偶然の赤い糸

 職場のビルから出たとたんに宗佑が現れて、ふさがるように前に立った。びっくりする。宗佑は前に会って以来、なんの音沙汰もなかった。宗佑は怒った顔をしていた。なににそんなに腹を立てているのか――。
 宗佑は私の腕を掴んで、歩き出した。痛い。
「離して」
 離してくれない。なんなの?
「なんで別れないんだよ」
「なんでって」
「あのまま和仁と結ばれていたらよかったんだよ」
 吐き捨てるような言い方に、かっとすると同時に、めまいがした。この人は知っていたのだ。それで、その状態を都合がいいと考えていた。
「……誰と付き合うかは、私が決める」
「それはけっこうだけど、俺は、もし君が史誠にキスしたら、あやかしの中で居場所を失うかもしれないんだよ」
「……叔母さんの考えによってですか?」
 宗佑が目を細めた。
「史誠に聞いたの? 悪趣味だね」
「そういうわけじゃない」
「今年がすべての長の選挙の年だって知ってる? 大事な年なんだよ。選挙の前に、史誠が人間になりでもしたら……!」
「……選挙の後なら大丈夫なんですか?」
「そういうわけじゃない、だけど、まだましだ。史誠は今回の選挙で家長には必ずなるだろう。選挙とはいえ、ほとんどが魔力の強さで決まるから。だが、族長はわからない。族長は魔力以外の要素も出てくるし、新しく大人になった者――成長を止めた者――そうでないと、選挙に出られないんだけど――で、史誠より魔力の強い者がいるかもしれないからな。それに、どちらにせよ、史誠はあやかしの長には今のところなれないだろう。あやかしの長はより人望が必要になる。人望と人気が」
 宗佑は軽くくちびるを噛んだ。
「仮に史誠が選挙の後に人間になったとして、史誠の後に選ばれた恒明家の家長は――おそらく叔母がなるだろうが――史誠の就いていた長のみに就く。史誠が家長あるいは族長までなら、そこまでだ。影響力は今よりは大きくなるが、まだましだ。次の選挙まで五年あるから、時間的猶予がある。新しい魔力の強い者が現れる可能性はじゅうぶんある。だけど、選挙前に人間になったら、叔母はとんとん拍子にあやかしの長に就く可能性がある。叔母の考えに賛同する者も多いし、叔母も仕事はできるんだ」
 突然宗佑が立ち止まって、私もつんのめるように、足を止めた。やっと宗佑が手を離す。
「頼む」
 正面で、頭を下げられた。
「お願いだから、今すぐ別れてほしい。……それが無理なら、せめて……、せめて、史誠を人間にするのは、この選挙が終わってからにしてくれ」
 周りを人が歩いていく。ちらちらと、好奇の目を向けられる。
「……別れはしない。人間にするかどうか、それがいつになるかは、わからない」
「約束してくれよ」
 宗佑が顔を上げた。目が赤くなっている。だけど、
「できへん約束は、」
 あ、と思った。思わず方言になっていた。宗佑は驚いたように一瞬言葉を呑み込んで、それから、
「関西出身だったの?」
と言った。
「うん。大阪」
「史誠もだよ。……って知っているね、お披露目の時、来たから」
「うん……。それで、だから、できない約束はできない」
 宗佑は長く沈黙した。
「……俺もね、こういうことはしたくないんだけど、やむを得ないかな」
「……なんですか?」
「まだ確定ではないのだけど、千年前のあの子が、あやかしとして――月光で生きる鬼として生まれ変わったという話がある」
「え?」
「ちょっとした伝手があって、知ったんだけど。彼女は、去年、二十三歳になって、成長を止めた。今回の長の選挙に出れる齢になった。彼女は非常に強い魔力の持ち主で、おそらく家長、そして族長になるだろう。今までそれがばれていなかったのが不思議に思うかもしれないけど、彼女は、存在自体、秘匿されていてね。彼女の存在を、史誠に告げるよ」
「待って」
 悲鳴のような声が出た。史誠くんを信じている。だけど、その彼女が現れたら、わからない。
「待たない」
 宗佑は宙に軽く浮かび上がって、私を見下ろした。
「史誠はどうするだろうね」
