無駄だとわかっていながら、私は昼休み、昼食を抜いて、ホームセンターにニッパーを買いに行った。
夜、和仁から解放されて、自室とされた部屋で、バングルをニッパーで挟んで、力を込める。バングルと手首にはわずかな隙間しかなく、何度か繰り返すうちに、手首に赤い痕がついた。そのくせ、バングルにはなんの傷もない。
それはそうか……。私はニッパーを放り出した。魔力で保護されたバングルだから、魔力で壊すしかないのだろう。だけど、その方法などわからない。史誠くんと連絡も取れないし。
畳の上に寝転がる。あの時、私が死を思わなければ、史誠くんに会うこともなくて、あやかしの存在も知らなくて、同窓会で浦くんに会って、それが幸せかどうかはわからないけど、凪のような日々だったかなあ。電灯がぼやけた。
だけど、過去には戻れない。目を閉じる。現実は、史誠くんと出会って好きになって、だけど、人間相手とはちがっていて、和仁の家で過ごさせられていて、史誠くんに会えなくなった。
あやかしのこと、相談できる人なんていないし……。――誰かを介したら、連絡を取れるだろうか。
目を開ける。天井の模様を目でなぞりながら、頭が冴えていく。あやかしのことを知っていて連絡を取れるような人間に頼んで、史誠くんと連絡を取ってもらえれば。誰が……さくら? 気は進まないが、ほかに思いつかない。そもそも、史誠くんの、あやかし以外の交友関係を知らない。
史誠くんの運命の人かもしれなくて、千年前の人の生まれ変わりかもしれないさくらが、私の命綱か……。なんだかなあ……。だけど、背に腹はかえられない。
体を起こす。スマホを取り出して、圏外であるのを思い出した。職場で連絡しなければ。
翌日の昼休み、SNSでさくらのアカウントを探した。一度見ただけだから自信はないが、おそらくこの人だろう、というアカウントを見つける。史誠くんとの写真や動画の投稿は見当たらないが、それは単にアップしていないだけなのか、和仁の魔力のせいかは判断できなかった。
誰かにDMを送るなんて初めてだ。
「初めまして。染谷るりと申します。突然のご連絡、申し訳ありません。着物男子の隼人さんをご存知ですか? 最近連絡が取れなくなってしまい、よろしければ、さくらさんを通じて連絡を取れればと思い、ご連絡差し上げました。隼人さんに連絡を取っていただけないでしょうか? どうぞよろしくお願いいたします」
送る時、指が震えた。私がさくらだったら、あやしいと思って無視するだろう、と思った。
案の定、と言うべきか、一週間が過ぎても、さくらから返信はなかった。SNSの更新はされているから、見ていないわけではないだろう。それか、大量に送られてくるから、なかなか返信できていないのか。
考えあぐねた。
和仁は相変わらずで、毎朝毎晩、ご飯を作ってくれ、行き帰りも私の家の最寄り駅まで送ってくれる。だんだんと、腹が立っていた気持ちが薄れて、申し訳ないような気になってくるのが不思議だ。気持ちを強く持たなければ、と思うが、和仁と直接向き合っていると、気持ちが弱くなっていく。
会社でいる時は、我に返った。和仁の家を出て、史誠くんに会わなければ、と思い直す。
もう一度だけ。
「染谷るりです。着物男子隼人の本名を知っていますか? 私は知っています」
変な脅しみたいになったが、そのまま送信した。どう思われてもいい、史誠くんに連絡を取ってもらえたら、と願った。
仕事を終えて、和仁に不審に思われない程度にぎりぎりまで会社にいて、スマホを確認した。さくらから連絡はない。
しぶしぶビルを出た。
「おつかれさま。仕事忙しいの? 最近遅いない?」
本気なのかカマをかけているのかわからない真顔で、和仁に問われた。
「……ちょっとね、最近」
「そうなんだ。繁忙期?」
「そんな感じかな」
嘘がばれたらどうなるだろう、と心臓を冷やしながら、和仁の隣を歩く。容赦ないかもしれない。でも、私は「大事な」運命の人だから、手荒くされることはない、と思っているのだけど。人の感情の匂いを嗅ぎ分けられないあやかしでよかった。これが史誠くんと同じ族だったら。
「ふぅん……」
和仁は辞めたらいいのに、とは言わなくなったけど、そう考えているのがありありとした相づちを打つ。
「……あのさ、自分も仕事忙しいんじゃない? 毎日送ってくれるの悪いから、私、自分のアパートで暮らすよ……?」
何度か提案し、そのたびに跳ね返された話だった。
「僕が好きでやっていることだから」
「だけど、バングルも着けてるから、ほかのあやかしに襲われることもないわけだし」
「それはそれ。昼間用」
「そうかなぁ……」
和仁に手首を握られて、空を飛ぶ。月を見て、史誠くんと飛んだ夜を思い出した。胸が不意に苦しくなった。
昼休み、DMの返信を見た時、思わず自席で嗚咽した。
「るりさん。史誠です。さくらちゃんからDM見せてもらった。ほんまにごめんな。状況はぜんぶわかってる。バングルのことも。やけど、和仁の家でどう過ごしてるか、るりさんがどう思ってるかはわからへん。それと、バングルは、和仁以外は、誰の魔力でも外せんのや……。唯一方法があるとしたら、古い物の魔力なら外せるかもしれん。付喪神が宿った物で、るりさんの味方になってくれる物、守ってくれる物、例えば、るりさんの家で代々受け継がれてる大事な物があったら、それをバングルに当ててみて。確かな方法ではないけど、ダメ元でええから、してほしい。それで、外せたら、すぐに俺を呼ぶんと、俺のあげた帯留めを身に着けて。ほんまにごめんな。いつでも、できる時にしてほしい。いつでも、どこでも駆けつけるから」
涙が止まらなくなって、あわてて席を立った。まだなにも解決していない。解決方法も、正直なところ、すごく気が重い。一度、実家に帰らなければならないから。だけど、それらを差し引いてもなお、満ち足りた気持ちが体いっぱいに広がった。
トイレでひとしきり泣いた。
史誠くん、ありがとう。さくらさんも、ありがとう。
「さくらさん、本当にありがとうございました。史誠くん、試してみます」
そう返信し、それから、実家に、近々帰省する、とLINEを入れた。すぐに既読がついて、お腹の底が痛くなった。帰省するのは、何年ぶりだろう。
「ええーどしたん?! なんかいやなことあったん?! せやったら、帰省やなくて、仕事辞めて帰ってきたらええねんで!」
そんなんちゃうし、と心の中でつぶやく。
「また日程決まったら、連絡する」
「オッケー!」
スマホの画面を消す。調子が狂う。これまで東京で積み重ねてきたものが、一気に帳消しになった気がする。爪がスマホの画面に当たって、嫌な音がした。
その夜、和仁の作ったご飯を食べる前に、
「私、実家に帰省しようと思って」
と切り出した。胃がきりきり痛んでいた。ご飯を食べる前に話をつけないと、私はご飯を一口も食べられない。ご飯を私があまり食べられない時、和仁は露骨に不機嫌になることはないけれど、それでもがっかりした顔をする。
「え? 帰省?」
「うん。しばらく帰ってなかったから、帰ろうかなと思って。祖父母にも長らく会ってないし」
「えー……なんで今? ……それならさぁ、僕もついていくよ。てか、彼氏って紹介してよ」
冗談……なのか? 和仁はにこにこしていた。
「いや、仕事があるでしょ? バングル身に着けてるし、大丈夫だから」
「仕事はどうにかする。うーん……。家族って厳しい感じ? 彼氏ですって押しかけたら怒られる感じ?」
「うん」
食い気味に答えてしまう。嘘だった。家族はぜんぜん厳しくない。
「えーじゃあ、それはやめるけど、会いに行っていい? 飛んでいって帰るから」
「どこに会いに来るの?」
「え? 実家。は、無理か。え、自分の部屋ってある? あるなら、そこに直接現れるようにするけど」
「いや、それは……」
