友達以上。恋人以上になりたくて。

 7月最後の土曜日、今日は翠と約束した花火大会当日だ。
 俺は愛犬2匹と自宅リビングのソファに寝転んで、翠が来るのを待っている。俺の家に一度荷物を置いてから会場に向かう予定だ。
 坂井や森本もあの後誘ったが、ちょうど部活の合宿と重なって今回は不参加になってしまった。
 前の勉強会みたいにみんなで集まるのも楽しいけれど、翠と2人なのもそれはそれでいい。
 でも少しだけ引っ掛かることがあって、翠のこと、特に最近の俺たちの距離感について考えてしまう。
 今は色々あってそういう気分になれないけれど、俺は普通に女子が好きだし、中学では彼女もいた。
 翠の内面はもちろん、外見がとにかくすごく好きなのだけれど、自分がなりたい理想の見た目ってだけで恋愛的に好きなわけじゃない。
 ただ翠のことを考えたり一緒にいると、なんかとても妙な気持ちになっている自分がいるのは確かで。
 何か困っていれば助けてあげたいし、笑顔でいてほしいと思う。俺の為に何かしてくれたら嬉しいし、返してあげたいと思う。

「彼女にもこんな気持ちになったことないのにねぇ」

 隣で眠るシプレとコフレを撫でながら、誰に言うともなく呟いた。
 テーブルの麦茶はとうに生温くなっていた。



 ——ピンポーン——
 インターホンが鳴った。
 モニターには幾分緊張した様子の翠が映っている。

「はーい」

 返事をして玄関に向かうと、一緒にシプレとコフレもついてきた。
 扉を開けて迎え入れる。

「いらっしゃい」
「お邪魔します。あ、シプレ! コフレ! 俺のこと覚えてる?」

 翠は荷物を下ろして、2匹を撫でた。

「そんなかしこまらなくていいよ、俺しかいないから。上がって!」
「そうなの?」
「うん。姉ちゃんは塾の勉強合宿で、母さんは父さんが夏風邪引いたとかで看病しに行ってる」

 足元をまとわりつく2匹に気をつけながら、翠はゆっくりと靴を脱いでスリッパに履き替える。

「お父さん、単身赴任中って言ってたね。心配だね」
「大丈夫大丈夫。看病って言ってるけど実際は母さんが遊びに行く口実だし」
「ほんとに? それでもやっぱり早く治るといいね」
「まあ、それはそう。元気でいてもらわないと困るし。あ、荷物適当に置いちゃって」
「うん」

 翠はリビング入って室内を見まわした後、俺がさっきまで座っていたソファの傍にバッグを置いた。

「花火は7時からだけど、夕飯は早めに行って屋台で済ませようかと思うんだけど」

 今は6時少し前。
 会場まではのんびり歩いても10分とかからない。
 ちょうどいい時間だ。

「いいね、そうしよ」
「じゃ、早速行こうぜ」 
「あ、その前に! 圭人、待って」

 玄関に向かおうとしたところ、翠に呼び止められた。
 振り返った先には小さな紙袋を持った翠がいた。

「手土産いらないって言ったのに」

 あらかじめそう伝えておいたのだけど、なんか逆に気を使わせたかもしれない。

「違うよ。ちょっと早いけどこれは誕生日プレゼント」
「……! え? ありがとう」

 思わず息を呑む。
 誕生日とか誰にも言っていないはず。SNSでも非公開設定にしている。
 嬉しいけど……なんで?
 俺が戸惑っていると、翠が満面の笑みを浮かべて言った。

「びっくりした? この前の勉強会で、なぜかお姉さんが俺にだけこっそり圭人の誕生日教えてくれたんだよね」

 ニヤつく姉ちゃんの顔が目に浮かんだ。

「マジでびっくりしたわ。姉ちゃんの仕業なのね」
「うん。俺もお返ししたかったから助かったけど。開けてみて?」

 俺は差し出された小さな箱をそっと開けた。

「あ、これ翠のと同じペンじゃん! めっちゃ書きやすいやつ」

 ボールペン4色とシャープペンが1つになった多機能ペンだ。
 一度借りて使いやすくて欲しかったけれど、思いのほか高くて買うのを迷っていた。

「圭人、欲しがってたから。色は俺がイメージで選んじゃった。気に入ってもらえるといいんだけど」
「俺のイメージカラーは白なんだ? 確かに白とかアイボリーとか選びがちかも。嬉しい! マジでありがとう」
「あとね、もう1つあるよ。いつものお弁当のお礼」