 目の前で強い風が起こって、私は目をつむってしまった。風がおさまって、私が目を開けた時には、宗佑の姿はなかった。
「史誠くん」
 呼んだ。今日が仕事だって知っているけど、わがままだけど。
 史誠くんが現れた。着物の胸元に小さなマイクが見えて、罪悪感を覚える。
「どしたん」
 史誠くんの額に汗が光っていた。
「ごめん仕事中に」
「いや、せやけど、五分くらいしか時間ないかも」
「ごめん、あのね、さっき、」
 言いかけて、宗佑より先に史誠くんに会って、なにが言えるのだろう、と頭が冷えた。先に、彼女が生まれ変わったよと言うのか。それでいて、私を好きでいて、と? あるいは。悪魔がささやいた。黙ってキスをする? ――そんなこと――。
 史誠くんは黙って待っている。
「……さっき、お兄さんが、宗佑さんが来て。千年前、史誠くんが、」
 風が起きた。史誠くんが私を引き寄せた。宗佑が現れた。肩で息をしている。
「なんだって、こんな移動……。君が呼んだのか?」
「そうです」
「キスしたのか?!」
 宗佑が掴みかからんばかりに近付いた。史誠くんが私を抱きしめた――体が勝手に回転した。巻き上がっていくような感覚。
 史誠くんがなにか呪文のようなものを唱えている。
 目を開けると、東京の空の上だった。あの時を、二度目に会った時のことを、思った。あれから過ごした時間を考えた。
「もう大丈夫や。結界を張った。あいつになんもされてへん? 大丈夫?」
 史誠くんのささやく声に、私は目を閉じた。
「大丈夫。だけど、千年前に、史誠くんが結婚の誓いをしたさくらさんが、あやかしに生まれ変わった話があるって……月光で生きる鬼に生まれ変わったかもって……」
 涙がにじんで、それから流れ落ち、止まらなくなった。
 だけど、私は、黙ったまま史誠くんにキスをすることはできない。
 史誠くんが息を呑む気配がした。私を抱える腕の力がわずかに弱くなって、それからあわてたようにまた強くなった。
「……仮にほんまに生まれ変わったんやとしても、俺にはるりさんだけやから」
「だけど……会いたいでしょ?」
 私だったら、きっと会いたい。私が浦くんに会いたかったのと同様に。
「いや、会わへん。会ってもしゃあないわ」
 史誠くんの声は、言葉と裏腹に強がっているように聞こえた。
 会った方がいいと思った。というか、会ってほしかった。史誠くんの幸せのためというと嘘っぽい。いや、嘘ではない。だけど、その気持ちだけではなくて……彼女に会った上で、気持ちがないのを確認し、私を選んでほしい。彼女に会わないままでは、私は、史誠くんが実は彼女を好きなんじゃないか、という疑念を拭い去れない。
 それで史誠くんが彼女を選んだなら。
 溺れるような気持ちになる。
 選ぶのは史誠くんだ。彼女があやかしに生まれ変わったのなら、史誠くんと彼女は永遠にともにいることができる。その幸せを、私は壊せない。
「……会って。会ってほしい。その上で、私を選んでほしい。だけど、会った上で、さくらさんを選んで、さくらさんも史誠くんを選ぶなら……それでいい」
 それに、と思い至った。史誠くんが会わないと言ったって、宗佑が言うように彼女が族長になったら? 族長の集まりで、顔を合わせるだろう。
 私は宗佑に従うわけじゃなく、史誠くんが彼女と会うまで、つまりもっとも先の場合、族長の集まりのある時まで、史誠くんとキスしない。
「せやけど……」
 そう言いながら、史誠くんの心が揺れているのがわかる。私は感情を読める鬼じゃないけど、わかってしまう。
「……じゃあ! 私も、前好きだった人に会うから!」
 さけんだ。
「え?」
「同窓会があるの。欠席するつもりだったけど、参加する。それで、もう気持ちがないことを確かめる」
 だけど、私は、やっぱり出席する、という連絡をしなかった。
 私の気持ちは変わらない。今は史誠くんが好き。永遠か、と問われるとわからない。そんな約束はできない。史誠くんもだと思う。だけど、人間の一生なら、私が人間として生きていくうちなら、私は史誠くんを好きでいられると思う――今は。
 史誠くんの気持ちは史誠くんにしかわからない。