あまり強硬に断るのもかえってあやしまれるだろうか。
「夕方に外に出るようにする。連絡、どうやって取ればいいか教えてくれたら、こっちから連絡する」
「だったら、名前呼んでくれたら行くよ」
「名前……」
「うん。和仁って。や、呼び捨てじゃなくてもいいけど」
照れたような表情をされる。
「……わかった。そしたら、明後日の土曜日の朝出るから」
「オッケー」
その返事に、私は和仁のなにが嫌なのか、ひらめくように、氷解した。この軽い感じ。両親と姉りらに似ている。
「そういえば、実家ってどこ?」
言葉が一瞬喉の奥で詰まった。
「――大阪」
「へえ。方言ぜんぜん出ないから、わからなかった」
それは、そうしているからだよ。私は黙って箸を手に取った。
土曜日は朝から雨だった。雨の日、山はけぶるようになって、街から隔絶された感覚がよりいっそう身に迫る。
アパートでキャリーケースを取ってから駅に行く、と私が言うと、和仁は少し考えて、じゃあ先にアパートに送るよ、キャリー取ったら駅まで送る、と言った。
「……じゃあ、それでお願い」
渡されたレインコートを身に着ける。魔力で雨に濡れないようにできないの? と前に雨だった日に尋ねたら、魔力をそういうことに使いたくないんだよね、消耗するから、と返ってきた。
部屋は冷えていた。棚にうっすらほこりがたまっている。ベランダに続く窓を開けた。サンダルはほこりっぽくて、シクラメンは……すっかり枯れてしまっている。そう……だよね。ぱりぱりに乾いた葉に触れたら、細かくくだけて、宙を舞った。情けなかった。
キャリーケースに、最低限の服と下着を入れた。最後に、ポーチの中の巾着袋を確認する。巾着の口を触って……焼けつくような痛みが走って、手を引く。
「……お待たせ」
和仁はまた以前みたいに廊下から地上を見下ろしていた。
「このあたり、あんま空気よくないな」
「……そうだね」
事実だけど、和仁に言われるのは、なんとなく癪だった。
「実家は街なの?」
そう言いながら、和仁が私のキャリーケースを持とうとしたから、あわててしっかり握り直した。和仁は苦笑いを浮かべたが、それ以上無理に持とうとはしなかった。
「……ううん、田舎」
「え、じゃあ、こっちの空気悪いの嫌じゃない?」
「空気の良し悪しより、住む人の感じの方が大事」
「感じ?」
「うん」
こんなこと誰にも言ったことがないのに、なんでこの人に言っているんだろう。
「そんなにちがうかな? 最近、特に、人の感じだけじゃなくて、全般的になんでも均等化されている気がするけど」
「うん……それはわかるし、どこに行ったっていろんな人がいるし、結局は個々の人によるんだけどね」
決めつけはよくなくて、まちの数、人の数だけ、見ている世界、感じている世界がある。
私は、自分の生まれ育った場所の、祭りが盛んなところ、それを執りしきるヤンキーたちのノリから逃れたくて、東京に来た。
だけど、私同様に地元の雰囲気を好きでない、と言いながらも、うまく距離を取って地元で充実した生活を送っている友達もいる。彼女は、地方から若い女性が出ていく、というニュースを見るたびに、苛立つ、と言っていた。都会の方が、仕事の種類や数がたくさんあったり、考えが新しかったり、文化面が多様だったり、交通の便がよかったり、人に干渉しなかったり、そういうメリットがあるのはわかる。都会に出ていく人が多いのはわかる。だけど、ずっと地方で生きていて、満ち足りた人もたくさんいる。IターンやUターン、地方移住の記事はあっても、そんな人たちの記事は少ない。私らはいないみたいに扱われている。私らが注目されるんは出生数のニュースの時だけやねんで――。
「まあ、そっか」
駅に着いた。
「じゃあ行くから」
「うん。名前呼んでね」
「……うん」
電車に乗り込むと、体も心も解放感にあふれて、肩が軽くなった。絶対に、史誠くんに会って、和仁とおさらばする。
新幹線に乗り換える前に、コンビニでおにぎり一つとサラダを買った。それから、お土産のお菓子を買った。なにをよろこぶか全くわからないから、定番のクッキーの詰め合わせを選んだ。
新幹線が滑り出すと、大阪に帰る実感が湧いて、和仁と一緒にいるのとはまたちがう重苦しさに襲われて、息苦しくなった。
名古屋を過ぎて、おにぎりとサラダを取り出した。おにぎりのご飯粒、サラダの細いキャベツが喉に引っかかるのを、お茶で流し込むように食べる。あやかしはいいな、と思う。ご飯を食べなくていい。長生きできる。私があやかしになって史誠くんと生きる道はないのだろうか、と突拍子もないことを思いつく。魔力を与えてもらえたら可能だろうか。だが、技術的に可能でも、実際問題、命と引き換えだから、誰も与えてはくれまい。それに、与えてもらえたとして、私も史誠くんも幸せになれるだろうか。
大阪が近付くにつれて、徐々に時間がさかのぼり、高校卒業前の私に戻っていくような錯覚を覚える。
新大阪駅で降りて、乗り換える。新大阪駅は大きく変わってはいないが、テナントが入れ替わっている気がした。東京とどこがちがうのか言語化しづらいが、大阪に帰ってきた、と強く感じた。
車窓から見える街は、新しい建物が建ったり、なくなったり、そして、ビルや建物がびっしり立ち並んでいる街中から、徐々に建物の高さが低くなり、田んぼや畑が見えはじめ、郊外に移り変わっていく。気持ちが、重く、硬くなっていく。
実家の最寄り駅、ホームから階段を降りていくと、改札を抜けた先に、母がいるのが見えた。――迎えに来なくていいってあれだけ釘をさしておいたのに。
「おかえりー!」
大声。そして、母は、音が聞こえそうなほど腕を大きく振った。恥ずかしい。金色に染めた髪を胸を超えるくらいまで伸ばし、室内なのにサングラスをかけている。大きなロゴの入ったTシャツに、黒のホットパンツを着ている。
「……ただいま」
「え、まじで一人? なんやー彼氏とか婚約者とか連れてくるかと思うたのにー。いきなり帰ってくる言うからさぁ」
「せやから、一人やって言うたやん」
久しぶりの大阪弁は、自分でも意外なくらい舌になじんで、まるで昨日使ったばかりのようだった。大学に入って大阪弁を封印し、だけど、それでももれてしまうイントネーションを、関東出身の友達の真似をして、必死に直した。それからもう十年以上なのに。
「いやあ、それはやっぱ照れてるのかなぁ、とか思うじゃん! ぜんぜんそういう話、るりから聞かへんし。てか、ほんまにおらへんの? ええ人。どんな人でも反対せん――とは言えへんけど、いったんは受け止めるで」
「……またできたら言う」
「言うて言うて。てか、暑くないー? まだ六月やねんのに、信じられへん。てか、なんで長袖? 暑いやん」
バングルを隠すためだったが、
「……日焼けするから」
と答える。
「日焼け止め塗ったらええねん」
「……まあ、そうやけど……」
駐車場に着くまでの間で、疲れてしまう。母は私を二十歳で産んだ。若い頃はもっと派手で、ギャルだったらしい。父も二十歳のヤンキーで、バイクを乗りまわしていたらしい。私なら、どちらも付き合わないタイプだ。
「……シール、めっちゃ増えてへん?」
黒い車のボディに貼られた、なにかよくわからないロゴのシールが、以前見た時より格段に増えている気がする。
「ばれた? せやねん、最近バンドにはまっててん」
「……」
乗りたくないけど、仕方がない。私は後部座席のドアを開けた。
「え、なんで後ろ? 助手席乗りなよ」
「後ろでいいよ」
「なんでそんな冷たいねん。てか、なに、いいよってー。ええよ、やろー」
げらげら笑う。私は言い争うのも面倒で、しぶしぶ助手席に座った。フレグランスの濃い香りがした。母の好みの香りだ。母はスマホをつないで、音楽を流しはじめた。私の知らないラップだ。
「で、なんしに帰ってきてん」