 差し出された小さな紙袋を受け取って開ける。中には綺麗にラッピングされたクッキーが入っていた。

「え、待って、手作り?」
「うん。手作りのお弁当のお礼は手作りのお菓子かなと思って。弟と一緒に味見したから大丈夫だよ」

 早速1枚食べてみる。紅茶の風味が口の中に広がって美味しかった。

「何これ、めっちゃうまい。上達したじゃん! あれからよく作ってんの?」
「よく作ってるっていうか、試作を繰り返してやっと完成。一応料理部なのにごめんなさいって感じだよ」
「マジで頑張って作ってくれたのな。大切に食べるよ。隠しておかないと母さんと姉ちゃんに食べられる」
「あはは。早めに食べてね」

 リビングのキャビネットに2つのプレゼントをそっとしまった。

「やけに厳重だね」
「犬のいたずら防止に念のため! さ、行くか!」



 花火大会の会場はだいぶ人も集まり、夜店も賑わっていた。
 焼きそば、たこ焼き、りんご飴、綿菓子。何を買おうか迷ってしまう。

「翠、どうする? 何にする?」
「そうだね。ここからここまで、全部」
「セレブ買いかよ。それ食べきれんの? しかもお面とかヨーヨーまであるし」

 翠もテンションが上がっているみたいだ。誘ってよかった。

「冗談はともかく、焼きそば食べたいかも」
「あ、俺も。買いに行こうぜ」

 2人で買って、飲食スペースで食べる。
 なんでもない夜店の焼きそばも、祭の賑やかな雰囲気と相まってとても美味しく感じた。

「花火楽しみだね。いつものメンバーで観られないのは残念だけど」
「まあいいんじゃない? 勉強会の当初の目的が果たせた結果、来れないんだし」
「確かに。坂井くん、まさかの結果を叩き出しての合宿参加だもんね」
「それな! 坂井には悪いけど、俺、信じられなかったもん」

 勉強会のあの日、散歩から帰った俺たちを待っていたのは色んな意味ですさまじい様子の坂井だった。
 姉ちゃんが言葉通り教えていたのだが、坂井はデレデレしながらも恐ろしいほど集中して勉強していた。
 あの日、俺はデレと集中が共存できるのを初めて知った。
 更には、「みちるさんのためにも、悪い成績を取るわけにはいかない」と、勉強会後も熱心に勉強し、その結果、赤点回避はおろか学科内の真ん中くらいまで順位が上がったのだ。