 気持ちが重ならなければ、一緒に生きていくことはできない。

 長い長い日々だった。
 仕事をしている間も、家事をしている時も、電車の中でもただの道でも、史誠くんが頭から離れることはなかった。それは甘く切ない気持ちだけではなくて、同時に苦しいことだった。
 まだ連絡はない。現れてもくれない。だから……まだ会っていないのだと、思っている。
 それなのに、ぐるぐると考え込んでしまう。考えても栓のないことで、だいたい、自分がそう仕向けたのだ。
 私と別れて生まれ変わったさくらと生きるとしても、最後に挨拶くらいはしてくれるはずだから、それでいい。
 会社のビルを出て、駅に向かって歩いた。
 赤信号に立ち止まる。
 そういえば、ここで最初に宗佑に声をかけられたんだった、と不意に思い出した。宗佑も、あれから現れていない。……それはそうか。宗佑にとってはよろこぶべきことが起きるかもしれないのだから。史誠くんと生まれ変わったさくらが結ばれれば、宗佑の目的は達成される。私を愚かだと思っているだろうな、と苦笑いがこみ上げる。それはそうかもしれないけれど。
 だけど……。
 青信号になった。
 人混みを歩きながら、ふと空を見上げた。ビルに挟まれた空には、月が昇っていた。
 やけど、それって根本的な解決にはならへんよ。
 史誠くんは、魔力は鍛えることができる、と言っていた。つまり、叔母が、諒が、力をもっとつければ、史誠くんがあやかしのままでも、家で一番力を持つ可能性がある。だから……叔母の考えが間違ってるって、差別だって伝えて、話をして、そして、また、ほかの人権意識のある者が家長になれるよう魔力を強める。あるいは、魔力の強さを重視するのでなく、さまざまな面から家長を決めるように改革する。そういうのが、必要じゃないのかな。
 スーパーに向かう近道に入った。少しだけ暗く、人通りが少ない。早足で歩く。
「ねえ」
 女性の声がした。誰が誰に呼びかけているのかわからない。私は足を止めなかった。
「るりさん」
 ぎょっとした。誰が――。振り返ろうとした、時、首筋に、痛みが走った。熱したような、痛みだった。

 頭ががんがんしていた。どこ……今、私、なにを……。目を開けると、
「あ。起きた」
と知らない女性の声が聞こえた。
 体が重い。
「ねーしっかりしてよ」
 顔が、私を覗き込んだ。黒い髪の、かわいい、若い子。どこかで見たことがある、と感じたが、頭がじゅうぶん働かない。
「これから髪染めよーね」
 え?
 セルフのヘアカラー剤のパッケージが顔の前に突き出される。ブラウン。
「ブラウンだったら会社も大丈夫だよねー? ちゃんと配慮してんだよ? 感謝してねー」
 頭を巡らせた。どこかのマンションの部屋のようだ。私はカーペットの上に寝させられていた。起き上がろうとして、だが、体のあちこちが痛くて、なかなか起き上がれない。
「もう、なにしてんのー」
 手を取られて、無理やりがばりと急に体を起こされた。吐き気がして、思わずうめいてしまった。
「思ったよりふつうの人だねーねえ、そうすけ」
 そうすけ? まさか。びっくりして顔を上げたら、宗佑が現れた。びしっとしたスーツ姿。非情な顔で、私を見下ろす。女性が立ち上がって、宗佑の腕に腕をからめた。
「さくらです。DMありがとねー」
 ああ。あのさくら。だけど、どうして宗佑が一緒に。さくらのおかげで、私は和仁の元から逃げ出せて、史誠くんとまた会えるようになった。宗佑は、私が和仁とともにいる方が都合がよかったと思うけど。
「あの……その節は、ありがとうございました」
「やだーこんな状況でお礼言うとか、頭悪いのー? びっくりするね」
「……こういう人なんだよ」
「へぇー、だけど、こういう人が、宗佑の考え、わかってくれないんだ? 史誠が人間になったら叔母が家長になって困るって言ってんのに、史誠と別れようとしないで」
「そうなんだよ」
 宗佑の差金か。視界がクリアになる。どこでどう二人が知り合ったのかわからないけど。