車を発車させてすぐに、母は真面目な声で言った。この切り替えが、私にはいつも違和感があってついていけない。
「……お祖母ちゃんやお祖父ちゃんの上世代から受け継いでいる、大切なものってなにかない?」
「なんにいるん?」
「え?」
「なんのためにそんなんいるんかと思うて」
「……ちょっと気になって」
苦しい言い訳だった。先日急に振袖を頼んだこともあって、なにか訝しんでいるのだろう。
「――悪いことしてるわけちゃうから」
「悪いことなぁ。――お金困ってんの?」
「は? え、困ってへんけど」
強い口調になってしまった。方向のちがいにびっくりする。
「そうなん? 振袖やって、売り払ったんかと思ってん。今回のやって、なんか高級なもん探しに来たんかなーと思ってん。売ったり、よくて質入れして質流れ、みたいなー?」
「そんなわけないやん!」
「そんなわけあるで。ぜんっぜん連絡ないのに、急に連絡あって、振袖あるー? 帰省するー、言うから」
「それは……」
悪かったかな、と初めて思った。驚かせたのかな、とも。
「借金あっても私は貸さへんで」
「いや、ないから」
脱力する。
「そしたら、え、なに、仕事? まじで仕事つらいんやったら、アパート引き払って帰ってきなよ」
「あー……うん。仕事はまあ……」
車内がラップの音だけになる。正直には言えない。どうせ信じてくれないだろう。私の母や父に限った話でなく。だが、このままでは、なにも見せてくれない、答えてくれないだろう。母は納得がいかないことには、テコでも動かない。
車が、私の通っていた小学校の前を曲がった。焦った。もう少しで、実家に到着する。思わずバングルを触った。バングルの硬い感触に、これを断ちきるためだ、嘘だとか恥だとか、そういうのを考えてはいけない、と覚悟が固まった。
「……今、悩んでいるのは、好きな人がおるんやけど、相手の家のこともあったり、その人と別に私をな、」
肝を冷やした。軟禁、なんてこぼしたら、両親が逆上する。
「……なんでか、私を好きな人もおったりして、いろいろややこしいことになってんねん。不倫とか略奪とかちゃうし、お金のトラブルとか貸し借りとか、そういうことも一切ないねんけど、いろいろ、ちょっとむずかしい。それで、」
どう話をつなげればいいだろう。
「それで……振袖はな、前にその好きな人の家族に会う時に着たねん。大げさやけど、その人の実家が呉服屋しててん。せやから……。それで、なんか、その……褒められてん。せやから、昔のものって言うたらあれやけど、家に伝わってるものってほかになんかないかなって思ってん。その人も、いろいろ古いもの持ってはって、それもええな、と思うたし」
信じてくれるだろうか。母は笑わない。車は実家のカーポートにゆっくり吸い込まれた。
「なんやー好きな人おるんやんー」
母のテンションが突然真面目モードからギャルモードに戻った。
「不倫とか略奪とかちゃうかったらええやん。――って、一応、年齢だけ聞いといてええ?」
「あー、えっと、年下?」
嘘ではない、一応。
「年下? えーるりって、年下がよかったんやー。待って待って、二十歳にはなってはる?」
「うん」
「せやったら、ええやん。応援するで。また連れてきなよー。あ、降りて降りて」
車から降りて、実家を仰ぎ見たら、だいぶ古びた、という感じがした。もともと親戚の家だったから、築五十年近くになるはずだ。
「てか、ややこしいってなんなんー? ややこしい要素ある?」
母に続いて家に入る。甘ったるい香りがした。車とほぼ同じ香りだ。玄関の棚の上に、アロマが置かれている。
「……家が大きくて、親戚が多いから……」
「それは苦労するかもね」
不意にまた真面目な声を出す。――母が若くに結婚し、私を産み、親戚付き合いもしてきたことに、初めて思い至った。
「……お母さんは、不安ちゃうかった?」
「そりゃ不安やったでー。せやけど、優斗と一緒におりたかったねん。それが一番。でもまあ、つらいことはあんねんで。せやけど、なんでもええことばっかりいうことはないやん。つらいことばっかりいうことも……いや、それはあるかもしれへんけど。――祖母ちゃんに聞いてみるわ、なんか古いもんないか」
「……うん」
「自分の部屋で休んどきー」
「うん」
二階に上がって右手のドアを開ける。ベッドと学習机、カラーボックス、本棚。ほとんどのものは、今のアパートに持っていっているか、処分したが、昔読んでいた本や漫画は残っている。机の引き出しを開けると、数冊、覚えのない大学ノートがあった。
開いて、思い出す。――交換ノート。小学生の時のだ。
「なつかし……」
ふつうの大学ノートを、一人一ページずつ、あるいは見開き一ページずつ使って、カラフルなペンでいろんなことを書いている。質問コーナーとか、ランキングコーナーとかも、イラストを描いて自作している。
質問コーナーの「すきなタイプは?」に、私は「年上のサッカーをしている人」と書いていて、笑ってしまった。当時好きだった人が、サッカークラブに入っている一学年上の人だったから、こう書いているのだ。当時は、その人はプロのサッカー選手になるのだろうと単純に信じていたし、彼と結婚して、海外に行く、と思っていた(話したこともなかったのに)。私は彼と話すことなくその恋は終わって、彼はサッカー選手にならなかった(たぶん)。
「いつまでに結婚したい?」の質問には、「二十五才。相手は二十六才」と答えていた。いろいろ、意味がわからない。
小学生の頃、漠然と想像していた、夢物語みたいな未来は、ぜんぶ私の元には来なかった。
母の
「ちょっと降りてきてー」
という声に、ノートを閉じて、引き出しにしまった。
なにも実現していないし、そもそも考えていたことを今の今まで忘れていた。想像しなかった未来を生きている――幸せなだけでもなく、不幸なだけでもない現実を。
「祖母ちゃん、今からいろいろ持ってきてくれるってー」
「ほんと!」
「せやけど、るりが気に入るもんがあるかは知らへんで」
「……うん」
付喪神がいるかどうか、どうすればわかるのだろう。できる限り多く持って帰り、一つずつ試してみるほかないのだろうな……。
しばらくして、車の音がした。窓から覗くと、白い車がカーポートに吸い込まれるところだった。祖母だ。あわてて外に出る。
「るり、久しぶりやな。どないしてん」
運転席から降りた祖母が目を細めた。祖母は、私の中の記憶より老けていた。白髪としわが増え、ひとまわり痩せて見える。
「んーちょっといろいろあって」
「そうな。なんや言い方変わったなぁー」
どきりとする。祖母は、母とはぜんぜんちがうタイプで、真面目でおとなしくて、私は母より祖母の方が波長が合った。
「そんなに変わった?」
「せや、そんな気がするわ」
祖母は後部座席のドアを開けた。両手で抱えるほどの大きめのダンボール箱が一つ置かれていた。
「持つよ。ていうか、ありがとう、急に連絡したのに、持ってきてくれて」
私は箱を引き寄せて、抱えた。想像より軽い。かさかさと音がした。
「母さん。お疲れーありがとうねー」
母が出てきて、気楽に言った。
「あんたはまた今日も派手やなぁ」
祖母が母を見上げた。
「そんなことないわ。てか、るりが地味すぎるねんて」
「そんなことはないわ」
私が口を開く前に、祖母が言い返してくれた。
「せやかて……」
ぶつぶつ母が言うのを無視して、リビングで箱を開けた。布、アクセサリーポーチ、木箱が入っていた。
「うわーなんか古いねんな。匂いからして」
母が顔をしかめた。
「古いの持ってこい言うたやろ。風呂敷とスカーフや。これは私の祖母ちゃんが持ってたやつや」
さまざまな柄、大きさの風呂敷、スカーフが、まるでマジシャンが帽子からいろんなものを次々取り出すみたいに箱からどんどん出てきた。さすがに古めかしい、と感じるものもあったけど、特にスカーフは、モダンな雰囲気で、今身に着けても映えそうなものも多くあった。木箱の中身は博多人形だ。