「俺、姉ちゃんに彼氏いるって怖くていえないよ」
「あぁ…それは機密事項だね」

 坂井の快進撃について語り合っているうちに、周囲が一段と忙しなく移動し始めているのに気がついた。

「あ、人が流れ始めた。そろそろ始まるのかな。行こう」

 時計を見るとまもなく7時になろうとしていた。



「すごい人だね」

 夜店もだいぶ賑わっていたが、無料の観覧スポットは更に混み合っていた。
 はぐれないように、どちらからともなく手を繋ぐ。
 その時のことだった。

「あれ? 圭人じゃん。久しぶり!」

 聞き慣れた声が俺を呼び止めた。
 振り返ると、そこには元カノの千花がいた。
 友達だろうか?
 その後ろにも女子が3人いる。

「千花か。びびった! 久しぶり」
「圭人、男と来てんの? 手繋いじゃって仲良いじゃん」

 千花が俺たちの繋いだ手を見ているのを感じた。

「悪いかよ。混んでるからさ、はぐれないように繋いでただけだよ」

 俺の言葉を聞いて、すっと翠の手が離れてゆく。

「確かに人すごいもんねー。ゆうてウチらも手ェつないでるしね。ところでさ、圭人、彼女できた?」
「ヨリは戻さねーぞ?」

 俺は間髪入れず答える。
 でもどうせこいつの目的は翠だろう。
 チラチラと隣を見ているのが嫌でもわかった。

「なにそれ。別にいいし。ってか友達イケメンだね! 紹介してよ! あ! そうだ、合コンやろーよ、合コン!」

 千花の周りの女子たちも俺たちの方をうかがっている。

「翠、どうする?」

 言いながら隣の翠の顔を見ると、感情のない人形みたいな表情をしていた。

「翠?」
「ごめん。人酔いしたのか気分悪くて」

 顔を手で覆いながら翠が言った。

「大丈夫? ちょい休むか?」

 俺はそっと翠の背中をさする。

「嘘! 大丈夫?」

 女子たちも心配そうに見守っていた。

「心配かけてごめん。でも少し休めば良くなると思う」

 その時、大きな音を立てて花火が上がった。

「アタシたち、もう行くよ。向こうに救護所があったはずだよ。じゃあまた連絡する! お大事にね」

 そう言って観覧スポットの奥の方へ消えていった。

「予想以上に混んでた。ごめん。来年はちゃんとスペース確保してリベンジしよう」

 千花たちが去ったのを待ったかのように、すっと手が繋がれる。

「ごめん。嘘ついた。実は平気」

 翠は綺麗な笑顔を浮かべる。
 でもいつもより心なしか元気がないように思えた。

「マジか。でも大丈夫なら良かった。まあ知らない女子なんて気まずいよな」
「合コンとか苦手でさ。できれば参加したくなくて」
「OK! 断っとくから大丈夫! アイツらいるかもだし、俺たちはちょい離れたとこで見ようぜ」

 少し外れの方へ向かって歩く。
 しばらくして、翠に遠慮がちに話しかけられた。

「……さっきの子、元カノだよね? 綺麗な子だね」

 繋いだ手にきゅっと力が込もるのを感じた。

「ああ。中学ん時の元カノ。向こうから告白されて1年くらい付き合ったんだけど、フラれたんだよね」


 正直、フラれた時はかなりショックだった。別に引きずってはいないけれど。

「……キスとかした?」

 翠が静かに言った。
 俺はびっくりして翠を見る。

「急になんだよ。……まあ1年も付き合ってたんだし、したよ。他にも……色々」
「……そうなんだ。圭人、大人だね」

 握られた手が痛いのに、俺はなぜだか言い出せなかった。

「なんだよそれ。ほら、ちょい離れるけど、ここからでも見えるだろ。機嫌直せよ」
「大丈夫だよ。一緒に花火見るだけで楽しいし。……あのさ、来年も2人で見たいな」

 繋いだ手が解かれて、すぐにその手が腰に回る。俺は黙って、翠のされるがままになる。
 暑いはずなのに、なぜか伝わる体温が心地よかった。

「もちろん。来年も一緒に見ようぜ。あ、そうだ。実は俺の部屋からも普通に花火見られるんだけどさ。エアコン効かせてのんびり花火見るとかはあり?」
「いいね。贅沢な感じ」

 空を飾る大輪の花火も、人気キャラクターを模した花火も、なんとなく部屋で1人で見ていた時よりずっとずっと何倍も綺麗に見えた。



 家に帰ったあと、俺たちは交代で風呂に入り、早々にルームウェアに着替えた。
 家に誰もいないのを良いことに、お菓子を食べ、くだらない話で盛り上がりながらゲームして夜を満喫した。
 それでも時計の針が12時を過ぎるとさすがに眠くなってくる。

「翠ー、俺そろそろ眠いー」

 俺はソファに座る翠の膝を枕にして、ごろんと横たわる。

「あはは、圭人いつも眠いじゃん」
「それはそう。俺、できれば毎日8時間は寝たいもん」
「小学生みたいだね」

 翠にそっと頭を撫でられた。
 俺は小さくあくびをしながら横を向き、翠のお腹に顔を埋めた。
 翠の体温といつもの優しい香りが伝わってきて、なぜかひどく安心する。

「やめてやめて、くすぐったいって。小学生とか言わないから!」
「言ってもいいよ? 俺は翠お兄ちゃんに甘えたいだけだし」
「わかったわかった! いい子だからやめて」
「じゃあもっと頭撫でて?」
「はい、よしよし」