 それにしても、帯留めの魔力で、私は無理に連れていかれることはないと思っていたけど……。はっとして、まわりを見まわした。バッグは。
「あ、これー?」
 さくらが私のバッグを掲げた。
「返して」
「後でね」
 さくらはバッグをぽんと床に置いた。私からは遠い位置。
 体を動かそうとすると、頭痛が走った。がんがんと響く。
 それなら史誠くんの魔力は効いていないということ? ――いや、あれは、あやかしに対するもので、だから、この、おそらく人間のさくらが私を誘拐するのは、なんの支障もなかったのだ。なにが起こったかもわからなかったから、史誠くんの名前を呼ぶこともできず。
 宗佑が私の前にゆっくりしゃがみ込んだ。顔が近付く。私は身を引いた。こわいほど美しくて、美しいけどこわい。史誠くんのようなやさしさがない。これまで会った時より、よりいっそう。
「君のせいだよ。いや、君のおかげかな」
「どういう意味ですか」
「生まれ変わりのさくらちゃんの元に、史誠を送り出したの、君でしょ?」
「……はい」
「助かったよ。手間が省けて」
 宗佑は立ち上がり、壁を軽くたたいた。映像が浮かび上がりはじめる。
「……史誠くん」
 映像の中に、史誠くんがいた。座敷で正座している。障子が引かれて、入ってきたのは青い着物を着た、きれいな女性だった。髪は黒髪のボブで、伏せた目のまつ毛が濃く長い。
 史誠くんが腰を浮かせた。目を見開いて、そして、やさしいまなざしになる。……私は、さけびそうになった。胸が苦しい。呼吸が浅くなる。そのまなざしは、誰のためなの――?
「さくら……」
 耳を塞ぎたい。目を閉じたい。だけど、どちらもできない。私が望んだから。さくらと会った上で、気持ちを決めてほしいと。だから、見届けなければならない。
 生まれ変わったさくらが、史誠くんの目の前に座る。伏せていた目を上げる。アーモンド形の、猫のようなはっきりした瞳。形のよいくちびるが動いた。
「史。会いたかった……!」
 史誠くんに抱きつく。史誠くんは驚いたようだったが、すぐにやさしい表情をして、腕をさくらの背中にまわした。
 悲しみが胸の中を転げていく。
 全身の力が抜けた。
 史誠くんはさくらを選んだ。千年以上前から想い続けた人を。
 ――絵になる。美しい二人。目の前がにじんだ。
 私は、もはや史誠くんにとって必要がない。永遠の幸せを、二人で掴んで――。
 映像が消えた。
「わかった?」
 宗佑の声に、息もできずにうなずく。
「じゃあ、髪染めよ」
 さくらが弾んだ声で言った。
「……なんで染める必要があるの?」
「運命の人でなくするため? 一番手っ取り早いし、安全じゃん? ほくろ除去は病院でしなきゃだし、年齢は変えられないし、ほかの人と無理にキスさせるのはさすがに人としてよくないし?」
「……ちょっと待って。おかしくない?」
「なにが?」
「なにがおかしいの」
「史誠くんが生まれ変わったさくらさんを選んで、私を選ばないなら、私がわざわざ運命の人でなくなる理由はないはず。――史誠くんは本当にさくらさんを選んだの?」
 宗佑は表情を動かさなかった。さくらが
「え? どういう意味?」
と本当に戸惑った声を上げた。
 私は史誠くんを信じたい。それにもしこの願いが裏切られたとしても、それはそれで私が髪を染める必要はないはずだ。
「史誠くん!」
 力いっぱい大声を出した。
 史誠くんは現れない。風は起こらない。
「――無駄だよ」
 宗佑が言った。くちびるが皮肉そうな笑みを作る。
「生まれ変わったさくらは、史誠を手に入れたい。ずっと史誠を想い続け、だけど、亡くなってしまって、何度か生まれ変わったらしい。どの人生でも史誠に出会うことはできなかった。だけど、今回、あやかしとして、月光で生きる鬼に生まれ変わった。それも、すごく強力な魔力を生まれながらにして持って。意味わかる?」
「……史誠くんを、魔力でつなぎとめられる、ということですか?」
「理解が早くて助かるよ」
 壁を宗佑がまたたたき、映像が映った。
 史誠くんが、さくらと向かい合っている。体は離していたが、距離は近い。