最後にアクセサリーポーチを開けて、
「わあ」
と思わず声を上げた。ころんとした形の宝石のついた指輪、アンティーク感、ヴィンテージ感のあるネックレス。きれいな色味のカフスボタン、カメオっぽいプレートのついたネクタイピン。
「きれいやな」
「せやろ? 今使ったら逆に目立てると思うで」
「えーちょっと古くさくない?」
と言ったのは母だ。
祖母は誰のものだったか、どうやって手に入れたか、またそれにまつわるエピソードを話してくれた。
「これは胡渡珊瑚でな、私の祖母ちゃんが娘に、せやから私の母親に買うたもんでな、」
「これは翡翠や。父ちゃんが東京出張のお土産に私に買ってきてくれたんや」
「……これ、ぜんぶ、風呂敷とかもぜんぶ、いったん持って帰ってもええ? また絶対返しにくるから」
「あーこの指輪とカフスボタン以外ならええで」
祖母は胡渡珊瑚の指輪と金色のカフスボタンを指さした。
「指輪は私が死んだらあげるわ。こっちは、純金やねん。売って旅行行こうと思うてな。ほかはまあ、返してくれてもええし、そのまま使うてくれてもええで」
「ありがとう」
「えー私にもちょうだいよ」
母が言った。
「興味ないやろ」
「それはそうやけどさぁー」
「どうせ、あんたが死んだら、りらかるりのもんになんねん。まあ、りらはいらへん言うやろけど」
「りらは私に趣味が似てるから」
私が持って帰ったクッキーを三人で食べて、祖母は
「そろそろ帰るわ」
と立ち上がった。私は見送りに外に出た。
「……役に立つんか?」
「うん。たぶん」
微笑んでみせると、祖母はぽん、と私の肩をたたいた。
「無理せんでや」
「うん」
涙が出そうになった。
夕方、
「ちょっと外出てくる」
と家を出た。和仁と会うためだった。
「はーい」
だが、私はすぐに足を止めた。
適当な場所がない。歩いて十分のコンビニは、近所の人の目がある。公園もしかり。近くに一軒だけある喫茶店も。もちろん、道も。私が見慣れない着物の男と一緒にいるところを誰かに目撃されたら、それは瞬く間に両親に伝わる。――いや、伝わったところでなんということはないけれど、尾ひれがついて、和仁が私の恋人だとされるのは必至だ。
どこに――どこにも逃げ場はない。
私は近くの川に向かった。土手はなかなか目立つから、土手を下り、河川敷に下りる。
遠くで中学生か、男子のグループが騒いでいるのが見えたが、ほかに人影はない。
史誠くん、と呼びそうになるのを呑み込んで、
「和仁さん」
自分でもどうかと思うほど、暗い調子になった。
「よかった、忘れられてるかと思ってた」
和仁が目の前に現れた。私は一歩下がった。
翌日、キャリーケースと紙袋にすべて詰め込んで、東京に戻った。少しだけ、気持ちが軽くなっていた。それは、解決するかもしれない、というよろこびだけでなく、母や父に対する気持ちが、離れていたことで、反発だけでなくなったことにも由来している気がした。
駅まで迎えにきた和仁に、
「アパート寄ってもいい? キャリーケース戻したいから」
と言うと、
「ああ、そうだよね。てか……」
めずらしく言い淀む。ひやりとした。私がしようとしていることに気付いているのだろうか。
「……明るくなったね、なんか」
思わず大きく息をつきそうになるのを、こらえた。
「なんか、僕、君から笑顔を奪ってたのかなって反省したよ」
うさんくさいほど、しんみりと言う。
「……そうかな」
アパートに入ったら、鼓動が激しくなった。これで解放される……はずだ。もしうまくいかなかったら? というおそれも同時に湧き上がる。
キャリーケースを開く手が震えた。風呂敷、スカーフ、博多人形の箱。紙袋から、アクセサリーケースを取り出す。
ポーチを入れたバッグのそばにすべて持っていく。
ポーチに帯留めの巾着袋があることを確認して、ほっとした。和仁に処分されているかも、という疑念を、自覚していた以上に持っていたことに、気が付いた。
袖をまくり上げる。
風呂敷を一枚手に取って、バングルにかぶせる。お願い……! ――なにも起こらない。風呂敷を取る。バングルは変わらず光っている。力が抜けていく。絶望が胸の中を転げ落ちていく。
……まだ、一つ目だ。こんな弱気では、いけない。
だけど、泣き出しそうになりながら、一つずつ、繰り返していく。どうして、変わらない。なんで、外れない。
怒りが駆けた。
アクセサリーケースから、ネクタイピンを手に取る。祖母が言うには、祖母の母親が祖母の父親に贈ったものらしい。
バングルに交差するように重ねた。
「割れて。……外れて。……外れてぇや」
突然、バングルがこれまでにないほど強い光を放った。思わず目を細めた。
手首で、なにか硬いものがぱきっと裂ける感触がした。バングルが、割れていた。
これで……! 息が上がった。私は
「史誠くん」
と呼ぶと同時に、ポーチに手を入れて、巾着の中、シクラメンの帯留めを指に握りしめた。
風が起きて、気付いたら、強く抱きしめられていた。息もできないくらいに。こんなに強く抱きしめられるのは、初めてだった。史誠くんの体温、息づかい、鼓動、そしてこのなめらかな着物が、世界のすべてになる。
「るりさん。ほんまに……ほんまに……」
泣いている……? びっくりして、それから私まで泣けてきてしまった。どれくらいぶりだろう。何年も会っていないような、だけど、その時を超えて、ずっと一緒にいたような気がするのが不思議だ。
「なにを……!」
和仁の声がした。目を開くと、和仁が呆然と私たちを見下ろしていた。
史誠くんが顔を上げて、和仁を見た。ぞっとするほど、きつい、おそろしいまなざしだった。
「お前、まじで覚えとけよ。るりさんを無理やり閉じ込めて、苦しめて」
呪文を素早く唱えた、と思うと、和仁が吹っ飛んで、アパートのドアに体を強く打ちつけた。
史誠くんは私の手首に引っかかっていたバングルを外して、和仁に向かって投げた。
そしてまた史誠くんが呪文を唱えて――和仁が消えた。
息を詰めていたことに気が付いた。
「結界を張って、和仁を外に出しただけや。……大丈夫、死なへん」
「うん……」
「……散歩しよか」
「え?」
「空、飛ぼうか」
史誠くんが微笑んだ。その目の下に隈ができていて、思わず指を伸ばした。
「ここ……疲れてるの……?」
「ああ」
史誠くんは照れたような表情をした。
「寝れんくて……るりさん、心配やったから」
「……ありがとう」
「るりさんも痩せたな。ご飯、ちゃんと食べれてへんかったん?」
「うん……だって、嫌だったから……あの人と一緒にいるの。食欲なくなって」
史誠くんの目を一瞬鋭い光が走った。
「せやんな……ごめんな、ほんまに」
そっとまた抱き寄せられる。このまま時が止まればいいのに。
二人だけの夜空の散歩は、まるであの日のようだった。まだなにもわからなくて、だけど、この人のことを、史誠くんのことを知りたい、と強く思った日。
光が眼下に遠くきらめいて、見上げれば半月とかすかな光の星たち。どこまでも行ける気がする。
「……心折れそうやったわ」
ぽつんとつぶやく史誠くんを、愛おしいと思った。
「……私も、なんか流されそうだった。このままでいいかなって」
「あきらめんでくれて、ありがとな」
ぎゅっと力を込められる。
「私こそ、ありがとう」
「帯留めの魔力、強くしよか? あやかしが一切近付けんように」
「それは……ううん、大丈夫。前と一緒でも、身に着けていたら、私が望まない場所には連れていかれないでしょ?」
「そこは大丈夫やけど……ほんまにええん?」
心配してくれること、それだけでじゅうぶんで、私は満ち足りていた。
「うん。自分できちんと対処する」
「そっか」