 ひとしきりじゃれついて、それでもやっぱりあくびが止まらない。
 そういえば、まだどこで寝るのか決めていなかった。
 俺は起き上がって小さく伸びをする。

「ねー、翠、どこで寝ようか?」
「候補がいくつかあるの?」

 不思議そうな顔で翠が聞いた。

「うん。勉強会の時みんなで寝た和室と、俺の部屋、どっちがいい? 和室だと2人分布団敷く感じ。俺の部屋だと1人はベッドで1人は布団」
「どっちでもいいけど、俺、圭人の部屋に行ってみたいかも」
「俺は和室のがおすすめだけど」
「部屋見せてくれないの?」

 拗ねたように翠が言うのが可愛かった。

「ダメとは言ってないだろ? 和室の方が寝るまでずっと目線が同じっていうか、近いからいいかなって」
「確かに! それなら寝るのは和室がいいな」

 表情が笑顔に変わって、ああやっぱりこっちの方がいいなと思う。

「でしょ? 和室に決まりね。さて、じゃあ2階行くか」
「圭人の部屋?」
「そう、俺の部屋。貰ったペンもしまいたいし、取りに行くものもあるからついでに来なよ」
「楽しみ」

 俺たちはリビングを出て階段を目指した。階段を上がってすぐ、左側が俺の部屋だ。今日の午前中に掃除は済ませてある。
 扉を開けて翠を招き入れた。

「思ったより片付いてるね」
「そう? 俺、そんなに片付けられないイメージ?」
「うーん。どっちかというと色んなものを持ってそうなイメージかな。……あ、眼鏡だ。目悪いんだね、知らなかった。もしかして取りに行くものって、これ?」

 そう言って、翠は眼鏡を顔の辺りまで持ち上げて、レンズを覗き込んでいる。

「うん。この前の勉強会でうっかりコンタクトのまま寝ちゃってさ、あの後外すの苦労したんだよ。そんなわけで外してくるからちょっと待ってて。適当にそのへん見てていいからさ」

 俺は翠から眼鏡を受け取ると、それを片手に部屋を出る。すぐ傍のトイレ横の洗面台で手早くコンタクトを外した。

「お待たせ」
「おかえり。眼鏡姿いいね」

 褒められて悪い気はしなかった。

「そう? 翠のが似合いそうだけど」
「俺、視力いいからなあ。眼鏡かけたことないよ」
「かけてみ?」

 俺は眼鏡を外して、そのまま翠に手渡した。
 あっという間に視界がぼやける。

「うっそ! 度が強い! くらくらする! すごい目悪いんだね。あ、俺の眼鏡姿、どう?」
「ごめん。わかんなかった」
「え?」
「俺も我ながらアホだなと思うけど、裸眼だから見えないの。翠の顔、こんくらい近づかないとよく見えないもん」

 言いながら、ぐっと顔を近づける。
 鼻先10センチくらいでやっと翠の整った顔がわかって、それと同時にふわっと柔らかな香りと体温とが感じられた。

「翠、めっちゃいい香りする」
「お風呂上がりだからだよ。圭人もいい香りするよ」

 言いながら、翠がそっと眼鏡を俺にかけてくれる。

「そうだけどさ、えっと、なんて言ったら良いのかな? うーん、そうだな……エロい感じがする……とか?」

 うまい表現がなかなか出てこなくて、無意識に思いついたまま口にした。
 その途端、両肩に手を置かれ突き放すように距離を置かれた。

「圭人、そういうのはやめて」

 俯きながら絞り出すように言われた。

「ごめん。でもいい意味で言ったから! 俺にはない感じの! 俺にはない感じの……エロい? えーと、なんだろ? メロいかな?」
「もういいから。俺はそういう表現よくわかんないけど、圭人のが合ってると思うし」