「俺も会いたかった……。やけど、ごめん、言わないとあかんことがあるねん」
「なに……?」
「……別に、好きな人がおるんや。その人と一緒に生きたいと思っとる」
「え? どういうこと? なんで……なんで?」
 さくらが泣き出しそうな表情になる。
「……ごめん。理由は……そんな、明確な理由はないかもしれん。ただ、偶然出会って、それで……せやな、強いて言うなら、俺のさびしさに気付いてくれた」
「さびしさ?」
 初めて史誠くんと会った時の光景が、あの瞬間がよみがえった。――ああ。息が詰まった。どうして、あれで? あれで……私を選んでくれたの? でも、そんなものかもしれない。私だって……あの時、命を捨てかけたのを救ってくれた、それで、もちろんそれだけではないけれど、あの時にすでに心は決まっていたのだ、はっきり自覚していなかっただけで。史誠くんが好き。好きやねんって――。
「それ……そんなの、誰だって気付くことじゃない? その子じゃなくたって。私もわかるよ。むしろ私の方が。千年以上、何度も生まれ変わったの。ずっと史だけを探し続けた。孤独だったし、さびしかった。でも出会えなくて……こうしてやっと会えた。しかも、あやかしとして。史と一緒に永遠に生きられる」
 さくらが史誠くんの両手を自分の両手で包み込んだ。
「ねえ。その子と結婚したわけじゃないんだよね?」
「……うん」
 史誠くんはさくらの両手をそっと外した。
「やけど、したいと思っとる」
「どうして、その子がいいの? 私が初恋だって言ってくれたよね? 私も初恋だった……。生まれ変わったって、私は誰とも結婚しなかった。史のことをどうしても忘れられなかったから。なのに……」
 さくらが涙をぬぐった。――泣いてもきれいな子だな、それにしても、噓泣きっぽいけれど。と思うのは、私の偏見かな。
「……ごめん。ほんまに悪いと思いし、前は……確かに好きやった。ほんまに。せやけど……気持ちが変わったんや。どうしようもなくて。俺にとっては、今の運命の人は、それも、別に誰に定められたわけちゃうくて偶然出会っただけやけど、その中で互いに選んだ人が、俺にとって運命の人やから」
 心臓を止められる。胸がいっぱいになる。
「……ああ、そう。だけど、その人間の女と生きるのは許さない」
 さくらが冷たい声を出した。史誠くんが驚いた表情になる。
「は? なんで人間って……」
「宗佑くんから聞いた」
「え? 宗佑と会ってんの?」
「うん。え、別に不都合ないよね? 宗佑くんの恋人が私の姉だから、それで連絡取ってて」
「どういうこと?」
と声を上げたのは、こちらにいるインフルエンサーのさくらだった。こちらのさくらが宗佑に詰め寄った。
「恋人って。私のこと好きだって」
「悪いけど。俺の目的のために、どうしても人間で動ける者が必要だったんだ」
「はあ? なんで私が協力したと思ってるの?」
 宗佑がなにか呪文を唱えた。とたん、さくらが崩れ落ちた。
「ちょっと、」
 私が思わず言うと、宗佑は肩をすくめてさくらをそっとベッドに運んだ。さくらは気を失っているようだった。呼吸は……きちんとしている。
「大丈夫。後で記憶はきちんと消すから」
「そういう問題じゃないと思います。傷付けて、利用して」
 人として許せなかった。
 突然、壁から大声がして、はっとした。史誠くんが声を荒げていた。
「どういうつもりやねん。俺をここに置いておくって。せやから、俺はちがう好きな人と生きるって言よるねん」
「もう出られないようにしたから」
 史誠くんが素早くなにか呪文を唱えた。だが、
「くそっ。なんやねん。ぜんぜん効かへんやん。ていうか、お前、なんでこんな魔力強い……」
「なんでだろうね。神様が私に与えてくれたものだから。それに、私自身の努力もある。史は与えられた魔力こそ莫大だけど、鍛えてこなかったんじゃない? だから」
 史誠くんが呆然とさくらを見た。
「いいじゃない。人間になって、その好きな人? るりっていうの? その人と一緒に生きて、死んで、どうなるの? 生まれ変わっても一緒だって? そんなにうまくいくはずない」