この声とぬくもりとまなざしで、私は生きていける。そう思った。
夜、和仁から解放されて、自室とされた部屋で、バングルをニッパーで挟んで、力を込める。バングルと手首にはわずかな隙間しかなく、何度か繰り返すうちに、手首に赤い痕がついた。そのくせ、バングルにはなんの傷もない。
それはそうか……。私はニッパーを放り出した。魔力で保護されたバングルだから、魔力で壊すしかないのだろう。だけど、その方法などわからない。史誠くんと連絡も取れないし。
畳の上に寝転がる。あの時、私が死を思わなければ、史誠くんに会うこともなくて、あやかしの存在も知らなくて、同窓会で浦くんに会って、それが幸せかどうかはわからないけど、凪のような日々だったかなあ。電灯がぼやけた。
だけど、過去には戻れない。目を閉じる。現実は、史誠くんと出会って好きになって、だけど、人間相手とはちがっていて、和仁の家で過ごさせられていて、史誠くんに会えなくなった。
あやかしのこと、相談できる人なんていないし……。――誰かを介したら、連絡を取れるだろうか。
目を開ける。天井の模様を目でなぞりながら、頭が冴えていく。あやかしのことを知っていて連絡を取れるような人間に頼んで、史誠くんと連絡を取ってもらえれば。誰が……さくら? 気は進まないが、ほかに思いつかない。そもそも、史誠くんの、あやかし以外の交友関係を知らない。
史誠くんの運命の人かもしれなくて、千年前の人の生まれ変わりかもしれないさくらが、私の命綱か……。なんだかなあ……。だけど、背に腹はかえられない。
体を起こす。スマホを取り出して、圏外であるのを思い出した。職場で連絡しなければ。
翌日の昼休み、SNSでさくらのアカウントを探した。一度見ただけだから自信はないが、おそらくこの人だろう、というアカウントを見つける。史誠くんとの写真や動画の投稿は見当たらないが、それは単にアップしていないだけなのか、和仁の魔力のせいかは判断できなかった。
誰かにDMを送るなんて初めてだ。
「初めまして。染谷るりと申します。突然のご連絡、申し訳ありません。着物男子の隼人さんをご存知ですか? 最近連絡が取れなくなってしまい、よろしければ、さくらさんを通じて連絡を取れればと思い、ご連絡差し上げました。隼人さんに連絡を取っていただけないでしょうか? どうぞよろしくお願いいたします」
送る時、指が震えた。私がさくらだったら、あやしいと思って無視するだろう、と思った。
案の定、と言うべきか、一週間が過ぎても、さくらから返信はなかった。SNSの更新はされているから、見ていないわけではないだろう。それか、大量に送られてくるから、なかなか返信できていないのか。
考えあぐねた。
和仁は相変わらずで、毎朝毎晩、ご飯を作ってくれ、行き帰りも私の家の最寄り駅まで送ってくれる。だんだんと、腹が立っていた気持ちが薄れて、申し訳ないような気になってくるのが不思議だ。気持ちを強く持たなければ、と思うが、和仁と直接向き合っていると、気持ちが弱くなっていく。
会社でいる時は、我に返った。和仁の家を出て、史誠くんに会わなければ、と思い直す。
もう一度だけ。
「染谷るりです。着物男子隼人の本名を知っていますか? 私は知っています」
変な脅しみたいになったが、そのまま送信した。どう思われてもいい、史誠くんに連絡を取ってもらえたら、と願った。
仕事を終えて、和仁に不審に思われない程度にぎりぎりまで会社にいて、スマホを確認した。さくらから連絡はない。
しぶしぶビルを出た。
「おつかれさま。仕事忙しいの? 最近遅いない?」
本気なのかカマをかけているのかわからない真顔で、和仁に問われた。
「……ちょっとね、最近」
「そうなんだ。繁忙期?」
「そんな感じかな」
嘘がばれたらどうなるだろう、と心臓を冷やしながら、和仁の隣を歩く。容赦ないかもしれない。でも、私は「大事な」運命の人だから、手荒くされることはない、と思っているのだけど。人の感情の匂いを嗅ぎ分けられないあやかしでよかった。これが史誠くんと同じ族だったら。
「ふぅん……」
和仁は辞めたらいいのに、とは言わなくなったけど、そう考えているのがありありとした相づちを打つ。
「……あのさ、自分も仕事忙しいんじゃない? 毎日送ってくれるの悪いから、私、自分のアパートで暮らすよ……?」
何度か提案し、そのたびに跳ね返された話だった。
「僕が好きでやっていることだから」
「だけど、バングルも着けてるから、ほかのあやかしに襲われることもないわけだし」
「それはそれ。昼間用」
「そうかなぁ……」
和仁に手首を握られて、空を飛ぶ。月を見て、史誠くんと飛んだ夜を思い出した。胸が不意に苦しくなった。
昼休み、DMの返信を見た時、思わず自席で嗚咽した。
「るりさん。史誠です。さくらちゃんからDM見せてもらった。ほんまにごめんな。状況はぜんぶわかってる。バングルのことも。やけど、和仁の家でどう過ごしてるか、るりさんがどう思ってるかはわからへん。それと、バングルは、和仁以外は、誰の魔力でも外せんのや……。唯一方法があるとしたら、古い物の魔力なら外せるかもしれん。付喪神が宿った物で、るりさんの味方になってくれる物、守ってくれる物、例えば、るりさんの家で代々受け継がれてる大事な物があったら、それをバングルに当ててみて。確かな方法ではないけど、ダメ元でええから、してほしい。それで、外せたら、すぐに俺を呼ぶんと、俺のあげた帯留めを身に着けて。ほんまにごめんな。いつでも、できる時にしてほしい。いつでも、どこでも駆けつけるから」
涙が止まらなくなって、あわてて席を立った。まだなにも解決していない。解決方法も、正直なところ、すごく気が重い。一度、実家に帰らなければならないから。だけど、それらを差し引いてもなお、満ち足りた気持ちが体いっぱいに広がった。
トイレでひとしきり泣いた。
史誠くん、ありがとう。さくらさんも、ありがとう。
「さくらさん、本当にありがとうございました。史誠くん、試してみます」
そう返信し、それから、実家に、近々帰省する、とLINEを入れた。すぐに既読がついて、お腹の底が痛くなった。帰省するのは、何年ぶりだろう。
「ええーどしたん?! なんかいやなことあったん?! せやったら、帰省やなくて、仕事辞めて帰ってきたらええねんで!」
そんなんちゃうし、と心の中でつぶやく。
「また日程決まったら、連絡する」
「オッケー!」
スマホの画面を消す。調子が狂う。これまで東京で積み重ねてきたものが、一気に帳消しになった気がする。爪がスマホの画面に当たって、嫌な音がした。
その夜、和仁の作ったご飯を食べる前に、
「私、実家に帰省しようと思って」
と切り出した。胃がきりきり痛んでいた。ご飯を食べる前に話をつけないと、私はご飯を一口も食べられない。ご飯を私があまり食べられない時、和仁は露骨に不機嫌になることはないけれど、それでもがっかりした顔をする。
「え? 帰省?」
「うん。しばらく帰ってなかったから、帰ろうかなと思って。祖父母にも長らく会ってないし」
「えー……なんで今? ……それならさぁ、僕もついていくよ。てか、彼氏って紹介してよ」
冗談……なのか? 和仁はにこにこしていた。
「いや、仕事があるでしょ? バングル身に着けてるし、大丈夫だから」
「仕事はどうにかする。うーん……。家族って厳しい感じ? 彼氏ですって押しかけたら怒られる感じ?」
「うん」
食い気味に答えてしまう。嘘だった。家族はぜんぜん厳しくない。
「えーじゃあ、それはやめるけど、会いに行っていい? 飛んでいって帰るから」
「どこに会いに来るの?」
「え? 実家。は、無理か。え、自分の部屋ってある? あるなら、そこに直接現れるようにするけど」
「いや、それは……」
あまり強硬に断るのもかえってあやしまれるだろうか。
