを飲み、サンドイッチを口にれた。
 今日初めて食べた料理は、疲れた体を癒してくれる。
 美味しかった。
 少しだけ回復した俺は悩んだ。
 これからどうしよう?
 バイトは夕方までと言っていたから、早ければそろそろ退勤時間だろう。
 そういえば確か駅の駐輪場に自転車を停めてバイトに行くと言っていたのを思い出す。
 駅で待ってみるのもいいかもしれない。
 俺はそう思いながらクッキーを口に入れた。
 ふわりと紅茶の香りが広がって、翠のことが余計恋しくなった。
 …あれ?
 俺はこの味を知っている。
 形はこちらの方が整っているし、綺麗に焼き上がっているけれど。
 これは、翠が俺にくれたクッキーと同じ味だ。
「え?みどり?」
 思わず立ち上がる。
 大きな音を立てた俺の元に、心配そうな顔をしてさっきの女性店員が近づいてきた。
「どうされましたか?」
 俺は小さく深呼吸して、意を決して聞いた。
「綾瀬翠くん、ここでバイトしてますか?」
「え?」
 一瞬驚いた顔をしたあと、彼女は俺を上から下まで品定めするように見た。
「もしかして、圭人くん、だったりします?」
「…!はい。でもなんで俺の名前!…翠、話してるんですか?」
「お噂はかねがね。綾瀬くん、呼んできますね」
 やっと見つけて、とにかく安心した。
 でも、それと同時に急に怖くなってきた。
 そっけないラインを思い出す。
 あんな感じで何か言われたら、俺はどうしたらいいんだろう。
 翠がくるまで1分もかかっていないのに緊張して長く感じた。気がつくと不安で俯いていた。
「…けいと!」
 俺の大好きな声が聞こえる。
 見上げるとそこには翠がいた。
 翠は険しい顔をしているように見えた。
 バイト先まで押しかけてきて、迷惑だったろうか?胸に重いものが落ちてきたみたいに苦しくなる。
 でも、近づいてきてその表情を見て切なくなった。
 形の良い唇を横に引き結んで、その瞳には涙を溜めていた。
「どうしても会いたくて、来ちゃった」
 俺は精一杯の笑顔を浮かべて言った。



「勤務時間もあと少しだから今日はもう帰っていいよ」というマスターの許可をもらった翠は、更衣室へ着替えに行っている。
 会計を済ませた俺はそれを待つ間、先ほどの女性店員と話をしていた。
 彼女はマスターの娘さんで東京の大学生。長期休みの間だけ店を手伝っているそうだ。
「綾瀬くんと話すといつも圭人くんのことばかりだから、あなたと初めてあった気がしないよ」
「そんなに話してるんですか?」
「してるよー、いつも仲良いんだなって思って聞いてる。それにしても、どこかも知らないのにここを探し当てちゃうなんて!綾瀬くんが夢中になるの、なんかわかる気がするなあ」
「夢中になる?」
 翠はもしかして何か話しているのだろうか?色々想像して顔に血が集まるのを感じる。
「あ、変な意味じゃないよ?圭人くんみたいに可愛い子が、自分に会うためになりふり構わず来ちゃうくらい懐いてたら、そりゃ嬉しいってこと」
「あ…、冷静に考えるとちょっとストーカーっぽくないですか?」
「あははは、大丈夫大丈夫。綾瀬くん、君のこと本当に大事にしてるし。この前も、圭人くんが紅茶好きだからクッキーのレシピ教えてって…」
「絵梨花さん、それ以上はやめて」
 振り返ると顔を赤らめた翠がそこにいた。
「そんなに仲がいいんだし、いいじゃない」
「ダメです!」
 強制的に話を中断されて不服そうな絵梨花さんとマスターに一言お礼を言って、俺たちは店を出た。
 蝉の声はうるさく俺の不安をまた掻き立てるけれど、でも今は翠が隣にいるだけで幸せだった。



「まさか来てくれると思わなかった」
 2人並んで駅に向かって歩く。
 途中の小さな公園にある東屋に入って、ベンチに座った。
 4時、夕方とはいえまだ陽が高く暑い公園には人影はない。
 俺は思い切って翠の手を絡めとる。
「圭人?」
 翠が俺の顔を覗き込むのがわかる。でも俺は前を向いたまま話し始めた。
「どうしても翠に会って話したかったんだ。あの日、何もなかったみたいに帰ってったじゃん?」
「うん」
「それで、なんかラインしてみても、いつもよりそっけないじゃん?」
「それは…」
「責めてるわけじゃなくてさ、なんていうか…」
「うん」
「翠が俺から離れちゃうのかなと思ったら凄く嫌で。だから会って話さなきゃと思ったんだ」
 自分の気持ちや考えたことをうまく言葉にできなくてモヤモヤする。隣に感じる温もりの愛おしさを伝えたいのに。
 俺が言い淀んでいると翠が静かに話し始めた。
「もうわかってると思うけど、俺、圭人のことが好きなんだ」
 胸が鉛を飲み込んだように重くなる。
 俺は、確かめるように繋がれた手をきゅっとにぎる。
「翠、俺は…」
「…わかってるよ。圭人は優しいからキスだって受け入れてくれちゃうよね?でも、俺はそれに甘えていいのかわからなくて、それでどう連絡したらいいか悩んでた」
 その口調は、どこか淋しげで。
 翠がこのまま消えていなくなりそうな気がした。
 握っていた手が緩められたのを感じて、俺は慌てて引き寄せてその腕に縋り付く。
「俺は翠がそばにいてくれるなら、それで笑っていてくれるなら…そう思って、キスしたいと思ってキスしたんだ!だから俺だって好きだよ!でも…」
「でも?」
「恋愛感情かどうかはまだわからないんだ。ただ、俺は翠とずっと一緒にいたい。みどり…、ねえ、俺と、ずっと、…ずっと一緒にいてよ」
 俺の答えがずるいのはわかってる。
 わかっているけれど。
 今はこう言う他はなくて。
「圭人、好きだよ」
 縋り付く俺に、翠は優しく言った。
「翠…」
「キスが先になって、ごめん。いつか答えを聞かせてよ、俺はずっと圭人のそばで待っているから」