 さくらが暗い目をした。
「それより、私と永遠を生きた方がいいじゃない。……あ、一個だけ。今、宗佑くんが人間の女と一緒に、そのるりって人をさらっているはず。髪を染めてくれるって。だから、もしも史がここから抜け出せたとしても、その人は史の運命の人じゃない。ただの人間。触れたら火傷するよ。――さっき、史の名前も呼んでたみたい。私の魔力で弾いておいたけど」
 宗佑が映像を消した。――息が上がった。どうしてこんなこと。
「仕方ないだろう。叔母が家長になったら、排他主義の世界に近付いてしまうんだよ。そんなの許せないだろう。それとも、君は叔母の意見に賛成なの?」
 宗佑に腕を引っ張られ、無理やり立ち上がらされた。頭痛がひどくなる。足がふらついた。
「悪いけど、君を運命の人でいさせ続けるわけにはいかないから。聞いたと思うけど、さくらの魔力は強いし、大丈夫だろうけど、それでも念には念を入れないとね。さくらにも、万一のためにそうしてほしいと頼まれている。恋人の妹の頼みだから、しておかないと。史誠も和仁も甘すぎる。君も」
 宗佑が言葉を切った。
「さっさとキスしていれば、こんなことにならなかったのにね。史誠のため、と言いながら、自分が一番こわかったんじゃない? 史誠の人生の責任を取るのが。自分の人生を決めてしまうのが」
 胸をえぐられる。確かに、それはそうだった。だけど、そのこわさ、おそれは、私が真剣に考えたからだ。それを否定されたくない。
「なんであなたにそんなこと言われないといけないの」
「別に言ってもいいでしょ」
 宗佑が横を向いた。
「じゃあ私も言うけど、あなたはどう生きたいの? 恋人がいるのに、このさくらを利用して私をさらって、私を誰の運命の人でもないようにするのが、あなたにとって大事なことなの? 私も、あなたの叔母の意見には反対だよ。あやかしだろうと、あやかしと人間の子どもだろうと、人間だろうと、それでその能力がどんなものであったって、みんな幸せになる権利がある。排他主義はよくない。結局、人を個々で見ずに、その属性を見て、はかっているってことでしょ?」
 つばを呑み込む。
「やけど、あなたも、同じようなことしてるやん。私を、誰かの運命の人としてしか見てへんやん。運命の人の要素を無理やり私からのけて、自分の思い通りにしようとしてるやん。生まれ変わったさくらも同じやし。昔に結婚した人かもしれん、せやけど、もう千年経ってんねんで。やのに、史誠くんの、前に結婚してた、好きやったっていう要素だけ自分のええように解釈して、今の史誠くんの気持ち、無視して、自分の思い通りにしようとして。そんなん、あかんに決まってんやんか!」
 宗佑が手の力を強めた。無理やりに廊下に連れていかれそうになる。私はしゃがみ込んで抵抗した。絶対に行かない。私が私の容姿をどうするか、誰を好きか、誰と生きていきたいか、すべて私が決める。誰にだって、なにかを強制させることはできない。
「あなたやって、叔母に対抗したらええやん。一人で無理なら、何人かで対抗して、魔力強めて、仲間増やして。むずかしいかもしれないけど、そうするしかないやん」
「うっさいな」
 宗佑が、ばん、と壁を殴った。心臓が縮んだ。
「そんなきれいごとばっか言って、そんなので世界が平和になった試しはあるか? 実現可能なものと不可能なものがあるんだよ」
「……そうかもしれんけど、せやからって、そしたら、私や史誠くんは犠牲になるべきやってこと?」
「そうだよ。誰かは犠牲になる。もちろん、将来的にこのままではいけないことくらいわかっている。史誠以外にも叔母に魔力で対抗できる、排他主義でない者が必要だ。だけど、今は、まだそういう者がいない。史誠が人間になったら、叔母が家長になる」
「魔力重視やなく、選ばれるようにしたらええんちゃう」
「そんな簡単に言うなよ。今回の選挙には間に合わない」
「やけど! やからって、その全体のために私たちが犠牲になるのは、それやって、戦争と一緒やない? 個々の幸せは置き去りにされて、ただ全体のため、国家のためって」