「夕方に外に出るようにする。連絡、どうやって取ればいいか教えてくれたら、こっちから連絡する」
「だったら、名前呼んでくれたら行くよ」
「名前……」
「うん。和仁って。や、呼び捨てじゃなくてもいいけど」
照れたような表情をされる。
「……わかった。そしたら、明後日の土曜日の朝出るから」
「オッケー」
その返事に、私は和仁のなにが嫌なのか、ひらめくように、氷解した。この軽い感じ。両親と姉りらに似ている。
「そういえば、実家ってどこ?」
言葉が一瞬喉の奥で詰まった。
「――大阪」
「へえ。方言ぜんぜん出ないから、わからなかった」
それは、そうしているからだよ。私は黙って箸を手に取った。
土曜日は朝から雨だった。雨の日、山はけぶるようになって、街から隔絶された感覚がよりいっそう身に迫る。
アパートでキャリーケースを取ってから駅に行く、と私が言うと、和仁は少し考えて、じゃあ先にアパートに送るよ、キャリー取ったら駅まで送る、と言った。
「……じゃあ、それでお願い」
渡されたレインコートを身に着ける。魔力で雨に濡れないようにできないの? と前に雨だった日に尋ねたら、魔力をそういうことに使いたくないんだよね、消耗するから、と返ってきた。
部屋は冷えていた。棚にうっすらほこりがたまっている。ベランダに続く窓を開けた。サンダルはほこりっぽくて、シクラメンは……すっかり枯れてしまっている。そう……だよね。ぱりぱりに乾いた葉に触れたら、細かくくだけて、宙を舞った。情けなかった。
キャリーケースに、最低限の服と下着を入れた。最後に、ポーチの中の巾着袋を確認する。巾着の口を触って……焼けつくような痛みが走って、手を引く。
「……お待たせ」
和仁はまた以前みたいに廊下から地上を見下ろしていた。
「このあたり、あんま空気よくないな」
「……そうだね」
事実だけど、和仁に言われるのは、なんとなく癪だった。
「実家は街なの?」
そう言いながら、和仁が私のキャリーケースを持とうとしたから、あわててしっかり握り直した。和仁は苦笑いを浮かべたが、それ以上無理に持とうとはしなかった。
「……ううん、田舎」
「え、じゃあ、こっちの空気悪いの嫌じゃない?」
「空気の良し悪しより、住む人の感じの方が大事」
「感じ?」
「うん」
こんなこと誰にも言ったことがないのに、なんでこの人に言っているんだろう。
「そんなにちがうかな? 最近、特に、人の感じだけじゃなくて、全般的になんでも均等化されている気がするけど」
「うん……それはわかるし、どこに行ったっていろんな人がいるし、結局は個々の人によるんだけどね」
決めつけはよくなくて、まちの数、人の数だけ、見ている世界、感じている世界がある。
私は、自分の生まれ育った場所の、祭りが盛んなところ、それを執りしきるヤンキーたちのノリから逃れたくて、東京に来た。
だけど、私同様に地元の雰囲気を好きでない、と言いながらも、うまく距離を取って地元で充実した生活を送っている友達もいる。彼女は、地方から若い女性が出ていく、というニュースを見るたびに、苛立つ、と言っていた。都会の方が、仕事の種類や数がたくさんあったり、考えが新しかったり、文化面が多様だったり、交通の便がよかったり、人に干渉しなかったり、そういうメリットがあるのはわかる。都会に出ていく人が多いのはわかる。だけど、ずっと地方で生きていて、満ち足りた人もたくさんいる。IターンやUターン、地方移住の記事はあっても、そんな人たちの記事は少ない。私らはいないみたいに扱われている。私らが注目されるんは出生数のニュースの時だけやねんで――。
「まあ、そっか」
駅に着いた。
「じゃあ行くから」
「うん。名前呼んでね」
「……うん」
電車に乗り込むと、体も心も解放感にあふれて、肩が軽くなった。絶対に、史誠くんに会って、和仁とおさらばする。
新幹線に乗り換える前に、コンビニでおにぎり一つとサラダを買った。それから、お土産のお菓子を買った。なにをよろこぶか全くわからないから、定番のクッキーの詰め合わせを選んだ。
新幹線が滑り出すと、大阪に帰る実感が湧いて、和仁と一緒にいるのとはまたちがう重苦しさに襲われて、息苦しくなった。
名古屋を過ぎて、おにぎりとサラダを取り出した。おにぎりのご飯粒、サラダの細いキャベツが喉に引っかかるのを、お茶で流し込むように食べる。あやかしはいいな、と思う。ご飯を食べなくていい。長生きできる。私があやかしになって史誠くんと生きる道はないのだろうか、と突拍子もないことを思いつく。魔力を与えてもらえたら可能だろうか。だが、技術的に可能でも、実際問題、命と引き換えだから、誰も与えてはくれまい。それに、与えてもらえたとして、私も史誠くんも幸せになれるだろうか。
大阪が近付くにつれて、徐々に時間がさかのぼり、高校卒業前の私に戻っていくような錯覚を覚える。
新大阪駅で降りて、乗り換える。新大阪駅は大きく変わってはいないが、テナントが入れ替わっている気がした。東京とどこがちがうのか言語化しづらいが、大阪に帰ってきた、と強く感じた。
車窓から見える街は、新しい建物が建ったり、なくなったり、そして、ビルや建物がびっしり立ち並んでいる街中から、徐々に建物の高さが低くなり、田んぼや畑が見えはじめ、郊外に移り変わっていく。気持ちが、重く、硬くなっていく。
実家の最寄り駅、ホームから階段を降りていくと、改札を抜けた先に、母がいるのが見えた。――迎えに来なくていいってあれだけ釘をさしておいたのに。
「おかえりー!」
大声。そして、母は、音が聞こえそうなほど腕を大きく振った。恥ずかしい。金色に染めた髪を胸を超えるくらいまで伸ばし、室内なのにサングラスをかけている。大きなロゴの入ったTシャツに、黒のホットパンツを着ている。
「……ただいま」
「え、まじで一人? なんやー彼氏とか婚約者とか連れてくるかと思うたのにー。いきなり帰ってくる言うからさぁ」
「せやから、一人やって言うたやん」
久しぶりの大阪弁は、自分でも意外なくらい舌になじんで、まるで昨日使ったばかりのようだった。大学に入って大阪弁を封印し、だけど、それでももれてしまうイントネーションを、関東出身の友達の真似をして、必死に直した。それからもう十年以上なのに。
「いやあ、それはやっぱ照れてるのかなぁ、とか思うじゃん! ぜんぜんそういう話、るりから聞かへんし。てか、ほんまにおらへんの? ええ人。どんな人でも反対せん――とは言えへんけど、いったんは受け止めるで」
「……またできたら言う」
「言うて言うて。てか、暑くないー? まだ六月やねんのに、信じられへん。てか、なんで長袖? 暑いやん」
バングルを隠すためだったが、
「……日焼けするから」
と答える。
「日焼け止め塗ったらええねん」
「……まあ、そうやけど……」
駐車場に着くまでの間で、疲れてしまう。母は私を二十歳で産んだ。若い頃はもっと派手で、ギャルだったらしい。父も二十歳のヤンキーで、バイクを乗りまわしていたらしい。私なら、どちらも付き合わないタイプだ。
「……シール、めっちゃ増えてへん?」
黒い車のボディに貼られた、なにかよくわからないロゴのシールが、以前見た時より格段に増えている気がする。
「ばれた? せやねん、最近バンドにはまっててん」
「……」
乗りたくないけど、仕方がない。私は後部座席のドアを開けた。
「え、なんで後ろ? 助手席乗りなよ」
「後ろでいいよ」
「なんでそんな冷たいねん。てか、なに、いいよってー。ええよ、やろー」
げらげら笑う。私は言い争うのも面倒で、しぶしぶ助手席に座った。フレグランスの濃い香りがした。母の好みの香りだ。母はスマホをつないで、音楽を流しはじめた。私の知らないラップだ。
「で、なんしに帰ってきてん」
車を発車させてすぐに、母は真面目な声で言った。この切り替えが、私にはいつも違和感があってついていけない。