 うつむいたままの翠をそっと覗き込んでみると、照れて赤くなった顔が眼鏡越しに見えた。

「わかったわかった。もう俺の部屋も見たし、もういいだろ? 下に戻ろ」

 間が保たなくなってしまって、俺はごまかすようにそう言った。
 翠に手を引かれて階段を降りた。
 シンプルに可愛いなと思った。



「ごめん。布団敷くのはセルフサービスで」

 俺は押し入れを開け布団を二組出して、翠に声をかける。

「了解」

 翠は返事をして手早く布団を広げた。
 夏場なので掛け布団はタオルケット。後は枕を出せばあっという間に寝床の完成だ。

「ちょっと動いたから眠くないかもと思ったけど、やっぱ眠い」

 俺は電気のリモコンを持ったまま、布団に倒れ込んで枕を抱きしめる。
 翠も隣の布団に寝転ぶと、手を伸ばして俺の頭を撫でた。

「あはは。圭人、お子様」

 どうやら翠は通常運転に戻ったらしい。

「そうだよ、俺、末っ子だもん。甘やかされて育ってるし、そんなすぐには大人になれない」
「そうかな? すぐ眠くなっちゃうのはともかく、面倒見もいいし、よく気がつくし、俺なんかより大人だと思うけど」
「子供って言ったり大人って言ったり、どっちだよ」

 意識が遠のきそうになるのを必死に堪える。
 何気なく時計を見るともう1時を過ぎている。
 普段ならもうとっくに寝ている時間だ。
 俺は眼鏡を外して枕元に置いた。ついでに電気も一番小さな灯りに変更した。

「確かに。んー、両方かな? 圭人、かわいいなって思うこともあるけど、中身は結構イケメンだよね」
「褒めても何も出てこないよ?」
「あはは。大丈夫、もうじゅうぶん貰ってるから」
「そう……」

 朝から部屋を片付けて、混雑した花火大会ではしゃいで、だいぶ疲れていた。翠の優しい穏やかな声は、まるで子守唄のようだ。

「あれ? 圭人、寝ちゃったの?」

 翠の声が、すごく近くで聞こえた気がした。

「……」

 返事が言葉にならない。
 眠くて頭がふわふわする。

「ふふ、おやすみ」

 優しい声と同時に唇にそっと何かが触れたのを感じて、俺は目を開けた。
 その美しい造作がわかるほど近くに翠の顔があった。

「……みどり?」

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 けれど、あんなに眠かったのに眠気は飛んでいた。
 目の前の綺麗な顔はみるみる青ざめていって、慌てたように俺から遠ざかった。
 ぼやけていく姿に、何が起こったのかをやっと理解した。
 この唇に残る感触は。
 右手の親指で自分の唇をそっとなぞる。

「……ごめん、圭人。こんなこと、するつもりなかったんだ! だから……!」 

 俺は狼狽える翠を咄嗟に引き寄せて、抱きしめた。

「翠、大丈夫だよ」
「……圭人?」
「謝らなくていいよ」

 翠の顔を見る。頬を涙が伝っていた。
 胸が痛くなった。
 初めて見る翠の泣き顔は綺麗だけどどこかへ行ってしまいそうなほどに儚げだった。
 ただ、繋ぎ止めたかった。
 俺は伝う涙を優しく拭って、そして今度は自分から唇を重ねた。
 思っていたよりも心は穏やかで、キスをされたことも、自分からしたことも、すごく自然なことに思えた。
 慌ててパニックになっている翠が愛おしく感じて、そしてひどく悲しく感じた。

「……圭人、泣きそうな顔してるよ」 
「翠が泣いてるから悲しいんだよ」

 いつも笑顔でいて欲しいのだ。
 キスの意味は両方ともわからないけれど、でも翠が泣き止むならどうだってよかった。
 それがどんな意味のものだったとしても。

「ほら、大丈夫だから。寝よ」

 翠をぎゅっと抱きしめたまま、少しだけクーラーの温度を下げる。

「……圭人、怖くないの?」
「怖くないよ。それともなんかする気?」
「しないよ!」
「でしょ? それに俺が翠にくっついて寝たいの」

 翠の顔が赤くなって、可愛くて、もう一度キスをした。
 キスをしたかった。
 でも、これでいいんだろうか?
 俺にとって翠はすごく大切な存在だけれど。
 翠は、何を思って、俺にキスをした?
 聞こえてくる心臓の音が、自分のものか翠のものかわからない。

「圭人、ごめんね。ありがとう」
「ありがとうだけ貰っとく! ほら、寝るよ。おやすみ」
「……おやすみ」

 感じる体温も、2つの心音も混ざり合って溶けていくようだと思った。