 訴えながら、もう無理かもしれない、と思った。史誠くんはさくらに魔力を抑えられていてこちらに来られないだろうし、私が髪を染められずに逃げられたとして、どうやって史誠くんと会えばいいのだろう。ともに生きていく道は、閉ざされてしまった。私はなんの魔力も使えない――待って、私が使えるかもしれない魔力がある。
 ここを抜け出しさえすれば。
「……史誠くんには二度と近付かないので、髪は染めずに、帰してください。お願いします」
 カーペットに頭と、掴まれていない左手をつく。
「お願いします」
「……そんなの信用できると思う?」
「信用してください」
 それに、とひらめいた。私を直接連れてきたのはさくらだ。つまり、あやかしに、私が勝手に連れ去られない、という史誠くんの魔力はまだ効いているはずだ。ただ史誠くんが軟禁状態で、私が呼んでも来られない、というだけのはずだ。
 それならば。
 呼吸を整える。冷静に。焦ったら失敗する。なんでもそうだ。仕事もそう、落ち着いた方がミスも少ない。
 私は頭を上げた。宗佑が見下ろしている気配がする。
 私は思いきり走った。宗佑の手をふりほどき、自分のバッグを掴み、廊下に。
「なにしてんだよ」
 廊下の途中で後ろから肩を掴まれる。が、無理やり突っきる。玄関を、開けた。
 廊下を駆けて、非常階段を降りる。降りていく。急いだって急がなくたって、宗佑は先まわりできる。それはわかっているけれど、とにかく離れたい。人目のつくところに行きたい。
 マンションの前で戸惑った。ここがどこなのかわからない。だけど、とにかく走った。知っている駅が見えて、速度をゆるめる。電車に飛び乗る。
 早く。早く。焦った。
 アパートの最寄り駅で飛び下りて、また走った。
 自分の部屋に飛び込む。
 と、風が。宗佑が現れた。
「そんなに急いでも無駄だよ」
「無駄じゃない」
 私は宗佑を押しのけてクローゼットを開けた。
「あのね、あやかしの魔力をなめたら後悔するよ」
「しない。ていうか、誰の許可で私の部屋に入ってるん? 和仁ですら、そこんとこわかってたけど」
「はいはい」
 宗佑が消えた。とはいえ、部屋の前かどこか近くでいるだろう。高をくくっているんだ、と思った。私が魔力を持たない人間だから。確かに私の勝ち目はほとんどないかもしれない。だが、ゼロじゃない。それなら、できるところまで走りきる。
 祖母からもらった風呂敷、スカーフを積み重ねる。その上に博多人形、そしてアクセサリーをすべて置いた。それから、バッグからシクラメンの帯留めを取り出して、そこに加えた。上から、両手を置いて、そこに額をつけて目を閉じた。髪がつくように。史誠くんの火傷を癒すことのできる髪を。
「私を、史誠くんの元に連れていってぇな。お願いやから。史誠くんのこと好きやねん」
 付喪神の魔力を信じる――。
 ふっと頭から沈み込んでいく感覚がした。頭から吸い込まれていく。宙を舞う感覚がした。溺れているような感覚もした。気持ちが悪い、体がどこをどう向いているのか、どこが天で地なのかわからない。
「るりさん!」
 史誠くん! 目を開けたら、史誠くんがいた。一人――一人だ。
 私は史誠くんの懐に飛び込んだ。
「どうやって、こんなとこ、危険すぎる」
 史誠くんが私の背中に手をまわした。ぎゅっと力を込められる。
「ぜんぶ知ってる。さくらさんのこと。見てた。宗佑が」
 こんなこと言っている場合じゃない。
「史誠くん、私と、歳を重ねてくれへん?」
 くちびるが震えた。史誠くんの瞳が私の瞳をとらえた。私の瞳も史誠くんの瞳をとらえた。
「るりさんこそ、俺と、歳を重ねてくれへん?」
 うなずく。
 世界が私と史誠くんだけになる。
 私たちは、くちびるを重ねた。
 熱くて、冷たくて、切なくて、満たされていた。
 くちびるが離れ、目が合った。光がきらめく。
 史誠くんがなにか呪文を唱えて、
「……効かない」
とつぶやいた。人間になったんだ、と気付いた。
「史誠くん……誕生日おめでとう。一生、一緒においしいもの食べよう」
 史誠くんが破顔した。これまでで一番の笑顔だった。