「……お祖母ちゃんやお祖父ちゃんの上世代から受け継いでいる、大切なものってなにかない?」
「なんにいるん?」
「え?」
「なんのためにそんなんいるんかと思うて」
「……ちょっと気になって」
苦しい言い訳だった。先日急に振袖を頼んだこともあって、なにか訝しんでいるのだろう。
「――悪いことしてるわけちゃうから」
「悪いことなぁ。――お金困ってんの?」
「は? え、困ってへんけど」
強い口調になってしまった。方向のちがいにびっくりする。
「そうなん? 振袖やって、売り払ったんかと思ってん。今回のやって、なんか高級なもん探しに来たんかなーと思ってん。売ったり、よくて質入れして質流れ、みたいなー?」
「そんなわけないやん!」
「そんなわけあるで。ぜんっぜん連絡ないのに、急に連絡あって、振袖あるー? 帰省するー、言うから」
「それは……」
悪かったかな、と初めて思った。驚かせたのかな、とも。
「借金あっても私は貸さへんで」
「いや、ないから」
脱力する。
「そしたら、え、なに、仕事? まじで仕事つらいんやったら、アパート引き払って帰ってきなよ」
「あー……うん。仕事はまあ……」
車内がラップの音だけになる。正直には言えない。どうせ信じてくれないだろう。私の母や父に限った話でなく。だが、このままでは、なにも見せてくれない、答えてくれないだろう。母は納得がいかないことには、テコでも動かない。
車が、私の通っていた小学校の前を曲がった。焦った。もう少しで、実家に到着する。思わずバングルを触った。バングルの硬い感触に、これを断ちきるためだ、嘘だとか恥だとか、そういうのを考えてはいけない、と覚悟が固まった。
「……今、悩んでいるのは、好きな人がおるんやけど、相手の家のこともあったり、その人と別に私をな、」
肝を冷やした。軟禁、なんてこぼしたら、両親が逆上する。
「……なんでか、私を好きな人もおったりして、いろいろややこしいことになってんねん。不倫とか略奪とかちゃうし、お金のトラブルとか貸し借りとか、そういうことも一切ないねんけど、いろいろ、ちょっとむずかしい。それで、」
どう話をつなげればいいだろう。
「それで……振袖はな、前にその好きな人の家族に会う時に着たねん。大げさやけど、その人の実家が呉服屋しててん。せやから……。それで、なんか、その……褒められてん。せやから、昔のものって言うたらあれやけど、家に伝わってるものってほかになんかないかなって思ってん。その人も、いろいろ古いもの持ってはって、それもええな、と思うたし」
信じてくれるだろうか。母は笑わない。車は実家のカーポートにゆっくり吸い込まれた。
「なんやー好きな人おるんやんー」
母のテンションが突然真面目モードからギャルモードに戻った。
「不倫とか略奪とかちゃうかったらええやん。――って、一応、年齢だけ聞いといてええ?」
「あー、えっと、年下?」
嘘ではない、一応。
「年下? えーるりって、年下がよかったんやー。待って待って、二十歳にはなってはる?」
「うん」
「せやったら、ええやん。応援するで。また連れてきなよー。あ、降りて降りて」
車から降りて、実家を仰ぎ見たら、だいぶ古びた、という感じがした。もともと親戚の家だったから、築五十年近くになるはずだ。
「てか、ややこしいってなんなんー? ややこしい要素ある?」
母に続いて家に入る。甘ったるい香りがした。車とほぼ同じ香りだ。玄関の棚の上に、アロマが置かれている。
「……家が大きくて、親戚が多いから……」
「それは苦労するかもね」
不意にまた真面目な声を出す。――母が若くに結婚し、私を産み、親戚付き合いもしてきたことに、初めて思い至った。
「……お母さんは、不安ちゃうかった?」
「そりゃ不安やったでー。せやけど、優斗と一緒におりたかったねん。それが一番。でもまあ、つらいことはあんねんで。せやけど、なんでもええことばっかりいうことはないやん。つらいことばっかりいうことも……いや、それはあるかもしれへんけど。――祖母ちゃんに聞いてみるわ、なんか古いもんないか」
「……うん」
「自分の部屋で休んどきー」
「うん」
二階に上がって右手のドアを開ける。ベッドと学習机、カラーボックス、本棚。ほとんどのものは、今のアパートに持っていっているか、処分したが、昔読んでいた本や漫画は残っている。机の引き出しを開けると、数冊、覚えのない大学ノートがあった。
開いて、思い出す。――交換ノート。小学生の時のだ。
「なつかし……」
ふつうの大学ノートを、一人一ページずつ、あるいは見開き一ページずつ使って、カラフルなペンでいろんなことを書いている。質問コーナーとか、ランキングコーナーとかも、イラストを描いて自作している。
質問コーナーの「すきなタイプは?」に、私は「年上のサッカーをしている人」と書いていて、笑ってしまった。当時好きだった人が、サッカークラブに入っている一学年上の人だったから、こう書いているのだ。当時は、その人はプロのサッカー選手になるのだろうと単純に信じていたし、彼と結婚して、海外に行く、と思っていた(話したこともなかったのに)。私は彼と話すことなくその恋は終わって、彼はサッカー選手にならなかった(たぶん)。
「いつまでに結婚したい?」の質問には、「二十五才。相手は二十六才」と答えていた。いろいろ、意味がわからない。
小学生の頃、漠然と想像していた、夢物語みたいな未来は、ぜんぶ私の元には来なかった。
母の
「ちょっと降りてきてー」
という声に、ノートを閉じて、引き出しにしまった。
なにも実現していないし、そもそも考えていたことを今の今まで忘れていた。想像しなかった未来を生きている――幸せなだけでもなく、不幸なだけでもない現実を。
「祖母ちゃん、今からいろいろ持ってきてくれるってー」
「ほんと!」
「せやけど、るりが気に入るもんがあるかは知らへんで」
「……うん」
付喪神がいるかどうか、どうすればわかるのだろう。できる限り多く持って帰り、一つずつ試してみるほかないのだろうな……。
しばらくして、車の音がした。窓から覗くと、白い車がカーポートに吸い込まれるところだった。祖母だ。あわてて外に出る。
「るり、久しぶりやな。どないしてん」
運転席から降りた祖母が目を細めた。祖母は、私の中の記憶より老けていた。白髪としわが増え、ひとまわり痩せて見える。
「んーちょっといろいろあって」
「そうな。なんや言い方変わったなぁー」
どきりとする。祖母は、母とはぜんぜんちがうタイプで、真面目でおとなしくて、私は母より祖母の方が波長が合った。
「そんなに変わった?」
「せや、そんな気がするわ」
祖母は後部座席のドアを開けた。両手で抱えるほどの大きめのダンボール箱が一つ置かれていた。
「持つよ。ていうか、ありがとう、急に連絡したのに、持ってきてくれて」
私は箱を引き寄せて、抱えた。想像より軽い。かさかさと音がした。
「母さん。お疲れーありがとうねー」
母が出てきて、気楽に言った。
「あんたはまた今日も派手やなぁ」
祖母が母を見上げた。
「そんなことないわ。てか、るりが地味すぎるねんて」
「そんなことはないわ」
私が口を開く前に、祖母が言い返してくれた。
「せやかて……」
ぶつぶつ母が言うのを無視して、リビングで箱を開けた。布、アクセサリーポーチ、木箱が入っていた。
「うわーなんか古いねんな。匂いからして」
母が顔をしかめた。
「古いの持ってこい言うたやろ。風呂敷とスカーフや。これは私の祖母ちゃんが持ってたやつや」
さまざまな柄、大きさの風呂敷、スカーフが、まるでマジシャンが帽子からいろんなものを次々取り出すみたいに箱からどんどん出てきた。さすがに古めかしい、と感じるものもあったけど、特にスカーフは、モダンな雰囲気で、今身に着けても映えそうなものも多くあった。木箱の中身は博多人形だ。
最後にアクセサリーポーチを開けて、
「わあ」
と思わず声を上げた。ころんとした形の宝石のついた指輪、アンティーク感、ヴィンテージ感のあるネックレス。きれいな色味のカフスボタン、カメオっぽいプレートのついたネクタイピン。
「きれいやな」
「せやろ? 今使ったら逆に目立てると思うで」
「えーちょっと古くさくない?」
と言ったのは母だ。
祖母は誰のものだったか、どうやって手に入れたか、またそれにまつわるエピソードを話してくれた。
「これは胡渡珊瑚でな、私の祖母ちゃんが娘に、せやから私の母親に買うたもんでな、」
「これは翡翠や。父ちゃんが東京出張のお土産に私に買ってきてくれたんや」
「……これ、ぜんぶ、風呂敷とかもぜんぶ、いったん持って帰ってもええ? また絶対返しにくるから」
「あーこの指輪とカフスボタン以外ならええで」
祖母は胡渡珊瑚の指輪と金色のカフスボタンを指さした。
「指輪は私が死んだらあげるわ。こっちは、純金やねん。売って旅行行こうと思うてな。ほかはまあ、返してくれてもええし、そのまま使うてくれてもええで」
「ありがとう」
「えー私にもちょうだいよ」
母が言った。
「興味ないやろ」
「それはそうやけどさぁー」
「どうせ、あんたが死んだら、りらかるりのもんになんねん。まあ、りらはいらへん言うやろけど」
「りらは私に趣味が似てるから」
私が持って帰ったクッキーを三人で食べて、祖母は
「そろそろ帰るわ」
と立ち上がった。私は見送りに外に出た。
「……役に立つんか?」
「うん。たぶん」
微笑んでみせると、祖母はぽん、と私の肩をたたいた。
「無理せんでや」
「うん」
涙が出そうになった。
夕方、
「ちょっと外出てくる」
と家を出た。和仁と会うためだった。
「はーい」
だが、私はすぐに足を止めた。
適当な場所がない。歩いて十分のコンビニは、近所の人の目がある。公園もしかり。近くに一軒だけある喫茶店も。もちろん、道も。私が見慣れない着物の男と一緒にいるところを誰かに目撃されたら、それは瞬く間に両親に伝わる。――いや、伝わったところでなんということはないけれど、尾ひれがついて、和仁が私の恋人だとされるのは必至だ。
どこに――どこにも逃げ場はない。
私は近くの川に向かった。土手はなかなか目立つから、土手を下り、河川敷に下りる。
遠くで中学生か、男子のグループが騒いでいるのが見えたが、ほかに人影はない。
史誠くん、と呼びそうになるのを呑み込んで、
「和仁さん」
自分でもどうかと思うほど、暗い調子になった。
「よかった、忘れられてるかと思ってた」
和仁が目の前に現れた。私は一歩下がった。
翌日、キャリーケースと紙袋にすべて詰め込んで、東京に戻った。少しだけ、気持ちが軽くなっていた。それは、解決するかもしれない、というよろこびだけでなく、母や父に対する気持ちが、離れていたことで、反発だけでなくなったことにも由来している気がした。
駅まで迎えにきた和仁に、
「アパート寄ってもいい? キャリーケース戻したいから」
と言うと、
「ああ、そうだよね。てか……」
めずらしく言い淀む。ひやりとした。私がしようとしていることに気付いているのだろうか。
「……明るくなったね、なんか」
思わず大きく息をつきそうになるのを、こらえた。
「なんか、僕、君から笑顔を奪ってたのかなって反省したよ」
うさんくさいほど、しんみりと言う。
「……そうかな」
アパートに入ったら、鼓動が激しくなった。これで解放される……はずだ。もしうまくいかなかったら? というおそれも同時に湧き上がる。
キャリーケースを開く手が震えた。風呂敷、スカーフ、博多人形の箱。紙袋から、アクセサリーケースを取り出す。
ポーチを入れたバッグのそばにすべて持っていく。
ポーチに帯留めの巾着袋があることを確認して、ほっとした。和仁に処分されているかも、という疑念を、自覚していた以上に持っていたことに、気が付いた。
袖をまくり上げる。
風呂敷を一枚手に取って、バングルにかぶせる。お願い……! ――なにも起こらない。風呂敷を取る。バングルは変わらず光っている。力が抜けていく。絶望が胸の中を転げ落ちていく。
……まだ、一つ目だ。こんな弱気では、いけない。
だけど、泣き出しそうになりながら、一つずつ、繰り返していく。どうして、変わらない。なんで、外れない。
怒りが駆けた。
アクセサリーケースから、ネクタイピンを手に取る。祖母が言うには、祖母の母親が祖母の父親に贈ったものらしい。
バングルに交差するように重ねた。
「割れて。……外れて。……外れてぇや」
突然、バングルがこれまでにないほど強い光を放った。思わず目を細めた。
手首で、なにか硬いものがぱきっと裂ける感触がした。バングルが、割れていた。
これで……! 息が上がった。私は
「史誠くん」
と呼ぶと同時に、ポーチに手を入れて、巾着の中、シクラメンの帯留めを指に握りしめた。
風が起きて、気付いたら、強く抱きしめられていた。息もできないくらいに。こんなに強く抱きしめられるのは、初めてだった。史誠くんの体温、息づかい、鼓動、そしてこのなめらかな着物が、世界のすべてになる。
「るりさん。ほんまに……ほんまに……」
泣いている……? びっくりして、それから私まで泣けてきてしまった。どれくらいぶりだろう。何年も会っていないような、だけど、その時を超えて、ずっと一緒にいたような気がするのが不思議だ。
「なにを……!」
和仁の声がした。目を開くと、和仁が呆然と私たちを見下ろしていた。
史誠くんが顔を上げて、和仁を見た。ぞっとするほど、きつい、おそろしいまなざしだった。
「お前、まじで覚えとけよ。るりさんを無理やり閉じ込めて、苦しめて」
呪文を素早く唱えた、と思うと、和仁が吹っ飛んで、アパートのドアに体を強く打ちつけた。
史誠くんは私の手首に引っかかっていたバングルを外して、和仁に向かって投げた。
そしてまた史誠くんが呪文を唱えて――和仁が消えた。
息を詰めていたことに気が付いた。
「結界を張って、和仁を外に出しただけや。……大丈夫、死なへん」
「うん……」
「……散歩しよか」
「え?」
「空、飛ぼうか」
史誠くんが微笑んだ。その目の下に隈ができていて、思わず指を伸ばした。
「ここ……疲れてるの……?」
「ああ」
史誠くんは照れたような表情をした。
「寝れんくて……るりさん、心配やったから」
「……ありがとう」
「るりさんも痩せたな。ご飯、ちゃんと食べれてへんかったん?」
「うん……だって、嫌だったから……あの人と一緒にいるの。食欲なくなって」
史誠くんの目を一瞬鋭い光が走った。
「せやんな……ごめんな、ほんまに」
そっとまた抱き寄せられる。このまま時が止まればいいのに。
二人だけの夜空の散歩は、まるであの日のようだった。まだなにもわからなくて、だけど、この人のことを、史誠くんのことを知りたい、と強く思った日。
光が眼下に遠くきらめいて、見上げれば半月とかすかな光の星たち。どこまでも行ける気がする。
「……心折れそうやったわ」
ぽつんとつぶやく史誠くんを、愛おしいと思った。
「……私も、なんか流されそうだった。このままでいいかなって」
「あきらめんでくれて、ありがとな」
ぎゅっと力を込められる。
「私こそ、ありがとう」
「帯留めの魔力、強くしよか? あやかしが一切近付けんように」
「それは……ううん、大丈夫。前と一緒でも、身に着けていたら、私が望まない場所には連れていかれないでしょ?」
「そこは大丈夫やけど……ほんまにええん?」
心配してくれること、それだけでじゅうぶんで、私は満ち足りていた。
「うん。自分できちんと対処する」
「そっか」
この声とぬくもりとまなざしで、私は生きていける。そう思った。
